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詰まらないことだった。耳を貸す余地もない。
だからあれこれとわめく連中を、野兎は放置していた。
騒々しい、とある下町の酒場。故郷を持たず、移動を常とする流離い人。物と物とを運び、糧を得る商人。そして、野兎のような雇われの強者。大抵の夜を寝ずに過ごす人間は、そんな奴らが多かった。朝日ではなく闇を好む連中が、こぞって来る場所が、この酒場だ。当然、雑多な人間がひしめいていた。
無論のこと、言葉も文化も違う者たちがいる。
そのうちの一集団にどうやら絡まれた。そう判断したのは、相手がずいぶんと派手に扉を壊して登場した瞬間だった。どうやら野兎を見知っていたようだ。明らかに嘲笑と侮蔑を浮かべながら、声高に話しかけてくる――どころか、喧嘩を売っていた。
黙らせるのは、造作もないと判断した。
兎といえども、その実力は相応にある。野生であるがゆえに、だれた犬などよりはよほど強いのだ。
だがそうもいかなくなったのは、まるで荷物のようにぶら下げられたのが……とっさに二度見してしまう信じられないものだったからだ。
ぎりり、と眉間にしわがきつく寄る。
後ろにいるであろう、右腕の男に、低く問いかけた。
「誰だ、アイツに外出許可を出した奴は」
「……アンタが出さねえモンを、勝手にやる奴はいませんぜ」
「だったらなぜここにいる」
「いやまあ……見てくだせえって。どう見たって半分寝てます。ありゃ、見張りがちょいと弱かったか、馬鹿な相手さんが予想以上にバカだったってだけで」
ちっと物騒な舌打ちが漏れた。殺気立ったせいか、店内は微妙な緊張感に包まれつつ、野兎たちを遠巻きにし始めた。
明らかに場違いな「もの」も、足を遠ざけるに一役買っているに違いないが。
イライラと睨み据え、ハレにすれば今にも腰の剣を抜きそうだが、それでも野兎の両腕はカウンターに置かれたままだった。立ち上がってすらいない。
「寝ているのか」
「どう見ても」
「馬鹿なのか? それとも大阿呆なのか」
「無茶言わねえで下せえって。太陽と一緒に行動してるやつが、どうしてこんな闇夜に起きてるってんだ。そんな体力あるわけねえって」
「ふざけるな! 起きろクリサンセマム!」
ついに野兎が声を荒げると、あっと顔をしかめた男の前で、ピクリとようやく相手に襟首を掴まれた「もの」が動いた。
瞼を震わせて……それでも開かない両目を、小さな細い指がこすった。
「や、と……?」
開かない瞼を何とか開いて、ぷるぷると小さく頭を振る。まだ焦点の合わない視線が、それでも野兎をぼんやりと捕えた。やがて……足が地に着かないことも、周囲が明らかに知らない場所であることも、加えてどうにも尋常でない様子も見て取って……寝起きの、ただでさえ血の巡りの悪そうな顔色から、どんどん白く、白くなっていった。
声さえ出ない。
回らぬ首を、精一杯動かして……どうにもならない状況で、すがるように野兎を見上げる。
震えだしたのは、小さな体。さらにさらに丸めようとする。吊り下げられているせいで、叶わなかったが。
意地の悪い、嫌な笑みを浮かべて、相手がさらにクリサンセマムを高く持ち上げた。
唐突な大音声に、すでに騒ぎに反応して集まっていた仲間たちが呆気にとられ……やがて、ハレと同じようにちらり、と己のリーダーに目を向けて、逸らす。そこに、若干の非難の色があった。
正確に予想した未来がそのまま再現されて、男……ハレは苦い思いをかみしめた。
「起こさねえほうが、万事丸く収まってよかったかと……」
「……」
黙り込んだ顔が、付き合いの長いものだけに分かる、後悔をにじませていた。しまった、とは言わないが、奥歯がぎりりと噛みしめられた。
珍しくつまらないミスを仕出かした野兎に、あーあとハレはため息をついた。