海の怪物
私の部屋からは海が見える。穏やかな青い海。洗濯物が潮っぽくなるだとか、自転車が錆びるだとか、お母さんはあんまり好きじゃないみたいだけど、私は海が好きだ。だって、いつだってそばにいてくれるんだから。
部屋の窓いっぱいに広がる海をみていると、世界に自分しかいないような錯覚に陥る。騒がしい町も、煩い人間も居ない。そんな感覚。溺れてしまいたい魅力に呑まれて、目が離せなくなってしまうのだ。
何故、海を嫌う人間がいるのだろう。空気を嫌う人間はいない。大地を嫌う人間はいない。星を嫌う人間も、太陽を嫌う人間もいない。どうして海を嫌うのか。
死の味か、死の香りか。事故だって、災害だって人間が生み出した言葉でしかないというのに。そこにある現象に、慣性に、勝手に名前をつけて恐れる。
人間にとって、死は抗えない宿命である。死なないことはない。生まれた瞬間、私達は死の運命を背負う。芽吹、赤子、子どもは生の象徴だが、死という圧倒的な結末が確約されているからこそ、生物は生きられる。強い光が濃い闇を生むように、生と死がそこにある。所詮、私達は死ぬために生きている。
では、死ぬことが怖くないかといえば、そうではない。どんなに抗おうとしても、私達の価値観は人間が創り出した。だから、怖い。
でも、還るだけだ。母なる大自然に。痛みも苦しみもない世界に。
騒がしいサイレンの音が遠のいていく。煩い母の声がこだまする。窓は波で埋め尽くされる。私と思い出は静かに、ここで、逃げも隠れもしないのに。
死の波が私を捕らえた。
少しだけ、このままでいいと思った。