温かな腕の中
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急に退いていくシュヴァール王国軍の混乱を眺めて、ヴィクターが呟く。
「……魔物の群れか」
深い洞窟の奥から出て来たと思われる、蝙蝠のような姿をした不気味な魔物やサラマンダー、大型のヘルハウンドなど、様々な種類の魔物が群れをなして押し寄せていた。その一部はシュヴァール王国軍に群がっているものの、ヴィクターの存在に気付いた魔物たちは、目を爛々と輝かせてアマリリスたちのいる建物に向かってくる。
建物を囲んでいた防御魔法の光は、徐々に薄くなりつつあった。迫ってくる魔物を前にして、再び手に氷を纏わせたヴィクターに、アマリリスは呼び掛けた。
「ヴィクター様、これを!」
彼女が投げ上げた盾を、ヴィクターが空中で受け止める。
「アマリリス、これは貴女が使った方が……」
「いえ、どうぞヴィクター様がお使いください。私は盾を使い慣れてはおりませんから」
「ありがとう。では、お言葉に甘えます」
微笑んだヴィクターは、盾を構えてから魔物に向かって凍てつくような氷の矢を放った。建物の中からも、リドナイト製の装備を身に着けた魔術師たちが順番に走り出て来る。
杖を構えた魔術師が、ヴィクターに続いて杖に炎を纏わせた。
「ヴィクター様、こちらの守備はお任せください」
いつの間に現れたのか、地面を滑るように這い出てきた素早い動きの大蛇に、彼が炎を放つ。揺らめく炎に包まれてのたうちまわる大蛇を見下ろして、ヴィクターが頷いた。
「ええ、頼みます」
多くの魔物を前にしてはいたけれど、慌ただしく引き上げていくシュヴァール王国軍を遠目に眺めながら、ライズ王国側の士気は上がっていた。
建物内には、武器や防具の加工をする魔術師以外の人々も、息を潜めるように待機していた。アマリリスはロルフと目を見合わせる。
「攻撃魔法は師匠たちに任せて、ここは僕たちで守りましょう」
「はい」
アマリリスは祈るような思いで、ヴィクターの姿を遥か上空に見上げた。
(ヴィクター様、どうかご無事で)
それから、彼女はバルコニーの上から防御魔法を唱えた。建物の前面を覆うような巨大な光の壁が、彼女の呪文に応じて姿を現す。
(私の力では、建物全体を覆うほどの魔法は使えないけれど。せめて、少しでもここにいる人たちを守れるように)
ロルフも建物の別の方向に防御魔法を張っていた。残る方角には、魔術師たちが魔物の侵入に備えて身構えている。
初めての魔物との本格的な戦いに、アマリリスは必死に全神経を集中させていた。
***
魔物を追い払い、引き上げて来た魔術師たちの顔には、明るい笑みが浮かんでいた。
「今のところは、これで魔物を追い返せたみたいだな」
「これも、ヴィクター様の見事な手腕のお蔭ですね」
攻撃魔法に特化したヴィクターは、鬼のような勢いで、対峙した魔物たちを薙ぎ払っていった。怖気付いた魔物たちは、途中から散り散りに逃げ出していたのだった。
戻って来たヴィクターを、魔術師たちが囲んでいた。その輪をかき分けるようにして、彼はアマリリスとロルフの前にやって来た。
「ヴィクター様、お疲れ様でした」
「アマリリス、怪我は?」
彼女の服の肩口の部分が破れ、薄らと血が滲んでいるのを見て、ヴィクターが顔を強張らせていた。
「私は大丈夫です」
そう答えたアマリリスだったけれど、ロルフは表情を翳らせて彼女を見つめた。
「空から舞い降りて来たガーゴイルから、咄嗟にアマリリスさんが僕を庇ってくれたんだ。その時に、ガーゴイルの鉤爪に肩をやられて……」
「でも、もうロルフ君が回復魔法をかけてくれましたから」
微笑んだアマリリスを心配そうに見つめたヴィクターは、彼らの傍にいたリカルドに向かって口を開いた。
「私たちはしばらく席を外しても?」
「ええ、もちろん構いません。ヴィクター様たちのお蔭で助かりました」
感謝の籠った瞳を向けられて頷いたヴィクターは、アマリリスの手を取った。
(あっ)
彼の温かく大きな手に、彼女の頬が仄かに色付く。
「念のため、傷口を確認させてください」
ヴィクターに手を引かれて、アマリリスはロルフと共に別室に移動した。
ロルフが部屋のドアを閉じてから、ヴィクターが、服が引き裂かれた彼女の肩の部分に触れる。
「すみませんが、少し見せていただいても?」
「はい。……ですが、本当に心配は要りませんから」
少し躊躇ってから、アマリリスは編み上げになっていた服の前の部分を解いて緩めた。
はらりと露わになった彼女の肩を見て、ヴィクターの顔が微かに曇る。
「ガーゴイルにやられた傷は、ロルフの魔法でほとんど治っているようですが……」
薄く残る新しい傷痕に、彼が重ねて回復魔法をかけた。温かな力を肩に感じて、アマリリスが微笑む。
「もう痛みもないのですが、お気遣いありがとうございます、ヴィクター様」
「ですが……この傷痕は、いったいどうしたのです?」
彼の言わんとしていることに気付いて、アマリリスの顔がはっと硬直する。
ヴィクターは、彼女の背中一面に痛々しく残る、古傷の痕に気付いていたのだった。アマリリスの背中に目をやったロルフの顔も、今にも泣き出しそうに歪む。
「ひどい。どうしてこんな傷痕が……」
慌てて服を引き上げたアマリリスは、青白い顔で力なく笑った。
「こんな醜い傷痕をお目にかけてしまい、申し訳ありません」
「それは、貴女が謝ることではありません」
「……僕、そういう傷痕にも効く薬がなかったか、荷物を見てきます」
ロルフが早足で部屋を出て行った。ヴィクターが、静かに彼女に尋ねる。
「もう一度、背中を見せていただいても?」
「……はい」
胸の前で片手で服を押さえながら、そろそろとアマリリスが背中側の服を下ろすと、ヴィクターが優しく彼女の肌の傷痕に触れた。彼の指の感触に、アマリリスの肩がぴくりと跳ねる。ふわりと内側から満ちるような回復魔法を感じて、彼女は振り向いた。
「あの、ヴィクター様……」
「このような痕には私の魔法も効かないかもしれませんが、一応かけさせてください。……これは誰にやられたものなのですか?」
義母と妹に苛まれていた実家での暮らしを暗く思い返しながら、アマリリスはぽつりぽつりとかつての生活のことを話した。
ヴィクターは、過去に義母や妹に思い切り打たれた時のアマリリスよりも辛そうな顔で、彼女の話に耳を傾けていた。
「そんな状況の中で、貴女は耐えてきたのですね。こんなことなら……」
小声で何かを呟いたヴィクターは、そっと労るようにアマリリスの身体を抱き締めた。ヴィクターの腕と、そして彼の表情に滲む温かさに、アマリリスの頬に熱が集まる。
ヴィクターの腕の中から彼の顔を見上げたアマリリスは、胸の高鳴りを抑え切れずにいた。
(どうしよう。私、ヴィクター様のことが好き)
誰より温かく包み込んでくれるヴィクターの存在が、アマリリスの中ではさらに大きくなっていた。
ようやく自分の気持ちを自覚したアマリリスだったけれど、ぐっとその想いを呑み込んだ。すぐ近くで目にした、明らかに一人だけ別格だったヴィクターの魔法を思い返しながら、彼女は、彼と自分とのあまりにも大きな差を感じずにはいられなかった。
(ライズ王国を背負って立つほど優れた魔術師のヴィクター様と、シュヴァール王国を偽聖女として追い出された私では、決して釣り合わないことなんて、とっくにわかっているもの)
人望のあるヴィクターの元に、たくさんの人々が集まってくる様子がアマリリスの頭に浮かぶ。
これほど多くの人に慕われている彼に、自分が想いを寄せるだけでも身の程知らずだと、アマリリスはそう感じていたのだった。
きっと、彼の弟子だからこそ、これほど優しく扱ってくれるのだろうと思いながら、アマリリスは切なく痛む胸をそっと押さえた。