シュヴァール王国の異変
本日2度目の更新です。
ロルフがガチャリと部屋のドアを開ける音がして、アマリリスは慌ててヴィクターの腕の中から身体を離した。
顔を火照らせているアマリリスを見て、ロルフが首を傾げる。
「どうしたの、アマリリスさん?」
「いえ、何でもありません」
不思議そうに目を瞬いた彼は、手にしていた小さな容器をアマリリスに差し出した。
「あのね、気休めくらいにしかならないかもしれないけど、この塗り薬を使えば、少しは傷が薄くなると思うんだ」
「ありがとう、ロルフ君。……ごめんなさい。あんなに気持ちの悪い痕を見せて、気を遣わせてしまって」
ロルフは怒りに燃えるような瞳で口を開いた。
「さっき師匠も言っていたけど、アマリリスさんが謝る必要なんてどこにもないよ。あんなことをアマリリスさんにする奴には、きっと相応の報いが待っていると思う。その傷痕は、全然気持ち悪くなんかないけど、可愛いアマリリスさんがあんな風に顔を翳らせたのを見て、何だか僕の方が辛くなっちゃって」
彼の言葉に頷いたヴィクターが、塗り薬の容器を受け取ったアマリリスを見つめた。
「私に塗らせていただいても? 背中だと、自分では塗りづらいでしょう」
「でも、そんなことでヴィクター様のお手を煩わせてしまう訳にはいきませんし」
慌ててそう言ったアマリリスに、彼はふっと柔らかく笑った。
「それだけが断る理由なら、構いませんね?」
彼はアマリリスの手の中にあった容器をするりと器用に取ると、蓋を開けて指先でクリーム状の薬を取った。
ヴィクターの視線に、アマリリスが白旗を上げるように再び背中の傷痕をそろそろとさらすと、彼は丁寧に、その傷痕に薬を塗り込んでいった。
すうっとするようなひんやりした薬の感触と共に、彼の指先が肌に触れる度、くすぐったいような気持ちが沸き上がり、またアマリリスの頬が色付く。
恥ずかしそうに、彼女はヴィクターを振り向いた。
「……あの、こんなことまでしていただいて、すみません」
「言ったでしょう? 貴女は私にとって大切な存在なのですから、これくらいは甘えてください」
彼の優しい表情に、アマリリスは戸惑いを隠せずにいた。
(いくら弟子だからといっても、どうしてヴィクター様はこんなに私に親切にしてくださるのかしら。彼の好意を、都合良く勘違いしないようにしなくっちゃ)
しばらくして、ヴィクターが塗り薬の容器の蓋を閉めながら言った。
「今日のところは、これでお終いです」
「ありがとうございました、ヴィクター様」
真っ赤になったアマリリスを見て、ヴィクターはくすりと笑みを溢した。
「薬を塗るために手助けが必要な時は、いつでも言ってください」
「また、師匠ってば。……僕も、よかったら手を貸すので、遠慮はしないでくださいね」
「ふふ、二人とも優しいですね。ありがとうございます」
あんな酷い傷痕を見られたら、気味悪がられるのではないかと想像していたアマリリスだったけれど、彼らの思いやりのある対応に胸が温まり、張り詰めていた何かが緩んだような気がしていた。
目に滲んだ涙を急いで拭ってから、アマリリスは話題を変えた。
「先程のヴィクター様のご活躍、本当に素晴らしかったです」
ヴィクターの底知れない力を間近で目にして、アマリリスは師の魔法に心から感動していた。
「ね。師匠、とっても格好良かったです!」
ロルフがにっこりと笑う。ヴィクターは温かな笑みを浮かべた。
「私は、二人の防御魔法を見て、成長を感じて嬉しくなりました」
「……! 気付いてくださっていたのですね」
顔を見合わせた二人に、ヴィクターは頷いた。
「ええ。二人とも立派な働きで、皆を守っていましたね。そして、アマリリス。貴女が魔法を込めた盾も、素晴らしい防御力でしたよ」
「本当ですか!?」
顔を輝かせたアマリリスを、彼が嬉しそうに見つめる。
「もちろん、お世辞などではありません。それに、貴女のお蔭で、私はあのような魔法を使えたのですよ」
自分とロルフが後方を守っていたから、安心して敵軍に攻め込んでいけたという意味なのだろうかと思いながら、彼女は首を横に振った。
「あの目の覚めるような魔法は、ヴィクター様のお力があればこそです。あれほどの威力の魔法を、私はこれまで見たことがありません」
ヴィクターは思案気に少し口を噤むと、ロルフと目を見交わした。
「貴女は、魔法を使っている時に、何か気付いたことはありませんか?」
「そう言えば……」
アマリリスは、気のせいかもしれないと思いながらも、それまで不思議に思っていたことを口に出した。
「最近、魔法を唱える時に、光のようなものが私の周りに見えたような気がしたのです。単なる私の見間違いかもしれませんが」
彼女の言葉に、ヴィクターとロルフは明るく笑った。
「アマリリスさんにも、見えるようになったんだね!」
「えっ?」
ロルフの言葉の意味を呑み込めずにいたアマリリスを、ヴィクターが見つめる。
「それは、貴女に加護を与えている精霊の輝きですよ」
「精霊の、輝き……?」
「そうだよ! アマリリスさんの側には、優しい精霊がいるんだ。そして、アマリリスさんの求めに応じて、力を貸してくれているんだよ」
戸惑っているアマリリスに、ヴィクターが温かく笑いかけた。
「精霊に愛されている貴女は、本物の聖女に違いないと私は思います。アマリリスはこのライズ王国に光を与えてくれると、そう信じています」
「僕もそう思うよ」
勢いよくロルフも頷く。アマリリスは、二人を見つめてゆっくりと口を開いた。
「私自身には、まだわからないことも多いのですが。こうしてヴィクター様とロルフ君に出会えた奇跡は、確かに精霊様の加護のなせる技なのかもしれませんね」
目には見えない、自分を見守っていてくれる存在が確かに近くにいるように感じながら、アマリリスは感慨深げに二人に笑みを返した。
***
一方、シュヴァール王国の王宮に戻って一息吐いたネイトの元を、表情を硬くしたラッセルが訪れていた。
元々は、その誠実さゆえにネイトの信頼を得ていたラッセルだったけれど、彼がライズ王国への進軍を渋ったことから、隣国への侵攻軍からは外されて、国内の警備に回っていたのだ。
「ネイト王太子殿下、ご報告がございます」
「何だ」
かなりの軍勢を動かした割には、隣国で狙い通りの成果が出せず、疲労感を滲ませていたネイトに、ラッセルは続けた。
「シュヴァール王国のあちこちで、魔物が出没したとの報告が入ってきています」
「……何だと?」
ネイトの顔が歪む。
「これまで、国内ではほとんど魔物の目撃情報すらなかっただろう。何かの間違いではないのか?」
「恐れながら、これは確かな情報です」
表情を翳らせたラッセルは、ネイトを見つめた。
「幸い、ネイト様の軍勢は、ほとんど怪我を負った兵もなく隣国から戻られました。今の状況では、まず、その軍勢を国内の魔物討伐に回すことが先決かと」
「それはできない」
苦々しい表情ながらも、そうきっぱりと言い切ったネイトに、ラッセルは困惑して尋ねた。
「恐縮ですが、理由をお聞かせ願えますか」
ネイトが苛立ったように口を開く。
「ライズ王国ではもう、あの稀少鉱物リドナイトの武器防具への加工を急ぎ進めている。ライズ王国の抵抗力が強まってしまう前に、少しでも早く攻め落としたい」
彼の頭には、喉から手が出るほど手に入れたいリドナイト製の武器や防具を身に着け、遥かに規模の大きな軍勢に立ち向かってきたライズ王国の魔術師たちの姿が浮かんでいた。
ネイトは、いったん兵を退かせてはいたものの、体勢を立て直したらすぐにまたライズ王国に攻め入るつもりでいたのだ。
(まあ、あの隣国の精製所だって、あれだけの魔物に襲われれば被害は免れまい)
そこまで考えて、彼はふと背筋が冷えるのを感じた。ラッセルの報告を聞く前に、凶暴な魔物の出現を自ら目にしていたことを改めて思い出したからだ。
(あの時は、たまたまあの場所だけ魔物が出たのだろうと思ったが。……国内の他の場所でも、同様のことが起こり始めているのか?)
急に厳しい表情になったネイトは、舌打ちをすると独りごちた。
「どうなっているんだ。魔物が出始めた上に、アマリリスまで生き延びていたなんて」
父王の言っていた、『聖女の力が必要となる時に、聖女が国に遣わされる』という言葉が、彼の脳裏に蘇る。
焦るネイトの内心には気付かず、ラッセルは瞳を輝かせた。
「アマリリス様は、生きていらっしゃるのですね!?」
ネイトの言葉に、思わず安堵の表情を浮かべたラッセルを、彼は不機嫌そうに睨み付けた。
「そんなことは、もうお前には関係ない話だ。国内の魔物対策には、すぐにはあまり兵を割けないが、ライズ王国を攻め落とすまでの辛抱だ。しばらく持ち堪えろ。……もう退がれ」
取りつく島のない様子のネイトが立ち去っていく後ろ姿を見ながら、ラッセルは深い溜息を吐いた。
(王太子殿下は、事の重大さをわかってはいらっしゃらない)
実際に、救援の要請を受けて魔物と対峙したばかりだったラッセルは、目を血走らせた凶暴な魔物たちに、不穏な空気を感じずにはいられなかった。
表情を翳らせたまま、ラッセルは踵を返した。
明日も12時と20時の2回更新予定です。