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はじめに動いたのは、女だった。
するりと薄暗い店内で一歩を踏み出し、喧騒の中をくぐるように歩く。途中、軽く腕を引かれるも、すり抜けてカウンター席の一角に肘をついた。あられもない、扇情的な黒の衣装が、美しく己を着飾る角度で、一人のある男の横に陣取った。
「おにいさん、今日は、暇じゃない?」
ここ数日、よく見かける顔だった。大抵は数人の、厳つく、いかにも荒くれた男たちの中央で、さして美味くもない酒をあおっていた。そして、この常に真ん中に坐した男だけが、独り浮かぶように風貌が異なっていた。
ゆるく伸び、襟足に掛かるほどの髪は、色素の薄い色。気だるげに半ば閉じた、濃い灰色の瞳。無表情ともとれる、儚げな目線は、常にどこか下に落ちていた。
呼び名も、変わっていた。
野兎、と。
そう、呼ばれていた。
変わった名なのか、それとも、その姿に見合った綽名なのか。
そんな好奇心と、あわよくばと目論んだ女だが――男は、盃に向けた目を微動だにさせなかった。
「失せろ、小娘」
「なっ……」
見合った通り、さほど低い声ではない。だが、うらぶれた酒場に付き物の、喧嘩や脅しに物慣れた女に、浮かべた微笑を消させて、声を失わせるだけの力があった。
寸の間、のまれた女が一瞬だけ悔しさに顔を歪めた。が、すぐに持ち直す。強かで、しなやかに。もう一度美しく微笑んでみせた。
「いやだわ。嬉しいけど、そこまで子供でもなくってよ」
「……だったら、婆と呼んでやる」
「――」
「三度は言わん……失せろ」
だん、と盃が天板を叩いた。絶句し、身を固くした女を、強く腕を引いて下がらせたのは、この店の女将だった。すぐに客の少ない場所へと連れて行かれる。
「馬鹿だね、相手が悪いよ」
こっそりと囁く声が、心底あきれ返っていた。女は悔しげに唇をかむ。
「だって……ここ数日、ずっと来るから。もしかしたらって」
女は、この店では並ぶものはない容姿を誇っていた。男なら、誰もかれもが羨望と、そして欲望を込めて女を見た。それをよく知っている女将は、ため息を吐く。
「あの男は滅多に商売させちゃくれない。あんたの見る目にゃ頭が下がるがね」
ほれ、と顎でしゃくった先には、男と、いつもの仲間が集まっていた。せいぜい、十人前後。入れ代わり立ち代わり、おそらく総勢は三十人ほどか。それを率いる首魁は、楽しげに笑う男たちとは明らかに格が違う。
「あの男は他人を嫌う。ああして懐に入ったモノだけが、あの野兎に近づける。この街での相手だって決まっているさ。新参者は、お呼びじゃないんだよ」
「でも……」
「お諦め。あれは腕の方でも有名だが、口の悪さでも名が立っている」
「そんな」
往生際の悪い女に、険を込めて女将は睨んだ。
「いい加減におし。あれは野兎だ。ここいらの男どもで、知らない奴はいないってほどの傭兵だよ。ただの兎と見くびって、死に損なったのは一人二人じゃないからね」
女将は知っている。
もともと、男は「傭われ者」と、名もなくただ「物」同然の無名をあしらわれる代わりに、呼ばれていた。
どこへ行っても。いつ現れても。
決して名乗らぬ男は、同じ人間に会っても同じように呼ばれた。
それがいつしか、短くなり、別の意味を持ち……やがて、男を示す「名」になった。
野兎。
野生に生きる、兎。
飼われる儚い同種の生き物とは、似て非なるもの。
野に生きる故に、しぶとく、強かで、その面立ちさえも計算に入れて立ち回る。縄張り意識と、仲間意識が強く、余所者を受け付けない。だが一度懐に入れれば、手段を尽くして守った。
男ははじめ、独りだった。
時の中で――共に糧を得て、背を預け、戦に身を投じるうちに――野兎の側に、隣に、人が留まるようになったのだと。
渋る女を、一度店の奥に下がらせ、女将は今一度野兎を見やった。
この場で必死に生き抜いてきた、あの女の目は、全く狂いなく確かだった。
あれは、いい男だ。
もめ事は滅多に起こさない。金払いもきっちりしている。騒いだ分だけ、色を付けることも忘れない。そして何より、悪戯に振るわれる暴力を、許すことがない。下らぬ喧嘩には、早々に水が差される。
相手が、誰であろうと、だ。
仲間に対して寛容であると同時に、周囲に対しては平等だった。
それゆえか、野兎は己に対して、下心や目論みを持って近づくものに敏感で、そして徹底的に嫌っていた。めったに気を許すことがない男に、それでも一人、また一人と仲間が増えていく。思い出したように立ち寄る野兎に、声を掛け、手をかける人間が増えていくのは……なんの関係もない女将に、ふっと笑みをもたらすのだ。
さて、今回の新入りは誰かと、見回したところで。
店の扉が、乱暴に開かれて、騒々しい音を立てながら……傾いて壊された。