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ドアの開く音がした。続いて、ひどく軽い足音も。
慎重な足取りは廊下から階段へ、そして階上から階下へ降りる。
どこかぼんやりとしたまま、男――ハレはただ漫然と聞き流していた。
気の早い商人は、とうに出立した後。明け方までのバカ騒ぎを続けた連中は、当然ながら夢の中。そして真っ当に働く町の住民たちは、そろそろ身を入れて働き始める時間帯。
ハレとて、いつもなら寝ていた時間だ。ただ、昨夜は気持ちよく酒がまわり、宵の口を過ごした辺りで寝入ってしまった。疲れと満腹感、そして酒の力で、かなり深く熟睡したせいか、いつもであれば目覚めぬ時間に、ふっと意識が浮上した。さりとて、眠気は早々に立ち去ってしまい、もう一度目を閉じようとは思わない。
ただただ、死屍累々と転がる酔っ払いと、放置された宴の名残と、闇に漂っていた酒気を祓った眩しい朝日を、茫洋と眺めていたところだった。
危険は感じなかった。無防備で軽い足音は、どう考えても子供だ。
そう……子供。
「……」
なにかが変だと、ハレは首をひねって考えた。とたとたと近づき、ついに開いた扉の向こうに姿が見えた。
どこかぼんやりとする視界の真ん中に、その子供は所在無げに立ち尽くしていた。
くるぶしまで隠れる、丈の長い白い上衣。そろそろ冬も終わろうかという時期に、ずいぶんと厚手のものを着込んでいた。フードの下からは、この地方には珍しい金色の髪がのぞいていた。しかし、色があるのは髪と緑の瞳だけだ。肌はローブと同じぐらい白い。唇は乾いて、ひびが入っていた。
その上、子供は小さく、そして細かった。その首よりもハレの腕の方が太く、肩はハレの両手の方が大きい気がした。
誰かを探すように目を彷徨わせ、やがて姿のないことにがっくりと肩を落とした。首を振り、あきらめて戻ろうと顔を上げたところで、ハレの無遠慮な視線と目が合った。
「あっ」
思わずあげた声に、びくっと大きく子供がすくんだ。とっさに口に手を当てる。
ようやくまともに動き出したハレの頭が、違和感の正体を掴んだせいだ。
目の前にいるのは、子供……子供なのだ。
「お前……なんでこんなとこに?」
疑問の返事は、カチカチに固まった子供ではできそうになかった。
両者互いに譲らず、見つめ合ってしばし。
均衡を崩したのは、投げられたタオル、ならぬ割って入った女声だった。
「……荷物だよ」
不愛想に告げたのは、寝起きの女主人。同じように階段を下りてきて、入口に立ち尽くす子供を押しのけた。
「にもつ?」
意味が分からず、繰り返せば、眉間のしわを深くしてさらに機嫌を傾けた。カウンターの内側に陣取り、片づけの片手間にハレを睨んだ。
「あんただって見てたじゃないか。ずいぶんと目立っていたからね。旅にゃ不似合いな大荷物を、運び込んだ兎がいたろう」
指摘を受けて、初めて昨日の光景と、目の前の事態が繋がった。言われてみれば、子供のローブは見たことのある布地だ。あの時はただの布の袋か塊かと思っていたが、人の着た服だとは考えもつかなかった。無論、大分酔っていたせいでもあるが。
会話の合間に、件の子供はじりじりと後退しつつあった。直前の様子から、恐らく野兎は室内にいないと見当がつく。あまり上品とは言えないこの場所で、鍵のかかる部屋の中とはいえ一人にするのは憚られた。
こそっと声を落として、カウンターの向こうへ話しかける。
「なあ、何かないのか?」
「なに?」
「朝飯になりそうな、スープか何か。昨日の残りでもいいんだけどよ」
「あるわけないだろ。根こそぎ持っていく馬鹿どもが大勢いたんだから。だいたい、アンタが阿呆みたいに早起きしたせいでこちとら寝不足だよ。どうしてくれるってんだい、まったく」
気を遣って起きてきたのは、宿の主として見事だが、いかんせん機嫌が悪すぎる。悪態にため息を吐きたくなったが、ハレは堪えた。
「悪かったが……代金は弾む。どうにかならんか?」
くい、と顎で示した先を見て、心底嫌そうに女の口端が歪んだ。が、無言で背を向けると火を起こし、鍋に水を張り出した。
さて、と今度は体の向きを変えた。動きたいのに動けない子供は、まだ入り口の近くにいる。引き寄せるのは、とても簡単だろう。
すぐ傍にある、扉を示してこういえばいい。
「あいつはここから帰ってくる」と。