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「まだ連れていたのかい、あのお荷物」
ずけずけと、容赦のない台詞を浴びせたのは、この店を切り盛りする女主人だ。とある噂では、このあたりの裏街を取り仕切る幹部の一人だとも囁かれている。
それもまた、真実ではないかと思わせるほどの、女傑だった。
おそらくは聞こえていただろうが、野兎は立ち止まりも振り返りもしなかった。が、言葉の正しさは、過ぎるほどに理解していた。
荷物。
そう荷物だ。ただの、かさばる……荷物。その上、余計な事を仕出かし、人騒がせなことさえ珍しくない。
だが、心の中で罵倒することはいくらでも出来るのに、縁を切り、関わりを絶って捨て去ることが……どうにも難しい。好きなところへ行けと命じたところで、ただ呆然と立ち尽くすのが目に見えていた。
反論はできない。ゆえに、野兎はただ扉を押し開け、闇の中へ消えるしかなかった。
その背中を見送りながら、ハレは抑えきれずに苦笑を漏らしていた。聞こえていないとは思っていない。なぜなら、無意識か否か、野兎がわずかに少女を抱えなおしたから。
ほとんどの人間が気づかずとも、ハレには分かる。
野兎の……あの態度は、一番初めに二人に会った時から、全く変わっていない。
振り返れば、やや憤然とした女主人と視線が合った。彼女もまた、無関係ではない。
くだけた笑みを向けた途端、嫌そうに顔をしかめる。
この女性もまた、昔とあまり変わっていない。
そんな感想がハレの中で浮かび上がって……やがて消えていった。
***
男が入ってきた。
喧騒が、漣のように揺れた。誰もかれもが、一度は手と口を止めて、思い思いのタイミングで一瞥する。それほどに、ひどく目立つ――なぜなら、この場にそぐわない、からだ。
その男は、野兎と呼ばれていた。
「兎」などという、可愛らしい字が呼び名に着く通り、男の顔立ちは優しげで、いつもどこか物憂げだった。一見しただけでは、どこぞの貴族と名乗っても、十分に通じるほど。
ただし、黙っていれば、である。
口を開けば、罵詈雑言とガラの悪い言葉が飛び出してくる。
名前にもならない妙な綽名を持つ男を、大抵の男たちは常にどこか遠巻きにしていた。
酒瓶を片手に、喧騒のど真ん中にいたハレとて、例外ではなかった。
時折見かけ、なんとなく覚えがあった。いつも、視界に入ればなんとなく視線をやる――それ以上はなかった。
今までは。
ちら見する、ただそれだけだった一線を越えた、好奇心と興味。突かれてうずいたのには、理由がある。
常に、ほとんど身一つで現れる野兎が、今晩ばかりは珍しく、布に巻かれた大荷物を、肩に背負っていたせいだ。
そもそも、こうして夜の酒場に来ること自体、めったにない男なのだ。いつどこで寝ているのか、街の中で見かけても、こうした宿屋兼酒場に顔を出したところを目撃したのは、初めてだった。
その上、酒飲む素振りさえない。事務的な会話を女主人と交わした後は、さっさと二階へあがっていった。
――――変わり者
己のすべてを棚に投げて、ハレはそう評した。
珍しい物を見た、だけ。すぐに忘れてしまうだろう、とさえ思わなかったのに。
珍事は、続いたのだ。