負傷
マーメイルは、シャハの森の中を歩いたことがこれまでに何度もある。だが、走ったことはほとんどない。森へ来るのだから、それなりに歩きやすい靴をはいているものの、それは決してランニング用ではない。
まして、こんなオフロードを走るなんて、マーメイルの予定にはなかった。
「ちょっ……待ってよ、ピースケ」
先を走るピースケを、マーメイルはひたすら追う。
何かに追われているのではなく、誰かのテリトリーへ入ってもすぐに出て、余計なバトルをしなくていいように、だ。
マーメイルは「走らなくても……」と言ったが、ピースケは問答無用で走って行く。置いて行かれては困るから、結局マーメイルも走ることになるのだ。
「もう少し体力をつけた方がいいぞ」
「あんたは小さくて軽くてすばしっこいから移動も楽でしょうけど、あたしは違うのよ。それに、採取した植物も袋に入ってるし」
袋の紐はたすきがけにしてるので、両手は使える。ただ、その手は勢いをつけて走るために振るより、木の根につまづいて転ばないようにバランスを取る方に従事していた。
「こういう場所は慣れているんじゃないのか」
「慣れてるわよ。だけど、ランニングコースじゃないわ」
それ以前に、マーメイルは運動が好きではない。ランニングなんて、今も未来も断固お断りだ。
「ねぇ、少し休もうよぉ」
「さっきは早く行きたい、みたいなことを言っていたのにか」
「それは、ピースケが乗せてくれたら、の話でしょ。自力なら、限度ってものがあるの。これ以上走るの、無理ぃ」
「……だが、休んでる時間はなさそうだ」
「どうし……わっ」
どこからともなく、わらわらと小さな生き物がマーメイル達の前に現れた。
二足歩行で体形は小人と同じだが、どれもひどくやせている。大きさは、マーメイルのひざくらいまでしかない。
汚れたような肌色で、手には鋭い爪。頭には一本もしくは二本の角が生え、口から細かく鋭い牙をのぞかせている。
そういった生き物が、ざっと見ても二、三十はいた。金色の目が、異様にギラギラしている。
「小鬼か。どこにでもいる奴らだが、この森にもいたか」
マーメイルも、小鬼の存在は知っている。しかし、見るのは初めてだ。そういう面倒そうな種族がいそうな所へは、なるべく行かないようにしているから。
「えーと、すごく好戦的な目をしてるみたいなんだけど」
「そうだな。一暴れした後、俺達を喰おうって算段だ」
「わーん、やっぱり。悪魔や魔女を喰うなんて、どれだけ厚かましいのよ」
小鬼にピースケが悪魔だとわかるかどうかは別問題。
「意地汚さでは、この世界で三本の指に入るだろうな」
「もしかして、かなり最悪な相手に遭ったってこと?」
「そのようだ」
小鬼達は雄叫びをあげながら、一斉にマーメイルとピースケに向かって走り出す。小さくても、複数で一度に動かれると、気持ち悪い。
ピースケは明るい光の玉を吐き出すと、小鬼に向かって飛ばした。甲高い悲鳴が響き、光に当たった小鬼は次々と消し飛ぶ。
だが、第一陣が消えると、第二陣が現れた。最初に現れた団体だけではなかったのだ。
「お前はその木の後ろにでも隠れていろ」
「は、はいっ」
戦闘要員になれないなら、この場から退場させた方が動きやすくなる。
ピースケのありがたい言葉に、マーメイルも遠慮せずに甘えることにした。
第二陣と向き合うピースケから離れ、マーメイルはゆっくりと、でも急いで木の後ろへ隠れるべく移動する。
「ぐわああっ」
「きゃあ!」
隠れようとした木の影から、小鬼が現れた。仲間がピースケと向き合う中、ちゃっかりマーメイルを狙っていた奴がいたのだ。
不意打ちに驚いたマーメイルは体勢を崩し、その場に座り込んでしまう。そこへ小鬼が襲いかかった。
この状態、カラスに続いて本日二度目じゃない。やられちゃうっ。
そう思った瞬間、叫んでいた。
「ピースケ!」
ざくっといやな音が、間近で聞こえた。だが、何の痛みもない。
マーメイルが目を開けると、小鬼の爪がマーメイルの前に飛び出したピースケの左肩を切り裂いていた。
だが、ピースケも負けておらず、相手の脇腹に牙をたてる。そのダメージは、簡単に小鬼を砂にしてしまった。
「くっ」
地面に無事着地したものの、ピースケの肩は間違いなく負傷している。さらに、第二陣の小鬼がチャンスとばかりに、じりじりとこちらへ迫って来た。
「ピ、ピースケ……」
崩れそうになる身体を何とか支え、ピースケは迫る小鬼を睨み付ける。
「うっとうしいんだよっ、お前らは」
さっきより大きな光の玉が現れる。光は獲物にありつこうと駆け寄って来る小鬼達を全て包み込み、悲鳴を出す余裕さえ与えずに消し去った。
それと同時に、子犬の甲高い悲鳴が辺りに響く。
「ピースケ!」
ピースケの小さな身体が、地面に崩れた。
「ケガしてるのにあんな大きな力を使うなんて、無茶しすぎよ」
負傷した状態で魔力を使うと、その力の大きさによっては傷をさらに深いものにしてしまう。
今のピースケが、まさにそれだった。
さっきはかろうじて立ち上がれていたのに、今は強く目をつぶって倒れたまま。痛みに耐えているのか、身体が細かく震えていた。
このままにしておいては危険だ。いくらピースケの正体が悪魔でも、放っておけば致命傷になってしまう。
今のピースケはまともではなく、呪いがかかった身体なのだ。どこでよくない影響が出るか、予測できない。
お、落ち着いて。こんな時こそ薬草の知識を使わなきゃ。
魔力が高ければ、傷を簡単に治せる。だが、そうできない種族も多い。そういった種族のために、魔女は薬を提供するのだ。
もちろん、マーメイルも。
ベテランの域にはまだほど遠いものの、薬草や薬の知識はそれなりにある。こういう場合はどういう薬草を混ぜ合わせた薬が効くか、ということもわかっていた。
手元には、この森で採取した薬草が数種類ある。これを使えば、応急処置は可能だ。
「こんなことになるなんて思ってないから、乳鉢セットなんて持ってないよぉ」
普段は乳鉢とすりこぎで薬草をつぶし……といった作業をするが、今は手元にない。森の中で作業することなど、まずないからだ。
仕方なく、必要な薬草を魔力でつぶすことにした。マーメイルのあまり強くない魔力ではしっかりつぶせないから、薬効成分がしっかり抽出できないかも知れない。
とにかく、今は応急処置だから、そこは妥協するしかなかった。
袋から薬草を取り出し、一緒にハギレも取り出す。何か貴重な植物を見付けた時、必要であればその布に巻いて大切に持ち帰れるよう、いつも入れてあるのだ。
これにつぶした薬草を置き、ピースケの傷に当てることにした。
さっきのピースケの攻撃で、周辺の小鬼はとりあえず一掃できたのだろう。マーメイルの邪魔をする者は現れない。それなら、今がチャンスだ。
マーメイルの手の中で、薬草が見ているうちにペースト状になる。
うん、これくらいまでできれば、薬効成分は出てるはずよね。
マーメイルはそれを布に伸ばし、ピースケの傷に当てた。途端にピースケの身体が大きく震える。
「いっ……」
「ピースケ、少しがまんして。すぐによくなるから」
薬についてはわかるが、傷の程度は判断できない。だが、かなり深いと思われた。
「お前、魔女のくせに、治癒の一つもできないのか」
相変わらず偉そうな口調だが、声に力がない。
「できないわよ」
「偉そうに言うな」
「魔女は呪いをかけたり、解いたり、色々占ったり、薬を作ったりするの。まぁ、力があれば、いくらか攻撃もできたりするけど」
「お前にそんな余裕はなさそうだしな」
できないから、逃げるしかできない。
悔しいがピースケの言葉が事実なので、マーメイルはまともに反論できなかった。
「う、うるさいわね。これから手を広げていく予定よ。一度にやろうとしたって、一気に全部ができるようにはならないもん」
「そこまで才能もなさそうだしな」
ピースケの減らず口に、マーメイルはかちんとなる。
「……毒薬、塗ってあげましょうか」
大ケガした子犬相手に何を言ってるんだろう、と思うが、やっぱり悔しい。事実だから、なおさら腹が立つのだ。
「手元にあるなら、やってみろ」
「ピースケって、本当にかわいくないっ」
実際、毒薬になりえそうな物は袋に入っていない。それを見透かされたのだろうか。
入っていても本気で使うはずはないから、その点でも見透かされたのかも知れない。
「できないなら、口にするな」
聞こえないが、口調からしてその後に「バーカ」と言われたような気がする。
傷口を殴ってやろうか、と本気で思った。
「くそっ、いつもなら……この程度の傷くらい……」
「この程度……って言うレベルのケガじゃないような気がするんだけど。ピースケなら治せるって言いたい訳?」
「治せるんじゃない。治るんだ」
やはりそれだけ魔力が高い、ということか。悪魔はほぼ例外なく魔力が高いと聞くから、ピースケは本当に悪魔なのかも知れない。
「あら、丈夫。ついでに、その悪いお口も治るかしら」
「……」
ピースケはこちらを睨んで何か言いかけたが、その表情が歪む。それを見ると、悔しくて言い負かしてやりたい、という気持ちが一気に溶けてしまった。
「……あんな小鬼ごときに。魔力でなくても、剣があれば」
「あたしをかばったりするからじゃない。ピースケ、どうして……かばってくれたの」
マーメイルはピースケに言われるまま、戦わずに隠れようとした。ピースケは小鬼の団体に立ち向かおうとしていたのだし、逃げようとするマーメイルなど放っておけばよかったのに。
もしくは、マーメイルに多少とばっちりがあっても、襲って来た小鬼を魔力で攻撃すれば、自分がケガをすることもなかっただろう。
「カラスに襲われてた時も助けてくれて。あの時は、失せ物探しなんて関係なかったじゃない。それなのに」
「俺は冷酷な性格じゃないからな。今はその性格が恨めしいが」
人間界では、悪魔は冷酷、と思われているようだが、所詮それは人間の持つイメージでしかない。
多少……何度も意地悪な言い方をされたりしたが、マーメイルは「ピースケはむしろ優しい」と思えた。
糸の見えるマーメイルの存在が必要だからとしても、それならだいたいの方角を聞いてピースケだけが向かっても、きっと失せ物は見付かるだろう。
それなのに、ピースケは文句を言いながらも、マーメイルを守ってくれている。
「ピースケ、あたしをかばって……後悔してるの?」
「してない」
本心ではなくても、てっきり「してる」と言われると思ったのに。はっきり否定されて、マーメイルはどきりとする。
今までさんざん好き勝手言ってたくせに、何だかその言い方ってずるいよ、ピースケ。
そう思っても、マーメイルは口に出して言えない。
ふいに、ピースケが耳と鼻を動かした。
「また小鬼の気配がしてる。ここにいたら、襲われるぞ」
その言葉に、マーメイルは青ざめた。
「そうなの? 移動しなきゃ」
さっきのピースケの攻撃で終わった、と思ったが、ああいう手合いに限って数が多いのだ。
今来られてもピースケは戦えないし、マーメイルは最初から戦闘要員に入っていない。ここはさっさと逃げるに限る。
マーメイルは再び袋をたすきがけにし、ピースケを抱き上げた。
「な、何してるっ」
明らかにピースケの声は戸惑っていた。その様子に、マーメイルは「ちょっとかわいいかも」と思ってしまう。
「ピースケは動けないでしょ。安全そうな場所へ行くまで、おとなしくしてなさい」
糸の存在はとりあえず無視し、マーメイルは適当な方向へ歩き出す。
「明るい場所へ行け。あいつらは光を嫌う。ここより明るいなら、追って来ないはずだ」
言われてみれば、さっきのピースケは光の玉を出して小鬼を攻撃していた。色んな力を持っているんだなぁ、と単純に思っていたが、実はそれぞれの相手に対して適した力を使い分けていたのだ。
薄暗い森の中で明るい場所など難しいが、小鬼に追い付かれては全滅してしまう。
マーメイルはとにかく歩いた。
「お前の胸は、見事な平野だな」
「あんた、叩き落とすわよっ」
こういう時に魔女のコンプレックスを刺激するなんて、自殺願望でもあるのか。苦しいのか、わずかに息を切らしているくせに。
胸に押しつけるような形で抱きかかえているので、ないとわかってしまうのは仕方がないが……今言わなくてもいいだろう、と思う。
さっき「ピースケが優しい」なんて思った自分が恥ずかしい。
「しばらく黙ってなさい」
本当に叩き落としたい衝動にかられるが、ピースケがこういう状態になったのは自分のせいでもある。マーメイルは、何とか怒りを抑えた。
「俺に命令するな」
「はいはい。しばらくお静かに願います」
「そういうのを、慇懃無礼と言うんだ」
「あら、そんなふうに聞こえましたぁ、ピースケさん」
失礼には失礼でもって返す。どうしてこんな時にこんな言い合いをしてるんだろう、と少し空しくなったが。いや、ピースケがひどいことを言うのが悪いのだ。
「そうとしか聞こえん。……俺の名前はドレイクだ」
「え……」