黒い子犬
長身の青年は、両開きの窓を大きく開けた。生暖かな風が部屋の中へ流れ込み、彼の美しく長い銀色の髪を揺らす。
雨雲がたれこめている訳でもないのに、空はどんよりした鈍色だ。
だが、この世界……魔界では、これが日常である。
「いい天気ですねぇ」
彼は窓の外に広がる空を見上げ、にこやかに言った。
その窓の下には、大きな湖が広がっている。断崖絶壁に建てられた建物の三階から見る湖面は遠く、空の色を映して暗い。
湖の向こうには森が広がり、さらにその向こうには村があり、街がある。
もっとも、ここからでは森より先は見えない。
「それでは」
彼は湖に向かって、手に持っていた物を投げた。
彼の手の中にすっぽり入るサイズのそれは、軽く投げただけとは思えないくらい、高速で飛んで行く。きらりと小さな光が一瞬見え、いずこかへ消えた。
「湖には落ちていないはずです。森まで飛んだでしょう。どの辺りかは何とも言えませんが」
「……」
彼は室内に向き直ると、妖艶な笑みを浮かべた。
☆☆☆
シャハの森は、生えている薬草や魔草の種類が豊富だ。良薬・毒薬を作る者は、この森へよく入る。
多分にもれず、マーメイルもよくこの森へ来ていた。
マーメイルは、最近自立した魔女である。小屋と呼ぶ方がふさわしい形態の家で、独り暮らしを始めたばかりだ。
ゆるいウェーブがかった胸まである黒髪と、丸く大きな緑の瞳。人間界へ行けば、十六、七の少女に見える若い魔女だ。
恋魔や使い魔など、パートナーは現在募集中。魔女の修行はそれなりにこなしているつもりだが、魔力が弱いのが悩みだ。
いつもは魔女仲間と一緒にこのシャハの森へ来るのだが、今日はみんな都合が悪いと言う。なので、仕方なく単独で来ていた。
「あ、これ。こんな所に生えてるんだぁ」
おしゃべりすることなく採取に集中したおかげか、薬草を入れるための袋はどんどんふくらんでいく。
だが、何事も夢中になりすぎるのはよくない。
「あれ……? えーと」
普段はあまり見かけない(たぶん、いつも見逃している)薬草を見付け、嬉しくてそれを脇目もふらずに採取していた結果、マーメイルはこれまでに入ったことのない場所へ来ていた。
ここは一体どこなんだか。
さらに。
「きゃあっ。ちょっと、やめてよっ」
その周辺をテリトリーにしているらしい、三ツ目カラスが集団で襲って来た。
名前の通り、目が三つあるカラスは身体が大きい上に凶暴だ。普通にしていてもマーメイルの身体の半分くらいはありそうなのに、翼を広げたら小柄な魔女より大きくなってしまう。
カラスは侵入者を排除すべく、マーメイルをその鋭いくちばしで突こうとしてきた。
採取した薬草が入った袋は、ちょっとやそっとでは破れない鋼ツタで編んだもの。マーメイルはその袋を振り回し、カラスの攻撃を懸命に防いでいた。
が、いかんせん、相手は十羽を超えている。しかも、羽を飛び道具にし、矢のごとくマーメイルへ向けて来るのだ。
カラス本体だけでなく、飛び道具による攻撃までされては、そのうち身体中が穴だらけになってしまう。
「あんた達に何かしようと思って来たんじゃないわよ。あたしの話、ちょっとは聞きなさいよねっ」
と、怒鳴るものの、相手は聞く耳を持っていない。案外、弄ばれてる気もする。
魔女がカラスに襲われるって、どうなのよっ。
目をえぐり出そうと飛んで来たカラスを袋で撃退したものの、次の攻撃をさけようと後ろへ下がったところでマーメイルは木の根につまづいた。尻もちをつき、完全に不利な体勢だ。
やられるっ。
自分に向かってくるくちばしの先に恐怖を覚え、目をつぶった。
だが、ばしっと何かが当たる音とカラスの悲鳴が聞こえ、マーメイルは目を開ける。
マーメイルを襲おうとしていたカラスは地面に落ち、他のカラスは同じ方向を見ていた。マーメイルもつられてそちらを見る。
「な、何なの? あれって……黒妖犬……の子犬?」
現れたのは、黒い子犬だ。いつの間に来たのだろう。
マーメイルの頭より少し大きい程度で、真っ黒の身体。ぴんと立った耳。子犬なので、脚も短い。普通の状態なら、かわいいと思えるのだが……。
どうやら、自分の何倍もある大きいカラスを、あの子犬が何らかの力で弾き落としたらしい。
この辺りに黒妖犬がいるなんて、聞いたことないけど……。絶対、この辺りは生息地じゃないし。
そんなことより、事態はこれと言って好転していない。
カラスの攻撃からは一時的に免れたようだが、あの犬だって実は十分危険な存在なのだ。子犬と言えども力があるし、のど元に牙をたてられたらマーメイルはおしまいである。
さらに。
子どもがいれば、近くに親がいるかも知れない。マーメイルよりも大きな身体の親が。
こちらが何もしなければ何もされないはずだが、この状況でそれが通じるかどうか。子連れの獣は大抵、いらだっているものだ。
「狩りじゃないなら、大勢で襲うのは見過ごせないな」
単体で来られても、三ツ目カラスは怖いわよ。
獲物の立ち位置にされているマーメイルは、心の中で文句を言う。
一方、カラス達は三つある目を赤く光らせた。
子犬であろうと、相手はテリトリーに現れた新しい侵入者だ。まして、仲間に攻撃した。明らかに、排除する対象である。
一羽が鳴き、それが合図のようにカラス達が一斉に子犬へ飛びかかった。
だが、子犬の方から強い風が吹き、カラスはその風に巻き込まれて次々に木へ激突する。
中には地面に落ち、そのまま煙になって消える者もいた。強すぎるダメージを受け、排除しようとした相手に排除されたのだ。
消えずに済んだカラスも、相手が悪いと悟ったらしい。かろうじて翼を動かし、よろよろしながらどこかへ消えて行った。
マーメイルはその後ろ姿を見送り、大きく息を吐く。
とりあえず、助かったぁ……。
「ガキがのこのことこんな所へ来るから、襲われるんだ」
そう声をかけられ、マーメイルは慌ててそちらを向く。
あまりにもあっけなくカラスがやられるのを見て、一瞬子犬の存在がお留守になってしまっていた。
さっきはそれどころではなかったので気付かなかったが、その小さな姿に似合わず、ずいぶん低い声だ。
「ガキって失礼ねっ。もし同じ種族なら、絶対あんたの方がガキでしょ」
やばい存在かも、ということが抜けて、マーメイルは言い返した。
確かに、マーメイルはまだ完全なオトナとは言えないお年頃。だが、子犬に「ガキ」と言われたくはない。
「うるさい。俺がこの姿なのは、今だけだ」
「今だけ?」
多少の時間が経ったはずだが、親が現れる様子はない。カラスを退けても、目の前の子犬が襲って来る気配もなかった。
どうやら相手に自分を喰う意思がなさそうだ、と勝手に判断したマーメイルは、子犬の方へ近付く。少しでも視線を近付けようと、子犬の前でしゃがんだ。
真っ黒な身体だが、よく見ると瞳は濃い青。両方の目尻に、赤い三日月のような紋様があった。黒妖犬なら、瞳も毛並みも全てが黒いはず。突然変異、というのではなさそうだ。
それ以外でも、マーメイルには気になるところがあった。
子犬がまとう空気だ。
「あんた、もしかして呪われてるの?」
あっさり言われ、青い瞳が少し大きく見開かれた。意外、という顔だ。
「……よくわかったな」
「そりゃ、魔女だもん。ちょっと見ればわかるわよ」
マーメイルは、呪いをかけたことも解いたこともまだない。だが、魔女の能力として、そういった術を見抜く力はそれなりにある。
他の種族なら気付かないような気配でも、魔女ならわかる、ということがあるのだ。
それが「呪い」の類である。
どうやら、彼は呪いでこんな子犬にされたらしい。子犬にしてはずいぶん低い声だと思ったが、そこは本体のままのようだ。
ずいぶんとかわいい呪いだが、当事者にとっては「かわいい」で済まないだろう。どんな状態であれ、不利益になる術なのだから。
本体が魔力の高い種族であればあるほど、子犬なんて姿はプライドを深く傷付けるに違いない。たとえそれが、魔力の高い魔犬であっても。
「あんた、名前は?」
「初対面の奴に、どうして名乗る必要がある」
警戒しているのか、子犬は言おうとしない。
「あたしはマーメイル。ほら、女の子の方から名乗ったんだから、言いなさいよ」
「……」
だが、子犬はやはりその姿にプライドが刺激されているのか、まだ言い渋る。
「何よ、恥ずかしくて言えないような名前なの?」
「失礼な奴だな。特に気に入ってはいないが、ちゃんとした名前はあるっ」
「じゃ、言いなさいよ」
「だから、どうしてお前に名乗る必要があるんだっ」
怒ったように言われ、マーメイルもむっとなった。本名を言えなくても、代わりにこう呼べ、といったことくらい言えばいいのに、と思う。要領の悪い子犬だ。
「もう、ピーピーうるさいな。言わないならあんたの名前、ピースケに決定!」
秘密主義を貫こうとする子犬。業を煮やしたマーメイルは、勝手に命名した。
当然、抗議の声が上がる。
「な、何だ、そのピースケって。俺は鳥の雛かっ」
「鳥のヒナの方が、よーっぽどかわいいわよ」
「食うか寝るか鳴くかしかできん、あんな奴らと一緒にするな。それに、俺はピーピー言ってない。だいたい、この姿でピースケなんて合わないだろっ。まだポチやクロならともかく。お前、ネーミングセンス最低ってよく言われるだろ」
「センスがない、なんて言われたことないわ。だいたい、ポチなんていうのは一部の人間が犬につける名前でしょ。あたしはそんなオリジナリティのないネーミングはしないのよ。魔女のコケンに関わるわ」
「何が沽券だ。……お前、意味がわかって使ってるんだろうな」
子犬が疑いの目を向ける。
「わ、わかってるわよ。失礼ねっ」
正直に言うとそんなにわかっていないが、ここは勢いである。
「ねぇ、あたしが呪いを解いてあげてもいいわよ」
偉そうに言うが、未経験で魔力レベルの低いマーメイルが実際に解けるかどうかは……運次第である。
「お前に解いてもらわなくても、俺の魔力を封じた紋……装飾品を見付ければ、それで解決する」
「ピースケ、かわいくない」
あっさり断られ、マーメイルは口を尖らせる。
「だから、ピースケって呼ぶなっ」
「で、その装飾品ってどこにあるの」
「……今、捜している」
マーメイル命名の「ピースケ」は、少し目が泳いだ。
「ふぅん」
「な、何だ」
「その装飾品が見付かれば呪いが解けるけど、どうしても見付けられないでいるのね」
「……」
言い返せないところを見ると、当たっているようだ。
「あたしなら、見付けられるかもよ」
「本当か?」
早くも本日二度目の、ピースケ疑いの目。
「まだ修行中だから、ちょっと時間がかかるかも知れないけど。あたしにだって、失せ物探しの術ならできるわ。さっきカラスから助けてもらったし……あ、お礼を言ってなかった。助けてくれて、ありがとう。お礼にそれをしてあげる」
マーメイルの申し出に、ピースケは少し考える。
呪いを解く方法を知っていても、実際に解くためのアイテムを見付けられずにいるのは事実。闇雲に森の中を駆け回っても、時間が過ぎるばかりだ。
だったら、ここは魔女の力を利用……もとい、厚意に甘える方が得策。
「わかった。では、頼む」
「うん、まかせといて」
ピースケはまだ信用しきれていないような表情だが、マーメイルはにっこり笑って請け負った。