帰還
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ヴィクターとアマリリスは、連絡を受けて王宮に来たラッセルに見送られながら、ライズ王国へと向かう馬車に揺られていた。
歓迎の意も込めて、王宮に留まっていくようにとシュヴァール王国の国王から勧められた二人ではあったけれど、すぐに国に帰ることを選んでいた。
アマリリスの隣に並んでいたヴィクターが、気遣わしげに彼女を見つめる。
「ネイト王太子が――もう王太子ではなくなりましたが――まさかあんなことをするような卑劣な男だとは思いませんでした。怖い思いをしましたね」
ヴィクターがそっとアマリリスの腕を取る。彼の回復魔法で、もう腕の痣は跡形もなくなってはいたけれど、彼の脳裏には、恐怖に身を竦ませ、破れた服を必死で引き上げる、泣きそうなアマリリスの姿がはっきりと刻まれていた。
「ヴィクター様。私を助けに来てくださって、ありがとうございました」
「もっと早く、貴女を助け出せたらよかったのに」
微笑んだアマリリスの腕の、ネイトに掴まれた痣ができていた部分に、ヴィクターは優しく口付けた。ぴくりと彼女の肩が跳ねたのに気付いて、彼が尋ねる。
「……私のことが、怖くはないですか?」
ネイトに力づくで組み敷かれ、襲われかけた恐怖は、ヴィクターにも想像して余りあるものだった。アマリリスに、自分を含む男性に対する拒否反応が出てもおかしくはないと思っていたヴィクターだったけれど、頬を色付かせた彼女は、首を横に振ると彼を見上げた。
「いいえ。ネイト様に触れられた時は、恐怖しか感じませんでしたが。ヴィクター様の手は、優しくてほっとします」
ヴィクターの大きな手を両掌で包んだアマリリスが、彼にそのまま身体を凭せかける。ネイトに対して覚えた嫌悪感とは正反対の甘やかな気持ちが、彼女の胸には自然と広がっていた。
「助けを求めてヴィクター様の名前を呼んだら、本当に来てくださって。貴方様の姿を前にした時には、夢を見ているのかと思いました」
アマリリスの言葉に堪え切れなくなったヴィクターが、ぎゅっと彼女の身体を抱き締める。
「もう、貴女を離しませんから」
温かな腕の中から、アマリリスが彼の顔を見上げると、その美しい青緑色の瞳には隠し切れない熱が籠っていた。ヴィクターの顔が近付き、アマリリスの唇に彼の唇がそっと重なる。
長く優しい口付けに、アマリリスは胸の高鳴りを押さえられずにいた。
ヴィクターの唇が離れると、彼女は真っ赤に火照った顔のまま、彼を見つめて微笑んだ。
「大好きです、ヴィクター様」
ふっと幸せそうな笑みを零したヴィクターは、再び彼女を柔らかく抱き締めた。
「私も、貴女だけを愛しています」
アマリリスは、ヴィクターの背中にそろそろと両腕を回すと、彼を抱き締め返した。恥ずかしそうな彼女の表情を見つめたヴィクターが、その耳元で囁く。
「帰国したら、式の準備を始めましょうか。あんまりアマリリスが可愛くて、私も余裕がなくなっているようです。……気が早過ぎますか?」
くすりと笑うと、アマリリスもヴィクターを見つめ返した。
「私も、ヴィクター様との結婚式が楽しみです」
花咲くようなアマリリスの笑顔に、ヴィクターの顔にも満ち足りた笑みが広がっていた。
***
「お帰りなさい、師匠、アマリリスさん!」
屋敷から駆け出して来たロルフに、ヴィクターとアマリリスが微笑みかける。
「ただいま帰りました、ロルフ君」
「留守を預かってくれてありがとう、ロルフ。何か変わったことはありませんでしたか?」
ロルフはほっとしたように二人に笑みを返すと、首を横に振った。
「ううん。ライズ王国は落ち着いていました。師匠からもらった手紙を読んで背筋が冷えたけど、アマリリスさんが無事で本当によかった」
アマリリスの失踪からの経緯を、ヴィクターは手紙に綴って、先にロルフに知らせていたのだった。
「師匠の手紙の内容は、ルキウス王太子殿下にもお伝えしています。シュヴァール王国との和睦も、これで無事に結べそうですね」
「そうですね。あの平和を尊ぶ温厚な国王陛下がシュヴァール王国の上に立つのなら、戦の懸念もなくなるでしょう。我々が行った支援にも、心からの感謝を示してくださいましたしね。それに、どんな辺境の町や村であっても、魔物の脅威が大きい場所から優先して兵を派遣すると仰っていましたから、国内の状況も改善するのではないでしょうか」
ほっと明るく笑ったロルフは、楽しげにヴィクターとアマリリスを見つめた。
「これで、師匠とアマリリスさんの結婚式も、何の心配もなく挙げられますね。……あれっ?」
彼はアマリリスの胸元にロケットとペンダントがなくなっていることに気付いて、目を瞬いた。
「アマリリスさん。いつも胸にかけていたあのロケットと、僕たちとお揃いのペンダントはどうしたんですか?」
「ああ、それなら……」
ヴィクターがポケットの中から、それぞれ鎖の切れたロケットとペンダントを取り出した。
アマリリスの顔が、嬉しそうに輝く。
「そのロケットとペンダント、ヴィクター様が持っていてくださったのですね。失くしたかと思っていましたが、見付けてくださってありがとうございます」
「すみません、うっかりアマリリスに返し忘れていました。このロケットは、宿の主人が渡してくれたものです。ペンダントは、貴女が囚われていた部屋の床で見付けました」
ヴィクターから手渡されたロケットとペンダントを、大切そうに掌に載せたアマリリスに、その様子を眺めていたロルフが尋ねる。
「鎖も切れているし、ロケットも少し歪んでしまってるみたいだね。……よかったら、僕、直しましょうか?」
「えっ、お願いできるのですか?」
「うん! 僕、こういう細かい作業は得意なんだ」
アマリリスはロルフの言葉に微笑んだ。
「ありがとう、ロルフ君。お願いできたら助かります」
「直したらすぐに返しますね」
ロルフは、アマリリスが大事にしてきたことが感じられるロケットとペンダントを受け取ると、彼女に向かって明るく笑った。
「アマリリスさん、ありがとう」
「どうしたんですか、急に?」
不思議そうに首を傾げたアマリリスを、彼は見つめた。
「アマリリスさんがもし、ライズ王国への侵略を持ちかけられた時に反対してくれていなかったら。シュヴァール王国軍を、僕たちと一緒に迎え撃ってくれなかったら。敵軍を追い返した時、敗走する兵士たちを見逃してあげていなかったら。……この国の人間も、そしてシュヴァール王国の人間も、数え切れないほど命を落としていたはずです」
アマリリスの背後で、精霊が温かな光を放っているのを感じながら、ロルフは彼女に続けた。
「兵士たちにだって、家族がいる。殺し合いが続き、多くの血が流れれば、たとえ戦が終わっても、禍根はずっと残ります。大事な家族を奪われた悲しみ、恨み、憎しみ――そういった感情は、すぐに消えるものではありませんから。でも、そんな悲劇を回避できたのは、アマリリスさんがいてくれて、力を貸してくれたからですね」
ロルフは元々、他国で内戦に巻き込まれた戦争孤児だった。命からがらライズ王国に逃げては来たものの、特徴のある耳が気味悪がられ、孤立していたところに、ただ一人手を差し伸べてくれたのがヴィクターだったのだ。
戦争の残酷さや辛さ、苦しみを、彼はよくわかっていた。
ロルフの言葉に、アマリリスは遠慮がちに微笑んだ。
「それは私の力ではなく、私を見守ってくれる精霊様の力と――そして、いつも助けてくださるヴィクター様や、ロルフ君のお蔭です」
アマリリスに寄り添っていたヴィクターが、そっと彼女を抱き寄せる。
「清らかな心を持つアマリリスだからこそ、精霊も貴女を選んだのでしょうね。シュヴァール王国で、魔物から貴女が民を救った時にも、その見返りを求めない献身ぶりは、まさに聖女そのものでしたから」
人の痛みも喜びも、まるで自分のことのように感じている純粋なアマリリスが、ヴィクターには眩しく見えた。
ロルフの目には、アマリリスとヴィクターを眺めて、美しい精霊が優しく微笑む様子が映っていた。
***
自室に戻ったロルフは、アマリリスから受け取ったロケットとペンダントを早速机の上に置くと、机の引き出しから使い慣れた工具を取り出した。薬を作る時に、植物の実から小さな種子を取り出したり、葉をすり潰したりする時にも利用する便利な工具を手に取りながら、彼は吸い寄せられるようにロケットを眺めた。
(あれっ……?)
歪みの生じたロケットは、薄く開きかけていた。ロルフが慎重にロケットを開くと、中から銀色の毛束が現れる。アマリリスの髪を彷彿とさせるそれを見て、そしてそこから感じられる強い思いに、ロルフにもそれが何か想像がついた。
(アマリリスさんの母君の遺髪みたいだな)
アマリリスの話からは、彼女が産みの母を亡くしたのはずっと昔のことのようだったけれど、まるで訴えかけてくるような、アマリリスの身を案じ、幸せを祈る切実な思いは、色褪せずに残っていた。
けれど、ロルフの鼻はその髪から、ほんの僅かに独特の匂いを感じ取っていた。
「これって、もしかして……」
ロルフの顔が急に険しくなる。彼の五感も、普通の人間のそれと比べて鋭い。髪から漂う微かな匂いに混じって感じられる、第三者の毒々しい感情も、彼の背中を冷えさせていた。
彼は緊張の面持ちで、薬棚の一番端にある瓶を取り出した。小さな瓶に詰められているその白い粉薬は、劇薬と呼ばれる種類の薬だった。薬効は高いが、使い方を誤ったり、過剰に摂取したりすると死に至る。
そっとその薬瓶の蓋を開けて鼻を近付けた彼は、口元を引き結んだ。
(やっぱり、同じ匂いだ)
ロルフが、再びアマリリスの母の遺髪を見つめる。
(これは、アマリリスさんに言うべきかな。……まずは、師匠に相談しよう)
彼は急いで薬瓶を棚に戻すと、ヴィクターの元へと足早に向かった。
明日も12時と20時の更新です。
明日20時が最終話です。