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「剣を捨てろ」
優位を確信しながら、クリサンセマムを拘束する男が命令する。野兎を取り巻いていた仲間たちは、統領の動きを窺った。
落とされたのは――浅いため息が、一つ。
ともすればただの吐息のようだった。呆れか、諦めか。利き腕である右腕が、ゆっくりと柄と、鞘に掛かる。
なにをする気か、クリサンセマムにだってわかった。見る見るうちに涙がにじむ。震える唇が、それでもどうにか言葉を紡ごうと動く。
駄目だよ、と。
喉をふさがれているせいで、ほとんど声にもならない。音と空気だけの、懇願。
雫を落とす双眸を、野兎は真っ直ぐに睨んだ。
視線が絡めば……少女が、小さく首を振る。駄目、と繰り返す。
馬鹿馬鹿しい、と心内で、野兎は一蹴した。同時に、腰から剣を引き抜き、抜身のまま相手の足元に放る。
ガラン、と無造作に捨てられた剣が、音を立てて転がった。
その軌跡を目で追ったクリサンセマム。
後ろの仲間たちも、次々と己の武器を同じ位置に投げていた。
山になっていく剣や短刀をじっと見た後、クリサンセマムは打ちひしがれ、絶望を目に浮かべて、野兎を振り仰いだ。
馬鹿が、と再度野兎は罵倒する。
彼女の後ろでは、勝利を確信して男たちが下卑た笑い声を立てる。
唇が、もう一度動く。
駄目だよ、と。
はらはらと泣く、道理も知らぬ小娘に、腹立たしく野兎は舌打ちした。
軽く身を沈める。後ろのハレには、顎をしゃくってやった。わずかな動作だが……ハレには、それだけで十分だった。仲間たちが、少しずつ、少しずつ位置を変えつつあった。
相手は、完全に油断している。
笑っていたせいで、拘束が緩んでいたのか。今度は、クリサンセマムの喉が、きちんと機能した。
誰にでも、聞こえるように。
「止めて……やめてよ、野兎……」
クソ忌々しい、と唾を吐き捨てた。
「出来るか、阿呆」
野兎が飛び出した。
決着は一瞬。勢いをつけた最初の一歩で、男の顔面には野兎の拳がのめり込んでいた。
鈍い音がして、首領格であった男は、床に倒れた。
乱闘が、始まる。
だが始まったと同時に、すぐに収束へ向かいつつあった。
多勢に無勢の数の差は、実力の差にとって代わることはなかった。そもそも、構えていた野兎の仲間たちとは違い、相手は完全に奇襲を受けた格好になったのだ。それも、正面から。充分な観察の時間を与えられ、誰がどの相手をするかまでも、とうに仲間の間では決まっていた。弱点も、まず倒すべき敵も洗い出された後。
負けるはずがなかった。
野兎もナイフをわずかに避けそこなった切り傷一つを、頬骨のあたりに一つ作っただけだ。
少女は……いつの間にやら隅にうずくまっていた。全く力の入っていない身体から、自力で動いたのではないのは明らかだ。おそらくは誰かが避難させた。
「立て、クリサンセマム」
下されたのは、命令。震えながら、背中がかすかに動いて……ただ、それだけ。
ちっと舌打ちした野兎。宥めるように、肩が叩かれた。ハレだ。捨てたはずの剣を差し出していた。
もう一度、舌打ちをする。
腰に戻す。その後に……細い、まだ小さく震える肩に手を伸ばした。抱えると……白い指がそっと野兎の服を握った。意識はすでに、朦朧としている。頭が、野兎の肩に落ちた。
服は汚れ、疲れ切ったのか微動だにしない。それでも、預けられた身体の胸だけはわずかに上下する。
じっと見降ろしていると、しばらくしてから、ようやくうっすらと瞼を開けた。
瞼の下に在ったのは、黒に近い、深く、濃い緑。
二度、三度とゆっくり瞬いた。野兎を認めると、重石を持ち上げるかのように腕を伸ばす。
白く細い指先が、野兎の頬を掠めた。傷に触れられて、ほんのわずか、野兎が眉根を寄せる。
ふっと、かすかに少女がほほ笑み――ぐっと、野兎の腕に負荷がかかった。
腕は力を失って地に落ち、顔色はさらに悪くなった上に、ぐったりとしていた。身体は熱い……熱があるのだ。
「……」
常の事に、野兎はどんな表情も感想もなく、ただ器用に脇にだらりと下がっていた腕を少女の体の上に乗せた。
「ハレ、後を頼む」
「へいへい」
慣れた調子で、ハレが動き始める。やることは決まっていた。店を片付け、残党どもを追い出し、さらにこれ以上付け上がらぬよう仕置きをする。壊れたテーブルや椅子もあった。店主には相応に金銭を弾まねばならない。
が、そういったことに、すでに首領たる野兎は、さほど関わらなくていい。
あの、すべての勝負を最初の一撃で決めた、強い腕がすべきことは、他にあった。
弱々しく、萎れてしまったあの小さな花を……守ること。
戦いの最中、踏まれぬよう、潰されぬよう、少女を部屋の隅へ運んだのは、ハレだ。けれど、運が悪ければなにか拍子に死ぬことだって十二分に有り得た。
それでも。
クリサンセマムは――生きている。
弱い、弱い少女は、今日も死ななかった。