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満月の夜には

作者: 諸林 瓶彦

 満月の照る夜に、北の森に入ってはならないという掟があった。

 それは、今では誰もが頭を垂れている唯一の神の教えが村に入ってくるずっとずっと昔からの掟だった。

「ねえ、ルドヴィク、今度の満月の夜、わたしに付き合って欲しいんだけれど?」

「な、なんだい?」

 そう、幼なじみのソフィアに告げられたルドヴィクは、かなりドギマギした。二人とも、今年成人式を迎えたばかり、そろそろ婚約など考えてもいい年頃に達していた。

「一緒に、北の森に行って欲しいのよ」

「はぁ?」

 ルドヴィクは、少しがっかりすると同時に、この子はなんてことを言い出すんだろうと思った。

「おいおい、掟を知らないとは言わせないぞ。あの森には、満月の夜だけ石の姿から復活する魔物が棲んでいて、来るもの全てを食べてしまう……」

 ルドヴィクは、大人から何度も聞かされた言い伝えを、そっくりそのまま話した。

「あんた、魔物なんて信じてるの?」

「……」

 魔物、そんな子供だましのものを成人式を終えた後でも、疑いもせずにお前は信じているのか、ソフィアの問いの言外にはそうした皮肉が含まれているように、ルドヴィクは感じた。

「……、俺だって、全面的に信じている分けじゃない。だけど、本当だったら嫌じゃないか。本当に化け物が出てきて、喰われてしまったら」

「ふん。でも、司祭さんは、そういう化け物はみんな、真の神の教えを知らない人々がつくった迷信だって言っているわよ。この世の全てのものは神が創り給うた。だから、神の教えに述べられていない魔物など、いるはずがないって」

「そうだけど……」

 ルドヴィクはもちろん、唯一の神の徒だ。毎日のお祈りは欠かさないし、大変なときに救いを求めるのも、その神だけだ。

「だからって、何のためにいくんだよー。北の森に」

「修道士が来ているじゃない? 村の教会に」

「修道士? ああ、巡礼にいく途中で立ち寄ったとかいう、あのヒゲもじゃのおじさんか」

「そう。あの人がね、真の神の教えと、迷信をより分けるために、村々の古い言い伝えを蒐集しているんだって。こないだ朝のお祈りの時に、あの人がいて、何か書き物をしているんで、何をしているのか聞いたのよ」

「ふうん……」

 唯一の神の徒が、神の教え以外の伝説を収集する……、それは一歩間違えば異端ということになりかねないのではないか? 勇気のある人がいたものだ。

「それでね、いろんな地域を回って伝説を集めたんだけど、この地域の伝説を知って、絵が描けたんだって」

「絵? 教会に飾るイコンか何かか?」

「違うわよ、馬鹿ねえ。伝説の正体が見えたってことよ」

「ははぁ、そういうこと……」

「まず、ここから東方の、ある村の伝説。子を亡くした、一人の母親がいた。満月の夜、夢の中に悪魔が現れて、ささやいた。わたしについてくれば、子供にもう一度逢わせてあげよう、と。悪魔の誘いに乗って、おかしな道を歩くと、確かに自分の子供がいた。ところがその子は、身の毛もよだつ姿をしていた……」

「ふーん」

「そして、ここから西方の、ある村の伝説。満月の夕方、乞食坊主に化けた妖怪が、街道に現れる。そして、日が暮れるまで遊んでいる子供をさらって、食べてしまう」

「なんだか、うちの村の伝説に似ているな……」

「そう。そして、うちの村の伝説も、実はわたし達が聞いている限りじゃないのよ。今は、年寄り達だけが薄ぼんやりと憶えている、伝説の続きがある」

「そうか……。やっぱり教会が入ってきて、古い伝説は忘れられつつあるのかな」

「その、少し古い伝説によれば、満月の夜の晩に北の森に現れるのは、ただの魔物じゃなくって、死者の霊魂だってこと。自分が会いたいと思っている人のね……」

「ふうん……」

 ルドヴィクは、なんだか嫌な予感がしてきた。

「ただ、死者との再会を楽しんいる間に、満月が雲に隠れたり、沈んだりすると、死者はたちまち悪鬼に変わり、その人を食べてしまう……と」

「ほう」

「それで、あの修道士は言ったわ。これらの伝説のうち、一番のオリジナルに近いのは、うちの村の伝説だってね。ちょうど、場所的にも中間地点にあるし、話の内容も中間的。だから、うちの村の伝説が原形になって、他の村に形を変えて伝わった、と」

「そうかい」

「だから、うちの村の伝説がオリジナルってことよ。あの修道士は、これはさらに古くは冥界下り神話だったんじゃないかって言っていたけれど、よく分からなかったわ」

「で、何が言いたい?」

「この村の伝説がオリジナルなら、実際に北の森で死者に会えるのかも知れないってこと」

「はっ、何を馬鹿な!」

 ルドヴィクの嫌な予感は的中した。ソフィアが会いたい死者といえば、多分あいつだろう。だからルドヴィクは、反射的に否定していた。

「さっき、教会の教えに反する伝説は、みんな迷信だって、君言ったよな。そんな与太話こそ、迷信じゃないか!」

「そうね。でも、ルドヴィク、あなたもさっき、そう言う話しは完全に否定できないから行くのは止めよう、みたいなことを言わなかった?」

「う……そうだけど」

「だからお願い、一緒に来て!」

「待てよ、一応聞いておくけれど、誰に会いたいんだ?」

「……ゲルグギオス」

 その名前を口にしたとき、彼女の頬は少し赤らんでいた。ルドヴィクは拳を握りしめた。ソフィアは純真そうな瞳でルドヴィクを見つめてくる。

「分かったよ。じゃあ、くれぐれも何か武器を持って、行こう」

 こんな顔をされて、普通でも断るのは難しいだろう。ましてや……。

「本当? やったー!」

 彼女は、文字通り諸手を挙げて喜んだ。ルドヴィクは、ソフィアに聞こえないように、ため息をついた。


 そしてその日はやってきた。日が沈んだ直後、赤い満月が東の山々の上に姿を現した。 

 ルドヴィクとソフィアは畑仕事をした後、家に帰らずに、街道と村がつながる十字路で落ち合った。

 歩くこと半刻、二人は森の入り口についた。

 針葉樹の森は、何かいがらっぽいようなヤニの臭いを漂わせていた。二人はそれぞれの松明に火をつけた。ボオッと音がして、辺りがオレンジ色になる。

 しかし、森はそんな松明の光などすぐかき消してしまうのではないかと思われるほどに、闇の恐ろしさで満ちあふれていた。

「おい、ソフィア。本当にこの森にはいるのかよ」

「当たり前でしょ。ここまで来て何怖じけずいているのよ!」

 ソフィアは不必要に大きな声を出した。彼女も、得体の知れない森に恐怖を抱いているに違いないとルドヴィクは思った。

 ためらうルドヴィクを尻目に、ソフィアはおびえながらも森の中へ足を踏み入れた。仕方なしに、ルドヴィクも後を追う。

 月は徐々に高さを増して行き、次第に森の中も青白い光がやんわりと降り注ぐようになった。

「なんだ、何も起こらないじゃないの!」

 どんどん森の奥深くまで分け入っていくソフィアが声を荒げた。

「お、おい。あんまり奥へ行かない方がいい。こんな森の中で迷ったら、魔物が現れなくても、日が出るまで村に帰れなくなるぞ!」

「ふんっ!」

 ソフィアは鼻息を荒くしながらも、ルドヴィクの言うことを聞いて立ち止まった。もし松明が燃え尽きてしまうまで森の外に出ることができなかったら、森の中に潜む獣に襲われるかも知れない。小さな森だ、たいした獣はいないだろが……。

 ルドヴィクは深くため息をついた。その時だった、辺りの景色の色彩が変わったのは。ほとんど黒のバリエーションだった森の中が、極彩色のものに変わった。紫、赤、黄色、青……、教会のイコンですら見ることができない色の原色で、辺りの景色が染め上げられている。

 ルドヴィクは、まず自分の目がおかしくなったのかと疑った。もう死んでしまったが、村に住んでいた気がふれた老人が、晴天の空を見上げて、満天の星々が見えるなどと叫んでいたことがあったから、それと同じ状態なのではないかと思ったのだ。

 だが、ソフィアの方を見ると、彼女も目を丸くしていた。

 ソフィアもルドヴィクの様子を窺ったので、二人の目が合った。

「なあ、なんか色が変じゃないか?」

「あ、あんたもそう思う? なんかやたらチカチカして」

 おかしいのは色だけではなかった。地面が、まるで生きた蛙の内臓のようにびくびくと煽動し始めたのだ。周りにある木々も、解体途中の羊の肉のような質感になり、互いに所々括れのある大腸の様なもので互いにつながれた。

 地面からも、木々だったものからも、所々黄色く光る細かな泡が吹き出している。

「な、なによこれー! どうなっているのよ!」

「どうなっているのよって、僕にも分からないよ」

 木々から一筋の細い腸が垂れ下がってきて、ソフィアにかかった。

 ソフィアは腰に差した草刈り用の鎌を滅法振り回わす。やがて、腸の一部が切断されて、地面に転がり落ちた。濃いオレンジ色の液体が切り口からぼたぼたとしたたり落ちて、ソフィアにかかる。

「うー、汚い……」

 ルドヴィクがポケットから布を取り出してその液体を拭き取ってやろうとしたとき、穢らわしい森の奥から、青白く神々しい光が一筋、伸びてきた。小さな肝臓が密集したように変形した木々の葉も、その光に当たると宝石のように透き通って輝くものに変化した。

『来い。さらに奥に。この光のもとに。さすれば、お前の会いたい死人に合わせてやろう』 

 二人の耳に、威厳のある老人の声が響いた。辺りを見回すが、声の主は見あたらない。

『ただし、満月の空にあるうちだ。もしあれが、雲に隠れたり、沈んだりしたならば……』

 そこで、声は消えた。

 光は、まだ森の奥からまっすぐに二人のもとへ伸びている。まるで道しるべのように。

「どうする?」

 ルドヴィクは小さな声でそう聞いた。

「どうするって、もちろん行くわよ!」

 ソフィアの眉には、深い決意が刻まれていた。この状況で、逃げ出さずに先へ進む選択をする……。ソフィアはどれほどゲルグギオスのことを思っているのだろうか。

 二人は光に向かって歩き出した。

 辺りの景色はどんどんと、おかしなものに変わってゆく。

 人の顔がいくつも埋め込まれた巨大なキノコ。大きな泡がそのまま固まったような岩石。

 不気味な声で鳴く、カエルとカラスと魚を会わせたような生き物。色の鮮やかさはどんどんまして行き、それだけで目眩がするほどになった。

 やがて、ぽっかりと不気味なもの全てがなくなる空間が現れた。その空間の中央には内部から白い光を放つ水晶が浮かんでおり、水晶の大きさは大人の背丈ほどあった。

この水晶が、ルドヴィク達をここまで呼んだに違いない。

 ソフィアは、ゆっくりと、その白い空間に足を踏み入れた。ルドヴィクもその後に続く。

 水晶の前に、少年が一人立っていた。黒い服を身にまとっており、白い空間から浮き上がっている。

「ゲルグギオス!」

 ソフィアが叫ぶ。俯いていたゲルグギオスが顔を上げる。

「やっぱり、ゲルグギオスだ!」

 ソフィアは、ゲルグギオスのもとに駆け寄った。ルドヴィクはその場を動けない。

「ソフィアかあ……」

 ゲルグギオスは微笑んだ。

「あ、逢いたかった。本当に逢いたかった!」

 そのままソフィアはゲルグギオスに抱きついた。ゲルグギオスも彼女の身体を両手で抱きしめる。

「お、おい。そいつは……」

 そいつは本当にゲルグギオスなのか? 喉から出かかったその言葉を、ルドヴィクは押し殺した。ソフィアはあんなに楽しそうにしている。今、それに水を差して、何の意味があるというのだ。

「そっちは、ルドヴィクか。随分成長したな!」

 ゲルグギオスはソフィアの肩越しから、ルドヴィクにほほえみかけた。相変わらず憎たらしいほど優しげな微笑みだ。

 この三人は、この世に生を受けた頃からずっとつきあいのある、幼なじみだった。まだ村の労働力として使い物になる以前は、三人で遊んでばかりいた。森の中で木登りしたり、川の中で魚をつかみ取りしたり、ままごとしたり、果樹園のリンゴをむしり取って食べ、後でこっぴどく怒られたり、とにかく三人はいつも一緒だった。

 そして、三人が異性を意識し始める年頃になって、ソフィアが取ったのはどうやらゲルグギオスだった。やがて村の仕事に参加するようになり、三人で遊ぶことは滅多にできなくなってしまったが、ゲルグギオスとソフィアは良く密かに会っていた。

 ああ、二人はこのまま結婚するのかな? そうだろう、狭い村の中だ、他に気に入った相手などなかなか見つけられまい。ルドヴィクの心の中に、苦いものが広がりつつあった。

 だが、そんな微妙な関係は三年程度続いた後で、突然終わった。ゲルグギオスは突然病にかかり、死んだのだった。俗に、悪魔の炎と呼ばれる病で、手の施しようがなかった。

 半年ほど前の話である 。ソフィアの悲嘆といったら、ルドヴィクが目を逸らしたくなるほどのものだった。ソフィアは狂気に陥ってしまうのではないかと思われたほどだった。

 だが、やがて時間が全て解決したかに見えた。旅の修道士が来て、ソフィアに余計なことを吹き込むまでは。

 

 全てが白い光に包まれているのに、空は暗い。そして天頂に、満月が輝いていた。

 ソフィアは、まるでその場にルドヴィクがいないかのように、ゲルグギオスとだけ話し込んでいた。

 ゲルグギオスは言う。

「もう、俺のことなんて忘れて、別の恋人を見つけろよ」

「何を言うのよ! あなたのこと忘れられるわけがないじゃない」

 とソフィア。

「そうだな、実を言うとあと半年ぐらいは、俺のことを憶えていて欲しいかな。でも、早く現実に目を向けて」

 ゲルグギオスは至極まっとうなことを言っているようだ。これならば、ソフィアが取って喰われる心配もないなと、ルドヴィクは二人の前から離れた。

 白い空間と、相変わらず化け物じみた森の境界に立つ。

 得体の知れない動物が、木々の間を飛んだ。ころころと、手足の生えた丸い玉が脈動する根の上を転がっている。薄気味悪い鳴き声が森の中を響く。この森は、得体の知れない生き物で一杯だ。

 そうだ、時々姿を現すこの森の生き物は、三人で幼い頃考えた空想の生き物にそっくりなのだ。

 頭のいいゲルグギオスが、動物たちの設定を言葉で語る。姿形はどんなで、何を食べていて、基本的に群れをつくらない……とか。それをもとにしてルドヴィクが絵を描く。大抵は木の棒を使って地面に。最後に、お話好きのソフィアが、その動物たちに物語をつける。吟遊詩人が語るような物語を。

 そうして出来上がった動物たちの「プロフィール」を、ゲルグギオスが羊皮紙に羽ペンで書き付けた。作った動物たちは、何十枚もの紙束になった。今でもその束はゲルグギオスの家に置いてあるのではあるまいか?

 ある時まで、三人は最高のコンビだったのだ。

 そんな不思議な動物たちは、けれどもこの白い空間には決して入ってこられないようだった。森の中も異常だが、この空間はもっと……。

 ルドヴィクは水晶の光る、ソフィア達の方を振り返った。

 ソフィアの肩越しに、ゲルグギオスと目が合う。

 ゲルグギオスは、ルドヴィクに向かって口を開いた。

『ソフィアのことを頼む』

 声には出さなかったが彼はそう言ったように、ルドヴィクには思われた。


 ルドヴィクは、決して二人の会話に割って入ろうとせず、ただ白い空間の外縁をグルグルと歩き回り続けた。

 月は次第に西の空に傾きつつある。その時、ソフィアがゲルグギオスの側を離れて、ルドヴィクの肩をつかんだ。

「ゲルグギオスを村に連れて帰るわよ。いいわね!」

「何を言い出すんだ!」

「修道士から聞いたのよ。冥界下りの話しを。いい、冥界に下った物語の主人公は、思い人を冥界から連れて帰ることができるのよ。冥界にいる間に、後ろを振り返って、後からついてくる死人を見ようとしなければ」

「馬鹿な!」

「わたしは決して振り返らない。ゲルグギオスはあなたの思い人ではないけれど、あなたも決して後ろを振り返らないようにして」

「君はなんてことを言い出すんだ! 最後の審判の日でもないのに、死人が生者の国に現れるなんて許されることじゃない! 第一、死人を連れて帰って、どうするつもりだ。生活できるのか! 大人達はどうするんだ!」

「そんなことぐらい、何とかなるわ。大人達だって、あの賢いゲルグギオスが甦ったって、喜ぶはずよ!」

「いや、待てよ!」

「あなたが動かないのなら、わたし一人でも連れて帰るから!」

 そう言って彼女は、彼のもとへと歩いていった。

「ゲルグギオス、あなたを連れて帰ります」

「……」

 ゲルグギオスは首を縦にも横にも振らない。

「わたしが、天地の理に反するようなことをやろうとしているのは、自分でも充分分かってる。でも、わたしはどうしてもあなたと一緒に生活したいの!」

「そうか。俺も、実は生き返りたいと思っている。出来ることならば」

「なら」

「俺を村へ連れて行ってくれ。後のことは、俺自身が何とかする」

「じゃあ、急ぎましょう」

「ああ。本当に君が望むのなら。二つ、約束を守ってくれ、森を出るまで、決して俺の方を振り返らないこと、そして、森を出る前に月がかげったのなら、俺をおいて、全力で逃げるんだ。いいな!」

「分かったわ」

 二人は走り出した。

「待て、待ってくれ!」

 ルドヴィクも慌てて走り出し、ソフィアに追いつく。

 ソフィア、ルドヴィク、ゲルグギオスの順番で走る。地面がぶよぶよしているせいか、酷く走りづらい。しかも、木々に張り巡らされた腸のようなものが引っかかって邪魔だ。時にそれらを鎌で切り裂いて、前へと進む。

 地面が柔らかいせいで、足音が聞こえない。ゲルグギオスが本当についてきているのかどうか、分からない。それでもソフィアは後ろを振り返らない。

「ケケケケケ、お嬢さん。愛しの人を連れて帰るってか。でも、死人と生者は一緒に暮らせないぜ。いいのかな~」

 森に棲む得体の知れない生き物が、甲高い声で喋る。

「エッヒッヒ、お嬢さん。残念だな~。愛しの人は、道に迷って、もう後ろをついてきていないぜ。後ろを振り返って、確かめてみな」

 そうはやし立てたのは、あのカエルとカラスと魚を合わせたような生きものだ。

 それでも、ソフィアは後ろを振り返らない。

 三人は走る。地面に張り巡らされた血管のような膨らみに、何度も躓きそうになる。

 二人の息が上がる。ゲルグギオスだけの息づかいが聞こえてこない。まだ、森の出口は見えない。そもそも、村はこちらの方角で良かったのか? 不安になる。ただ走るしかない。

 月の光がかげる。ルドヴィクが空を見上げると、一面雨雲が満ちあふれていた。月は見えない。

 すぐ後ろで、何かとても嫌な音がした。ルドヴィクは、振り返ってしまった。

 後ろを走ってついてきたのは、あの美しいゲルグギオスの姿ではなかった。

 それは、腐乱して、皮がめくれ上がって、目玉の飛び出し、蛆のわいた、死骸だった。

 死骸が、腐汁をまき散らしながら走っているのだ。それは、あまりにも醜い化け物だった。

 ルドヴィクは一瞬気を失いそうになる。何とか堪えて、走るスピードを上げ、ソフィアと横並びになる。

「ソフィア、後ろを見ろ。ついてきているのはゲルグギオスじゃない。化け物だ。全力で逃げるぞ!」

 それでもソフィアは振り返らない。無言だ。

「月が翳ってしまったんだ。もう、あいつを連れて帰るのは無理なんだよ。分からないのか!」

 ソフィアは振り返らない。走る速度も変えない。

 ルドヴィクはもう一度振り返る。

 奴の姿は、もう人の形をしていなかった。

 黒い綿毛の固まりに、ネバネバしたものがまとわりついて、赤い色の触手が無数に伸びている。中心には、腐乱した顔の痕跡のようなものがある。

 どうやって動いているのか分からないが、このままの速さで走っていたら、じきに捕まってしまうだろう。

「おい、ソフィア。後ろを振り返れ! 化け物だ。分からないのか」

「うるさい!」

 ソフィアは、止めどなく涙を流していた。それでも振り返るつもりはないらしい。

 ルドヴィクは、ソフィアの手をむりやり掴む。走るスピードを上げる。

 なんとか、この森を抜けなくては。

 やがて、木々の隙間から、開けた街道が見えてきた。あと少しで出口だ。

 だが、ソフィアが木の根に躓いて転ぶ。ルドヴィクもつられて前のめりに倒れる。

 ソフィアは、そこで初めて自分の後ろを見た。

「イヤー!」

 彼女は叫んだ。

 化け物の触手が彼女の足に絡みつく。

「シュルシュルシュル」

 化け物が、口を大きく開けて、まさに彼女を飲み込もうとしたその時!

 ドシュッ。

 長い矢が、化け物の身体を貫いた。

 一発、三発、五発。

 文字通り矢継ぎ早に放たれる矢。

 矢を放ったのは、あの旅の修道士だった。

 体中に矢が刺さった化け物は、ぶるぶると震えていたが、やがて口から反吐のようなものを出して、動かなくなった。

 

 ソフィアとルドヴィクと修道士は、森のすぐ外の街道に立っていた。もう、月明かりは微塵もない。松明は、あの白い空間に置きっぱなしだから、辺りを照らすものは何もない。

「あなたたち二人の姿が見えないから、村の中は大騒ぎだ。ソフィアさん、あなたに伝説の話しをしたから、もしかしたらここに来ているのではないかと思ったんだ」

「わたしは……」

 ソフィアはやっと、それだけ言った。  

「あなたは何者なんです? 修道士さん」

「わたくしは、そう、こうした神の教えに収斂されない化け物を滅ぼすことを生業にしている者さ。教会の命を受けてね」

 静かに、修道士は言った。

「ルドヴィク、決して振り返るなっていったのに、あなたが振り返るから、だからあんなことに!」

「いや、あれは月明かりが途絶えたからで……」

「馬鹿馬鹿馬鹿!」

 ソフィアはルドヴィクの胸を、拳で何度も何度もぶった。

 そして、力尽きるとルドヴィクの胸にもたれかかって、大声で泣いた。

 ルドヴィクは、彼女を抱き寄せてやることが出来ず、ただ力なく立っていることしかできなかった。

 やがて、空から水滴がひとしずく。

 俄に雨が降り始めた。


 

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