月下のアマリリス
本日2度目の更新です。
シュヴァール王国軍が退くのを見届けた後、ヴィクター、アマリリスとロルフは、いったんヴィクターの風魔法で屋敷へと戻っていた。
弟子たちを労るように、ヴィクターが穏やかに微笑む。
「アマリリスもロルフも、お疲れ様でした」
「師匠もお疲れ様です! アマリリスさん、大活躍でしたね」
アマリリスは、手の中にある竜を模った杖に目を落とした。
「私というよりは、この杖の力のお蔭でしたが」
彼女の元に羽ばたいてきたことが嘘のように、今では動く様子のない杖を、彼女は不思議そうに見つめた。
ただ、手にしっくりと馴染むような懐かしい感触を、アマリリスはその杖に感じていた。
「どんな理由があったとしても、貴女がいなければ、あの場を凌ぐことが難しかったのは確かです」
ヴィクターの言葉に、ロルフも頷く。
「凄い威力だったね。神秘的な杖だよね」
アマリリスの側に佇む精霊の光を感じながら、ロルフも杖を見つめた。アマリリスが彼に尋ねる。
「精霊の加護とこの杖との間には、何か関係があるのでしょうか。ロルフ君、何かわかりますか?」
「うーん、僕も詳しくはわからないけれど。でも、この杖に精霊の力が満ちているのは感じるよ。多分、この杖は、精霊がアマリリスさんに力を貸しやすいように、触媒みたいな働きをするんじゃないかな」
ヴィクターも、興味深そうに聖女の杖を見つめていた。
「ロルフの言う通りなのかもしれませんね。少し貸していただいても?」
「はい」
アマリリスがヴィクターに杖を手渡すと、彼は手の中の杖の感触を確認していた。
「恐らくですが、この杖は、正しい持ち主ーーつまり精霊の加護を受けた者が使う限りは、精霊の力が自然に補填されるのでしょう。けれど、そうでなければ、そのうちに満たされていた力を使い切ってしまうのではないでしょうか。貴女の妹がこの杖を使っていた時も、途中から明らかに様子がおかしかったですから」
何の効力も生じない空っぽの杖に苛立っていたカルラの姿を、ヴィクターは思い出していた。
ロルフもヴィクターから杖を借りると、しげしげと改めて見つめた。
「力を切らしたことで、異変に気付いた杖がそのうちに目を覚ましたのかな? ……とにかく、この杖がちゃんとアマリリスさんを持ち主だと認識したことは確かだね」
「真の聖女がアマリリスだと、これでシュヴァール王国の面々も理解したことでしょう。これで濡れ衣も晴れましたね。あのアマリリスの力を目にして、策もなくすぐに我が国に攻め入ってくるようなことは、考えにくいと思います」
ほっと表情を緩めたアマリリスは、ロルフから杖を受け取ると、ヴィクターに向かって微笑んだ。
「ヴィクター様。ライズ王国の兵士たちに、シュヴァール王国軍を追わないようにと言ってくださって、ありがとうございました。シュヴァール王国軍の規模は大きかったですが、急ごしらえの兵士も少なからず交じっていたようでしたから」
ごく簡単な装備の兵士をちらほらと見かけたアマリリスは、彼らが戦に無理矢理駆り出されたことが透けて見えるようで、胸の痛みを覚えていたのだった。
「上からの命とあらば、特に弱い立場の民には、断る選択肢すらありません。そんな兵士たちの命を奪わずに逃してくださって、感謝しています」
「民の血を流したくはないという貴女の気持ちは、私にもよくわかりますから」
ヴィクターは、アマリリスの頭をぽんと撫でた。ほんのりと彼女の頬が染まる。
「二人とも、疲れが出ていることでしょう。しばらくは稽古も休みにしますから、ゆっくり疲れを取ってください」
愛弟子の二人を見つめて、ヴィクターは優しい笑みを浮かべた。
***
その日の晩、アマリリスは一人でふらりと屋敷の庭に出ていた。涼やかな風が頬を撫でていくのを感じながら、明るい月を見上げる。
(シュヴァール王国は、いつかまた攻め込んでくるのかしら。ネイト様が、このまま私を放っておいてくださるとも思えないけれど……)
戦が思わぬ形で終結して安堵していた反面、聖女の杖が反応したというだけで、あっという間に自分を聖女に祀り上げたシュヴァール王国でのかつての日々が、彼女の頭をよぎっていく。
どことなく落ち着かない気持ちを紛らわせるように、月明かりに照らされた庭を歩いていたアマリリスに、後ろから声がかかった。
「どうしたのですか、アマリリス?」
「ヴィクター様」
振り向いたアマリリスの目に、屋敷から出て来たヴィクターの姿が映る。月の光に照らされた彼の姿は幻想的で美しく、彼女は思わず息を呑んでいた。近付いてきた彼に、アマリリスははっと我に返ると微笑んだ。
「何だか眠れなくて、庭を散歩していたのです」
「そうでしたか」
背の高いヴィクターが隣に並ぶ。
「夜風が気持ちいいですね」
「ふふ。そうですね、ヴィクター様」
静かな庭で、アマリリスは自然と胸が高鳴るのを感じながらヴィクターを見上げた。
尊敬以上の想いを抱いている師に対して、普段は聞けずにいたことが、薄闇に包まれて二人きりの今、なぜか口から溢れる。
「ヴィクター様、一つ伺ってもいいですか?」
「ええ、何でしょうか」
並んでゆっくりと歩きながら、アマリリスは彼の澄んだ青緑色の瞳を見つめた。
「どうして、私の弟子入りを認めてくださったのですか?」
今更の質問ではあったけれど、それは彼女の心にずっと引っかかっていたことでもあった。
「……私に精霊の加護があると、ヴィクター様も気付いていらしたからなのでしょうか」
少し寂しげに、アマリリスは俯いた。精霊の存在をロルフから聞いた時には、彼女はただ驚くばかりだったし、そのお蔭でヴィクターへの弟子入りが認められたとしたなら、その幸運は喜ぶべきことだとわかってはいる。
けれど、加護があることだけを理由に自分が選ばれたとしたなら、どこか寂しいような気もしていた。
ヴィクターはアマリリスを穏やかに見つめ返した。
「私には、ロルフほどはっきりとは精霊は見えません。時々、光が舞うのを感じるくらいです。私にも、祖先を遡るとエルフの血が混じっているらしく、貴女を守る美しい光の存在は、以前から感じていました。ただ……」
じっとヴィクターが彼女の瞳を覗き込む。
「それを知っていたために、貴女を弟子にしたという訳ではありません」
「では、どうして……」
ふっと彼が微笑んだ。
「貴女が側にいてくれたなら幸せだろうと、そう思ったからです」
「えっ?」
どぎまぎと頬を色付かせたアマリリスに、彼は続けた。
「理屈ではないので、どう説明したらよいか難しいのですが、正直に答えるなら、そういうことになりますね」
「……あ、ありがとうございます」
アマリリスの頭の中は、さらに混乱していた。うるさく跳ねる胸に、彼を想う気持ちを嫌というほど自覚させられる。
それ以上、何と返してよいかわからずに真っ赤になっていたアマリリスの手を、ヴィクターが取った。
「貴女に見せたいものがあるのですが、少しいいですか?」
「はい」
彼の大きく温かな手に引かれるままに、アマリリスは庭の端の方に向かって歩いて行った。ヴィクターとこうして一緒にいられることが嬉しくて、アマリリスは彼と繋いだ手にそっと力を込めた。
庭を囲む木々の裏手の、普段は死角になっているところに辿り着いたアマリリスの目が、目の前に広がる美しい光景に瞠られる。
二人の前では、月下に咲く美しいアマリリスの花々が夜風にそよいでいた。
「わあっ、綺麗ですね……」
一本一本、艶やかに背を伸ばして咲いている花を眺めて、アマリリスは顔を綻ばせた。そんな彼女を見て、ヴィクターも微笑む。
「アマリリスが好きなので、こうして庭で育てているのですよ」
ヴィクターが自分と同じ名前の花のことを言っているとわかってはいても、まるで自分に対して言われているようで、アマリリスの胸は切なく疼いた。
「先日、私にアマリリスの花をくださったのも、ここで育てていらしたからなのですね」
まるで魔法のように飛び出してきたアマリリスの花を、贈られるままに受け取っていた彼女だったけれど、ここで育てていたのかと、今になって合点がいっていた。
アマリリスは、花の前にかがみ込むと、ふっと遠い瞳をした。
「私、自分に精霊の加護があるとは知らなかったのですが、昔、精霊に一度だけ会ったことがあるのです。……もしかしたら、優しい夢を見ていただけなのかもしれませんが」
静かに頷いたヴィクターに、彼女は続けた。
「母を亡くして、妹が生まれて、ますます孤立していた時のことでした。この国にも程近い避暑地の別荘に、家族で訪れたことがあったのですが、私だけが独りぼっちで、寂しくて。母の思い出のあるアマリリスを探しているうち、森の奥に迷い込んでしまったのです」
アマリリスは懐かしむように微笑んだ。
「綺麗な湖のほとりを、アマリリスを見付けることもできずに泣きながら歩いていた私の前に、どこからか美しい湖の精霊が現れて、優しく話しかけてくれました。そして、彼は私にアマリリスをくれた上に、抱き上げて森の外まで連れて行ってくれたのです。……彼の腕の中で、泣き疲れていた私は眠ってしまったようで、気付いた時には、私は別荘の庭のベンチにいました。夢だったのかとも思いましたが、その時、私の手には確かに、凛と咲くアマリリスの花があったのです」
彼女の話に、ヴィクターは温かな瞳で耳を傾けていた。
「それから、アマリリスは私にとって、さらに大切で大好きな花になりました。辛いことがあると、この花を眺めては自分を勇気付けていたので、ヴィクター様がアマリリスをくださった時も、本当に嬉しくて」
「……そうでしたか」
次第に冷たさを増してきた夜風に、アマリリスが花の前でふるりと身を震わせると、ヴィクターがそっと後ろから彼女に両腕を回した。
「寒くなってきましたね、そろそろ戻りますか?」
彼の腕に抱き締められる形になったアマリリスは、彼の体温に包まれながら、思い切って口を開いた。
「ヴィクター様の腕が温かいので。もう少しだけ、こうしていてもいいですか?」
くすりとヴィクターが笑みを溢す。
「気が合いますね。私も、もう少し貴女とこうして一緒にいたいと思っていました」
まるで夢を見ているようだと思いながら、アマリリスはヴィクターの腕の中で目を瞑った。
(もしも、私がヴィクター様のお側にいられなくなる日が、いつかやって来るとしても。この思い出があれば、きっと生きていけるわ)
アマリリスは、自分の身体に回された、大好きなヴィクターの腕をぎゅっと握った。
ヴィクターの頬も赤く染まっていることには、彼女は気付いてはいなかった。
次回の更新は明日20時です。