叡福寺と茅渟道
叡福寺は高台にあって、坂か階段かで上っていくようになっていた。
なかなかに広いお寺だった。二重の塔(多宝塔)などがあり、奥には日本で一番大きいらしい水子観音と霊園もあるのだって。
そして一番厳かに祀られた感じのところがあって、そこが聖徳太子のお墓であるらしかった。予備知識もなく行ったものだから、聖徳太子のお墓かあ!とびっくりした。境内には他に2,3の小グループがいるだけだった。
お墓は屋根が三重になっていて、なんだか見ていると、ほのぼのとして涙が出そうになった。なんなんだろう。
聖徳太子、太子の母、太子の妻の3人が祀られていると言われているのだって。
まず母が亡くなり、その翌年には病気で太子と妻が相次いで亡くなったそうだ。寺は推古天皇が3人のために建て(たとも言われ)、後に聖武天皇が勅令をだして大規模につくり直し、織田信長がそれを焼失させ、豊臣秀頼がそれを再建・・・この後半は、あるあるだな。
法隆寺が世界最古の現存する木造建築物と言われているけれど、織田信長がいなかったら、他にもごろごろ同じ時代の木造建築物が残っていたのかもしれない。わたしの中で、その頃は、神仏をも恐れない新人類・信長ってイメージができあがっていた。大阪界隈ではどこに行っても「織田信長により焼き討ちにされ」「織田信長の戦火にかかり」という文言が見えたから。
叡福寺が建てられたのは、古墳時代の終末期。その後、仏教が主流になって、火葬なども行われるようになり、墳墓は造られなくなっていった。
終末期には乾漆棺が高貴な人には使われていたと、前に玉手山(柏原市)に行った時に知った。乾漆棺って、布と漆を交互に重ねて塗り固めて作った棺。玉手山の安福寺には聖徳太子の棺か?とも言われているらしき、シルクを使った乾漆棺(一般的には麻が使われる)があったのだって。
石室は、きれいにサイズを揃えて切られた大きな四角い石からなっているそうだ。そんな技術があったことにびっくりした。何で切っていたんだろう? そういうのが「渡来人の技術」ってものだったのかな。なんでもノミを横一列に入れていき、それを叩いて奥に割り進めていくなどしてカットしていたみたい。
聖徳太子の墓というわけで、空海、親鸞、一遍、日蓮なども参りにやってきたことがあるそうだ。歴史上の人物たちも、彼らの生きた時代にはまだ「歴史上の人物」ではなく、すでに「歴史上の人物」である人に思いをはせる一人だったんだなあ。
道(和泉街道)を隔てた向こうにもお寺が見えていた。2つのお寺の建つ高台の間の道は、ずいぶん低いところにあって、上空で寺が向かい合っている感じ。
叡福寺の境内から見下ろす、低い位置に建ち並んだ家々は古くて、甍の波をつくりあげていて、壮観だった。
向かいの寺にも行ってみた。小さな川を石の小さな反り橋で渡り、階段をけっこう上っていった。谷を挟んでその両側に、向かい合う寺を建てたんだな。
素敵な谷だった感じはあった。今は護岸されて、きっとスケールも小さくなっている。そして谷の上には洗濯竿が渡され、そこに洗濯物が干されているのが丸見えだったりもした。生活感をともなう史跡って、なかなかに魅力的だ。
寺の名は西方院だった。ここには他には誰一人いなかった。後でリュックのおじいさんが一人上って来たくらい。
聖徳太子の3人の乳母(侍女)たちが創建したらしく、その3人の眠る墓もあった。太子の死後もそばにいて、太子の眠る墓に向かい合っているんだな。
寺の説明によると、3人の侍女は、蘇我馬子の娘(月益姫)、物部守屋の娘(王照姫)、小野妹子の娘(日益姫)だって。この3人が太子の死後、出家して善信尼・恵善尼・禅蔵尼という三尼公になったんだとか。
けれどほとんどおとぎ話なのかな。三尼公も、実はそんな有力者たちの娘ではなく、渡来人の娘だったそうだ。
聖徳太子のおじいちゃんが天皇だった時、百済の聖王から仏像などが贈られ、これが一般的には「公的な仏教伝来」。蘇我氏が仏教に本腰を入れてみようかなってことになって、馬子が日本初の僧にしたのが、善信尼だったそうだ。
善信尼は司馬達等の娘で、11歳で出家したんだって。高句麗の元お坊さんの弟子になったらしい。ほかの二人は善信につけられたおつき(弟子)って感じだったみたい。禅蔵尼は漢人、恵善尼は錦織さんで、みんな渡来系だそうだ。3人は桜井で修行したのかな?
けれどほどなくして疫病が流行。
蘇我氏が外来の神を祀ったせいだと物部守屋が言ったとかで、仏教は禁止に。聖王からもらった仏像は難波の堀江に捨てられ(で、後にこの仏像を拾った善光さんが開いたのが善光寺なんだとか)、善信尼たち3人は海石榴市でムチ打ちに処されたそうだ。
けれどそれでも疫病は流行。尼僧たちは馬子に返されたのだって。
善信尼は聖徳太子と同じ年だったみたい。乳母だったとか、聖徳太子の死後に出家したとか、馬子の娘とか、守屋の娘とか、乳母と三尼公が一緒くたにされてしまい、その上にいろんな話が盛られていったのかもしれない。
ただ、ここに叡福寺や西方院があるということは、このあたりが蘇我氏の勢力地だったというのは確かなのかな。
大和の飛鳥(遠つ飛鳥)は、元はここ「近つ飛鳥」から引っ越していった先だったそうだし。
善信尼の父、司馬達等は鞍作首だったのではないかといわれ、孫に鞍作止利がいるそうだ。
司馬って中国の氏で、軍官などにつけられるものだったのだって。司馬さんは軍官として馬に乗る一族の人で、手先も器用だったから馬具も作り、鞍作の首になったとかかな?
鞍作の人たちはその名の通り、鞍など馬の馬具をつくる人たち(職能部民)で、応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇の頃などに渡来してきているそうだ。というか、いろんな時代にやって来て、その一部が鞍作メンバーに入ったのかな。
司馬達等は中国南部の人で、継体天皇(推古天皇の祖父)の時(521年)、百済を経由して渡来してきたとされている。
元々仏教徒だったみたい。中国からも大勢が渡来してきていた古墳時代、いろんな宗教の人々がやってきていたのだろうな。最初の僧として善信尼が選ばれたのも、元から仏教徒の家柄だし、本人も父もやる気だったからなのかも。
孫の鞍作止利は仏師として有名な人らしい。代表作は飛鳥大仏や法隆寺金堂の本尊、釈迦三尊像(国宝)。
当時の仏像って、金メッキされたものだったそうだ。まず銅を溶かして形を作り、そこに金メッキを施す。金と水銀を混ぜたものを塗ると、水銀が蒸発して、金メッキとなったんだって。馬具にも一部、銅に金メッキを施したものなども使われていたのかな。
中国では紀元前から金メッキを行っていたそうだ。最初に発明(錫メッキ)したのは、もっと大昔のメソポタミア。
日本に公的に伝来した仏教は初め、金ぴかの仏像に象徴される、ハイクラスの人々のための宗教だったそうだ。金メッキされた仏具や馬具はあこがれで、そのノウハウを持っていたのが司馬さんで、もっと早い時代に渡来してきていた鞍作たちの首になったのかな。
蘇我入鹿は「鞍作」を名乗っていたそうだけれど、金メッキを連想させる素敵な名前だったのかも。
前に歩いた竜田越奈良街道で、平野に加美鞍作ってところがあった。物部守屋の本拠地の渋川郡だったところ。
物部守屋を倒して、守屋さんのものだった土地は半分が蘇我氏の、残り半分が四天王寺のものになったそうだ。河内の弓削、鞍作、衣摺、足代、摂津の熊凝など・・・。
矢作、弓削など武具をつくっていたっぽい名前の土地が渋川郡には多くあった。鞍作もその1つで、鞍作の人たちが住んでいたのかな。守屋さんが倒されてそこが蘇我氏のものになり、そこにいた鞍作の人々もまた蘇我氏のものになったのかな。
蘇我さんが司馬さんをその首とし、元からいた鞍作を指導させたのか、元々物部氏の元で鞍作の首となっていたのか・・・。
加美鞍作にはかつて鞍作廃寺があり、善信尼が開いたお寺だったと伝わるそうだ。
西方院を出て、和泉街道の続きを進んでいった。
左手、少し奥まったところに「太子・和みの広場」があった。少し高台にある普通の公園のように思ったのだけれど、ここに松井さんのお宅から出てきた「凝灰岩製の横口式石槨」(松井塚古墳)なるものが展示されていたみたい。気づかずに通り過ぎてしまった。
叡福寺東交差点を過ぎて、左手の坂の上に磯長小学校が見えた。そちらに入っていって、「孝徳天皇陵」の矢印の方向へ進んでいった。
このあたりには陵がいっぱいあって、南には用明天皇陵もあるらしかった。当時の人々にとって、二上山の西にあるこの地が、極楽浄土を意味する「西方」だったから、ここ磯長に陵が多くつくられたのだって。本当かな?
西にではなく、東に進んでここに至ったわたしには、さらに西の大阪市近辺に聖徳太子の足跡がいっぱい残っていることもあって、その感覚がよくわからなかった。だいたい孝徳天皇って、もっと西の難波に宮を置いていた人だ。ここは「西方」という感覚じゃなかったのじゃないかな。
「吉村駒三郎翁碑」が現れた。道の左手は大きな旧家ぞろい。井戸のポンプも普通にとけこんでいた。
道は左に曲がり、磯長郵便局。このあたりは、新しい家々もあるけれど、田舎町の様相だなあ。
右手に公園が現れた。公園には「東の福地蔵」がいて、ここは叡福寺の東惣門があったところなんだって。織田信長に焼かれるまでは、こんなところにまで続く広いお寺だったんだな。寺の一部だったというのも分かる感じのする素敵な公園だった。
公園の北側の池を過ぎて右折すると、道が下っていき、すぐのつきあたりに上延命地蔵がいた。
ここでつきあたる道が竹内街道。このあたりまではまだ歩いていないけれど。ここで竹内街道に合流して和泉街道は終わる。孝徳天皇稜はこのもう少し東だったみたい。
この和泉街道の終点に、「角屋の馬」についての説明が書かれていた。
ここに角屋なる旅籠があったらしい。そして説明には「ここで竹内街道が茅渟道と合流」と書かれていた。
茅渟道? つまりは歩いてきた和泉街道が茅渟道なのかもしれないのだって。そんなことは露知らず、てくてくとここまで歩いてきたけれど。
丹比道の後継が竹内街道だといわれているように、丹比道と同じく古い時代からあった茅渟道の後継が和泉街道だといわれているらしかった。
茅渟道は日本書記に記載がある道だそう。
「自茅渟道逃向於倭國境。」
難波に宮を置いていた孝徳天皇(36代)のとき、蘇我倉さんが事件を起こした。そして「茅渟道より逃げ、倭との国境に向かった」って感じ?(漢字だらけでよく分からない・・・)
茅渟道も丹比道と同じで、そのルートは実のところはよく分かっていないそうだ。和泉街道は候補の1つ。
でも、こうして歩いてきて、丹比にしろ茅渟にしろ、飛鳥からそんなには遠くないところだったんだなあと思った。ここはまだ近つ飛鳥だけれど。
孝徳天皇は中大兄皇子らが大化の改新を行っていた時の天皇で、中大兄皇子の母(2回天皇についていて、35代皇極天皇であり、37代斉明天皇でもある)の弟。難波に都をおいていたけれど、中大兄皇子らはさっさと飛鳥に移ってしまい、ひとり難波に取り残された。
そして孝徳天皇と中大兄皇子の母、二人の父は名を茅渟王というらしい。
事件を起こした蘇我倉さんは、蘇我倉山田石川麻呂。蘇我氏の重要人物で、娘は中大兄皇子に嫁ぎ、ウノノサララたちを産んでいる。ウノノサララって後の持統天皇ね。けれど蘇我氏の内紛があったかなにかではめられた・・・のかな。結局自害したそうだ。
名に「石川」がつくように、石川流域で力を持っていたみたい。
道を引き返し、郵便局のある通りを右折して、駅に向かうことにした。
その前に、右折せずにそのまま坂を上がっていってみた。なんだか気になる古そうな坂道で。そうしたら、やっぱり古かった。忘れがたいような細い道に、善久寺などがあった。というか、叡福寺あたりからここまで、ずっと全部が忘れがたいような道だった。
それから上ノ太子駅に向かった。
途中で春日神社が現れた。右手には池と墓地。道が2つに分かれると左へ。今度は妙見寺が現れた。横を通っただけだったけれど、蘇我氏創建の寺らしい。
車道と合流し、どんどん進んだら上ノ太子駅。途中、ガレージで一盛200円、お金は缶に入れてくださいと売られていた八朔をゲット。太子あたりって、みかんの産地でもあるのだって。
おうちに帰っていただいたけど、とりたてだからか味がいまいちで、翌日以降、おいしくなったとおかあさん。わたしは犬には珍しいらしいけれど柑橘系も大好きだから、当日も翌日も関係なくおいしくいただいた。