『雨音』
(こちらは、武 頼庵(藤谷 K介)様の『みずに纏わる物語』企画参加作品になります)
※ご注意:本作には、豪雨災害・土砂災害、家族との死別、喪失にまつわる描写があります。※
直接的な残酷描写ではなく、日常の中に混じる「音」と、そこから蘇る記憶を中心とした心理的なホラーです。
忘れることでしか、耐えられない恐怖と喪失があること。
そうしたテーマを扱っています。m(_ _)m
──電話が鳴ったのは、夜の八時過ぎだった。
「もしもし、灯里? 変わりないかい?」
祖母の声だった。
「うん、平気だよ。仕事、忙しいけど」
「そう。ちゃんと食べてるの?」
「食べてるって。もう子どもじゃないんだから」
いつもの会話だった。
「そうねえ。でも灯里は昔から、無理すると食べなくなるから」
「あはは。そんなことあったっけ?」
「あったわよ」
「じゃあ、今度行ったらおばあちゃんのご飯いっぱい食べるよ」
灯里はスマホを肩と耳の間に挟んで、洗い物を続けた。
「今年のお盆、どうする? こっち来る?」
祖母の言葉に、灯里の手が、一瞬だけ止まった。
「うん……考えとく。都合が良ければ行くよ」
「そう。無理しなくていいからね」
祖母の後ろで、祖父の声がした。
「暑いからな。家の草も伸びてるぞ」
「わたしが刈っておきますから」
「いや、俺がやる」
「おじいさんは、まだ腰が痛いでしょ」
「もう大丈夫だ」
二人のやりとりは、いつも通りだった。
灯里は小さく笑った。
「相変わらずだね、おじいちゃんもおばあちゃんも」
できるだけ明るい声を出した。
いつも通りすぎるくらいに。
「じゃあ、また電話するね」
「うん。体に気をつけてね」
通話が切れる。
部屋が、急に静かになった。
「……おじいちゃん家、か」
灯里はスマホを台に置いた。
「……今年も、行かない」
そう呟いた瞬間だった。
──ぽつ、ぽつ、ぽつ。
水道の蛇口を閉め忘れていた。
――そう思って、灯里は洗面所に向かった。
だが蛇口はきちんと閉まっている。
滴一つ落ちていない。
「……閉まってる」
それなのに、耳の奥では確かに水の音が続いていた。
やがて、ざあ、と一瞬 大きくなって、消えた。
「じゃあ、今の音……何?」
気のせいだ。
灯里は鏡の中の自分にそう言い聞かせて、蛇口を触らないまま、眠りについた。
──翌朝、目覚ましが鳴った。
灯里は布団の中でしばらく動かなかった。
「……眠い」
のろのろと起き上がり、歯ブラシを咥えたまま、また朝を始めた。
時計を見る。
「……遅刻する」
灯里は鞄を掴んで、走るように部屋を出た。
玄関には、自分以外の靴はなかった。
駅までの道で、缶コーヒーを買おうとして小銭を落とした。
屈んで拾い集めている間に、電車が一本行ってしまった。
「……ついてない」
舌打ちしそうになって、やめた。
こんなことで苛立つ自分に、少しだけ疲れていた。
──その日から、音が増えた。
通勤電車の窓に、雨粒が当たる音がした。
晴れているのに。
──仕事帰りに寄ったスーパーの冷凍ケースの前を通ったとき、氷同士がぶつかるような、乾いた硬い音がした。
ケースの中を覗いても、何も動いていない。
──夜、布団に入ると、天井の隅から、ラジオの砂嵐のような音がかすかに漏れてくる。
目を開けても、閉じても、同じ音量で鳴り続けた。
「ヤダ……。ヤメて……。」
灯里はそのたびに、耳を塞いだ。
塞いでも、音は頭の内側から鳴っているようだった。
「──あのね、最近……。」
友人にそれとなく相談すると、「え、それ絶対疲れてるだけだよ」と笑われた。
「今度飲みに行こうよ、パーッと。忘れちゃえば楽になるって」
灯里も、そうだろうと思うことにした。
忘れてしまえば楽になる――友人はいつも、そういう側の言葉をくれた。
──けれど、音は日ごとに輪郭を持ち始めた。
ただの雑音ではなく、何かの一部だった。
犬の鳴き声、風鈴、下駄の音、誰かの咳。
どれも、どこかで聞いたことがある――そんな気がしてならなかった。
──最初に像を結んだのは、怒りだった。
踏切の警報が鳴った瞬間、耳の奥で水音が反響した。
景色が滲み、足元に広がった水たまりの中へ、灯里は沈んでいく感覚がした。
沈んでいく途中、見知らぬ家の窓明かりがいくつも滲んで見えた。
誰かの夕餉の匂い、誰かの子守唄。
灯里のものではない記憶が、すれ違うように光っては消えていく。
(……息をしなきゃ……)
けれど、水面は遠かった。
怒りから目を逸らすたび、身体が重く沈んでいく。
まるで、この記憶を最後まで見なければ、戻れないとでもいうように。
──逞しい腕に引かれ、浮かび上がった先は、中学の廊下だった。
上履きの底が擦れる音。
「あんたに何が分かるの!」
――自分の声とは思えないほど硬く尖った声。
誰かに悪口を言われて、灯里は声を荒げていた。
(……違う。こんなこと、言いたかったんじゃない)
相手の女子生徒は泣きながら謝ってきたが、灯里は許さなかった。
放課後、一人で階段の踊り場に座り込んで、拳を握って、壁を殴った。
「なのに……なんで、こんなに悔しかったんだろう」
痛みよりも先に、悔しさで喉が詰まった。
その日の夕焼けが、やけに赤かったことまで覚えている。
──踏切の遮断機が上がる音がした。
水面が揺れて、視界が現実に戻る。
灯里は踏切の前で立ち尽くしたまま、拳を握っていた。
手の指に、あの日と同じ痛みがあった。
両足が縫い付けられたように動かなかった。
ただの記憶であるはずなのに、体だけが先に強張った。
──二度目は、笑い声だった。
氷の匂いが、いつのまにか水の匂いに変わっている。
スーパーの冷凍食品売り場で、冷気に足を取られたように視界が揺れた。
灯里はまた、水たまりの底を通り抜けていた。
途中、公園のブランコが軋む音がした。
誰かの子どもの、聞き覚えのない笑い声。
振り向いても、そこには誰もいなかった。
(……息を、しなきゃ……)
油の弾ける音、換気扇の唸り。
──たおやかな手に引かれ、浮かび上がった先は、狭い台所だった。
母がフライパンを振りながら、「焦らなくていいのよ」と灯里に背中を向けたまま笑っている。
灯里はまだ小さくて、椅子の上に膝立ちになって卵を割ろうとしていた。
「お母さん、もう一個!」
「うふふっ、いいわよ」
殻ごとボールに落として、母がまた笑う。
父が新聞を畳んで台所を覗きに来て、「お、今日は卵祭りか」と言う。
弟がその横で、こぼれた卵を指でつついて、べたべたになった指を灯里の頬に押し付けてくる。
「あっ、!触らないでよ!? ベタベタになっちゃったじゃ!」
「やーい、ねえちゃんはたまごせいじーん!」
灯里は怒って、弟を追いかけて、狭い部屋を三周する。
母の「危ないってば」という声だけが、ずっとその後ろで笑っている。
──水面が揺れて、灯里は押し戻されるように、また現実に浮かび上がった。
「……あれ」
我に返ると、灯里は冷凍食品売り場の真ん中に立っていた。
「なんで、私……泣いてるの?」
頬に触れると、濡れていた。
楽しく、嬉しい記憶のはずだった。
──なのに、指先が震えていた。
楽しかったはずの記憶に触れたのに、その奥に、何か重いものが沈んでいるのを感じた。
「……怖い。……寒い。」
触れれば触れるほど、その重さがはっきりしてくる。
灯里はその日から、思い出すことそのものを恐れるようになった。
──三度目は、幸福だった。
風鈴の音を聞いた夜、耳の奥でまた水音がした。
(……どこに、いくの……?)
今度は沈んでいく感覚ではなく、ちいさな手で緩やかに引き寄せられるような感覚だった。
遠くの家々の軒先で、いくつもの風鈴が鳴っている。
灯里のものではない、誰かの夏の記憶だった。
──気づけば、灯里は神社の境内に座っていた。
浴衣の裾が汗ばんだ足に張り付いている。
「来年も……来ようね」
祭りの帰り、父の肩に弟が乗っていて、母は片手にりんご飴を持ったまま灯里の手を引いていた。
「うん。絶対だよ」
家族全員がうなずいた。
──蝉の声、遠い花火の余韻、うちわの風。
何も特別なことは起きていない。
ただ、四人がそこにいた。
それだけの記憶が、これほど眩しいことを、灯里は忘れていた。
──だが、幸福な記憶を思い出すたびに、心のどこかで警報が鳴った。
『この幸福には終わりが来る』、と体が知っていた。
灯里はその予感から目を逸らし続けた。
あれから、もう十年が経っていた。
『約束した来年』は、一度も来なかった。
──最後の音は、雨だった。
深夜、灯里は目を覚ました。
ざあ、ざあ、ざあ。
天井の隅の砂嵐が、はっきりと雨音に変わっていた。
どれだけ耳を塞いでも抗えなかった。
灯里は布団の中で目を閉じ、その音に身を任せた。
瞼の裏に、水面が広がった。
今までのような浅い水たまりではない。
深く深く、昏い水だった。
灯里はゆっくりと沈んでいく。
屋根、電信柱、商店街のアーケード、公園のブランコ。
沈んでいく途中、水の底に、街が沈んでいるのが見えた。
どれも本物ではないと分かるのに、妙に生々しい。
──窓の明かりの奥で、見知らぬ誰かが夕食の支度をしている。
──公園のベンチには、灯里の知らない老人が座って、誰かを待っている。
滴る水音、遠い風鈴、騒々しいサイレン――色々な人の、色々な音が、幾重にも重なって響いていた。
誰のものでもない記憶たちが、水草のように揺れながら、灯里の横をすり抜けていった。
(……もう、見たくない。聴きたくない。)
耳に水が入り、あらゆる音が遠くなる。
息が苦しくなるより先に、ある光景が、水の底からゆっくりと浮かび上がってきた。
――あの夜も、雨だった。
山あいの家。
ラジオが「土砂災害警戒情報」を繰り返していた。
机の上には、明日提出するはずだった夏休みの宿題プリントが広げたままになっていた。
母がカーテンを閉め、父が懐中電灯の電池を確かめていた。
弟は灯里の隣で、布団に潜り込んだまま震えていた。
「大丈夫、大丈夫」と灯里は弟の頭を撫でた。
自分に言い聞かせるためでもあった。
──雨は夜半から強さを増した。
屋根を叩く音が、太鼓のように連続して、やがて一つの塊になった。
裏の斜面から、地面が唸るような低い音が響いた。
ごう、ごう、という音は、最初は遠くの雷かと思われた。
──だが違った。
木が裂ける音、石がぶつかり合う音、それらが一斉に近づいてくる。
──父が「外へ」と叫んだ。
──母が灯里の手を掴んだ。
──玄関に向かう途中、灯里の手から弟の手が離れた。
──ほんの一瞬だった。
振り返ったとき、居間があった場所に、黒い水と泥の壁が押し寄せてきた。
──灯里は外に押し出されていた。
どうやって家から押し出されたのか分からない。
気づけば、誰かの家の塀にしがみついて、濁流の中に立っていた。
声を上げようとしたが、雨と土砂の音にかき消された。
──家があった場所は、もう何もない斜面になっていた。
朝になって、灯里だけが見つかった。
父は。母は。弟は。──誰も、帰ってこなかった。
──水面が、頭上のはるか遠くに見えた。
(息を……させて……。)
灯里は、そこへ向かって腕を伸ばした。
もがくように、蹴るように、水を掻いた。
ようやく水面を破ったとき、灯里は自分の布団の中にいた。
全身が濡れているような感覚だけが、そこに残っていた。
「なんで思い出しちゃうんだろう……」
布団の中で、灯里は震えながら膝を抱えた。
──灯里は、その夜のことを、誰にも話さなかった。
祖父母に引き取られてからの十年間、ずっとそうだった。
話せば、あの音がもう一度聞こえる気がしたから。
怖かった。──だから記憶に蓋をした。
蓋の下で、記憶は町になり、音になり、日常の隙間から少しずつ滲み出ていたのだと、今なら分かる。
「……でも」
しばらく黙って、天井を見上げる。
「明日は……行こう」
涙はもう乾いていたが、指先はまだ冷たいままだった。
──蝉の声で目が覚めた。
カーテンの隙間から、白く強い朝の光が差し込んでいる。
窓を開けると、生ぬるい風が頬を撫でた。
もう、雨の匂いはしなかった。
電車を降りて、十年ぶりの道のりだった。
景色は変わっているはずなのに、坂道の傾斜だけは、体が覚えていた。
祖父母が建てたという墓石は、記憶の中よりずっと小さく見えた。
墓地には夏草が伸びすぎていた。
灯里はしゃがみこんで、それを一本ずつ抜いた。
線香に火をつけると、白い煙がまっすぐ立ちのぼって、風にほどけて消えた。
柄杓に水を汲む。
──ちゃぷ、と桶の中で水が揺れる音がした。
土砂の唸り、木の裂ける音、弟の手が離れた感触。
一瞬、あの夜の音が耳の奥をかすめた。
──でも、今、手の中にあるのは、あの夜の水ではなかった。
灯里は墓石に、ゆっくりと水をかけた。
ざあ、ではない。
ぽつり、ぽつり、と静かな音を立てて、水が石を伝って流れていく。
灯里は墓石の前にしゃがみ込んで、手を合わせた。
「……来たよ」
水の底まで潜らなくても、思い出せることに、ようやく灯里は気づいていた。
(怖いだけの思い出じゃなかったから……)
柄杓を桶に戻すとき、ぽとり、ぽとりと上から落ちた雫が少しだけ足元を濡らした。
灯里はそれを拭わなかった。
ただ、線香の煙が細く消えていくまで、そこにしゃがんでいた。
蝉の声が、また少し大きくなった。
──帰りの電車で、スマホが震えた。
『いつでも、こっちにも顔見せてね』
祖母からのメッセージだった。
灯里は少し考えてから、短く返した。
『うん。行くよ』
今度は、迷わずに送れた。
(了)
最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。
この作品で描きたかったのは、灯里が恐れていたのは、「災害の恐怖」そのものだけではなく、そこから蘇ってくる記憶でした。
人は、辛い出来事を忘れようとすることがあります。
けれど、忘れたいのは必ずしも「悲しい記憶」だけではありません。
楽しかった時間。
家族と笑った時間。
何気なく過ごした日常。
「来年もまた来よう」と約束した時間。
そうした幸せな記憶でさえ、その先に待っている「喪失」を知ってしまったあとでは、触れることが苦痛になることがあります。
だから灯里は、悲しい記憶だけではなく、幸せだった記憶まで一緒に封じ込めてしまった。
忘れなければ、生きていられなかった。
この作品で描きたかったホラーは、そこにあります。
怪異が怖いのではなく、自分にとって大切だったものを、大切だったからこそ思い出せなくなること。
そして、忘れたはずの記憶は消えたわけではなく、音や匂いや風景の断片となって、日常の隙間から少しずつ戻ってくる。
それが灯里にとっての『雨音』でした。
十年後の灯里は、もう一度その記憶に触れます。
それは、過去を完全に乗り越えたということではありません。
悲しみが消えたわけでもありません。
ただ、水の底まで潜らなくても、思い出せるようになった。
それだけです。
そして、もう一度「行くよ」と言えるようになった。
この小さな一歩を書きたくて、この物語を作りました。
最後まで読んでくださった皆様に、心から感謝と、水に関わることで心に痛みを抱えられている方への想いを込めて……。m(_ _)m




