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隣国の王子が母国語で弱音を吐いているのですが、なぜか私にだけ聞こえてしまいます

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/09/13


「――皆様、本日より王立学院で、学ばせていただき、ます。どうぞ、よろしく……お願い、します」


 大講堂に、たどたどしい声が響いた。


 私は最前列から少し離れた場所で、その姿を見つめていた。


 子爵家所属のアリシア・フォン・マリステラ、それが私の名前。

 教室では目立たず、ひっそりと過ごしている普通の女の子。

 そんな私の目から見ても彼は明らかに特別だった。


 銀灰色の髪。

 切れ長の青い瞳。

 すっと通った鼻筋に、無駄のない立ち姿。

 まるで冷たい彫刻のような美貌。


 彼の名は、レオンハルト・アストリア。

 海を挟んだ隣国、アストリア王国の第一王子だ。


 このたび友好関係を深めるため、半年間こちらの王立学院へ留学することになったらしい。


 当然、学院中は朝からその話題で持ちきりだった。


「すごい……本物の王子様よ」

「噂通り、ものすごく綺麗な人」

「でも、ちょっと怖くない?」

「分かる。全然笑わないもの」


 そんな声が、あちらこちらから聞こえてくる。


 実際、レオンハルト殿下は一度も笑っていなかった。

 壇上に立ち、背筋を伸ばし、凛と前を見据えている。


 ただし。

 私には分かっていた。


 ――この人、今ものすごく緊張している。


 なぜなら。


「……死にそうだ。無理だ。帰りたい。誰だ、留学などという素晴らしい制度を考えた奴は。今すぐ母上に手紙を書いて中止してもらおう。いや、駄目だ。そんなことをしたら外交問題になる。どうする。私は今、何を話している。『よろしくお願いします』で合っていたか? 合っているよな? 頼むから誰か頷いてくれ……」


 私は瞬きをした。

 声は聞こえていない。


 だが、確かに分かる。

 殿下の唇が、ほんの僅かに動いていた。


 ――母国語だ。


 私だけが完璧に理解できる、アストリア語。

 私は幼い頃、母と一緒にアストリアへ住んでいた。

 父が外交官だったからだ。

 そのため、私はアストリア語を話せる。

 もちろん、学院の人間は誰も知らない。


「……以上です」


 殿下が頭を下げる。

 拍手が起こった。


 その瞬間。


「終わった……! 終わったぞ! 私は生き延びた! 母上! 褒めてください! 今すぐ褒めてください!」


 私は危うく吹き出しかけた。

 あまりにも見た目との落差が激しい。


 壇上にいるのは、氷のような美貌の王子。


 その頭の中で叫んでいるのは、初めてのお使いに出された子供のような青年だった。


 そして。

 彼がこちらを見た。


 目が合う。


「……」

「……」

「……?」


 レオンハルト殿下が僅かに首を傾げた。

 私は慌てて視線を逸らした。


 すると。


「……今、笑われた気がする。気のせいか? いや、絶対に笑われた。顔が熱い。まずい。私は王子だ。堂々としろ。堂々と……。無理だ」


 私は唇を噛んで俯いた。


 笑ってはいけない。

 絶対に。


 けれど。

 面白すぎる。


 これが、私と彼の最初の出会いだった。





     ◇


 翌日。

 私は図書室で一人、本を読んでいた。


 すると、向かいの席に誰かが座った。


「……失礼、します」


 片言のこの国の言葉。

 顔を上げると、レオンハルト殿下だった。


「どうぞ」

「ありがとう、ございます」


 殿下は辞書を開きながら、一冊の本を取り出した。

 そして。


「……何が書いてあるのか、全然分からない。文字が多すぎる。昨日も今日も文字。なぜこの国の本は全部こんなに難しいんだ。そもそも『よろしくお願いします』だけで舌を噛みそうになった。私は本当に半年もここにいるのか?」


 私は本で口元を隠した。

 殿下がこちらを見る。


「……?」

「いえ」

「何か、おかしいですか?」

「大丈夫です」

「そう、ですか」


 殿下は再び本に視線を戻した。


「……この国の言葉は難しい。誰か助けてくれ。できれば今すぐ」


 私はとうとう耐えられなくなった。


「殿下」

「はい?」

「もしよろしければ、お手伝いしましょうか?」

「……本当、ですか?」

「はい」

「助かります」


 殿下は、ほんの少しだけ笑った。


 その笑顔に、胸が跳ねた。


 けれど。


「――神よ。ありがとうございます。ここに女神がいた。私はこの人を一生崇める。いや、待て。顔を見すぎるな。変に思われる。自然に。自然に……」


 私は無言で俯いた。


 駄目だ。

 この人。


 心の声がうるさすぎる。

 笑いを堪えながらもそう思った。




     ◇


 それから、私は殿下の勉強を手伝うようになった。


 授業で分からなかった言葉を教える。

 発音を直す。

 文化の違いを説明する。


 殿下は覚えるのが早かった。


「『おはようございます』」

「はい。上手です」

「『おはようございます』」

「完璧です」

「……!」


 殿下が嬉しそうに目を輝かせる。


「……やった! できた! 母上に報告したい! いや、まだ一つ覚えただけだ。喜ぶのは早い。だが嬉しい。ものすごく嬉しい!」


 私は思わず笑ってしまった。


「……何ですか?」

「いえ」

「笑いましたね」

「すみません」

「……」


 殿下は少し考えたあと。


「あなたは、よく笑いますね」

「そうでしょうか?」

「はい」

「殿下はあまり笑いませんね」

「……」

「?」

「笑い方が、分からないのです」

「え?」


 殿下は少し視線を落とした。


「王子として育つと、感情を表に出さないことを求められます」


 とても静かだった。


「嬉しくても、喜びすぎない。腹が立っても、怒らない。怖くても、怖いと言わない」

「……」

「だから、笑うのが少し苦手です」


 初めて。

 彼の内面と、外見が一致したような気がした。


 冷たい人なのではない。

 冷たく見えるように育てられただけなのだ。


「でも」


 私は言った。


「私は、殿下が笑っているところの方が好きですよ」

「……」


 殿下が固まった。


「殿下?」

「……」

「どうしました?」

「……今の言葉を、もう一度」

「え?」

「いえ。何でもありません」


 殿下は顔を逸らした。


「……好きって言われた。いや違う。笑顔が好きと言っただけだ。分かっている。分かっているが、嬉しい。ものすごく嬉しい。顔が熱い。落ち着け、私」


 私は小さく笑った。

 とても恥ずかしいけれど、どこか嬉しかった。


 この人の秘密を知っているのは。

 たぶん、私だけだ。




     ◇


 それから一か月。

 私たちは自然と一緒にいる時間が増えた。


 昼食を共にする。

 図書室で勉強する。

 学院の庭を歩く。


 周囲からは、すっかり噂になっていた。


「最近、レオンハルト殿下と一緒にいるわね」

「まさか、婚約者候補?」

「でも、彼女は子爵家でしょう?」


 私は気にしなかった。


 私は王子の婚約者になりたいわけではない。

 ただ。


 彼が私の前でだけ安心している。

 それが嬉しかった。


 ある日の放課後。

 殿下が私を呼び止めた。


「少し、話があります」

「はい」


 いつになく真剣な顔だった。


「私は、明日から国へ戻ることになりました」

「え?」

「隣国との条約交渉があるためです」

「そう、ですか」


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 半年の留学。

 まだ半分も終わっていないのに。


「三週間ほどで、戻ります」

「……戻ってくるのですか?」

「はい」

「それなら、よかったです」


 私が笑うと、殿下は黙った。


「……」

「殿下?」

「……どうして」

「何がですか?」

「どうして、そんな顔をするのですか」

「え?」

「寂しそうに、笑わないで、ください」


 胸が止まりそうになった。

 殿下が一歩近づく。


「私も、寂しい」


 低い声。


「この学院で、あなたと過ごす、時間が、好きです」

「……」

「あなたが、いない場所へ、帰るのが嫌、です」

「殿下……」

「だから」


 彼は一度、目を閉じた。

 そして。


「……本当は、あなたを連れて、帰りたい」


 私は息を呑んだ。

 けれど、次の瞬間。


「――駄目だ。こんなことを言ったら困らせる。落ち着け。私は王子だ。もっと格好よく言う予定だったのに。何でこんなに緊張している。誰か助けてくれ……!」


 聞こえてきた早口に、私は思わず笑ってしまった。


「……何がおかしいのですか」

「いえ」

「また笑った」

「すみません」

「……あなたは、ずるい人ですね」


 殿下はそう言った。

 でも、その顔には笑みがあった。





     ◇


 三週間後。

 レオンハルト殿下が帰ってきた。


 ところが。

 学院中が騒然となった。


 王宮から正式な発表があったのだ。


『アストリア王国第一王子レオンハルト殿下と、国内有力貴族令嬢との婚約について協議を開始する』


 相手は、王国内でも有数の大公家の令嬢。

 当然、私はその噂を聞いた。


 そして。

 殿下本人からも何も言われなかった。


 だからこそ。

 私は、少しずつ距離を取った。


 図書室にも行かない。

 昼食も別の場所で食べる。

 話しかけられても、必要最低限だけ。


 すると。


「……なぜだ」


 背後から声がした。


「殿下?」

「どうして、避けるのですか」

「避けてなど」

「避けています」


 殿下は珍しく、声を荒らげた。


「私が何か、しましたか?」

「いいえ」

「では、なぜ」

「婚約の話が出ていると聞きました」

「……」

「でしたら、私が距離を置くのは当然でしょう」

「違います」

「何がですか?」

「婚約など、するつもりは、ありません」

「ですが、王宮から――」

「外交上の、提案です」

「え?」


 殿下は深く息を吐いた。


「アストリアと、この国を結ぶ、ために、両国の大公家から、婚姻を求められた、だけです」

「……」

「私は断りました」

「なぜ?」

「あなたがいるからです」


 心臓が大きく鳴った。


「私は、この国へ留学してからずっと考えていました」


 殿下が私を見る。


「私は王子です」

「はい」

「将来、国を背負う、立場になります」

「……はい」


「だから、私の妻になる女性には、それなりの身分が

、必要だと思っていました」


 私は俯いた。

 やっぱり。


「でも」


 殿下が続ける。


「あなたと会って、その考えが、変わりました」

「……」

「身分ではなく、私自身を見てくれる、人が欲しい」


 彼は苦笑した。


「格好つけている、時の私ではなく」


 そして。


「母国語で『怖い』『帰りたい』『助けて』と騒いでいる、私を知っている人がいい」


 私は目を見開いた。


「……全部、知っていたのですね」

「はい」

「恥ずかしい」


 殿下が初めて、心から笑った。


「でも、あなたにだけは知られて、いたかった」

「……」

「あなたの前なら、私は王子でなくても、いい気がするから」


 静かな言葉だった。

 私は胸がいっぱいになった。


「殿下」

「はい」

「一つだけ、質問してもいいですか?」

「どうぞ」

「私のことを、いつから好きだったのですか?」

「……」


 殿下は黙った。


 やがて。


「初めて会った日です」

「そんなに早く?」

「はい」

「どうして?」

「あなたが、私の独り言を聞いて笑っていたから」

「……」

「でも、嫌な笑い方ではなかった」


 彼は少し照れながら言った。


「私のことを、怖がらずに、笑ってくれた」

「……それだけ?」

「それだけで、十分でした」


 殿下が手を差し出す。


「アリシア」

「はい」

「私はまだ、この国の言葉が、完璧ではありません」

「知っています」

「だから、上手く言えるか、分かりません」

「……はい」

「それでも」


 彼は私の目を見た。


「私と、一緒にいて、ほしい」

「……」

「王子として、ではなく」

「……」

「レオンとして」


 私はその手を取った。


「はい」


 殿下の顔が、一瞬で赤くなる。


「……!」

「どうしました?」

「……嬉しい」

「はい」

「ものすごく嬉しい」

「ふふ」

「笑わないで、ください」

「だって」

「……」

「殿下、顔が真っ赤ですよ」

「……今だけは、見ないでください」

「嫌です」

「なぜですか」

「私しか知らない顔ですから」


 そう言うと。

 彼はしばらく黙った。


 そして、私の手をぎゅっと握った。


「……そうですね」


 その声は、今まで聞いたどんな声よりも柔らかかった。




     ◇


 後日。

 私はアストリア王国の王宮を訪れることになった。


 当然、緊張した。


 だが、隣にはレオンがいる。

 そう思うだけで緊張は大分治ってきた。


「大丈夫ですか?」


 私が尋ねる。


「大丈夫です」

「本当に?」

「はい」

「緊張していませんか?」

「していません」


 彼は涼しい顔で答えた。


 私は笑う。


「そうですか」

「……」


 数秒後。


「――無理だ。母上がいる。父上もいる。大臣もいる。アリシア、頼むから手を離さないでくれ。私は今、人生で一番緊張している」


 私は吹き出した。


「ふふっ」

「……聞こえていますね?」

「もちろん」

「……」


 レオンは諦めたようにため息をついた。


 そして。

 私の手を握り直す。


「なら、いいです」

「何がですか?」

「あなたが分かってくれるなら」


 彼は笑った。


 かつて学院で「氷の王子」と呼ばれていた青年。

 誰もが近寄りがたいと思っていた、美しい隣国の王子。


 けれど、その本当の姿を私は知っている。

 緊張すると母国語で延々と弱音を吐く。

 新しい言葉を覚えるたびに子供のように喜ぶ。

 褒められると顔を赤くする。


 そして。

 好きな人の前では、王子であることすら忘れてしまう。


 そんな彼の隣で。

 私はこれからも笑っていたい。


 ――きっとこれは、二人だけの秘密。


 少なくとも。

 彼が私の前で母国語の弱音を吐き続ける限りは。


「レオン」

「はい」

「今日も母国語で何か言っていましたよね?」

「……言っていません」

「言ってました」

「……」

「何と言っていたんですか?」


 彼は少しだけ顔を赤くして。


「……秘密です」


 そう答えた。


 けれど。

 私は知っている。


『世界で一番好きな人が、隣にいる』


 ――そう言っていたことを。

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