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部活を終えた日郎が家に帰ってきたのは午後六時過ぎだった。
高校から歩いて七分。路地が入り組んだ住宅地にあるベージュとブラウンの落ち着いた外観の二階建てアパート。その二階の角部屋にあたる205号室に日郎は一人で住んでいた。
日郎が八歳のときに親が離婚し、以来、中学校を卒業するまではずっと父親と二人で暮らしてきたのだが、義務教育を終え、高校を進学したのを機に一人暮らしをはじめたのだ。
父親の仕事の関係で幼少の頃から全国各地を転々とし、転校続きだった日郎は一年として同じ土地に住み着いたことがなかった。
それはそれで日郎は楽しかったのだが、父親には自分の都合で振り回してきたという負い目があったのだろう。日郎が一人暮らししたい旨を伝えると一切反対することはなく、部屋探しの手伝いまでしてくれて、毎月きちんと家賃と生活費も振り込んでくれている。
間取りは1Kで、玄関を入るとキッチンがあり、その奥に八畳の部屋。小さいながらもベランダが付いていて、一人で暮らすには十分な広さだった。
部屋着に着替えると、日郎はサイドボードの上に置かれた透明の飼育ケージを覗き込んだ。ケージの中では六匹のハツカネズミがちょろちょろと動きまわっていた。餌入れのマウス用ペレットと給水ボトルの水を補充する。
しばらくハツカネズミが動きまわる様子を観察していた日郎はケージの蓋を開けて、目に留まった一匹をつかみ出した。そしてフローリングの床の上に放してやる。
ハツカネズミは思いがけず与えられた自由に戸惑っているのか、その場でじっと固まり、鼻だけをひくひくと動かせていた。
と、そのとき、ベッドの下に空いた十五センチほどの隙間から奇妙な物体が姿を見せた。それはモップの先のような毛むくじゃらの生物で、のそのそとした緩慢な動きで這い出てくる。
体長は三十センチほど。こげ茶色のもじゃもじゃと伸びた太くて長い体毛に全身が覆われていて、地肌がまったく見えず、毛の中がどのような姿なのかは判然としない。
その生物は音をたてずにゆっくりとハツカネズミに近づいていった。ハツカネズミはそれに気づくことなく、しきりに鼻をひくつかせている。
謎の生物がハツカネズミの背後二十センチほどの距離にまで近づいたときだった。
体毛の中から乳白色のぬめぬめとした二本の触手が伸び出てきたかと思うと、それまでのゆっくりとした動作が嘘のような目にも留まらぬ速さでハツカネズミの胴体に巻きつき、一瞬にして毛の中へと引きずり込んだのである。
バリッ……バリッ……ボリッ……ボリッ……グチャ……グチュ……グチョ
骨と肉を噛み砕く咀嚼音が部屋に響く。
日郎は謎の生物が捕食する光景を恍惚とした顔で見つめていた。
やがて咀嚼音がやむと、謎の生物はクーカークーカーと小さな鳴き声を発しながら甘えるように毛むくじゃらの体を日郎の足にこすりつけてきた。
このアパートは小動物に限りペットの飼育を許可されているが、まさかこんな生物を飼うことは想定されていないに違いない。日郎はこの生物が小動物か否かをアパート管理人に確かめることもできず、サイズ的にも小動物扱いで問題ないだろうと勝手に判断していた。
日郎はしゃがんで、柔らかな毛を優しく撫でてやる。
「よしよしよし。美味かったかい、クッカ。もっと食べるか?」
“クッカ”は日郎がこの生物に名付けた名前だ。鳴き声がクーカーと聞こえるからクッカ。
日郎は飼育ケージからハツカネズミをもう一匹つかみ取るとクッカの近くに放してやった。
しかしクッカは先ほどとはうってかわってハツカネズミに近づこうとはせず、体を横に向けてしまう。毛だらけでどこに顔があるのかわからないがそっぽを向いたのだろう。
「なんだ、もういいの? 最近、食欲がないね」
先週あたりまでは一日に三匹はハツカネズミを食べていたのだ。それに日郎がいるときは構ってもらおうと部屋中を元気に這いずりまわっていたのだが、ここ数日はベッドの下に潜り込んでいることが多かった。
だからといって動物病院で診てもらうわけにもいかない。こんな珍しい生物を連れていけば大騒ぎになってしまうのは目に見えている。
日郎がクッカを飼い始めたのは一年前。この部屋に引っ越してきて四日目のよく晴れた暖かい午後のことだった。
高校の入学式を数日後に控え、日郎はこれから新生活を始める土地のことを知っておこうと散策に出かけることにした。どの路地がどこへ通じているのか、アパートから一番近くのコンビニやスーパーまでの最短ルートは、なんてことを頭の地図に刻みながら、町をぶらぶらと歩いた。
はじめはそう遠くまで足を運ぶつもりはなかったのだが、天気のよさと新生活への期待感に足取りも軽くなり、気づけば町はずれにある森林公園の入口にまで足を延ばしていた。
森林公園はその名の通り、森に囲まれた自然豊かな広い公園で、入口に立てられた案内図よればビジターセンターもあり、バーベキュー施設や野外ステージも整備されているようだった。
ベンチを探してそこでひと休みしてから帰ろうと思い立ち、公園に足を踏み入れ、緑の木々の間を縫うように延びる遊歩道を進んでいった。
平日の午後ということもあり、人気も少なく、辺りはとても静かだった。道の左右には鬱蒼とした雑木林が広がっていて、耳をすませるとどこかから小さく鳥のさえずりが聞こえてくる。優しく肌を撫でて通り過ぎるそよ風が枝葉を揺らし、木漏れ日が道にゆらゆらとした影を落とす。昼寝でもしたくなるような穏やかさだった。
だから遊歩道脇の茂みが風もなくガサガサと揺れて、茶色い何かが姿を見せたときには、はじめはてっきり野良猫が陽気に誘われて出てきたのだと思った。
しかし道をふさぐようにして目の前に現れたのは、これまでに日郎が見たこともない毛むくじゃらの生物だった。しかもグロテスクな二本の触手を毛の中からうねうねと伸ばして、こちらに近づいてこようとしている。
普通であれば、不気味な見た目の未知なる生物に遭遇すれば逃げ出すところだろうが日郎は違った。なぜなら幼い頃から日郎は変わった生物に慣れ親しんでいたからだ。
日郎が奇妙な生物に抵抗なく接することができるのは父親の影響が大きい。なにしろ日郎の父親は未確認生物研究の第一人者であり、ノンフィクションライターとしても知られる衿亜豪一その人なのである。
もちろん衿亜豪一は筆名で、本名は紗塔太郎という。元々は未確認飛行物体の研究をしていたこともあって、宇宙人やUFOに関する陰謀論の舞台として知られるアメリカの軍事基地エリア51をもじって名付けたらしい。
ちなみに衿亜豪一の大ファンであるU研部長の爽村は、日郎の父親が衿亜豪一であることを知らずにいる。別に秘密にしているわけではなく、ただ単に言いそびれてしまっただけだ。
日郎はクッカに出会うまではその目で実際に未知の生物を見たことはなかった。見たことがあるのは父親が収集している胡散臭さ全開のUMAの標本くらいのものだ。しかし、だからこそいつの日か未知の生物に出会えることを望んでいたし、いざ未知の生物に出会ったときの心構えもできていた。
日郎に近づいてきた毛むくじゃらの生物は伸ばした乳白色の触手でスニーカーをちょんちょんと突っついてくる。日郎がしゃがむと驚いたように触手を引っ込めて後ずさったが、手を差し伸べてやると再び近づいてきて体をすり寄せてきた。
誰かに飼われていたのか人慣れしているようで、柔らかな毛を撫でても嫌がることはなかった。飼い主のもとから逃げ出したのか、それとも捨てられでもしたのだろうか。
クーカークーカーと縋るように鳴く声はとても弱々しい。もしかすると腹をすかせているのかもしれない。そう考えた日郎は生物にその場でクッカと名付け、アパートの部屋に連れ帰った。
はじめは家にあった白ご飯やパン、野菜、牛乳などを与えたが食べようとはせず、それならばとペットショップで買ってきたドッグフードやキャットフードを与えてみたがやはりまったく見向きもしなかった。
肉食なのかもしれないと見当をつけ、スーパーで鶏肉や牛肉、生魚を買ってきても食べてくれず衰弱する一方。
困り果てた日郎は、生きた餌しか食べない動物がいるという話をふと思い出し、一縷の望みをかけて餌用の生きたハツカネズミをペットショップで購入して与えてみた。すると果たせるかな、クッカは触手を伸ばしてようやく食べてくれたのである。
みるみるうちに元気になったクッカは食欲も旺盛で、数日後には部屋中を這いずりまわるようになった。
今はUMAの調査で海外を飛びまわっている父親がクッカのことを知れば、大慌てで帰国して狂喜乱舞するだろうが教えるつもりはなかった。そんなことをすれば瞬く間にクッカの存在が世間に知れ渡ってしまい、研究材料にされるか見世物にされるかして、一緒に暮らすことができなくなってしまう。
父親の名声は高まり、本は飛ぶように売れるだろうが、そのためにクッカを犠牲にするつもりはなかった。
こうしてクッカは一人暮らしの寂しさを癒やしてくれる一番の親友になった。
クッカの元気がないのは心配ではあったが日郎にはどうすることもできなかった。ベッドの下に潜り込んだまま出てこなくなったクッカを見て、もしかしたらこのまま死んでしまうのでは──そんな考えが頭をよぎり、縁起でもないとすぐに振り払う。取り越し苦労であってほしいと願った。すぐにまた元気に這いずりまわる姿を見せてくれると信じた。
しかし──
夜になり、風呂に入った日郎が部屋に戻ると、フローリングの床の上でクッカが萎びたように平べったくなった姿で動かなくなっていた。
「クッカ……おい、どうした!? クッカ!」
抱きかかえて何度も呼びかけたが、クッカは力なくぐったりしたまま反応することはなかった。
クッカは息絶えていたのだ。
「クッカ……」
それ以上言葉が続かなかった。
日郎の口から嗚咽がもれる。とめどなく流れる涙が頬を濡らし、雫となってこぼれ落ちた。
クッカの体を強く抱きしめる。
それはあまりに突然すぎる親友との別れだった。