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大阪を歩く犬4  作者: ぽちでわん
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牟礼と群れ

新屋坐にいやにます天照御魂あまてるみたま神社は3つあり、ここ(西河原)と西福井と宿久荘とらしかった。「新屋坐」は「新屋の地におわします」みたいな意味で、3つの新屋坐天照御魂神社はトライアングルを描いているらしい。

亀岡街道にある西福井の新屋坐天照御魂神社は大きくて、近くには新屋古墳群(6世紀後半)、行基開祖と伝わるお寺なんかもあるそうだ。ここも元は広かったらしかった。けれどどんどん縮小されていって、江戸時代には元の社地の北西の隅っこに移されたのだって。

新屋におわします「天照御魂」は天照国照彦あまてるくにてるひこ火明命のことだそうだ。火明命はアメノホアカリ。ニニギのお兄さん(息子という説もある)で、住吉大社の津守氏などの祖でもある人だ。

10代崇神天皇の時、神が西福井に降臨して、イカガシコオ(崇神天皇の伯父)にその神を祀らせたんだとか。

新屋は新しく開拓された「野」のことだとされているそうだ。「降臨」というのは、ヨリシロが必要だからそういうことにされたのかな。本当のところは、この地を天皇の地とするために、降臨したということにして、この地に神を祀ったのかも?

崇神天皇の時、喜志には美具久留御魂みぐくるみたま神社にオオクニヌシを祀り、三輪にオオモノヌシを祀っている。三輪のオオモノヌシを祀らせるため、茅渟県からイカガシコオがオオタタネコを探してきている。

同じように茨木にはアメノホアカリを祀ったんだな。

走谷(枚方市)の加茂神社は桓武天皇の時、和気清麻呂が鴨大神を勧請してきて祀り、社家をおおぜい呼んできたという話だった。時代が違うから全く違うのかもしれないけれど、システムはそう変わっていないとしたら、桓武天皇が崇神天皇、和気清麻呂がイカガシコオ。社家はその神社を祀る人々で、オオモノヌシを祀るために子孫のオオタタネコを探したみたいに、たぶん祭神の子孫を社家として神社のそばに住まわせ、そこを開拓させたのじゃないかなあと思う。

もしくは元々そこはアメノホアカリの土地で、そこにアメノホアカリを天皇の名で祀ることで、自分たちの支配下においたのかな。

新屋神社の社家は新屋連なのかな? 後の28代宣化天皇の時、伊勢の新屋屯倉に関わっている人たちで、物部系(イカガシカオの子孫)なのだって。

物部系が社家だったなら祀られたのは物部氏の祖だと思うのだけれど、仮定がどこか間違っているか(子孫と社家はまた別なのかも)、天照御魂イコール火明命というのが間違っているか、新屋連は火明命の子孫でもあるかかな。


新屋神社の鳥居は西河原交差点のすぐそばにあって、そばには疣水神社も案内されていた。171号線と西河原交差点で交差する府道126号総持寺停車場線を南に行くと、すぐのところに鳥居があり、ここが疣水神社だった。かつてはここも新屋坐天照御魂神社の境内だったところらしい。周りには古い屋敷も多かった。

疣水いぼみず神社、またの名を磯良神社というらしい。犬はNG。

詳しい説明はなかったし、予備知識もなく行ったものだから何も分からなかったのだけれど、「神水」の取扱(?)説明が書かれていて、「霊水・玉の井」があったから、イボがとれるとされる水の出る神社なのかな? 説明書きを読み、コップに水を入れて、祈っている女性がいた。

祭神は磯良いそら大神。その正体は安曇磯良。安曇氏の祖神であるらしい。

母親はワタツミの娘のトヨタマ姫で、この人はウガヤフキアエズの母だから、磯良は実はウガヤフキアエズでした、とかいう話もあるみたい。神功皇后の三韓征伐の時、神功皇后に潮満玉と潮干玉を与えた、とかいう話も。

全然知らなかったけれど、安曇磯良って茨木童子みたいにいろんな物語に出てくる伝説の人物だったみたい。太平記などにも登場する人だそうだ。

神功皇后が三韓征伐に出る前、ここの井戸水で顔を洗うといぼいぼの男のような顔になって、その顔で出陣。帰ってから再びここで顔を洗うと、きれいな元通りの顔にもどった、という話もあるそうで、それが元で「霊水」「神水」とされたのかな。


南にもある鳥居が背が低くて、面白かった。ここから出て南下していった。右手の126号線に信号が見えたら、ここを左折。

右手に三島小学校、それから児童公園を見ながら道を上っていった。地名は三島丘というだけあって、高台らしかった。つきあたりまで上ると、総持寺霊園だった。ここを左折。

霊園の北側の、静かな丘だったのだろうところを歩いて行った。

緑茂る丘の、見晴らしの良い中腹あたり。風わたる素敵なところだったことだろう。けれど今やごちゃごちゃと家が建ち、踏切の遮断機が下りる音がして、電車の走る音もすぐそばでしていた。

東に進んでいくと、道は下っていき、踏切があった。

カンカンカンと遮断機が降りて、電車ががーっと過ぎていった。狭い道だけれど、徒歩や自転車の人がいっぱい電車の通過を待っていた。「奥の院踏切」だって。どうやら総持寺霊園のあるところに元は総持寺の奥の院があったみたい。

踏切を渡った。JR京都線で、西に200mほどでJR総持寺駅。更に200mほどで「丸また」。反対に東に行くと100mほどで高槻市のようだった。

霊園は総持寺の真北にあって、元々は一体になって存在していたのだろうな。そこに線路が走るようになり、開発され、住宅街になっていったのだろう。

踏切から南に向かうと、住宅街でありながらも不思議な面白い道で、薬王寺(古そう)があり、光明寺(新しそう)があった。つきあたりを左に行くと、すぐに八幡太神社なる神社もあった。住宅街の中で狭そうに、目立たず存在していた。

古い時代、村の神社があって、寺があった、そこに生きる人々がいた。やがて家々が建ち並んでも、古い時代を知っているおばあちゃんがいた。けれど今や古い記憶をもつ人もいなくなった中で、神社は「今はひとりだ。それでも覚えている」と言っている、そんな感じがした。

つきあたりを八幡太神社と反対方向に行くと、山門があった。周りは古い家々。

ここでは「おぼえているおぼえている」とみんなで言っているようだった。古そうな道だった。山門を入っていくと、総持寺だった。


総持寺は藤原山陰なる人が建てたそうだ。平安時代のことで、その話は「今昔物語」などにも書かれているのだって。本尊は亀に乗った観音様。山陰やまかげさんの父が亀を助け、後に山陰少年が死の危機に陥った時、今度はその亀が助けてくれたとかで。

山蔭さんは京都の吉田神社も建てた人らしい。藤原不比等の孫の永手さん(近つ飛鳥の杜本神社に墓があった人)の弟に魚名って人がいて、その孫の孫。

境内はなかなかに広かった。いろんなお堂があって、人もけっこう入っていた。厳かさとかはなくて、町なかの観光地という感じ。

坂を下って北門から入って来たけれど、南門あたりからはさらにダイナミックに下り坂になっていた。安威川に向かって谷になっていたのだろうな。

南門からは出ずに(というか、いったん出たものの方向が分からなくなって戻った)、太子堂の裏から駐車場に出られたので、ここから出て行った。

駐車場を出たら左折し、すぐのちょっと変わった感じの四ツ辻で右斜めの道へ。この道もダイナミックに下っていった。三島丘って、きっと素敵なところだったのだろうな。


この道は南東に阪急京都線の総持寺駅にまっすぐに向かい、昭和の時代の盛り場だったのかな、という印象で、面白かった。

総持寺駅は昭和11年につくられたらしく、駅から総持寺にこの道で向かったのだろうな。デパートスター(総合百貨デパート星)なんていう、ずっと昔に潰れたらしきお店の、古い建物も面白かった。壊される前に見られて得した気分。

阪急総持寺駅周辺だけは古い盛り場じゃなく、現役で栄えていた。

駅前で右折して、線路沿いを南へ。今はフェンスで入れなくなっているけれど、線路の下にトンネルなどがあって、そこを水路が流れていた。

道は府道132号高槻茨木線に合流して、132号線は千歳橋で安威川を越えた。茨木川と安威川の合流地点から南東に1kmくらいのあたり。

ここから安威川沿いを下り、右岸にある神社に行くつもりだった。

けれど安威川右岸(南側)は草ぼうぼうだったから、そのままもう少し132号線を進んだ。左手を阪急京都線が走っていて、その向こうに神社はあった。線路の下をくぐるトンネルが現れて、そこを通って神社方面へ。

牟禮むれ(牟礼)神社だった。祭神はスサノオとアメノコヤネだけれど、ここも江戸時代、牛頭天王を祀っていたのを、明治になってスサノオとしたというパターンらしく、元々は牟礼別の祖を祀っていたのではないかということだった。

わけというのは、5世紀頃の皇族につけられた尊称で、地名にわけをつけて呼んでいたそうだ。誉田別(応神天皇)とかも同じかな。けれどここに牟礼別の祖を祀ったのではという根拠は、ただ「牟礼神社」の「牟礼」と、垂仁天皇の息子を祖とするという「牟礼別」の「牟礼」が共通しているということだけみたい。

牟礼は各地にある地名だそうだ。その由来については、「群れ」からきたんじゃないかとか、いくつか説があるみたい。


茨木の牟礼では縄文時代晩期の水田跡が見つかっているそうだ。

というか、かつては縄文時代とされていたけれど、もっと早くから水稲農耕が行われていたことが分かってきていて、弥生時代の始まりがどんどん早まっているんだって。水稲農耕を始めた頃からを弥生時代と呼ぶらしい。だから縄文時代晩期ではなく、実は弥生時代の初めころ、ね。

水稲農耕というのは、水田で稲をつくる栽培方法のことらしい。普通の農地(畑)で稲をつくるのは陸稲農耕といい、縄文時代にも行われていたのだって。古くは縄文時代の大集落跡の三内丸山遺跡でも陸稲は行われていたそうだ。どうやら船で中国大陸に行き、苗を持ち帰って栽培を始めたと思われるのだって。

その後に新しい稲作、水稲が九州に伝わり、少しずつ少しずつ、何世代もかけて東に伝播していったのだって。陸稲とは異なり、水田となると大規模な変換が必要で、大勢で従事する必要もあり、稲への依存度が高まることになるのかな? 魚や木の実などにも恵まれていて、水稲生活に切り替えようとはなかなか思えなかったのかも。

讃岐を経由して水稲農耕が大阪にも広まったと思われるのだって。讃岐のサヌカイト製の石器を持参してやってきた人々が入植し、水稲を始めることで少しずつ広まっていったみたい。

サヌカイトは世界共通語だけれど、「讃岐」から名付けられたらしい。讃岐(香川)の金山が一大産地だったのだって。サヌカイトは火山大国だからこそ採れる、珍しい石で、太古の昔、大噴火した跡らしい。

讃岐の金山で採れたサヌカイトは、このすぐ近所の寝屋川の高宮八丁遺跡(弥生時代の初め頃)ほか、河内湾周囲の水稲地区から見つかっているらしい。

高宮八丁遺跡では他、二上山、丹波山、耳成山で採れた石で作った石器も見つかっているそうだ。そんな風ではあるけれど、大まかに言うと、こんな感じらしい。

古くからの縄文社会(長原とか)では大昔から二上山のサヌカイトが用いられていて、弥生時代、水稲が始まった地域では金山のサヌカイトが多く用いられていた。近畿は低湿地が多いし水稲に向いていたみたいで、どんどん低湿地に新しい集落が生まれ、そこでは金山のサヌカイトが多く使用されていた。それから次第に二上山のサヌカイトが全体にいきわたっていった。

東北地方ほど多くはなかったけれど、縄文時代から人々が住み暮らしていた大阪に讃岐の人々がやってきて、縄文人たちと結婚して、新しい集落をつくっていったのかな。水稲社会の人々は、縄文社会の人々よりも背が高かったのだって。縄文の乙女たちは「すてき、あの人たち」なんて思い、新しい生活にわくわくしながら新しい集落に嫁入りしたのかも。


三嶋溝咋の溝咋みぞくいは「溝の杭」で、水田関係の名前かもしれないそうだ。

河内湾周辺で水稲が行われるようになっていき、その初期から牟礼や高宮に水稲を行う人々が入植していたのかな。

高宮八丁遺跡のそばの高台では縄文時代の高宮遺跡も見つかっていた。そして高宮八丁遺跡は弥生時代の半ばに突然終焉したということだった。

縄文人は丘に住んでいて、そこに讃岐の方から水稲農耕を行う人々がやってきて、低地で水稲栽培を行い、地元の人とも交流していった。それが高宮八丁遺跡だったのかな。

牟礼でも集団で水稲農耕を行っていて、「群れ!」と呼ばれたのかな。そしてやがては集団は「ムラ」と呼ばれるようになったのかも?

ムラは富み、リーダーは王となり、けれど他からの略奪などもあったのか、大規模集落は解散し、見晴らしのよい高地に移っていったのかな。この頃以降の石器があまり見つかっていなくて、鉄器が普及したからだと思われるそうだ。淡路島では弥生時代後期の大規模鍛冶工房の跡が次々見つかっている。

農具も鉄器になって生産性が上がり、富むものはどんどん富み、鉄を巡る衝突もあったのかな。

地図を見てみると、香川にも牟礼があり、近くには庵治あじがあった。花崗岩だけれど水晶並みの強さを持ち、「花崗岩のダイヤ」とも呼ばれる庵治石の産地だそうだ。墓石などに使われていて、庵治、牟礼で採れるのだって。

「あじ」「むれ」は興味深いなあ、と思った。アジはアヂスキタカヒコネを連想させるし、牟礼(群れ)は水稲栽培を連想させる。

アヂ(アジ)スキ(シキ)タカヒコネの名の意味は諸説あってよく分かっていないみたい。けれどもし庵治からきているなら、オオクニヌシは水稲栽培を広めた人々のシンボル的な人で、息子とされるアヂスキタカヒコネは讃岐から近畿にそれを持ちこんだ、庵治の人なのかも・・・とか妄想した。

三嶋溝杭の「三島」も、四国(愛媛)に関わりが深いのかもしれないそうだ。三島大明神こと大山祇おおやまつみ命を祀る神社の総本山が愛媛にあるのだって。オオヤマツミは大歳神のおじいちゃんという人。

娘にクシナダヒメ(スサノオの妻になって八島ジヌミを産んだ)や神大市かむおおいち姫(スサノオの妻になって大歳神や稲荷神を産んだ)、コノハナサクヤ姫(ニニギの妻になって山彦を産んだ)、コノハナチル姫らがいる。

コノハナチル姫は八島ジヌミの妻になって、産んだ子の子孫がオオクニヌシなのだって。

和泉の方には海神族の話が多かったけれど、三島あたりでは出雲や水稲社会に関わる話が多い気がする。


ここからまだ溝咋神社など回るつもりだった。西法寺あたりまで行ったところで、思い直した。思いのほか時間が押しているし、続きはまた次回としよう。

阪急茨木駅を目指したののだけれど、途中通った中村町はかなり大きな屋敷が目白押しで、いったいどういうところだろうと思った。

そして到着した阪急茨木駅は思いのほか栄えていて驚いた。新屋神社、総持寺、牟礼、古そうなところばかり回って、茨木駅がこんなに近代的で賑わっているとは・・・。JR茨木駅よりかなり賑わっていた。

またすぐに続きを歩きに行くつもりだった。そして茨木を歩くべく用意していた日の朝、大阪北部地震が起きた。

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