6
ベッドに横たわり、まぶたを閉じている姿は中学生くらいの可愛い女の子が眠っているようにしか見えなかった。
男を丸呑みするおぞましさは微塵も感じられない。
少女が苦しそうに顔をしかめ、小さな呻き声をもらした。
少女が来ている服のファスナーかボタンを緩めれば呼吸が楽になるだろうと探したが見当たらない。服はまるで地肌のようなすべすべと滑らかな手触りで、超極薄の生地なのか、肌にぴたりと張りついたように密着していた。
それにしても──と思う。
今、改めて思い返してみても夢か幻にしか思えなかった。
あれはつまり、男を食べたということなのだろうか。そのあとに男の姿に変貌したのはどういうことなのだろう。
連れ帰ってきた判断は間違っていたのではと不安になる。
自分でも、なぜ連れて帰ってきたのか明確な理由はわからなかった。普通ならあり得ないだろう。日郎の心を駆り立てたのが、未知なるものへの好奇心であることは間違いない。それが日郎という人間を形作る重要な要素ではある。しかし、だからといって、たったそれだけの理由で我が身に危険が及びかねない得体のしれない少女を家に連れ帰ったりなどしない。
日郎がこのような行動をとったのは、少女が自分にとって害をなす危険な存在ではないという確信めいた直感、そして心にふつふつと湧き上がった「助けたい」という感情に突き動かされたとしか言いようがなかった。
少女がむにゃむにゃと口を動かす。
日郎がこれまで一度も耳にしたことのない言語の寝言を発すると、少女は唐突に目を見開いた。
そして跳ねるように上体を起こす。
状況が飲み込めない様子で、寝起きの不機嫌さを思わせる顔をしかめている。
部屋をキョロキョロと見まわす少女と目が合った。
「よかった。意識が戻って」
日郎はひとまず胸をなでおろす。
「ここは?」
少女が無感情な声で一言そう訊ねた。
「僕の家だよ」
「おまえは誰だ?」
「僕は紗塔日郎。怪しい者じゃないよ」
少女は明らかに怪しんだ目で日郎を見ている。
「なぜワシがおまえの家にいるのだ?」
ワシ? 一人称がワシ? 気にはなったが、今ここで他のことを差し置いてまで問いただすほどのことでもないと聞き流すことにした。
「森林公園で意識を失った君をそのままにはしておけなかったから連れてきたんだよ」
少女は記憶を探るように視線を上に向けて宙の一点を見つめていたかと思うと、何かに納得したように一つ頷いた。
「そうか、思い出した。体に変調をきたして朦朧としたところまでは覚えているが、気を失ってしまったのか……」
少女は日郎を見据える。
「どうやら、おまえに命を救われたようだな」
「そんな。僕はただ君を部屋まで運んで、ベッドに寝かせただけだよ」
「意識不明のまま放置されていれば、体温低下をまねいて命を失っていたかもしれん。礼を言うぞ、地球人。いや、日郎と言ったか」
「地球人……って、まるで君が宇宙人みたいな言い方だね」
「いかにも、地球人から見ればワシは宇宙人に違いあるまい」
少女は冗談とは思えない真顔で言った。
なるほど、森林公園で目撃した光景も宇宙人であるということならば説明がつく。古今東西、映画や漫画や小説の中で人を食べたり、人の姿になったりする宇宙人の事例には事欠かないのだ。宇宙人が存在するという一点のみ受け入れることさえできれば、目の前にいる少女のような宇宙人がいることは別に驚くようなことではない。
そして日郎は物心がついたときからUFOや宇宙人の存在を信じて疑わずに育ってきたのである。
ただ、日郎には気になる点が一つあった。
「宇宙人なのに日本語で話せるんだね」
「地球で使われているような原始的な言語を会得することくらい、ワシには造作もないことだ」
宇宙人がそう言うのなら、そうなのだろう。
「自己紹介が遅れたな。ワシの名前はクラウ。訳あってケラン星から地球にやってきた」
「ケラン星……きっと地球から遠く離れたところにあるんだろうね」
「地を這う車が走っているような地球の科学技術力では到底たどり着くことなどできない遥か彼方にある惑星とだけ言っておこう」
「……訳あってって、もしかして地球を侵略しに来たとか?」
クラウと名乗った少女はきょとんとした顔で日郎をしばし見つめたあと、少し小馬鹿にしたように、じとっと目を細めて言った。
「こんな辺境にある惑星を侵略して何の利があるというのだ。さっきケラン星から来たと言ったが、ワシらは母星を持たず食料を求めて全宇宙をさすらう流浪の種族だ。ケラン星の食料をあらかた食い尽くしてしまったので、新たに住み着く惑星を探していたのだが、搭乗機の故障で予定していた航路を大きく外れ、偶発的に地球へ来てしまったというだけだ」
「それって……君以外にも同じ種族の仲間が地球に来てるってこと?」
「いや、地球に来たのはワシ一人だ。食料を充分確保できる惑星を見つければ仲間を呼び寄せる手筈になっていたのだが、搭乗機が制御不能になったあげく、着陸に失敗して機体が大破してしまった。通信を試みてはみたが、おそらく仲間には届いておらんだろう」
それを聞いて日郎は安堵した。
「よかった。人を食べる宇宙人にそんなたくさん来られても困るよ」
ふと視線が重なったクラウの顔つきは真剣で、じっと日郎の目を見据えていた。
「な、何?」
「日郎が見たのは気を失ったワシの姿ではなく、人を喰っているところを見たのだな?」
「そ、そうだけど……」
「なら、なぜ助けた。ワシがおまえを喰うとは考えなかったのか?」
「それは……もちろん考えたよ。冷静になってみるとバカなことをしたんじゃないかとも思った。でも君が人を食べるところを見ても不思議と恐さは感じなかった。むしろその光景に引き寄せられて目を離すことができなかったんだ。うまく説明できないけど、直感で君が危険な存在ではないことがわかったんだ。だから君が倒れて動かなくなったとき、助けることに迷いはなかった。……僕の判断は間違ってたのかな?」
クラウが眉間にしわを寄せて日郎をじっと見る。
日郎は息を飲んだ。緊張が走る。
「……我々は義理を重んじる種族だ。命の恩人を喰うなどという不義理なことはしない」
それを聞いて日郎は大きく息を吐き出した。
「……それにしても、隠密に行うべき捕食を見られてしまうとはな。ましてや被食者である地球人の世話になるとは……。あまりの空腹に油断していたとはいえ、不覚であった」
クラウは苦々しげな顔をした。
「あの……ひとつ訊いてもいいかな?」
日郎には確かめておかなければならない疑問がもう一つあった。
「なんだ?」
「僕の見間違いじゃなければ、君が人を食べたあとに、その人の姿に変わったように見えたんだけど……」
「あー、そのことか」クラウは事も無げに言った。「我々の種族が喰った生命体の姿に変化するのは、体に栄養が満ち足りた証だ。そして摂取した栄養の量に応じて、変化している時間が決まる。地球人は栄養量としてはまずまずだが、どうやら我々にとっては毒素となる成分が含まれているようだ。それで意識を失ってしまった。しかし生きていくためには我慢するほかあるまい。喰ってるうちに耐性がつくということもあり得るからな」
「ち、ちょっと待ってよ。これからも人を……地球人を食べるつもりなの?」
「当たり前ではないか。そのためにケラン星を出てきたのだからな。ワシはまだ死ぬ気はない。ならば栄養が必要だ。安心しろ、日郎は喰わん」
「栄養なら別に人を食べなくても、店で売ってる肉を食べればいいんじゃないかな?」
「それは死肉だろう。死骸の肉を喰っても栄養にはならん。生物を生きたまま丸呑みしなくてはな。そもそも死んだものを喰う地球人がおかしいのだ」
日郎はサイドボードの上に置かれた飼育ケージを持ってくる。ケージの中にはクッカの餌用に飼育していた五匹のハツカネズミがいた。
「このネズミは? 生きてるよ」
クラウはケージの中で動きまわるハツカネズミを見て、首を振った。
「通常、生物のサイズが小さければ、それだけ栄養量も少なくなる。体の変化が伴うだけの栄養を補給するには最低でもワシの体の三分の一程度の質量の生物が必要だ。そのネズミという生物なら、そうだな……少なく見積もっても一度に七百匹は喰わねばならんだろう」
「七百匹も!?」
「我々は小分けには栄養補給ができん。体が変化した満腹状態から一旦栄養を消費して、腹がグゥと鳴る空腹状態にならなければ、次の栄養を受けつけないのだ。地球の生物はおしなべて栄養量が少ないようだから、そのネズミだと満腹状態から空腹状態に戻るまでの時間は長くてせいぜい一日といったところ。つまり毎日七百匹のネズミを喰わねばならん」
「……その言い方だと、地球で人以外の生物も食べたってこと?」
「人を喰うより前に牧場で牛や馬と呼ばれている生物を喰ったが、どちらもほんのわずかな時間しか変化せず栄養量は少なかった。そのぶん我々にとって毒素となる成分も少なく、軽度のめまいと吐き気、頭痛程度で済みはしたが、なにぶん効率が悪い。その点、地球人なら一人食えば三日分の栄養量になるようだ。知的生命体は捕獲するのは難しいが栄養豊富だからな。それに美味い」
と、クラウは口もとを緩める。
どうすればいいのだろう? 日郎にはわからなかった。なんとかしてクラウに人を食べさせずに済む方法はないだろうか。
毎日七百匹のハツカネズミを用意するなんて無理だ。ネズミよりも大きい生物ならどうだろう。例えば犬や猫……そんなの無理に決まっている。
「どうした? 険しい顔をして。一人の地球人として、同じ地球人が異星人に喰われることへの憤りを感じているのか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
憤りと聞いて、日郎は自分がまったくそんな感情を抱いていないことに気づいた。普通は「人類の敵だ」と怒り狂うものなのだろうか。地球人、と言われてもピンとこない。日郎はこれまでに「自分は地球人だ」という意識など持ったことがなかった。他人に対して、同じ人類だから、地球人だからという理由で仲間意識を持ったこともない。
クラウに人を食べさせたくないのはそんなことが理由ではない。では、なぜクラウに人を食べさせたくないと思ったのだろう。そもそも、クラウが人を食べる行為は悪ではないのだ。
例えば、野生の肉食動物が草食動物を狩って食べるのは自然の摂理だ。それを可哀想という理由で草食動物を助けるのは人間の身勝手な自己満足に過ぎない。
同様に、クラウが人を食べるのも生きるためであって自然の摂理なのだ。それを妨げようとするのはチーターに追われているガゼルを助けるのと同じことだ。
しかし人には自然の摂理だけでは割り切れないこともある。自分さえ食べられなければそれでいいというわけではない。
そのとき日郎の頭に浮かんだのは家族やU研部員たちの姿だった。
「地球人として……なんて考えはないけど、人として自分以外にも家族や友人といった守りたい命はあるんだ。その命が危険にさらされるのを黙って見過ごすわけにはいかない」
「……なるほど。つまり仲間の命を守りたいということだな。その気持ちはワシにもわかる」
腕組みをして、しばし考える素振りをしたクラウが言った。
「では、こうしよう。日郎には命を救ってもらった恩義がある。とはいえ、ワシも栄養を摂らねば生きていけん。そこでだ。ワシが喰ってもよい人間を日郎が選んでくれ。その人間しかワシは喰わんことにしよう」
「そ、そんな!? ちょっと待ってよ! 食べてもいい人を選ぶなんて、僕にはそんなことできないよ」
「いくら命の恩人といえども、ワシの命もかかっているのだ。これが最大限の譲歩だ。人を喰ったばかりだから期限はまだ三日ある。それを過ぎて空腹になれば、こちらで獲物を選ばせてもらう」
「そんな……」
「あと、ここは塒として悪くない。この寝床も気に入った。今日からここで厄介になることにしよう。よろしく頼んだぞ」
クラウは満足げな顔で再びベッドに横になった。
やはり、クラウを助けた自分は間違っていたのだろうか。
大変な重責を負うことになってしまった日郎は途方に暮れるしかなかった。