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日郎の朝食はパン派である。
といっても別に米よりもパンが好きというわけではなく、朝から手間のかかる食事をするのが面倒くさいというそれだけの理由に過ぎない。
前日のうちにコンビニで買っておいたクリームパンを一口頬張る。
それをローテーブルを挟んで正面に座ったクラウが興味深げな様子でじっと見ていた。
日郎は食べかけのパンをクラウに差し出した。
「食べる?」
クラウは顔をしかめた。
「そんな得体の知れんものはいらん」
「パンだよ。クリームパン。で、こっちは牛乳」
と、マグカップに注いだ牛乳でパンを流し込む。
「そんなものは何の栄養の足しにもならん」
「まぁ、クリームパンの姿になられても困るけどね」
クラウに見守られながらの朝食を終えた日郎は「あ、そうだ」と思い出し、クローゼットの中の収納ケースからジャージの上下を取り出した。中学生のときに体育の授業で使っていた学校指定の臙脂色のジャージで、部屋着として使えるかもしれないと取っておいたものだ。
「はい、これ」と、クラウにジャージを差し出す。
「なんだ、それは?」
「着替えの服だよ」
「服……あぁ、地球人が身にまとっているものか。そんなものワシには必要ない」
「でも、ずっとその服を着てたら洗濯もできないでしょ」
「だからワシは服など着ておらん」
「え、だってそれ……」
どこからどう見てもクラウは体にぴたりと密着した少々目のやり場に困る黒一色の服を着ている。手には肘まであるロンググローブ、足には膝上まであるニーハイソックス。それが服でないとすれば、露わになった二の腕、太もも、◇形に切り取られてヘソが見えている腹部は肌ではないのだろうか。そして腰まわりの短いスカート状の飾りはいったい何だというのか。
「これは服ではなく皮膚だ。皮膚の上に布をまとうなど何の意味があるのだ。服などというものが必要なら服を着て生まれてくるだろう」
たしかにクラウの服に見える部分は地肌のような手触りではあった。つまり服に見える黒の部分と肌に見える白い部分は蛇やトカゲの柄のようなものなのだろうか。
「じゃあ、今クラウは裸ってこと?」
「当たり前ではないか」
「だったら、なおさら早くこれを着てよ!」日郎はジャージの上下をクラウに押しつけた。「服を着ないのなら、この家には置いとけないからね」
「まったく、地球人は面倒くさい生き物だな」
クラウは不服げに唇をとがらせた。
ふと壁の時計に目をやると、家を出なければならない時間が迫っていた。慌ただしく学校に行く準備を済ませた日郎は玄関に向かい、スニーカーを履く。
「じゃあ、行ってくるね。部屋から出ないでおとなしくしてるんだよ」
「わかっている。朗報を期待して待っているからな」
朗報というのはもちろんクラウが食べてもいい人間を選ぶことにほかならない。生まれて初めて経験する見目麗しい女の子に見送られての登校だったが、浮かれた気分になれるはずもなかった。残された時間は三日しかないのだ。
学校までの道すがら、会社勤めと思われる男女、ゴミ出しのついでにお喋りに興じる主婦、集団で登校する小学生、犬を散歩させる老人……と、たくさんの人とすれ違うが、そう簡単にどうぞ召し上がれと差し出せるような人など見つからない。
昨夜、クラウにベッドを占拠されてしまい、ラグを敷いたフローリングに寝そべってまんじりともしない夜を過ごしながら考えた結果、日郎には三つの選択肢があった。
一つは、地球人の敵である異星人のクラウを始末することだが、これは選択肢に含むまでもない。同じ地球人を守るために何かをするという考えを日郎は端から持っていないし、たとえ家族や友人を守るためであっても、今さらクラウを殺すことなどできるわけがなかった。
二つ目の選択肢は、誰でも好きな人間を食べてくださいとクラウを野に放ち、我関せずを決め込むこと。だがこれはあまりに無責任に過ぎるだろう。日郎にはクラウを助けたことによって生じた責任がある。昨晩、あのまま放置していれば、クラウは死んでいたかもしれないのだ。それはつまり、あれ以上人間がクラウに食べられることはなかったということだ。失われずに済んだはずの命が日郎のせいで奪われることになる。その責任から逃れることはできない。
残された選択肢は、日郎の責任において、クラウが食べてもいい人間を選ぶ以外になかった。
そうなると、何を基準に選ぶのかが問題だった。日郎とは関係性の薄い赤の他人だとしても、その人にも人生があり、家族や友人がいるのだ。
日郎にも当然誰かを犠牲にする罪悪感はある。それでも誰かを選ばなくてはならないのであれば、それは悪人をおいて他にいなかった。
ニュースを見れば、世の中は悪人であふれ返っているように思える。そんな悪人であれば、罪悪感も少しは軽減するだろう。それに結果として悪人たちが減れば、世の中はもっと平和で安全になるに違いない。世の中のため、というのは自分の行為を正当化するためのただの言い訳かもしれないが、誰かが犠牲にならなくてはならないのなら、善良な人ではなく悪人以外にない。
これが一晩考えた末に導き出した結論だった。
この答えは間違っているのだろうか。善人であろうが悪人であろうが、命の尊さに変わりはないという人もいるだろう。
しかし、そもそも人間なんて矛盾だらけの生き物なのだ。命というものに対してもそうだ。奪ってもいい命といけない命に一貫性のかけらもない。人間を殺すことは罪なのに、罪を犯した人間を死刑で殺すこともある。多くの人を殺せば殺人鬼だが、戦争で多くの敵兵を殺せば英雄になる。人を平然と殺める独裁者は憎むくせに、独裁的な戦国武将には憧れを抱いたりする。牛や豚や鳥は殺して食べるのに、犬や猫で同じことをすれば非難の目を向けられる。牛肉のステーキを頬張りながら捕鯨に憤り、鯨を守るためなら人に危害を加えることを厭わない者もいる。虫でもそうだ。蚊やゴキブリは殺虫剤で平気で殺すのに、カブトムシやクワガタを殺すことには抵抗を覚える。人間なんてそんなもんだ。
そんなことを考えて日郎は自分を納得させた。
あとは悪人を探すだけ──
とは言うものの、宇宙人に食べられて死ぬに値するほどの悪人が都合よく見つかるほど、日郎が住むこの町は荒んでなどいなかった。
学校ならなおさらだ。休み時間ごとに学校中を歩きまわってみたが、校内はいたって平穏そのものだった。イジメで同級生を自殺に追い込むような生徒はいないし、生徒に体罰という名の暴行を加えたり、猥褻な行為をするような教師もいない。
授業内容はまったく耳に入らず、あっという間に時間は過ぎていき放課後になった。
いつも通りU研の部室に行ってはみたものの、何のやる気も起きない。
何かやるといっても、部長席でパソコンのキーボードを叩いている爽村のようにUMAの正体や生態に関する考察をレポートにまとめるか、長机を挟んで日郎の真向かいの席に座っている静玖のようにUMA関連の本(もしくはUMAとは無関係の漫画や雑誌)を読むか、隣の席でスマホをいじっている月美のようにUMAの情報収集(もしくはUMAとは無関係の動画視聴やゲーム)をするくらいなのだから、部室で無為な時間を費やすくらいなら町に出て悪人を探したほうがいいかもしれない。町を歩いていれば、たまたま殺人現場に遭遇するなんてことがないとも限らないではないか。少なくとも宇宙人に遭遇するよりかは現実的だろう。
そして運良く殺人犯を見つけたら──見つけたらどうすればいいのだろう。その場で犯人を取り押さえて家に連れ帰る? それともこっそりとあとをつけて隠れ家を見つける? それはあまりにも非現実的ではないだろうか。
「どうしたんだい? さっきからずっとミレニアム懸賞問題に挑む数学者みたいな難しい顔をして」
爽村に話しかけられて初めて日郎は自分が随分と深刻な顔をしていたことに気づいた。
「え……いや、別に……」
「いつもはのほほんとしている日郎くんには珍しく何か悩み事でもあるのかい? 今日の晩ごはんは何にしようかと思い悩んでる顔には見えないし、贔屓のプロ野球チームが連敗から抜け出せないのを憂えているようにも見えない」
「そんなことで悩んでませんよ」
まさか居候中の宇宙人の食事のことで悩んでいるなど言えるわけもなかった。
「ということは何かに悩んではいるんだね。さては……女性絡みの悩みかな?」
「え、どうしてわかるんですか?」
爽村は意外と勘が鋭い。
そこでふと、クラウは女なのだろうか、という疑問が頭に浮かぶ。見た目は女の子にしか見えないが、果たして宇宙人にも性別という概念があるのだろうか。
「紗塔先輩、彼女いるんですか?」
静玖が興味津々に本から顔を上げる。
「いたっておかしくないわよ」スマホをいじりながら月美が答える。「人畜無害で基本的にボーッとしてて覇気がないからぱっと見の印象はよくないけど、よく見ると可愛い顔してるから、紗塔くん意外とモテるのよ」
それは初耳だ。日郎にはモテている自覚などまるでなかった。
「部長も見た目だけは非の打ち所がないから、うちのクラスの女子から羨ましがられるのよ。こないだもU研に入部したいって子がいたけど、転部してまで入るような部じゃないって断っておいたわ」
「それは聞き捨てならないね。部長である僕を差し置いて勝手なことをされては困るよ」
爽村の顔は笑顔で口調こそ穏やかだが、全身から不満のオーラを発していた。
「これ以上、憐れな犠牲者を増やさないようにしたまでです」
「犠牲者とは人聞きの悪い」
「だってそうじゃないですか。騙されて入部させられた囚われの身の犠牲者。ねぇ、々崎さん」
月美が静玖に同意を求める。
「ま、まぁ……違うとは言えませんけど」
「なんてことだ。僕は悲しいよ。UMAを愛する同志として、そんなふうに思われていたなんて」
爽村は大げさに頭を抱える。
「別に愛してはいませんから」と月美はにべもない。
「あ……でも私は少しUMAに興味が出てきましたよ」と静玖が遠慮がちに言う。
「おぉ! それは素晴らしい! そうなんだよ! UMAというのは知れば知るほど魅了され、心を奪われていく愛すべき存在なんだ!」
「だめよ、々崎さん。早くもストックホルム症候群的症状が出てるわ」
「はじめのきっかけなど、さして重要ではないのだよ。幼い頃にピアノを強制的に習わされた子供がのちに世界的なピアニストとして成功を収めた例は枚挙にいとまがない。その人たちは犠牲者なのかい?」
話にならないと首を振った月美が、
「紗塔くんはわかってくれるわよね。これ以上、犠牲者を増やしてはいけないって」
急に話を振られた日郎は言葉に詰まる。
「日郎くんはわかってくれるだろ。断じて犠牲者ではないと」
爽村と月美のやり取りを途中からは心ここにあらずで聞いていた日郎は返答を迫られて口を開いた。
「もちろん、部員のみんなは犠牲者にさせません」
日郎の噛み合わない答えに一同きょとんとする。
誰をクラウの犠牲者にするのか──
結論が出ないまま、こうして時間だけが刻々と過ぎていった。