1
グルルルルルル。
少女の腹が激しく鳴った。
その音を聞いた男はニヤリと下品な笑みを浮かべる。
「お腹がすいてるのかい?」
少女は恥ずかしがる素ぶりを微塵も見せずに、黙ったまま男の手を引いて遊歩道を進んでいった。
とっくに日が沈んだ森林公園は街灯もまばらで暗かった。道の両側には鬱蒼とした広葉樹の雑木林が広がり、光が届かない木立の奥は濃い闇に包まれている。夜空に浮かんだ月の明かりが、頭上に張り出した枝葉にさえぎられて弱々しく足元を照らしていた。
周囲に人影は見当たらず、ひっそりと静まり返っているなかで聞こえるのは砂をかむ二人の足音だけだった。
それにしても奇妙な組み合わせの二人組である。
見る限りでは親子ほど年が離れている。男は三十代後半から四十代前半くらいで、少女は十代半ばといったところだろうか。
男がくたびれたスーツ姿なのに対して、少女の格好は奇態を極めていた。
細い首から華奢な肩、申し訳程度に膨らみを帯びた胸、くびれた腰、そして小ぶりな丸い尻に至るまでのボディラインが露わになった服に、腕は肘まであるロンググローブ、足は膝上まであるニーハイソックスというボンテージのような黒一色の衣装。
腰まわりには隠すという意味においてはいささかの役割りも果たせていない腰巻きのような短いスカート状の飾り。腹部は◇形に布地が切り抜かれていて、真っ白な肌と形の良いヘソが覗いていた。
髪型も風変わりで、頭頂部でひとつ結びにした漆黒の髪の束が背中のラインに沿ってS字を描くように踵まで伸び、地面すれすれで上向きに跳ね上がっている。ひたいの中ほどで綺麗に一直線に切り揃えられた前髪が少女の幼い顔立ちを際立たせていた。
「いったいどこまで行くんだい? 他に人もいないみたいだし、この辺でいいんじゃないかな」
男の問いかけに少女は反応を示すことなく歩を進めていく。
「……それにしても、変わった服だよね。アニメか何かのコスプレ? ハロウィンにしては季節はずれな気もするけど」
少女は何も答えぬまま、不機嫌そうでもあり眠そうでもある顔をふと横に振り向けた。
遊歩道の右手に森を円形にくり抜いたような小さな空間がある。その出入口脇に立てられた表示板には〈憩いの広場〉と書かれていた。広場というにはやや狭小な広場は生い茂った草木に囲まれ、奥のほうにはベンチと水飲み場がある。
少女はそちらへ足を向けると、広場の中央付近まで来て足を止めた。
人の気配をうかがうようにゆっくりと首を左右に振った少女はくるりと男のほうを向き、至近距離で向かい合う形になった。
少女は値踏みするような視線を男の足先から順に顔へと這わせていく。
月影を吸い込んだように妖しげな光を宿す少女の黒い瞳に射すくめられた男は上体をわずかにのけ反らせた。
「あ……、お金は先に払っといたほうがいいよね……」
少女は口元に薄い笑みを浮かべる。
男は少女のらしからぬ艶めかしさにゴクリと喉を鳴らせた。
呼応するように少女も喉を鳴らせる。
少女は両腕を伸ばし、男の頬を挟むようにして手を添えると、少し踵を浮かせて、顔を男の顔へと近づけていった。
男の視線は潤いを帯びた少女の唇へと吸い寄せられる。
小首をかしげるようにして顔を寄せる少女がかすかに口を開けた。
「いただきます……」
鈴がシャランと鳴るような、か細くも抑揚のない声。
男は惚けた顔でこう思ったことだろう。
それはこっちの台詞だよ、と。
男が少女の唇へと顔を寄せていったそのとき──
突如として、男の眼前に漆黒の闇へとつながる洞窟の入口が現れた。少なくとも男にはそう感じられた。
洞窟にしては岩肌が内臓のように薄紅色で、やけにてらてらと湿り気を帯びている……などと冷静に観察している余裕など男にはなかったに違いない。
それは洞窟などではなく、少女の口の中だった。
少女が大きく口を開けていたのである。それは欠伸をしているといった生半可なものではなく、口角が裂け、顎がはずれ、まるで蛇が獲物を食べるときのような不自然な開き方をしていた。
あんむ、と少女が男の頭に喰らいつく。まさに蛇が卵を丸呑みするかのようだった。少女は男の頭部を丸々すっぽりと口の中に含んでしまったのである。
男は自分の身に何が起きているのかを正しく理解することができなかっただろう。いったい誰が少女に頭部を丸呑みされてしまうことを理解できるだろうか。
必死に手足をばたつかせ、ジタバタともがいていた男はやがて意識を失ったのか、それとも命を失ってしまったのか、手足をだらんと力なく伸ばして動きを止めた。
少女は両手で男の体をつかむと、押し込むようにして、咀嚼もせずに丸ごと飲み込んでいく。
飲み込むにしたがって少女の喉が胸が腹がいびつに形を変えて膨れ上がっていった。
男の膝あたりまでを体の中に収めると、最後は麺をすするかのように足先までをズズズとひと息に吸い込んでしまった。
男の全身を飲み込んで、はち切れんばかりに膨らんだ腹をさする少女は陽だまりの猫のように目を細めて満足げだ。
体内で消化が急速に進んでいるのか、少女の腹が目に見えて元の形へと萎んでいく。
それと同時に、少女の体に奇怪な変化があらわれはじめた。
長く伸びていた髪の束が短くなっていき、たまご型の愛くるしい顔が面長で貧相な目鼻立ちへと変わる。華奢で小柄だった体つきも倍速再生のように背が伸び、直線的で骨ばった体型へと変貌していった。
みるみるうちに可憐な少女の姿が似ても似つかぬ全くの別人へと変わっていく。
少女の姿が完全に消え失せたとき、そこに立っていたのは姿形も年格好も性別すらも違う全裸の男だった。
それは見紛うことなく、今しがた少女に飲み込まれたはずの中年の男だったのである。
男はしばらくの間、夜空に浮かぶ月の柔らかな光を浴びながら恍惚とした顔でその場に立ち尽くしていた。空腹が満たされた至福のひと時を堪能しているのかもしれない。
ところがである。
突然「うっ」と呻きの声をもらした男の顔が苦痛に歪められた。苦しそうに手で腹を押さえて体をくの字に折り曲げる。眉間にしわを寄せ、唇は小刻みに震えていた。歯をガチガチと鳴らし、脂汗を浮かべた顔は血の気を失い青ざめている。
体に変調をきたしているのは明らかだった。
すると男の体にまたしても変化があらわれた。
今度は逆に男の体が急速に縮むようにして元の少女の姿へと変貌を遂げたのである。不思議なことに少女は裸ではなく、黒ずくめのコスプレじみた服を身につけたままだった。
元の少女の姿に戻っても、苦悶の表情は変わらない。涙と洟水にまみれた顔は今にも死んでしまいそうなほどに苦しげだった。
どこかへ行こうとしているのか──おそらくは安全な場所へ避難しようとしているのだろう。息も絶え絶えな様子の少女はガタガタと震える体を自分の両腕で抱きしめるようにして、ふらつく足を踏み出した。
しかし数歩も進まないうちに覚束無い足取りでよろめき、両膝を地面についてしまう。そして、ふっと白目をむいて意識を失うと、そのまま前のめりに地面に突っ伏してしまった。
うつ伏せで倒れ込んだまま、ぴくりとも動かなくなってしまった少女。
月に照らされたその顔は死んだように白く、眠るように穏やかだった。
この奇怪な少女はいったい何者なのだろう。
夜の暗がりに紛れて密やかに繰り広げられた世にもおぞましい出来事がまるでなかったかのように、辺りは静けさを取り戻していた。
時は五時間ほど前に遡る──