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すれ違う生徒たちが廊下を歩くクラウを怪訝な顔で見ていた。
言いつけを守って朝からずっとU研の部室でおとなしく待っていたが、待てど暮らせど日郎は戻ってこない。食べ物のためなら仕方なしと、親鳥の帰りを待つ雛のようにじっと我慢していたクラウも、昼休みで活気づいた生徒たちの騒がしい声に誘われるようにして部室を出てきてしまった。
本校舎の廊下にはたくさんの生徒が行き交っている。
こんな大量の食べ物がいるというのに、ただ指をくわえて見ているだけとは、これでは拷問ではないか──
──と、そのとき。
グルルルルルル。
クラウの腹が鳴った。
どうやら栄養補給が可能な空腹状態になったようだ。これでいつでも食べ物を腹に入れることができる。あとは日郎がその肝心の食べ物を調達してくるのを待つだけだった。
しかしクラウには一抹の不安があった。果たして日郎を信じて待っていても本当に大丈夫なのだろうか。
これだけの人間がまわりにいるにもかかわらず、こんなギリギリまで食べてもよい人間のたった一人も選ぶことができないでいるのだ。正直なところ、日郎のあの様子だとあまり期待できそうにない。最悪なのは、待たされるだけ待たされたあげく食べ物にありつけなかった場合だ。栄養不足で動けなくなれば餓死する以外ない。
どうやらこの星を支配する知的生命体である人間の多くは、食べる物を自分で捕食せずとも生きていける社会を形成しているようだ。
日郎は捕食できなくなることが、いかに深刻な問題なのかがわかっておらんのだ。
栄養不足で動けなくなってしまう事態だけは絶対に避けねばならん。そうなる前に自分で獲物を見つけて捕食する。それが賢明かもしれん。
そんなことを考えながら歩いていると、
「キャッ!」
廊下の曲がり角で出会い頭に女子生徒とぶつかってしまった。
クラウがびくともせずに平然と立ったままなのに対して、倍以上は体重がありそうなぽっちゃり肉付きのよい女子生徒はぶつかった反動で後方に弾き返されて尻もちをついた。
倒れた拍子に女子生徒が持っていた紙袋の中身が散乱する。床に散らばったのは袋入りの菓子パンだった。一人で食べるにしては多すぎる量だ。
女子生徒は「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りながらパンを拾い集めると、足早に駆け去っていった。
今のは日郎が朝に食べているパンという食い物だな。あれだけ喰えば丸々と太るのも頷ける。
クラウは駆け去る女子生徒の後ろ姿を見ながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。
喰いごたえがあって実に美味そうだ。あれを喰うか。
クラウは女子生徒のあとを追って歩き出した。
女子生徒は本校舎から渡り廊下を通って特別教室棟のほうへ向かい、突き当たりに見える階段を上がっていく。
クラウが特別教室棟の階段を上がっていくと、そこにあったのは屋上に通じる扉だった。扉を少しだけ開けて覗き込むと、さっきの女子生徒の姿が見えた。
そして、もう一人。
「あれはたしか日郎の教室にいた……」
そこにいたのは因幡詩苑だった。
太った女子生徒が持っていた紙袋を因幡詩苑に差し出す。
「遅かったわね」と引ったくるように女子生徒の手から紙袋を奪い取った因幡詩苑は袋の口を開けて中を覗き込んだ。
因幡詩苑は教室で見たときの人当たりがよさそうな雰囲気とはまるで違い、別人かと思えるような意地の悪い顔つきをしていた。
「私が頼んだパンと違うんだけど」
「それが……購買で売り切れてて……」
「口答えすんな!」と中身が詰まった紙袋で女子生徒の顔を殴りつけた。
「てめぇがちんたらやってるから売り切れたんだろうが! このグズが! 売り切れてたんなら、コンビニでも行って買ってこいよ! いちいち言われねぇとわかんねぇのか!」
「す、すみません……」
「まったく……まともにお使いもできないのかよ。この役立たずが」
「すみません、すみません」と女子生徒はひたすら頭を下げる。
「もう一回行って買ってこい。今度はちゃんと買えるまで帰ってくんなよ」
「は、はい」
しかし女子生徒はその場から動こうとしない。
「何してんだよ。早く行けよ」
「あ、あの……お金は……」
「はぁ!? てめぇがミスしといて、なんで私が金を出すんだよ! ふざけてんのか!?」
「ふざけてないです! すみません!」
因幡詩苑は深々と頭を下げた女子生徒の髪の毛を引っつかむと「じゃあ、さっさと行ってこいよ」と突き飛ばし、靴底で蹴りを見舞った。
よろめき倒れた女子生徒を冷酷な目つきで見下ろし、「ほんとムカつくやつ」と最後に女子生徒の顔に唾を吐きかけた。
起き上がった女子生徒が顔にかかった唾を制服の袖で拭いながら、クラウのいる階段室のほうへ駆けてくる。扉の陰に隠れたクラウに気づくことなく、女子生徒は階段を駆け下りていった。
一部始終を見ていたクラウの心の裡に湧き上がった感情は怒りではなく喜びだった。
こんなところに悪人がいるではないか。
クラウは屋上に出ると、因幡詩苑に近づいていった。
「あら?」
クラウに気づいた因幡詩苑がにこやかな笑みを浮かべた。先ほどまでとは打って変わって陰険さのかけらも見受けられない。
「とんだ食わせ者だな」
クラウはぼそりと呟いた。
「クラウちゃんじゃない。まだ学校にいたんだ。紗塔くんは?」
「さあな。今頃、ワシの食い物を必死に探しているのだろう」
因幡詩苑は意味がよく飲み込めない様子で小首をかしげる。
「……もしかしてクラウちゃんのお昼ごはんを買いに行ってるのかな? だったら、ここにパンがあるけど食べる?」
と、紙袋の中から菓子パンを一つ取り出して、クラウの前に差し出した。
クラウはそのパンを見て、ふんと鼻を鳴らす。
そして言った。
「パンなどいらぬわ。目の前に美味そうな食い物があるではないか」