10
昼休みになると、日郎はクラウの様子をうかがいにU研の部室へ向かった。
おとなしく、じっとしてくれていればいいのだけれど。
そんな願いも虚しく、部室にクラウの姿はなかった。家に帰ったのならいいが、どうも胸騒ぎがする。
日郎は校内を捜し歩いた。
本校舎から四階の渡り廊下に差しかかったとき、ふと窓から特別教室棟の屋上を見上げると、フェンス越しにクラウの特徴的な髪の毛が見えた。
「なんであんな所に……」
そう思った日郎の目が、クラウと一緒にいるもう一人の人物の姿をとらえる。
「あれは……」
ちらりと見えた横顔は間違いなく因幡詩苑だった。
どうして二人が一緒にいるのだろう……? まさか……。
嫌な予感がして日郎は転ぶように駆け出した。特別教室棟の階段を全力で駆け上がる。
屋上に通じる扉を勢いよく開け放った日郎は、目に映った悪夢のような光景に愕然とし、血の気が引いた。
クラウが口いっぱいに因幡詩苑の上半身をくわえ込んでいたのである。
「や、やめろぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
日郎は駆け出す。
しかし制止の声も聞かず、クラウは因幡詩苑の全身をひと息に飲み込んでしまった。
日郎は腹を膨らませたクラウの両肩をつかんで揺さぶった。
「吐き出せ! 早く吐き出すんだ! 今ならまだ間に合う!」
日郎に揺さぶられながら、クラウは腹が満たされてご満悦の表情を浮かべている。
「なんてことをしてくれたんだ! 誰が彼女を食べていいと──」
しかし、それ以上言葉が続かなかった。
クラウを責めるのは間違っている。クラウは善か悪かで判断できないのであれば、好きか嫌いかで判断すればいいと言った。そして、そのときに真っ先に日郎の頭に浮かんだのは因幡詩苑だった。日郎は因幡詩苑に対して苦手意識を持っていた。好きか嫌いかで言えば間違いなく嫌いだ。しかし、嫌いだからという理由だけで因幡詩苑を選ぶことはどうしてもできなかった。
結局、クラウが食べてもいい人間を選ぶ決断を最後まで下せずに逃げていたのは日郎なのだ。そんな日郎がクラウを責められるはずがなかった。
「気に病むことはない。こいつは悪人だ」
「え……?」
日郎にはその意味が理解できなかった。
早くも消化がはじまり、クラウの異様に膨らんだ腹がみるみる萎んでいく。
このあと起こることはわかっていた。
夜の森林公園で飲み込んだ男の姿に変化したように、因幡詩苑の姿になるのだろう。
果たせるかな、体に栄養が満ち足りたのだろう、クラウの体に変化があらわれだした。
頭頂部から伸びた髪の束が短くなり、顔の輪郭が変わり、手足が伸びる。
見る間にクラウとはまったく別の姿に変貌を遂げた。
しかし、その姿は因幡詩苑ではなかった。
彼女とはまるで似ても似つかない姿だった。
たしかに形状は人の形をしている。胴体があり、頭部があり、二本の腕と二本の足があるのだが、全身がどろどろのタールか泥にでも覆われたようにどす黒く、顔には目も鼻も口もない。
体の表面は汚泥が湧き出しているかのようにぼこぼこと泡立ち、波紋が広がるようにうねうねと波打っていた。
泥人間とでも称したくなる姿になったクラウは猫背気味に背中を丸め、棒のような細長い腕を力無くだらりと下げた姿勢でぼうっと立っている。
いったいこれはどういうことなのだろう。クラウが飲み込んだのはたしかに因幡詩苑のはずだ。それなのに、この怖気を震うグロテスクな姿は何だ?
どれほどの時間が経ったのか、数秒とも数分とも思える時間が過ぎ、やがてクラウは元の可憐な少女の姿に戻った。
森林公園で人間を食べたときのように、体に変調をきたした様子もない。
「ク、クラウ……今のは、いったい何!? 何が起こったの!?」
「何を言っている。前に説明したではないか。ワシら種族は栄養が満ち足りた証に姿が一時的に変わるのだ。もう忘れたのか」
「違うよ! そうじゃなくて、食べた人間と全然違う姿になったことを言ってるんだ! なんであんな泥まみれの不気味な姿に……」
クラウは首をかしげて少し考える仕草をする。
「……つまりあれは日郎が見たことのない生物ということか?」
「あんな生物見たことないよ。UMAでも聞いたことがない」
「ふむ。地球の生物でないとすれば、宇宙から来た生物──宇宙人なのだろう。おそらくあの女は地球に飛来した宇宙人に寄生でもされて体を乗っ取られていたのだ」
「え……」
さらりと言ったクラウの言葉に耳を疑った。そんなSF映画みたいな話があるわけ……。
にわかには信じ難いが、日郎はすぐに考えを改める。人を丸呑みにしてその姿になる宇宙人がいるのだ。寄生して体を乗っ取る宇宙人が人知れず地球に来ていたとしてもおかしくはない。
「全宇宙を見渡せば、他の知的生命体を宿主にして生きる寄生型種族など大して珍しくはない」
「そ、そうなんだ……」
それにしても、こんな身近なところにそんな宇宙人がいたことに驚きが隠せなかった。
「で、でも……因幡詩苑の体を乗っ取っていた宇宙人の目的は何なんだろう? 何をしに地球に来たのかな?」
「さあな。ワシのように搭乗機の故障といった偶発的な事情でやむを得ず来たのでなければ、寄生型種族が他の星に移り住む目的は大概の場合……侵略だな」
「侵略!!」
「こんな辺境にある惑星を侵略する理由はよくわからんが、仮に侵略が目的なのであれば、地球人に寄生している宇宙人が一人だけということはあり得ない」
「そんな……他にも地球人のふりをしてる宇宙人がいるってこと!?」
日郎は慄然とした。
「何をこの世の終わりのような顔をしているのだ。日郎にとっては喜ばしいことではないか」
「……?」
「これで日郎は、ワシが喰う人間を誰にするかでもう悩まずともよいのだ。宇宙人に体を乗っ取られた地球人は、もはや人間ではないからな」
「喜んでる場合じゃないよ。宇宙人に地球が侵略されてるんだよ!」
「侵略といっても今の今まで気づかなかった程度のことだ。日郎は責任から解放され、ワシは食い物に困ることがなくなる。しかも侵略者は地球人と違って毒素となる成分を含んでいないうえに栄養量も多い逸品ときてる。さらに結果として、地球を侵略する宇宙人を駆除できるのだ。よいことずくめではないか」
なるほど。そう言われてみれば、そんな気もしてくる。
「だが一つ問題なのは、誰が宇宙人に乗っ取られているのか、ワシが喰ってみなければわからないことだ。まさか悪人が全員乗っ取られているわけではなかろう」
たしかに試しに食べてみなければわからないようでは意味がない。
しかし、その問題を解決する手段が日郎の頭にはすでにあった。
因幡詩苑から感じた近づきたくないという感覚。
そしてクラウから感じた引き寄せられるような感覚。
まったく異なる真逆の感覚でありながら、この二人からはどこか相通ずるものをずっと感じ取っていた。
クラウと出会った日からずっと靄がかかったようにぼんやりとしてつかみきれずにいたその感覚の正体が、因幡詩苑が宇宙人に乗っ取られていたとわかった今、ようやくはっきりとつかむことができた。
日郎にはある特殊な能力が備わっていたのだ。
それは、地球外生命体を感知する能力。
そして──
その能力が反応を示した人物がこの摩訶辺高校にもう一人いた。