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大阪を歩く犬4  作者: ぽちでわん
4/43

高石街道

前回の散歩で、久しぶりに竹内街道を歩いて、近つ飛鳥付近まで進んだ。続きを行けば、いよいよ大和入り。健脚の人ならば、一日で堺からの全行程を歩いてしまうそうだけれど、わたしとお母さんは随分かかっているな。

そして更に時間がかかる話だけれど、大和入りする前に和泉街道を歩いてみることにした。

和泉街道は和泉から東に向かい、近つ飛鳥あたりで竹内街道に合流する道らしく、両方を歩いた上で、近つ飛鳥以東を歩いてみようと思った。

和泉街道は、和泉は草部ってところ(堺市)のスタートなんだって。その草部までは高石から高石街道で行けるらしく、ついでだから高石街道も歩くことにした。

高石-高石街道→草部-和泉街道→近つ飛鳥ね。


高石駅に向かう南海電車(本線)で窓の外を見ていると、おびただしい数の家々だった。

それでも古い時代を物語るものがあることを分かるようになってきていた。旧家、緑、川筋、丘、その連なり全部が物語るもの。

湊駅あたりからは、家々は多いものの「おびただしい」ってことはなくなり、石津川、諏訪ノ森、浜寺公園、羽衣、高石と南下していった。イメージを消して名前だけ聞いたら、なんだか風光明媚なところみたいだな。南海本線は前に歩いた紀州街道に沿うように走っていて、ときどき見覚えのあるところもあった。

紀州街道は松林の向こうに海を見ながら歩くような道だったそうだから、その名の通りかつては風光明媚なところだったのだろうな。

高石街道は高石駅の北あたりで紀州街道から分岐する道のようで、高石駅で降りると、まずは北方面に向かった。高石駅は高架にするための工事中のようで、それもあってかちょっと分かりにくかったけれど、葛葉地蔵のある細い道から向かっていった。

「クズノハ」の文字をこのあたりで度々見た。葛の葉って、もっと南にある町を指すのかと思っていた。安倍晴明の母、葛の葉を祀る信太森神社があるJR阪和線北信太駅あたり。平安時代の有名な陰陽師、安倍晴明は大阪の阿部野の生まれって話があり(阿倍野区の安倍晴明神社)、父の保名さんが助けたキツネが人間に姿を変えて保名さんの前に現れ、そうしてその葛葉さんが産んだのが晴明ってことだった。

高石駅は、元々は葛葉駅という名だったそうだ。このあたりも葛葉だったか、葛葉駅があった名残かでクズノハの文字が残っているのかな。

地名は千代田だった。紀州街道歩きで古さが印象的だったところだった。こんなに駅近だったのかと、びっくりした。古い集落のようで、路地は迷路になっていて、歩いていて面白かった。

「本町通り」と書かれてある通りに出たら、ここが紀州街道で、紀州街道を府道219号信太高石線と交差する信号まで進んでいった。


そして信号で右折。219号線を南に向かっていった。南というか、南東に。

このあたりでは、大阪湾岸に沿って道ができている。仁徳天皇陵でさえそうだから、古くからのあるあるだったのかな。大阪湾岸が斜めになっている(南西に向かっている)ので、それに沿った道に交差する道もまた斜め(南東に向かう)。

斜めの紀州街道から垂直に始まる高石街道は、ここから南東に向かう219号線になっているようだった。

すぐに左手に不断寺が現れた。説明板が立っていて、船留山不断寺とあった。地名は高師浜だし、かつては浜で、船だまりもあったようなところなのかな。

室町時代の創建で、棟梁は大工村(今の高石北町)の人だって。寺では平安時代の仏像などを所有しているらしかった。

この北すぐのところに高石たかしの神社がある。紀州街道歩きで行った、和泉国大鳥郡の式内社だった。祭神はスクナヒコナ。詳細は不明だけれど、高志氏が、祖である王仁博士を祀ったのではないかともいわれている神社だった。王仁わに博士は応神天皇の時代(古墳時代ね)、博識者として日本に送られてきた人だった。

その子孫とされるのが西文かわちのあや氏だったけれど、高志氏もまた王仁さんの子孫とされているみたい。子孫というか、王仁さんと一緒にやって来た人々やその子孫が西文氏となったみたい。その中で高石たかしに住んだ人たちを高志こしと呼んだのかな?

そういった説もあるみたいで、かつてのわたしは鵜呑みしていた。でも今となっては、そんなにうぶじゃない。昔って、漢字は一定せず、いろいろに表記されていた。たとえば「すみのえ」は今は「住之江」一本だけれど、かつては「住吉」「墨江」「清江」などなど自由に表記されていた。わたしが「角の江」と表記しようとたぶんOK。大事なのは読みで、だからおそらく高石たかし高志こしは別ものだ。

高志氏が和泉にいたのは確かだとしても、それが高石だったかどうかは不明で、ただ高石たかしと高志を似ているってことで関連付けただけの話みたい。その説にのっとって、高志氏の出の行基の父もこのあたりの人で、ここには高度な技術を持つ渡来系の人々が住んでいたから、その一部が大工村をなしたのではないか、という話になる。

大工村には宮大工などが多く住んでいたらしく、それも行基の工事に従事した人々の子孫ではないかとか言われているのだって。

行基は奈良の大仏づくりを助けたことで有名な人だ。わたしはまったく知らずに生きていたけれど、散歩をし始めるとあちこちで名前を聞くことになった。行基が改修した池、行基が開いたと伝わるお寺、行基がつくった墓地、大阪には行基大橋もかかっていた。

聖武天皇は柏原の寺を視察して奈良の大仏をつくることを決めたけれど、そんなに大きなものはなかなか作れず、失敗続きだったそうだ。そこであちこちで大規模工事を行っていた行基に助けを求めた。

行基は各地に港、池、寺院をつくるなどしていて、その頃には秦氏などとプロジェクトチーム的なものを組み、高い技術で次々と大規模工事を完成させていた。そして奈良の大仏もちゃんとした工法で完成に導いた。

高志氏が渡来してきたのは、王仁博士の時代なら古墳時代で、その頃の技術が奈良時代にも通用したとは思えないから、もっと新しい時代にも渡来してくる人々がいて、そんな彼らともプロジェクトチームは関わっていたのかな。


高石小学校を過ぎ、南海電車の下を通った。高架化の工事中だけあって、上を見ると真っさらだった。

車通りのこのあたりは、そんなに古い感じもなくて、普通の町に見えた。

高架を過ぎて3つ目の信号で右折。219号線を離れていった。道路脇には水路が流れていて、その水路を橋で渡ったところに専称寺があった。住宅街なのに、その寺は素敵な田舎のような雰囲気を醸していた。水路で囲まれていた感じの寺で、「沼間日向守綾井城趾」と書かれていた。

このあたりは綾井と呼ばれていて、国人(南北朝時代の頃の地方の豪族)の沼間氏がいたそうだ。

城は鎌倉時代の築城と言われ、南北朝時代には北朝(足利)側についていた。戦国の世には織田信長側につき、木津川口の戦いなどに出陣。戦死者もでた。門前に残る水路は、城だった時代の濠の跡なのだって。

左手の小さな公園を過ぎたら左折。つきあたったら右折。すぐの四辻で左折。

旧家がぽつぽつとあって、水路でいっぱいのたんぼだったのだろうなあと思われた。

上りの坂道になって、このあたりはちょっとした丘だったのかな。たんぼの中、丘になったこの場所に家々が建っていたのかな。


道なりに進んで車道も越え、道が2つに分かれたら左へ。

すぐつきあたって、右折。道がじぐざぐしているのは、田んぼだったところに一本道を通すことはあまり考えずにどんどん家を建てていった結果かな。

水路みたいな川に出て、この今川(大川)沿いにずっと南下(というか南東)すればいいようだった。

けれど途中で東側の219号線を南下することにした。かつては素敵な小川で、その横をずっと歩いていけたのではなかったかな。けれど今の時代には、途中フェンスがあったり、人が私有していたりで、進めなくなっていた。

国道26号線を越え、JR阪和線も越えると、やっと川沿いを歩けるようになった。川には、蓋をして不法占拠されているっぽいところや、新興住宅の土地になっているのかな、ってところなど、いろいろあった。

取石5丁目には水門があり、小さな石の祠があって、大きな丸い石が祀られていた。

今川は左手で、右手には今川から取水する水路。

水路のほうには、少し高くなったところには寺も見えていた。行ってみると、一帯の旧家がほぼ中條さんで、その中條さんの単立仏教「聖光会」のお寺であるらしかった。

このあたりも平成の世の中だとは思えないようなところだった。小川のような水路も流れて、のどかだった。

元の道に戻って道なりに進んでいくと、道は219号線に向かって上っていき、取石6丁目交差点にたどり着いた。交差するのは府道30号大阪和泉泉南線。

交差点の南側は、更なる上り坂だった。取石というだけあって、山だったのかな。

山で、そこから石を取っていて「取石」だったのかな? それとも元々は「鳥石」だったのかな? よく分からなかった。


そのまま古い家々もある上りの道を進み、すぐのちょっとした緑地まで上っていった。

すぐ近くを高速が走っていた。ここで左折。実はこの道は熊野街道だった。けれどそのことはまだ知らず。

草部はこの東で、ここからは東に進んでいくみたい。だいぶ丘の上の方まで上ってきたと思うけれど、まだ上る。このあたりもお庭が広いと見えて、外飼いの犬が多かった。

左手に「嶋田直栄生誕の地」の真新しい碑がたてられていた。嶋田さんのお宅の多い一帯だった。嶋田直栄さんって、阪和鳳自動車学校の創立者の一人らしい。

一帯で一番高いくらいの、田舎風で素敵なところだった。一羽いた小鳥も、地味ながら素敵な色あいの野鳥だった。

右手は上り、左手は下りという間の道を、今度は下っていった。四ツ橋なる小さな橋で渡ったのは今川。広い道路と合流した。府道30号線の新道らしい。右手には広いクリーンセンターの建物が見えていた。

クリーンセンター前交差点を過ぎて、次の信号を右折。池のあるところ。このあたりには来たことがあった。熊野街道散歩で、ミステリアスな等乃伎とのき神社の後に通ったあたり。この後、熊野街道を見失って迷子になったのだ。


高石って、ミステリアスなところだ。

富木とのき、千代田、取石、どこもかなりの歴史をもっていそう。それに、まだ行ったことはないけれど、加茂もあるのだ。近くには信太や助松も。

柏原や古市と同じように、古代かつては都会じゃなかったかって匂いがした。

ただ、ウォーキングコースとして雁多尾畑や鐸比古鐸比売神社なんかが紹介されている柏原とは違って、高石は情報発信している気配がない。加茂や取石の地名のいわれも調べてもみたけれど、まったく分からなかった。

個人的には、高石神社に祀られているのがスクナヒコナというのも引っかかった。少彦名スクナヒコナは薬や酒の神さまだとされていて、薬の道修町なんかにも祀られている。けれど元々は、オオクニヌシの国づくりを手伝った人。葦原中国の王だったオオクニヌシの国造りを手伝って、その後、海の向こうに消えていった。

住吉大社のすぐ近くに鎮座していて、住吉大社よりも古くからあるのかも、と言われる生根神社の祭神がスクナヒコナだった。あと、柏原の天湯川田神社に祀られる天湯川田ナさん(捕鳥さん、鳥取さんの祖)の親を祀っているとされる宿奈川田神社(白坂神社)に祀られるのも、スクナヒコナ。

捕鳥さんの元々の本拠地は和泉(日根郡鳥取郷)なんだとか。

スクナヒコナは和泉に勢力をもっていた人で、畿内に進出した出雲のオオクニヌシを手助けしたのかな。スクナヒコナは鳥を神格化している一族の人で、和泉に大鳥とか白鳥とか百舌鳥とか鳥の名が多すぎるのも、そのせいだったりはしないのかな。取石も元は鳥石だったりはしないのかな。海の向こうに消えていったというのは、大阪湾を通って和泉かどこかに帰って行ったってことだったりはしないかな。


新30号線を離れて東に向かっていった。このあたりからは堺市のようだった。

道はこの後、上ったり下ったり、上ったり下ったり。左手は下り坂で、起伏の楽しい一帯だった。

田んぼの間を通っていった。カラスはカーカー鳴くし、一段と田舎になった感じがした。右手にちょっとした新興住宅地があり、そこを過ぎると、古い集落らしきところだった。

地名は原田で、ちょっと探索してみると、道は迷路で、家々は古い。小さな地蔵がいっぱい並んでいる地蔵堂とか墓地とかもあった。

そしてこんもりと見えているものがあった。なんだか見覚えがあった。前に熊野街道を歩いていたときも見えていて、気になった、あれは何だろう? 古墳かな?

後で知ったことには、これが国の史跡。和泉市上代うえだい(うわんだい)町にある和泉黄金こがね塚古墳だった。4世紀後半、古墳時代前期の前方後円墳で、中央に女性、その左右に男性の計3人が埋葬されていたそうだ。

魏の年号の景初3年の銘の入った銅鏡(三角縁神獣鏡)が出土しているらしい。景初3年(西暦239年)は卑弥呼が魏に使いを送った年だそうだ。ただ、それよりは少し新しい時代に作られたものらしく、レプリカ的なものと考えられるそうだ。

古墳時代は前期(3世紀後半あたり)、中期(4世紀半ばあたり)、後期(4世紀後半あたり)に分けられ、これは前期後半のもので、近畿に前方後円墳が既にたいぶ拡がっていっている頃だ。

神獣鏡の他に出土しているものとしては、中国の銅銭、新羅の古墳から出土するのと同じ水晶の切子玉などだって。すべて国の重要文化財になって、東京国立博物館の所蔵となっているそうだ。

もしかしたら異国を旅した人の墓で、その思い出に一緒に葬ってもらったのかな??

ミステリアスで、何度か散歩しに行った柏原だけれど、和泉にも通うことになりそうな予感・・・。

光明皇后が光明池あたり(和泉国大鳥郡)で生まれたという伝説があるようで、なんでまた光明池で?と思っていた。光明池をただのニュータウンだと思っていたし、唐突すぎるように思えた。

けれど、それも不思議でも何でもないことなのかもしれない。

光明皇后は別の名を安宿あすかべ姫というそうだ。安宿や大鳥は古代、にぎわっていて、最先端をいっているところだったのかもしれない。古墳時代から栄え、有力者が住み、渡来人も多く住み、舶来品の装身具などを身につけ、衣類も素敵で、ヘアスタイルも斬新、そんな人々が住み暮らし、素敵な寺なんかも建ててしまう地域だったのかも。

そんな大鳥と安宿を結んでいたのが今の竹内街道であり、和泉街道(と高石街道)であったのかな。


続きを歩くと草部交差点にたどり着いた。ここで交差するのは府道216号和田福泉線。父鬼ちちおに街道らしかった。

父鬼街道はおおとりで熊野街道から分かれ、父鬼(和泉市)ってところで葛城山を越えて、紀ノ川で大和街道に達する道らしい。

この父鬼街道との交差点までが高石街道で、ここからが和泉街道らしかった。

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