黒鳥山
そして、また高石に行った。
和泉街道が茅渟道だったかもしれないと分かって、がぜんこの近辺に興味がわいた。古代、飛鳥のあたりと茅渟道で結ばれていたあたり。
曇り空の日で、あまり遠くには行きたくないというのもあった。天気予報では一日くもりだったけれど、そんな日でも、何度か長い雨に降られたことがある。もし雨に降られても、せっかく遠くまで来たのにな、と思わずにすぐ帰れるくらいのところがいい。
コースは、高石(南海本線)から南に信太森神社、信太新地、伯太神社、黒鳥山公園、それから西に和泉国府跡、北に泉穴師神社を通って泉大津駅(高石駅から和歌山方面に3駅目)から帰ろうかな、と計画。
行ったことのあるところも多かったけれど、信太新地と黒鳥山公園は初めてだった。
白い花が綺麗な季節だった。ユキヤナギと、コブシかな? 大阪市の街路樹も、地味な木かと思っていたら、春になって大変身していた。コブシ(かハクモクレン)だったみたい。
高石駅から、高石街道でも歩いた専称寺(綾井城跡)に行き、そこから善称寺に向かうつもりだった。善称寺なる寺の前の道を道なりに南に進めば信太森神社。
けれど専称寺に至る前、西側に古い集落があって、歩いてみると迷路みたいだし、面白くて、どんどん歩いているうちにさっそく迷子になった。そして小雨が降り出した。やっぱり降ったか、それにしても早すぎだな、と思いつつ歩き続けた。
それからどうにか探し出した善称寺の周辺も、かなり古かった。少しだけ周りより小高くなっていて、かなり古そうな煉瓦塀を持つ旧家とかもあった。上田さんのおうちが多くて、それはもっと南に向かってもそうだった。
善称寺は江戸時代創建だって。江戸の頃からこのあたりに集落があって、周りは水路と田んぼばかりだったのだろうなあと思われた。古い時代の感じが、かなり色濃く残っていて、面白いところだった。
善称寺からは道なりに南に進んで高速(堺泉北道路)の下を進み、国道26号線も葛の葉町交差点で横切った。
雨はいつの間にかやんでいた。26号線の右側(西側)は下りになっていて、池上曽根遺跡の案内がでていた。池上曽根遺跡は弥生時代の大規模な環濠集落の遺跡で、前に行ったことがある。だだっ広い公園になっていて、近辺の老人たちがぽつぽつといるだけの、少し荒れたところだった。なるほど、古い、古い、一帯だなあ。
右手に信太変電所が現れ、それから信太森神社も現れた。この周辺もかなり古かった。土塀が見えて行ってみると、昔のものらしい納屋で、中にはトラクターなどが納まっていた。土壁の旧家で、母屋があって、納屋があってという具合。
平成の世に現れる、THE「田舎の農家」に、散歩し始めの頃は目を疑った。わたしは大阪市内しか知らないトイプーだったからなあ。散歩しているとちょくちょく見かけるようになったけれど、それでも毎回、目を見張っちゃうな。なんというか、ごつくてかっこいい。
信太森神社は通称、葛葉稲荷神社。小さな公園も備えている広めの境内には、いろんな祠があった。
改めて見ると、森だったのだろうなあって感じがあった。くすのきたちが大きくて、手を広げて森をつくっている感じ。百度石には「取次 神南辺」とあった。
葛葉は安倍晴明の母の名で、信太森は葛葉さんが住んでいた森だ。聖神社に参る途中で安倍保名(安倍晴明の父)さんがキツネを助けたことがあって、葛葉さんは実はそのキツネ。キツネだったことを知られた葛葉さんはまた信太森に戻り、阿倍野に住む幼子の安倍晴明を抱えた父は信太までやって来て、今生の別れをしたというところもこの近くだった。
すぐに線路(阪和線)に出て、線路沿いを信太駅方向に向かっていった。
左(南)は上り坂。右手は、豊秋中学だろうな、前に熊野街道で歩いたあたり。踏切には「千原街道」とあった。この右手に千原ってところがある。
左に団地が続き、公園の遊具が見えたら、このあたりから新地らしい。線路沿いの道には大きなオフィスビルやアパートが続いていた。ビルの一階には「中居募集中」とか「旅館○○」とか書かれていて、入口が奥まったところにあったりして、よく見ればあやしい感じはしたけれど、知らなければなにも気づかずに通っていたかもしれない。電車の窓から見えるところだし、あやしすぎるのもまずいのかな。
大きなモータープールがあって、「1回300円 長時間の駐車はできません 買い物などの駐車はできません」みたいなことが書かれてあった。つまりはここは新地の客用の駐車場で、駐車場の裏から新地のただ中に入っていけるようになっているのかな。
「文意は読み取れよ」と、周りとは一線が引かれているのを無言で示す一角だった。一線の奥は通り道にはならない立地で、立ち入るのは新地に用がある人だけだろうと思われ、散歩する犬の身では入っていきかねて、周囲だけを歩いた。
周囲からは新地だと分かりにくくなっていたけれど、建物の向こうにお店が並んでいるのが見えた。一歩二歩足を踏み入れたら、THE新地のようだった。
線路沿いを信太駅まで行ったら左に曲がり、玉出スーパーのある方向へ。信太山駅上り交差点を過ぎて、そのまま進んでいった(西南西に)。
途中、「左 聖神社参道」という古い道標があった。前に中和泉街道で行った聖神社。信太大明神などとも呼ばれる、天武天皇が渡来系の信太首に祀らせたという神社。わたしは境内までは入っていないのだけれど、信太山にあって、今でも森と同体のような素敵なところだった。
今回は中和泉街道より南側を、信太山の高台に向かって歩いた。山なのだけれど、すっかり開発されて、ずっと住宅街が続く上りの道を上り続け、道が左右に分かれるところでは左(茶色っぽく道が舗装されている道)に進んだ。
伯太神社が現れた。飛鳥時代の創建で、祭神は伯太彦と伯太姫。玉手山(柏原市)の伯太彦神社や伯太姫神社と同じように山に鎮座していた。
前にここにやって来た時には、伯太彦と伯太姫を知らなかったし、なにも語らない神社だなあと思った。神社の周りって、ふる~い家が周りにあったりもするものなのに、ここには一切なかった。
玉手山に行って、伯太彦神社や伯太姫神社にも行って、伯太彦の正体に興味をもった今、なにか語るものがないか、もう一度来てみたかったのだけれど、やっぱり前回同様、なにも語らない神社だった。
坂の途中にある、びっしり家々の建ち並んだ中に突然現れる、小さく切り取られた、小さな神社。山のふもとの、広い神域を持つ大きな神社だったのに、山は開発され、それでも本殿あたりはどうにか残され、伯太の地名も残されたのかな?
伯太彦と伯太姫は田辺史なる氏族の祖神だろうと柏原では言われていた。
雄略天皇の時、応神天皇陵のあたりで馬の埴輪に化かされた(?)男の話が日本書記に載っていて、その男が飛鳥戸(安宿)に住む田辺史伯孫だった。
安宿には田辺ってところがあり、そこにかつて百済系渡来人といわれる田辺史が住んでいたということが記載からわかる。そして田辺あたりには伯太彦神社と伯太姫神社が鎮座している。
よって田辺史伯孫は田辺史の先祖であり、「伯孫」と「伯太」は似ていることから、伯太彦・伯太姫神社というのも田辺史が祖を祀ったものだろう・・・ということのようだった。
わたしにはぴんとこなかった。みんな自分の住む土地の名で呼ばれていた時代、書を行う役職についた一族(職能部民)は「史」の姓をもらっていた時代、都会だった安宿に田辺史は住んでいたのだろうけれど、他の田辺さんも住んでいただろうし、伯太と伯孫をつなげて「伯太彦・伯太姫神社を祀ったのは渡来系の田辺史だ」とするのは早計ではないか?
田辺は原川の東側に今もあるけれど、伯太彦・伯太姫神社が鎮座するのは原川の西側の玉手山で、玉手山には古墳時代初期、3世紀終わり頃の前方後円墳だってあるのだ。
ここ和泉の伯太神社は、飛鳥時代、柏原の伯太彦、伯太姫を祖神とする人たちが和泉に派遣され、そこに自分たちの神を祀ったと言われているみたい。けれど、かつてうっそうとした森だっただろう信太山、古くから人が住んでいた一帯で神奈備のようであっただろう信太山を背に、今も存続するような神社を祀った人たちは、飛鳥時代に派遣された人なんかではないという気がするのだけれどな。
そのまま上り道を行くと、左手に鳥居が現れた。丸笠山古墳と神社だった。以前来たときと同じく周辺が工事中で、中には入っていけなかった。4世紀末の前方後円墳で、古墳時代前期の前方後円墳は和泉ではここと黄金塚古墳だけだそうだ。
黄金塚古墳あたりの有力豪族が、その後、ここ信太山丘陵や、取石、富木に勢力を広げていったのだろうと言われているみたい。富木にも古墳があって、鉄鏃、馬具、ガラス玉の首輪や耳環などが出土したのだって。
茶色のカラー舗装の道は左にカーブしていき、そちらに進むと、すぐに惣ケ池公園がある。前に行ってみた惣ヶ池公園には近くには大きな池があり、そして公園は高地性集落の跡ということだった。
弥生時代の後期、瀬戸内や大阪湾岸では高地に多く集落がつくられていたそうだ。緊張の時代で、高い位置に住み、海の向こうを見張っていたのでは、とか言われている。
わたしが今までに行ったところでは、玉手山、高尾山(柏原市)、熱田神社(寝屋川市)あたり。
池上曽根遺跡など大規模集落に住んでいた人々は、やがて小さな集落に分散していったそうだ。そして弥生時代後期には高地性集落に。
惣ヶ池遺跡に住んでいた人たちと黄金塚古墳(4世紀後半)を築いた人との関係はよく分からない。
4世紀末から5世紀初め、和泉の丘陵一帯で須恵器が生産され始めているそうだ。一帯で焼かれた須恵器は和田川などで、大型流通センターだったらしき深田に集められ、大園(取石あたり)から舟で各地に流通されていたのだって。近くは仁徳天皇陵などにも須恵器が運ばれたのだろうな。
古い時代、一帯は茅渟県陶邑と呼ばれていたそうだ。土師で焼かれたのが土師器、陶で焼かれたのが須恵器と名付けられたのかな?
そしてその時代、陶邑には大物の豪族がいたのだろうな。大量の須恵器を生産して流通させた人。
今回は惣ケ池公園方面には行かず、まっすぐ進んでいった。
このあたりまでは住宅街にはなっていなかった。右には信太山青少年野外活動センターの広い敷地が始まっていて、左はなんだろう? 水道局の施設っぽかった。
両サイドをフェンスで囲まれた道だったけれど、羽曳野丘陵とは違い、幅が広くて、圧迫感はなくて、気持ちがいい道だった。歩道もきちんと広くとられていて、歩きやすい。
せっかくの丘陵だから、車道の横の山の中の道を歩けるともっと気持ちいいのに、と、昔なら残念に思っていただろうな。けれど、もうそんなことは思わない。言うのは簡単だけれど、その山道を誰が保つのか、それが大きな問題だと分かるようになった。ここに遊歩道的な山道を作っても、イノシシとの住み分け、保全、ゴミなどなど問題が山積みになるだけだろう。歩道の広い、歩きやすい道があるだけでありがたい。
峠を越え、最初の信号が現れた。まっすぐ進む道も左折する道も、山の中に続いている感じだった。
ここは、右折する道に進んでいった。直進すると光明池方面で、左折すると草部とか黄金塚古墳とかのほうだったみたい。
右折すると新興住宅地になっていた。新興住宅の合間に田舎らしい古いものがたびたび現れた。小さい古い家のような黒鳥山不動院、それから黒鳥牛神社。
牛神社は新しかったけれど、いわれは古そうだった。行ってみると、小さな石が積まれたものが、BBQの跡みたいにいくつも置かれていた。その奥に小さな石の祠。すべてが地面に直置きされ、なんだか特異な祀り方をされた神社だった。木の鳥居だけはどこからか移してきたものらしく古かった。
神社が向いているのは、南の方角だった。その向こうには遠くに別の山が見えていた。地名は山荘町。高地と見えて、四方に山々が見えた。
もう少し進むと「黒鳥牛神社山祭唐鋤場」と書かれていて、唐鋤って、牛につけて引かせて田畑を耕す農具のことらしい。「山祭」は山の神様を祭る祭りのことだって。牛を使って祭りを行って、そのときにここで唐鋤を曳かせるとかするのかな。
地名は黒鳥町。鳳や百舌鳥や白鳥と同じ、鳥。
そばに公園があって、ここがベンチと木があるだけの小さな公園なのだけれど、見晴らしが最高だった。山々が高く近くに見えていた。雨の降ったあとの晴れ間に見る山は、雲と一緒になって神々しく美しかった。
遠く地上にはビルもいっぱい建っているのが見えた。自分が鳥になったような気持ちになる。
住宅街になりすぎている信太山を歩くうちに、こんな別世界にやって来ていたのか。
続きを下って行くと、黒鳥山公園が現れた。
まだ伯太山を下りきってはいないと思うのだけれど、信太山をここらでは黒鳥山と呼ぶのかな? 広い公園の入口が、少し道を外れて左に下っていったところにあった。向かいには「阪口喜一郎顕彰碑」がたっていた。
阪口喜一郎って、戦争の時代の共産党員で、反戦機関紙「聳ゆるマスト」を呉で発行した仲間の一人だって。けれど時代が時代で迫害をうけ、31歳で広島刑務所で惨殺された。黒鳥出身の人だったのだって。
公園には桜がいっぱいで、まだ3月のその日、つぼみがピンク色になっていた。もう少しで咲きそうだったけれど、また雨がぽつぽつと降り始めたこの日はまだ寒く、人もあまりいなかった。広い園内に他に2組だけがいた。
提灯などがさげられ、ロープが張られ、花見の準備は終わっていた。桜が咲いたら、すごい人だろうな。高台にあり、素敵なところだった。ここで見る桜はきれいだろうなあ。こんな天上のようなところで、下界を見下ろして生きている人たちがいるんだな。
高地性集落で暮らしていた時代、その見晴らしになじんだ人々には、下界に住むって、どんな心地だっただろうと思った。最初のうちは地を這う虫になったような気がしたかなあ。
黒鳥にも古墳があったそうだ。信太山には一帯に古墳があって、信太千塚古墳群といわれるくらいだったらしい。けれどほぼ破壊されてしまったのだって。ここに古墳をつくりたい気持ちはわかる。
公園を出て、下界に降りていった。
右手には墓地、それから陸上自衛隊信太山駐屯地。ジープが並んで停まっていた。ここはもうほぼ下界だった。
次の信号で交差した道の左手が古く思えた。また雨が降り出していて、気になりつつ先を進んだけれど、お寺や黒鳥天満宮もあって、古い一帯だったみたい。
黒鳥小学校を過ぎて、つきあたりまで進み、右折。次の信号で交差するのが熊野街道。左折して熊野街道を通って、和泉府中に行くつもりだった。
途中、右手に素敵な旧家が並んだ道があって、入っていくと円福寺、あみだ寺、それから鳥居があって、行ってみると泉井上神社だった。
熊野街道歩きでも立ち寄った泉井上神社だったけれど、だいぶ前のことだったし、あまり覚えていなかった。神功皇后の三韓征伐のとき、一夜にして泉が湧いたといい、そこから地名も泉(後に和泉)になったのだって。
いろんな神社が同じようなサイズ感で集まっているところがあって、総社っぽかった。前に来た時には総社の意味もあまり分からなかったけれど、総社って、国府の近くにつくられた神社の寄せ集め。むかし、国司(各国にある国府で働く長。今だと国府が県庁で、国司が知事みたいな感じ?)に任命されると、とりあえず任地の由緒ある神社に全部参るのが習わしだったのだって。でも全部回るのもたいへんで、国府の近くに各神社の出張所みたいなのを集めてつくっちゃえ、というわけで総社がつくられたそうだ。
熊野街道に戻ると、その向こう側(南側)も古そうな感じがあって、行ってみると御館山公園など。その向こうは、かつては小川が流れていたんじゃないかなって道だった。
公園には「国府庁跡」の碑や説明があった。このあたりに和泉国府の庁舎があったんだって。紀貫之も国司としてやってきたことがあるらしい。
熊野街道の続きを進んでいくと、妙源寺の手前で急に車通りと人通りが多くなった。と思ったら、ここを曲がると和泉府中駅あたりだった。
和泉府中駅方面に向かい、駅の東の踏切を渡った。ここから泉穴師神社に行って、泉大津駅から帰るつもりだった。
広い要池団地東交差点を横断し、右手の地蔵を過ぎて(左手には大きな府営要池住宅)、道が二股に分かれるところを右手に入っていった。道は下りになっていた。
そしてこのあたりも古くて、うろうろ散歩した。かつては水路の多い素敵なところだったんだろうなあという感じがした。要池なる池があり、そこから水路がひかれて、田畑の多い村落だったのじゃないかな。
寺や、泉穴師神社が現れた。
泉穴師神社は、「穴師」ってなんだ? 穴太神社が八尾にあって、泉穴師神社の近くには穴田があるけれど、なにか関係が?と興味をひかれてやって来たのだ。
のぼれない石の小さな反り橋があった。勾配が激しすぎてのぼれない。こんなの初めて見た~と驚いた。それから隣のトイレを見て、あれ?ここ、来たことがあるぞ、と気がついた。個性的な反り橋では気がつかずに、どこにでもありそうな公衆トイレを見て記憶が蘇るって・・・。
拝殿の前には鳥居が行儀よく2つ横に並んでいて、それも珍しかった。本殿は赤くて素敵。
穴師神社について詳細は分かっていないらしかった。けれど「穴師」って、古くは風のことをいったらしく、それから言うと、風の神さま。
ほか、穴を掘って材料をとって、たたら製鉄を行っていた人々のことだとも言われているらしい。竜田古道を散歩した時、たたら製鉄に関わる道だなあって印象が強かったその道には風の神様(龍田大社)も祀られていた。たたら製鉄には風が不可欠だったんだって。ふいごを使う前の時代、高熱を得るために、自然風を利用していたそうだから。
どちらにしても風の神さま。
けっこう本格的に雨が降ってきて、しばらく雨宿りした。トイレの近くには無人の東屋があって、助かった。
小雨になってきて東屋を出た。
穴師公園を過ぎ、我孫子を過ぎた。和泉にも我孫子があったんだな。中世の頃には、もっと広い範囲一帯が我孫子だったそうだ。大阪市住吉区にもアビコがあった。アビコは古い時代の豪族の呼称だそうだ。
住吉区の場合、ヨサミのアビコって豪族が住んでいたから我孫子。仁徳天皇に鷹を献上したという人だ。ここのアビコの地名については、謂れは不明のようだけれど、どなたかアビコさんが住んでいたのだろうなあ。
我孫子では、かつては大きな工場と、そこに働く労務者たちのアパートでできた1つの世界だったんじゃないかってところを通る小道など歩き、昭和の時代に迷い込んだような不思議な感じがした。
それから穴田交差点を過ぎて、泉大津駅に向かうつもりが、和泉府中駅に戻っていた。あれ?とキツネに化かされた気分。まあいいかと、和泉府中駅から帰っていった。