和泉街道を北野田から
そして和泉街道の続きを歩くべく、北野田駅(南海高野線)に向かった。
南海高野線は、高架の多い南海本線と違い、ほとんど地上を走った。まだいまいちわからない何度目かの北野田駅で電車を降り、図書館の入っている駅直結の建物の中、文化ホールの方向へ向かっていった。
文化ホールは、地元の人たちの交流場になっている感じのきれいなところで、地元のおばさまっぽい人たちがたむろしていた。最近まで農家でした、という人たちのように見えた。
ビルの北側の36号線に出て、36号線を東に向かっていった。この道が和泉街道。
高野線の線路を越えると、道は下りになった。
すぐの西除川を越えると、古い家々が建ち並んでいた。藁葺きの屋根の家もあって、以前、思いがけない古さに度肝を抜かれたあたり。木綿問屋が並んでいたというところ。江戸時代には伊勢に向かう人々でもにぎわっていたのだろうな。
前に富田林街道を舟渡池から歩くためにここを通っていったことがあった。
途中、北野田の集落に入って行ってみると、念照寺(かいづかいぶきが市の保存樹木)、薬師堂などがあった。水路も流れていた。
ここを過ぎると、後はほとんど全部田んぼだったところなのか、昭和の時代に開発されてしまった感じの住宅街で、たいして面白くない。36号線は歩道は狭く、きょろきょろよそ見しながら歩いていると危ないくらいで、細い脇道で東に向かっていった。水路はあるけれど水はほぼないし、田んぼも少し残るだけ。
道なりに歩いていくと36号線に出て、万代やサーバのあるところ。ここからはしばらくは歩きやすい道だった。ここを以前は左折して、北の阿弥の集落に入っていった。舟渡池に至る道がある、かなり古い集落だった。
和泉街道は36号線をそのまま直進し、東へ。今度は少し上り坂になっていた。
右手に虹の湯なる銭湯が現れた。新しくて、近代的な美術館みたいな外観だった。そこでこの年初めてのツクシを見た。コンクリから何本も出てきていた。
その向かいにはパン屋パリーネ。長居や住之江にもある人気のパン屋だけれど、この近辺では一人勝ちしているみたいで、かなりにぎわっていた。
このあたりは田んぼの中の一本道だったのだろうな。かつてはトラクターがゆっくり走り、車は滅多に通らないような道(そんな道を堺の上神谷あたりで歩いたことがある)で、細くても問題なかったのだろう。けれど今では車通りも多く、散歩するには危険な道になってしまっていた。
東野交差点にたどりついた。このあたりには「北野田」「南野田」「西野」「東野」がある。
ここは中高野街道散歩で通ったところで、よく覚えていた。その時は北方向からやってきて、ずいぶん田舎に思えたけれど、西方向からやってくると、開けているように思えた。
交差点にあるコンビニの駐車場前に鳥居があって、その後ろを通り、すぐの信号を右折して東へ進んでいった。ここからは車通りも少なくなって、歩きやすかった。中高野街道でも立ち寄った菅生神社がある。
神社への途中で堺市の東区から美原区に入ったようだった。神社周辺には造園業が多くて、木々がいっぱい育っていた。道端にオオイヌノフグリが大量に咲いていた。テントウムシやタンポポも見た。まだ自然が道端にも残っているようなところだった。
菅生神社には、少しの階段を上がったところに、山門のような門があった。狛犬はピンクがかったような石でできていた。小さな森と、菅池なる池もあって、かつては広い神社だったのだろうなあと思われた。
前に来た時には、まだあまり知識も散歩の経験もなくて、かつての姿を想像するなんてことはなかった。説明書きを読んで、へええと思って、それで終わりだったように思う。
今回は、かつての広い境内をもつ姿を少しは想像できるようになっていた。玉垣に書かれた林部さんの名前にも気がついた。林部って部民もいたのかな。
このあたりは丹比郡だったところで、丹比は製鉄を行っていたところだ。美原は河内鋳物師の発祥地。もっと遡ると、比類ないほどの数々の鉄製品が出土したという黒姫山古墳もある。
菅生も製鉄に関わる地名なのではないかともいわれているみたい。
菅が生えていて、菅生。菅からは鉄の材料がとれたんだとか。
日本の湿原には鉄分も多く含まれていることが多くて、バクテリア(鉄バクテリア)などの働きもあって、そこに生える植物(菅)の茎の周りに付着。年月が経つと植物は寿命を終えて枯れ、鉄成分が穴の開いた棒状になって残ったそうだ。それは高師小僧とか呼ばれ、製鉄の材料としても使われたらしい。質はいまいちだったようだけれど。
高師小僧の名は、高師小僧が多くとれた愛知県の高師原からきているのだって。
菅生神社の祭神はアメノコヤネ。ここにもアメノコヤネの子孫(中臣系)が住み、菅生を名乗っていたらしい。「ここにも」というのは、散歩していて、あちこちで「中臣系〇〇さん」が住んでいたという説明に出会ったから。富木のトノキさん、鳳のオオトリさんなどなど。
後に天神さんが大流行し、ここも菅生天満宮と変わって、菅原道真を祀るようになったのだって。菅原道真生誕の地とも地元では言われているそうだ。昔に神宮寺の和尚が、道真公はここにある菅池のほとりで生まれたんだと言い出したらしい。
「天満宮降誕地」と書かれた古い石碑があって、「神南辺大道心」とあった。竹内街道歩きで知った神南辺隆光のことらしかった。
余部神社が合祀されていて、その説明書きが興味深かった。祭神にスサノオもいて、そのスサノオについての解説だった。
スサノオは姉のアマテラスに従わず、根の国へやられた。その根の国、姫川上流でヤマタノオロチを退治し、その尾から出てきた神剣(草薙の剣)をアマテラスに献上することで仲良くなった。そのスサノオの子、あるいは子孫がオオクニヌシである・・・だって。
まだスサノオなどの物語にくわしくなかった。
神社を過ぎると、36号線は北東に向かっていく。道は下りになって、今度は東除川が流れていた。
南の狭山市には行基が改修したといわれる狭山池があって、その水を北に流すのが西除川と東除川。
狭山池には桜のきれいな季節なんかに行ったことがあった。大きな池で、多くの人たちが周囲の遊歩道をそぞろ歩きしていた。
遠い昔、天野山から流れてくる天野川と三津屋川を流し込むダムを造り、池にした。飛鳥時代、中国から伝わったと思われる工法でつくられていたそうだ。そして奈良時代、行基によって改修工事が行われた。
けれど飛鳥時代にも、改修されただけかもしれず、さかのぼればもっと古い時代からあったのかもしれないそうだ。古い書物(日本書紀や古事記)には11代垂仁天皇とかの頃に造られたと記載されているらしい。
天野川は今では西除川と呼ばれるようになっている。東除川の流れるここは、古代から谷になっていたのだろうな。そばの菅生もまた低湿地で、菅が生えていたのだろうな。
立派な「杉田○翁頌徳碑」が立っていた。和泉街道はこのまま東除川(ここからしばらく東に向かう)沿いに36号線を進んでいくようだったけれど、頌徳碑の右手の道がけっこうな上り坂になっていて、面白そうで上がって行ってみた。
急な斜面に古い家々が路地をはさんでいっぱい並んでいて、迷路のようになっていた。ここが菅生の古い集落なのかな。
菅生大師堂や菅生寺なんかがあった。土塀のままのツシ2階の町家なんかも普通にあった。「野」のつく名前(○野さん)が多いような気がした。
そして道を下っていくと、36号線が菅生橋で東除川を越えるところだった。
途中で東除川(北に向かう)と分かれ、36号線を進んでいくと菅生交差点。交差するのは国道309号線。右は上り(羽曳野丘陵)で左は下り(舟渡池方面)になっていた。
36号線を進み続け、途中、カーブしていく素敵な川を越えた。川は平尾小川。平尾あたりから流れ、この北で東除川に合流していく川。橋は天王辻橋だって。どうして天王辻なのか気になったけれど、分からなかった。
そして次の平尾交差点に至る前に、右手に現れる細い上りの道に入っていった。すぐに左折。地蔵堂があって道が左右に分かれる。ここを右に行くと、すぐ府道35号堺富田林線に交差。
黒土警察署平尾交番の横の信号を渡ったのだけれど、押しボタン式のこの信号が、なんて待たせる信号だったことか。あんまりにも遅くて、ボタンを押しそこねているんじゃないかと確認して、それからもなかなか変わらなかった。道幅は狭いのに、向こう側がやけに遠く感じた。
平尾の集落は、前に富田林街道歩きの途中で立ち寄ったことがあった。あの素敵な一帯は、ここよりもう少しだけ北に行ったところのようで、今回歩いたあたりでは平尾の魅力には触れられなかった。
遅い信号を渡ると右手に池が現れ、すぐ公園につきあたる、そのつきあたりの1つ手前で、左側の上りの道へ。
北西からの道と交差して、その交差する道は2つに分かれて、南東に向かっていく。
右手は富田林街道。前に歩いた、この先、工場とPLのゴルフ場とにはさまれた面白くない道しか通れない羽曳野丘陵へ向かう道。左手が和泉街道(府道32号美原太子線)。
富田林街道は三国ヶ丘あたりで竹内街道から分かれて南東に向かい、ここで和泉街道と交わる。和泉街道はもっと南の草部から東に向かい、ここで富田林街道と交わり、さらに東に向かって太子町で竹内街道に合流する。竹内峠を越えるのに、竹内街道、和泉街道-太子町→竹内街道、富田林街道-平尾→和泉街道-太子町→竹内街道、どのルートでも行けたということね。
左に進んでしばらく行くと、右手に地蔵堂が現れた。左手には「太神宮」と書かれた灯篭。おかげ灯篭かな。このあたりが一番の高台で、ここらから下り道になった。菜の花がきれいに咲いていた。
そしてまた川を渡った。今度は小平尾川。細い小川の護岸はきれいに整備され、その向こうの高台に建つ家々は、整然と並んでいた。やや古い時代の新興住宅地かな。
調べてみると、東急不動産が造ったニュータウンらしい。昭和50年代かな?
日本資本主義の父とも呼ばれる渋沢栄一(元武士)たちが大正時代に田園都市(株)をたちあげ、宅地開発を行ったのだって。田園調布を造ったのもこの会社らしい。そしてその会社が大きくなって、東急不動産などになったのだって。
道を上っていき、さつき野西3丁目交差点、さつき野中央交差点と進んでいった。ここで右折。
前に富田林街道を歩いて、こんな道(すっかり工場とPLのものになってしまった羽曳野丘陵を横断する狭い道)を歩くくらいなら、丘陵の下を歩くほうが・・・と思ったのだけれど、ここは羽曳野丘陵の北端を横断する道のようだった。
それでも高台になっていて、ずっと上りの道だった。そして左右には家が整然といっぱい並んでいた。
道がつきあたり、ここが新興住宅地の南の端あたりのようだった。
左折して、すぐ道が分かれ、右手の道を東に進んでいった。一瞬だけ、新興住宅地の外側が見られたのだけれど、そこは谷になっていて下の方にあり、たんぼとその横の細い道と山っていう別世界だった。天野街道歩きで歩いたあたりに似ていた。
公園を過ぎた。公園もあり、小さい子向けの遊び場もあり、理想的に作り上げられた町の感じがした。あちこちに「防犯カメラ」の文字があった。新興住宅地って、守られた1つの世界なんだな。
また道がつきあたったら、左折。すぐの車道(府道32号美原太子線)で右折して、喜志駅方面に向かっていった。
地名は梅の里で、まだしばらく上りの道だった。それから間もなく羽曳野市に入り、ほぼ平地になった。
富田林街道で歩いた、長く面白くない峠越えの道よりはずっとましだったけれど、ここも左右はフェンスに囲まれた道で、途中右手には大きな工場などが並んでいて、トラックがけっこう頻繁に走った。
工場の敷地は広大で、自然の宝庫みたいな一角も工場のもので、中には入っていけなかった。これだけの敷地があるなんて、羽曳野丘陵、どれだけ安く売り出されたんだろう。なんでも戦後、あまり使い物にならないと思われていた羽曳野丘陵を羽曳野市は叩き売ったそうだ。
唐突に梅林が現れて(その向こうに小さくPLの塔が見えた)、すぐ横は喜志ロイヤルゴルフセンター。喜志駅の近くに看板が出ているところだ。
左手のフェンス越しには時々すぐ近くに新しい家々が見えて、新興住宅地になっているようだった。
そして右手のフェンスの向こうは、ここも富田林街道と同じく、PL王国の一部になっているらしかった。道が現れても、聖域につき立入り禁止。
きれいなPL学園、PL小学校があり、ひろ~いPL学園教員駐車場には車一台なく、使われなくなった学園の校舎も広い。きれいな学園に建て直し、使われなくなった校舎をそのままにしていてもまだ敷地は有り余っているんだな。
新興住宅地がいくつも造れただろうのに、貧しい時代にぱっぱとタダ同然にか手放しちゃったんだなあ、羽曳野市。
PL王国を抜けると池があり、霊友会なんてところもあった。
そのまま進むとニトリの看板があって、ニトリ方面(南)に進めばあのミグクルミタマ神社だ。美具久留御魂、式内社で、崇神天皇の時、オオクニヌシを祀ったという素敵な神社。そばには前方後円墳など古墳群もある。
東に進み、喜志ロイヤルゴルフセンターの看板のある外環を越え、喜志駅そばで線路(近鉄長野線)も越えた。商店街を通って喜志交差点へ。
商店街は思いのほか賑わっていて、しかもどちらかというとおしゃれ系のところだった。そして喜志交差点で交差するのは、前に歩いた東高野街道。
ここを前方に向かって、喜志小学校のほうへ。小学校前で右手に、道なりに進み、つきあたりを右に。このあたりには、いつの時代?っていう家や、高塚地蔵、墓地もあった。一帯が古い。地名は喜志町。
そのまま進むと32号線に出て、歩道のない狭い32号線を東に進んでいった。
途中、桜井町を通った。東高野街道でも通った、屯倉があったと思われる、楠木正成の「桜井の別れ」も実はここだっただろうと最近では言われているという桜井ね。
中野も近い。喜志、中野は古代、二上山のサヌカイトを使った石器を流通用に生産していたところ。
それから川面町。ここはよく知らないけれど、川の近くだから「川面」なんだろうな。近くを石川が流れていた。
そして石川を河南橋で渡った。すっかり山が近かった。
川の向こうでウグイスが鳴いた。「ようこそ太子町へ」「叡福寺まで2km」なんていう看板が現れた。
羽曳野市は過ぎ、太子町へ。
しばらく、あまり面白くない道が続いた。どうやらここは前に「源氏3代の墓」に行った帰りに通った道。かつては河内源氏の本拠地で、馬の駆ける荒野や田畑だったところなのかもしれない。けれど今や、なんの変哲もない準住居地域という感じ。
梅川を梅川橋で渡り、太子交差点へ。この先は、まだ通ったことのない道だった。「叡福寺まであと1.1km」だって。
右手に泥掛地蔵(南無地蔵)が現れた。横断歩道に子どもみたいな太子が渡ろうとしている板の人形がいたのだけど、縦に真っ二つに割れたか、半分だけの姿だった。
このあたりは、古い建物もちらほらとはあるけれど、新興住宅地になっていた。
太井川橋交差点あたりで、畑や、高台の墓地などが見え、田舎の様相になってきた。マンホールには「和を以って貴しと為す」という文字と、二重の塔。叡福寺の多宝塔らしい。
そして「西ノ口」という地名が目立つようになるあたりから、味のある素敵な古い家ばかりになってきた。
そして叡福寺が現れた。