妹の身代わりで、愛人だらけと噂の辺境伯に嫁ぐことになりました
「お父様もお母様も認めてくださったの。だからお姉様の婚約は今日で終わり」
私の婚約者──ラグラス・シュバルツ様は、妹と将来を誓うことにしたらしい。
その事実を妹づてに聞いたとき、私の胸に去来したのは悲しみでも怒りでもなく、ただ微かな安堵だった。
「ねえ、悔しい? 悔しいでしょう?」
ビビアンの翡翠の瞳が、期待に満ちてこちらを見つめる。泣き崩れる私を見下ろしたいのだろう。この子はいつもそうだった。私の持ち物を奪い、私が悲しむ顔を見ることでしか自分の価値を確かめられない。
けれど——申し訳ないけれど、私にはもう差し出せる涙が残っていなかった。
「そう、分かったわ」
「……え?」
「ビビアン、お幸せに。ラグラス様によろしくね」
背を向けた私の後ろで、ビビアンが何か叫んでいる。きっと「もっと取り乱しなさいよ」とでも言いたいのだろう。でも振り返る理由がない。
この家では、ずっとそうだった。私は何を与えられても奪われ、何を訴えても無視された。だから、もう何も期待しないことにしたのだ。期待さえしなければ、失うものもない。
それから三日後、父に呼び出された。
「辺境伯レオンハルト・ヴェルナー閣下が妻を求めておられる。本来はビビアンを嫁がせる話だったが、ビビアンはラグラス殿と結婚する。代わりにお前が行け」
辺境伯レオンハルト。その名を聞いて、侍女たちが怯えた顔をしたのを覚えている。
——残虐非道。冷酷無比。屋敷には何十人もの愛人を囲い、逆らう者は容赦なく切り捨てる。
王都ではそんな噂がまことしやかに囁かれている人物だ。いつも通りのビビアン贔屓だ。
私からラグラス様を取り上げ、ビビアンに与えた経緯に得心がいった。
「分かりました」
「……それだけか」
「はい。いつ出立すればよろしいですか」
父は面食らったように口を開閉していたが、私は構わず部屋に戻り、荷造りを始めた。
残虐な辺境伯。愛人の群れ。結構だ。
少なくとも、この家よりは息がしやすいだろう。
§
辺境伯領への道のりは、七日間の馬車の旅だった。
王都を離れるにつれて景色は緑を増し、空気が澄んでいく。花の匂い、鳥の声、遠くに連なる雪を被った山脈。私が十八年間閉じ込められていた世界は、こんなにも狭かったのだと思い知らされた。
辺境伯の居城は、想像していたような陰鬱な砦ではなかった。石造りの堅牢な城だが、中庭には季節の花が咲き、厩舎からは馬の穏やかな鳴き声が聞こえる。
そして——出迎えてくれた辺境伯レオンハルトは、噂とはまるで違っていた。
「……お前がロミリアか」
銀灰色の髪に、冬の湖のような青い瞳。確かに彫りの深い美貌ではあったが、その目はどこか警戒に満ちていて、残虐さよりもむしろ、深い孤独の色を湛えていた。
「はい。本日よりお世話になります、ロミリア・ルブルサッチです」
「……怯えないのか」
「何にでしょう」
彼は少し面食らったように瞬きをした。おそらく、自分の悪名を聞いて震え上がる花嫁を想像していたのだろう。
「……屋敷の中は自由に使って構わない。好きにしろ」
それだけ言い残して、彼は執務室へ消えていった。
不器用な人だ、と思った。
屋敷の中を案内してくれたのは、メイド長のマルタという中年の女性だった。彼女の案内で屋敷を巡るうちに、私はすぐに気づいた。
——愛人など、どこにもいない。
屋敷にいるのは、孤児や戦災で家族を失った未亡人、故郷を追われた女性たちだった。彼女たちはレオンハルトに保護され、屋敷で働きながら安全に暮らしているのだ。
「旦那様は、外の噂を否定なさらないのです」マルタは苦笑して言った。「悪名が立っていた方が、変な貴族が寄ってこなくて楽だと」
私は小さく笑った。不器用どころの話ではない。けれど——その不器用さが、どこか温かかった。
それから私は、辺境伯の妻としての日々を淡々と過ごし始めた。
屋敷の家計を整え、保護された女性たちの相談に乗り、厨房を手伝い、領民への施しの段取りをつける。実家で散々こき使われた経験が、ここではすべて役に立った。
「……なぜそこまでする」
ある日、書斎で書類と格闘していたレオンハルトが、紅茶を運んできた私を見上げて尋ねた。
「あなたの妻ですから」
「見返りは」
「美味しい紅茶を一緒に飲んでくださるなら、それで十分です」
彼は何か言いかけて、口を閉じた。
そして、ぎこちなく紅茶のカップを受け取り、一口飲んで、ぽつりと言った。
「……うまいな」
その夜、私の部屋に山のような花が届いた。添えられたカードには、震えるような筆跡でたった一行。
『紅茶、また一緒に飲もう レオンハルト』
不器用すぎて、つい胸が温かくなった。
♦︎
ロミリアが辺境へ旅立って二ヶ月が過ぎた頃、王都の一角では、すでに地獄の釜の蓋が開きつつあった。
「ねえラグラス、今月の生活費はまだ? 先月の仕立て屋への支払いだってまだ済んでいないのよ」
「うるせえな。金なら自分の実家から引き出せ」
「もう引き出したわ。あなたの借金の返済に全部消えたじゃない!」
ビビアンの甲高い声が、シュバルツ家の薄暗い居間に響く。
ラグラスの実態は、華やかな外見とは裏腹に、多額の借金を抱えた没落貴族の跡取りだった。ロミリアとの婚約は、彼女の実家の資産が目当てだったのだ。しかし、ロミリアの代わりに手に入れたビビアンの持参金は、既存の借金の穴埋めにすら足りなかった。
「お前の姉なら、こんなことにはならなかった」
ラグラスが吐き捨てるように言った。
「あの女は地味で退屈だったが、少なくとも家計の管理くらいはできた。社交界での立ち回りも心得ていた。それに比べてお前は——金を使うことしか知らない飾り人形だ」
「……っ!」
ビビアンの顔が蒼白に変わる。
——お姉様のようにできない。
それは、ビビアンが最も突きつけられたくない言葉だった。幼い頃からロミリアの持ち物を奪い、ロミリアを踏みつけることでしか自分の存在を証明できなかった彼女にとって、「姉以下」の烙印は存在の否定に等しい。
「取り消して。今の言葉、取り消しなさいよ! 私はお姉様なんかより——!」
「事実を言ったまでだ。嫌なら出ていけ」
「出ていけですって? 何様のつもり!?」
「口答えする女などいらねえ」
ビビアンは感情に身を任せて屋敷を出ようとした。が、出ていくことができなかった。
婚約破棄のスキャンダルを起こせば、社交界での立場は終わる。何より——辺境に追いやった姉より惨めな立場に堕ちることだけは、彼女のプライドが絶対に許さなかった。
ラグラスも実際のところ、ビビアンを手放せなかった。離縁すれば持参金の返還義務が生じ、それは彼の完全な破産を意味する。
互いを必要としているのではない。互いの逃げ道を塞いでいるだけだ。
かくして二人は、憎み合いながら離れられない、歪んだ共依存の檻に自ら閉じこもっていった。
♦︎
季節が巡り、辺境に冬が来た。
レオンハルトの変化は、周囲の誰もが気づくほど顕著だった。
以前は人を寄せ付けなかった彼が、今では毎晩のように私と暖炉の前で紅茶を飲む。口数は相変わらず少ないが、ときおり領地の話を聞かせてくれるようになった。
「ロミリア」
「はい」
「寒くないか」
「ええ、暖炉がありますから」
「本当か? 無理してないか?」
「ええ、ありがとうございます」
柔らかく微笑むと、彼の耳の先が赤くなった。
いつの間にか、私の居室は見違えるほど居心地がよくなっている。最高級の寝具、季節の花、焼き菓子の籠。何か欲しいと口にする前に、欲しかったものが既にそこにある。
「旦那様、最近すごいですよ」とマルタが声を潜めて教えてくれた。
「毎朝『ロミリアに不便はないか』と全使用人に確認を取るんです。先日なんか、奥様が読みたいとおっしゃった本を取り寄せるために、わざわざ王都に早馬を走らせたんですから」
「そんな大げさな……」
「大げさなのは旦那様の愛情の方でございます」
マルタの言葉に、私は初めて自覚した。
この人は——本気で私を愛してくれているのだ。
奪われることに慣れすぎて、与えられることの意味を忘れていた。この温もりが当たり前ではないことを、私の心はずっと理解しようとしなかった。
その夜、暖炉の前でレオンハルトが不意に私の手を取った。
「ロミリア。俺は口が回らないし、気の利いたことも言えない」
「知っています」
「……だが、一つだけ誓える。お前を傷つけるものには、何一つ触れさせない。二度と」
その青い瞳があまりにも真剣で、あまりにも切実で。
十八年間ずっと凍りついていた胸の奥の何かが、音もなく溶けていく気がした。
「……ありがとうございます。レオンハルト様」
「レオンでいい」
「では——レオン」
彼の耳が真っ赤になった。けれど、私の手を握る力だけは、決して緩まなかった。
♦︎
冬が過ぎ、春が来ても、王都の二人に春は訪れなかった。
借金取りの訪問は日ごとに増え、ラグラスは酒に溺れ始めた。社交界からも徐々に締め出され、かつて二人を祝福した貴族たちは一人残らず手のひらを返している。
ビビアンは鏡の前で、何時間も自分の顔を見つめるようになっていた。
「私は間違っていない。お姉様を追い出したのは正しかったの。だって、だって——お姉様のものは全部私のものなんだから……」
その言葉を聞く者は、もう誰もいなかった。
使用人はとうに暇を出され、実家からの援助も途絶えた。華やかなドレスは質に入れられ、宝石は借金のカタに消えた。
追い詰められた二人が最後に思いついたのは、辺境に嫁いだロミリアへの無心だった。
「辺境で惨めに暮らしているはずの姉なら、金を送れと脅せば従うだろう」
ラグラスは酔った頭でそう算段し、手紙を書いた。ビビアンもまた、「可愛い妹のために少しくらい助けてくれてもいいでしょう?」と媚びるような手紙をしたためた。
手紙は辺境伯領に届いた。
しかしロミリアの手には、一通も渡らなかった。
「閣下、王都より書簡が」
執事から手紙を受け取ったレオンハルトは、一読して静かに握り潰した。
その目は、冬の湖面よりもなお冷たかった。
「焼け」
「かしこまりました。また使者を送ってくるかもしれませんが」
「構わん。領境を超えた時点で拘束しろ。ロミリアには一言も伝えるな」
「……承知いたしました」
執事が下がった後、レオンハルトは書斎の窓から中庭を見下ろした。そこでは、ロミリアが保護された子どもたちに本を読み聞かせている。穏やかに微笑む横顔。春の陽だまりの中で、花びらが彼女の髪にひとひら舞い降りる。
「——最愛の妻の平穏を脅かさせてたまるか」
呟きは、氷のように静かで、溶岩のように熱かった。
「どの面を下げて、接触しようとしている」
その日から、レオンハルトは裏で動いた。
辺境伯としての権限と人脈を総動員し、ラグラスの残る信用筋を一つ残らず断ち切った。借金の証文を買い集め、返済の猶予を与えていた債権者たちの温情を剥がし、社交界での二人の最後の居場所を、音もなく消し去った。
それは制裁ですらなかった。ただ、妻の平穏を守るための——静かで、完璧な隔離だった。
♦︎
ある春の午後。
私は中庭のベンチに座って、レオンが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。最近、彼は自分で紅茶を淹れることを覚えたらしい。正直なところ、マルタの方がずっと上手なのだが、不器用な手つきで注いでくれるそれは、どんな高級茶葉よりも温かかった。
「ロミリア。……幸せか?」
唐突な問いかけに、私は少し考えた。
幸せ。かつての私には縁のない言葉だった。期待しないこと、感じないことでしか自分を守れなかった私に、そんな感情が戻ってくるとは思わなかった。
「ええ、とても」
レオンは黙って私の肩を引き寄せた。不器用で、少し力が強すぎて。でも、それがこの人だ。
「今日も平和ですね」
私が笑うと、彼はかすかに目を細めた。
その視線の奥にある、底知れない深さの感情に気づいていないわけではない。この人の愛は穏やかな春の陽射しであると同時に、すべてを焼き尽くす焔でもある。私を守るためなら、きっとこの人は何だってする。
でも——それでいい。
奪われるだけだった私が、初めて「この人のものでありたい」と思えた。それだけで、十分すぎるほど幸せだ。
遠い王都で、かつての家族がどうなったかなど、私は知らない。知る必要もない。
紅茶のカップを両手で包み、私はそっと目を閉じた。
辺境の穏やかな風が頬を撫でる。花の香り。鳥の声。隣にいる人の温もり。
これが私の世界のすべてで——これだけで、満ち足りていた。




