第7話 仕事が終わると、世界が戻ってくる
主人公は特別な才能もチート能力もありません。
ただの、どこにでもいる普通のサラリーマンです。
ブラックすぎる異世界ギルドで、
「それ、普通じゃないですよね?」と
思わず口にしてしまったら、どうなるのか。
ギルドの営業終了を告げる鐘が鳴ったとき、
ナーミは、胸の奥で小さく息を吐いた。
――今日、やり切れた。
書類は揃っている。
未処理の依頼もない。
最後に戻ってきた冒険者の報告と換金も、滞りなく終わった。
「お疲れさまでした」
そう声をかけると、冒険者は軽く手を挙げて去っていく。
その背中を見送りながら、ナーミは気づいた。
以前なら、この時間帯はまだ終わりじゃなかった。
焦りと疲労の中で、
「何か忘れている気がする」と不安だけが残っていた。
けれど今日は違う。
「……終わったね」
隣の受付の同僚が、ほっとしたように言う。
「うん。ちゃんと」
“ちゃんと”
その言葉が、今の自分にしっくりくるのが不思議だった。
背後で、椅子が軋む音がする。
「最近、やけに回ってるらしいな」
振り返らなくても分かる。
あの上司だ。
「別に問題が起きてるわけじゃないが……
勝手な判断は困るんだよ」
主語はいつも曖昧。
誰が困るのか、何が問題なのかは語られない。
「前例がないことをやられると、
あとで説明が面倒になる」
――説明。
――責任。
ナーミは、何も言わなかった。
言えば、また同じやり取りになるだけだ。
レイも視線を上げない。
書類を揃え、淡々と片づけを続けている。
「まあ、様子見だ。様子見」
それだけ言い残して、上司は去っていった。
(……変える気は、ないんだ)
そう思ったのに、
胸は不思議と荒れなかった。
今日は、もう終わったから。
ギルドの扉を押し、外へ出る。
背後で扉が閉まる音がして、
仕事と私生活の境目が、はっきりと引かれた気がした。
夕方の空気が、頬に触れる。
ナーミは、思わず立ち止まる。
空が――
ゆっくりと、夕焼けに染まっていた。
雲は淡い茜色を帯び、
その奥には、まだ青が残っている。
色と色の境目が溶け合って、
どこかやさしい。
(……こんな空、前は見てなかった)
空を見上げる余裕がある、
それだけで
自分が“壊れかけていた”ことが分かった。
いつも視線は下だった。
書類、足元、人の顔。
見上げる余裕なんて、なかった。
それだけで、体は正直に応えてくれた。
(……帰ろう)
歩き出した、そのときだった。
足元で、何かが動いた。
「……?」
黒と白の、まだ小さな猫だ。
どこから来たのか、
ギルドの前の石畳にちょこんと座っている。
ナーミが足を止めると、
猫は一度だけこちらを見て、
興味なさそうにあくびをした。
「……自由だね」
思わず、笑みがこぼれる。
触れはしなかった。
ただ、そこにいることを確認しただけだ。
それで、十分だった。
家に着き、靴を脱ぐ。
身支度を整え、湯を張る。
肩まで浸かると、
体の奥から力が抜けていくのが分かる。
(ああ……)
前は、風呂さえも「早く終わらせなきゃ」と思っていた。
今は、温かさを感じる余裕がある。
湯上がりに、軽く体を伸ばす。
無理のない動きで、呼吸に合わせて。
制服は、少し前に一つ小さいサイズに替えた。
無理をしなくなった分、
体も、動きも、自然と軽くなっている。
ベッドに腰を下ろし、
灯りを落とす前に、もう一度窓を見る。
空はすっかり暗くなっていたが、
月だけは、変わらずそこにあった。
――ギルドの中の問題は、まだ何も解決していない。
(あの人は、
どこまで分かっていて、何も言わないんだろう)
それでも。
今夜のナーミは、
確かに「自分の時間」を取り戻していた。
次回予告(第8話・短)
ギルドの外、いつもの食堂。
何気ない一言が、思わぬ噂を呼び始める――。
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