8
クラウに食べさせる悪人が見つからないまま二日が過ぎた。
そして迎えた三日目の朝。
言いつけを守り、ジャージの上下に身を包んだクラウに見送られて日郎は家を出た。
この日が三日前の夜に取り交わした約束の期日だというのに、クラウはそのことを念押ししてくることも、急き立ててくることもなかった。
まさか約束を忘れているはずもなく、もしかすると三日と言っていた空腹になるまでの日数にまだ余裕があるのではと、自分に都合のいいように考える。摂取した栄養量で体が変化している時間が決まると言っていたが、クラウが地球に来る前に栄養源にしていたというケラン星の生物よりも地球人のほうが腹持ちがいいのかもしれない。そうであったなら、どんなに助かることか。
学校に着き、本校舎二階にある二年三組の教室の近くまで来ると、前方のドアが開けっ放しになっている教室からクラスメイトたちの賑やかな話し声が廊下まで聞こえてきた。
ところが日郎が教室に足を踏み入れると、途端にざわめきがぴたりと止み、水を打ったようにしんと静まり返ったのである。
いったいどうしたのかと目をぱちくりさせた日郎が教室を見渡すと、同じく目をぱちくりさせたクラスメイトたちが日郎を見ていた。
いや、日郎を見ているのではない。クラスメイトたちが視線を注いでいるのは日郎の背後だ。
視線をたどって日郎が振り返ると、
「いっ!?」
我が目を疑った。
そこにクラウが立っていたのである。しかもジャージ姿ではなく、体に密着した服を着ているように見える裸の姿だった。
「なななななんでここに!?」
日郎の腰を抜かさんばかりの驚きをよそに、クラウはいたって平然とした様子で教室を眺めまわしていた。
「キャーッ! 可愛い!」
女子生徒たちが甲高い声をあげたのをきっかけに、多くのクラスメイトが一斉にクラウめがけて押し寄せ、取り囲んだ。
「誰? 誰? 可愛い!」
「お人形さんみたい。肌が真っ白!」
「この子、紗塔くんの知り合い?」
「え……うん、まぁ……知り合いは知り合いだけど……」
曖昧に答えるしかなかった。まさか自宅のアパートに居候している人喰い宇宙人だなどと言えるわけがない。
幸いにもクラウは髪型と身なりが少々奇抜ではあるが、中学生くらいの可愛い女の子にしか見えない。当座をしのぐ出まかせが思わず口をついて出た。
「えっと……じ、実は妹なんだ」
「妹?」
「そ、そう、妹」
日郎とクラウはまったく似ていないが、似ていない兄妹など大して珍しくないだろう。
「ねぇねぇ、お名前はなんていうの?」
そうクラウに訊いたのは因幡詩苑だった。いつの間にかクラウを囲む輪に加わっていたらしい。
「クラウ」
クラウはぶっきらぼうに答えた。
「へぇ、珍しい名前ね。もしかしてハーフ? ってことはないか」
と、因幡詩苑がちらっと日郎に目を向けたのは、日郎がいわゆる欧米人とのハーフには見えないからだろう。
「そ、そうなんだよ。僕たちの父親は仕事の都合で海外で暮らしてるんだけど、クラウは父親と再婚相手との間に生まれた子供で、僕たちは異母兄妹なんだ。それで今、日本に遊びに来てるんだけど、日本の高校に興味があるみたいで勝手についてきちゃって……」
口から出まかせだが、少なくとも父親が海外で暮らしていることは嘘ではない。父親が衿亜豪一であるということはクラスメイトの誰にも打ち明けてはいないが、クラウという名前も、ポニーテールならぬエイリアンテールとでも名付けたくなるような独特の髪型も、大胆な衣装に見える見た目も、海外育ちということなら押し通せそうな気がする。
クラウが因幡詩苑を指差しながら日郎に言った。
「こいつでよいではないか。美味そうだ」
因幡詩苑は意味がわからず、首をかしげている。
「ち、ちょっと、何言ってるんだよ!」
日郎はクラウを廊下に連れ出した。そして声を潜めて言った。
「どうして学校についてくるんだよ!」
「今日が約束の三日目だからに決まっているではないか。日郎が選んだ人間をその場ですぐに喰えるように、わざわざ足を運んでやったのだ」
やっぱり約束の期日は変わっていなかった。朝、家を出るときにクラウが何も言わなかったのは、はじめから学校についてくる気だったからだろう。
「さぁ、ワシは誰を食べればよいのだ?」
クラウが舌舐めずりする。
教室の中から二人の様子を興味津々に覗いているクラスメイトたちの視線が気になった。
ひとまずクラウを人目につかないU研の部室に連れていくことにした。
住み着いているのではと思えるほど四六時中部室にいる爽村もさすがに朝のこの時間にはいなかった。
「困るよ。勝手についてこられたら。ジャージも着てないし」
「あんなものを着て出歩けるか。あれは部屋着だ。そんなことより、あれだけうようよ人間がいて、なぜこんなに時間がかかっているのだ。適当に選べばよいではないか。全員が深い絆で結ばれた仲間というわけでもあるまい」
「そんな簡単には決められないよ。人の命がかかってるんだから」
「ならば無理に選ぶ必要はないぞ。いよいよ空腹の限界がくれば、どのみちワシは生きるために人間を喰うのだ。日郎に恩義は感じるが、そのために餓死しようとは思わん」
無責任という名の心地好い誘惑にぐらりと傾きそうになる。いっそのことクラウにどこか遠く離れた土地に行ってもらって、そこで知らない人を食べてもらおうか。そんな考えが頭をよぎる。
しかし、すぐにその誘惑を頭から振り払う。ダメだ、ダメだ。どこであろうともクラウが人間を食べるということは、クラウを助けた自分にも責任が生じるのだ。その責任からは逃れることはできない。
「……ちゃんと僕が責任をもって選ぶよ」
「そうか。しかし、さほどの猶予は残されておらんぞ。日郎は何を判断材料に選ぼうとしているのだ?」
「それは……悪人を探してるんだけど……」
「なるほど、悪人か。まぁ、妥当なところだな。それが決まっているのなら、悪人の中からさっさと選べばよいではないか」
「刑務所じゃあるまいし、そんな簡単に悪人なんて見つからないよ」
「刑務所か。罪人が囚われている場所だな。そこに行って喰うのはいささか目立ちすぎるな。人目につかぬように喰わねば、人間に敵がいることを悟られてしまい、今後動きにくくなる」
「刑務所に行って食べるなんて無理だよ」
「ならば、まだ捕まっていない、法で裁かれる前の野放しになっている悪人を見つければよい」
「法で裁かれる前だから悩んでるんだよ」
「悩まずともよい。ワシは日郎の部屋にいる間にテレビや本、インターネットから地球人のことを学んだが、地球人は悪人を法で裁くべきだと口では言いながら、悪人に私的な制裁を加えるヒーロー物語が大好きではないか。本心ではそれを望んでいるのだ」
「僕が悩んでるのは悪人を法で裁くべきとかそういうことじゃなくて、何が善で何が悪かの判断だよ。そんなわかりやすい悪人なんてそうそういない」
「難しく考えることはない。何が善で何が悪かを判断できないのであれば、何が好きで何が嫌いかで判断すればよいのだ。生物など、皆そういうものだ。どちらにしろ日郎が選んだ命に対して、日郎が責任を感じる必要などない。むしろ地球人からすれば日郎は、ワシが地球人を無分別に喰う事態を阻止した救い主なのだからな」
好き嫌いなんて、そんな安易な決め方をしていいのだろうか。でも善悪という曖昧な概念よりもよっぽど判りやすいのは確かだ。すべて自分の感情しだいなのだから。
「とにかく、この部屋でじっとしててよ。勝手に学校の中を出歩いちゃダメだからね」
日郎はクラウを部室に残して自分の教室に戻った。