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大阪を歩く犬4  作者: ぽちでわん
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牟礼と群れ

南にもある鳥居が背が低くて、面白かった。ここから出て南下していった。右手の126号線に信号が見えたら、ここを左折。

右手に三島小学校、それから児童公園を見ながら道を上っていった。地名は三島丘というだけあって、高台らしかった。つきあたりまで上ると、総持寺霊園だった。ここを左折して東へ。

霊園の北側の、静かな丘だったのだろうところを歩いて行った。

緑茂る丘の、見晴らしの良い中腹あたり。風わたる素敵なところだったことだろう。けれど今やごちゃごちゃと家が建ち、踏切の遮断機が下りる音がして、電車の走る音もすぐそばでしていた。

それから道は下っていき、踏切へ。

カンカンカンと遮断機が降りて、電車ががーっと過ぎていった。狭い道だけれど、徒歩や自転車の人がいっぱい電車の通過を待っていた。「奥の院踏切」だって。どうやら総持寺霊園のあるところに元は総持寺の奥の院があったみたい。

踏切を渡った。JR京都線で、西に200mほどでJR総持寺駅。更に200mほどで「丸また」。反対に東に行くと100mほどで高槻市のようだった。

霊園は総持寺の真北にあって、元々は一体になって存在していたのだろうな。そこに線路が走るようになり、開発され、住宅街になっていったのだろう。

踏切からそのまま南に向かうと、住宅街でありながらも不思議な面白い道で、薬王寺(古そう)があり、光明寺(新しそう)があった。つきあたりを左に行くと、すぐに八幡太神社なる神社もあった。住宅街の中で狭そうに、目立たず存在していた。

古い時代、村にお宮さんと寺があり、そこに生きる人々がいた。やがて家々が建ち並んでも、古い時代を知っているおばあちゃんがいた。けれど今や古い記憶をもつ人もいなくなった中で、神社は「今はひとりだ。それでも覚えている」と言っている、そんな感じのするところだった。

つきあたりを八幡太神社と反対方向に行くと、山門があった。古そうな道(道祖本街道)、周りは古い家々。

ここは「おぼえているおぼえている」とみんなで言っているようだった。山門を入っていくと、総持寺。

総持寺は藤原山陰なる人が建てたそうだ。平安時代のことで、その話は「今昔物語」などにも書かれているのだって。

本尊は亀に乗った観音様。山陰(やまかげ)さんの父が亀を助け、後に山陰少年が死の危機に陥った時、今度はその亀が助けてくれたとかで。

山蔭さんは京都の吉田神社も建てた人らしい。藤原不比等の孫の永手さん(近つ飛鳥の杜本神社に墓があった人)の弟に魚名って人がいて、その孫の孫。

境内はなかなかに広かった。いろんなお堂があって、人もけっこう入っていた。厳かさとかはなくて、町中(なか)の観光地という感じ。

坂を下って北門から入って来たけれど、南門あたりからはさらにダイナミックに下り坂になっていた。安威川に向かって谷になっていたのだろうな。

南門からは出ずに(というか、いったん出たものの方向が分からなくなって戻った)、太子堂の裏から駐車場に出られたので、ここから出て行った。

駐車場を出たら左折し、すぐのちょっと変わった感じの四ツ辻で右斜めの道へ。この道もダイナミックに下っていった。三島丘って、きっと素敵なところだっただろうな。

この道は南東に阪急京都線の総持寺駅にまっすぐに向かい、昭和の時代の盛り場だったのかな、という印象で、面白かった。

総持寺駅は昭和11年につくられたらしく、駅から総持寺にこの道で向かったのだろうな。デパートスター(総合百貨デパート星)なんていう、ずっと昔に潰れたらしきお店の、古い建物も面白かった。壊される前に見られて得した気分。

阪急総持寺駅周辺だけは古い盛り場じゃなく、現役で栄えていた。

駅前で右折して、線路沿いを南へ。今はフェンスで入れなくなっているけれど、線路の下にトンネルなどがあって、そこを水路(柳川水路)が流れていた。

道は府道132号高槻茨木線に合流して、132号線は千歳橋で安威川を越えた。茨木川と安威川の合流地点から南東に1kmくらいの地点。

ここから左折して安威川沿いを進み、すぐにある神社に行くつもりだった。

けれど安威川右岸(南側)は草ぼうぼうだったから、そのままもう少し132号線を進んだ。左手を阪急京都線が走っていて、その向こうに神社はあった。線路の下をくぐるトンネルが現れて、そこを通って神社へ。

牟禮(むれ)(牟礼)神社だった。祭神はスサノオとアメノコヤネだけれど、ここも江戸時代、牛頭天王を祀っていたのを、明治になってスサノオとしたというパターンらしく、元々は牟礼別の祖を祀っていたのではないかということだった。

別(わけ)というのは、5世紀頃の皇族につけられた尊称で、地名に別(わけ)をつけて呼んでいたそうだ。誉田別(応神天皇)とかも同じかな。けれどここに牟礼別の祖を祀ったのではという根拠は、ただ「牟礼神社」の「牟礼」と、垂仁天皇の息子を祖とするという「牟礼別」の「牟礼」が共通しているということだけみたい。

牟礼は各地にある地名だそうだ。その由来については、「群れ」からきたんじゃないかとか、いくつか説があるみたい。

茨木の牟礼では縄文時代晩期の水田跡が見つかっているそうだ。

というか、かつては縄文時代とされていたけれど、もっと早くから水稲農耕が行われていたことが分かってきていて、弥生時代の始まりの年代の認識がどんどん早まっていっているんだって。水稲農耕を始めた頃からを弥生時代と呼ぶらしい。だから縄文時代晩期ではなく、実は弥生時代の初めころ。

水稲農耕というのは、水田で稲をつくる栽培方法のことらしい。普通の農地(畑)で稲をつくるのは陸稲農耕といい、縄文時代にも行われていたのだって。古くは縄文時代の大集落跡の三内丸山遺跡でも陸稲は行われていたそうだ。どうやら船で中国大陸に行き、苗を持ち帰って栽培を始めたと思われるのだって。

その後に新しい稲作、水稲が九州に伝わり、少しずつ少しずつ、何世代もかけて東に伝播していったのだって。陸稲とは異なり、水田となると大規模な変換が必要で、大勢で従事する必要もあり、稲への依存度が高まることにもなるのかな? 魚や木の実などにも恵まれていて、水稲生活に切り替えようとはなかなか思えなかったのかも。

讃岐を経由して水稲農耕が大阪にも広まったと思われるのだって。讃岐のサヌカイト製の石器を持参してやってきた人々が入植し、水稲を始めることで少しずつ広まっていったみたい。

サヌカイトは世界共通語だけれど、「讃岐」から名付けられたらしい。讃岐(香川)の金山が一大産地だったのだって。サヌカイトは火山大国だからこそ採れる、珍しい石で、太古の昔、大噴火した跡らしい。

讃岐の金山で採れたサヌカイトは、このすぐ近所の寝屋川の高宮八丁遺跡(弥生時代の初め頃)ほか、河内湾周囲の水稲地域から見つかっているらしい。

高宮八丁遺跡では他、二上山、丹波山、耳成山で採れた石で作った石器も見つかっているそうだ。そんな風ではあるけれど、大まかに言うと、こんな感じらしい。

古くからの縄文社会(大阪市平野区の長原とか)では大昔から二上山のサヌカイトが用いられていて、弥生時代、水稲が始まった地域では金山のサヌカイトが多く用いられていた。近畿は低湿地が多いし水稲に向いていたみたいで、どんどん低湿地に新しい集落が生まれ、そこでは金山のサヌカイトが多く使用されていた。それから次第に二上山のサヌカイトが全体にいきわたっていった。

東北地方ほど多くはなかったけれど、縄文時代から人々が住み暮らしていた大阪に讃岐の人々がやってきて、縄文人たちと結婚して、新しい集落をつくっていったのかな。水稲社会の人々は、縄文社会の人々よりも背が高かったのだって。縄文の乙女たちは「すてき、あの人たち」なんて思い、新しい生活にわくわくしながら新しい集落に嫁入りしたのかも。

三嶋溝咋の溝咋(みぞくい)は「溝の杭」で、水田関係の名前かもしれないそうだ。

河内湾周辺で水稲が行われるようになっていき、その初期から牟礼や高宮に水稲を行う人々が入植していたのかな。

高宮八丁遺跡のそばの高台では縄文時代の高宮遺跡も見つかっていた。そして高宮八丁遺跡は弥生時代の半ばに突然終焉したということだった。

縄文人は丘に住んでいて、そこに讃岐の方から水稲農耕を行う人々がやってきて、低地で水稲栽培を始めた。それが高宮八丁遺跡だったのかな。

牟礼でも集団で水稲農耕を行っていて、「群れ」と呼ばれたのかな。そしてやがては集団は「ムラ」と呼ばれるようになったのかも?

ムラは富み、リーダーは王となり、けれど大きな集落から小さな集落に規模が変化。大所帯はなにかとたいへんだったのかな。

その頃以降の石器があまり見つかっていなくて、鉄器が普及したからだと思われるそうだ。淡路島では弥生時代後期の大規模鍛冶工房の跡が次々見つかっているそう。農具も鉄器になって生産性が上がり、小さなグループでもやっていけるようになったのかな。

そして富むものはどんどん富み、衝突もあったのかな、見晴らしのいい高地に移っていった。

地図を見てみると、香川にも牟礼があり、近くには庵治(あじ)があった。花崗岩だけれど水晶並みの強さを持ち、「花崗岩のダイヤ」とも呼ばれる庵治石の産地だそうだ。墓石などに使われていて、庵治、牟礼で採れるのだって。

「あじ」「むれ」は興味深いなあ、と思った。アジはアヂスキタカヒコネを連想させるし、牟礼(群れ)は水稲栽培を連想させる。

アヂ(アジ)スキ(シキ)タカヒコネの名の意味は諸説あってよく分かっていないみたい。けれどもし庵治からきているなら、オオクニヌシは水稲栽培を広めた人々のシンボル的な人で、息子とされるアヂスキタカヒコネは讃岐から近畿にそれを持ちこんだ、庵治の人なのかも・・・とか妄想した。

三嶋溝杭の「三島」も、四国(愛媛)に関わりが深いのかもしれないそうだ。三島大明神こと大山祇(おおやまつみ)命を祀る神社の総本山が愛媛にあるのだって。オオヤマツミは大歳神のおじいちゃんという人。

娘にクシナダヒメ(スサノオの妻になって八島ジヌミを産んだ)や神大市(かむおおいち)姫(スサノオの妻になって大歳神や稲荷神を産んだ)、コノハナサクヤ姫(ニニギの妻になって山彦を産んだ)、コノハナチル姫らがいる。

コノハナチル姫は八島ジヌミの妻になって、産んだ子の子孫がオオクニヌシなのだって。

和泉の方には海神族の話が多かったけれど、ここ三島あたりでは出雲や水稲社会に関わる話が多い気がする。


ここから安威川沿いをさらに進み、溝咋神社などを回るつもりだった。けれど西法寺あたりまで行ったところで、思い直した。思いのほか時間が押しているし、続きはまた次回としよう。

阪急茨木駅を目指したののだけれど、途中通った中村町はかなり大きな屋敷が目白押しで、いったいどういうところだろうと思った。

そして到着した阪急茨木駅は思いのほか栄えていて驚いた。新屋神社、総持寺、牟礼、古そうなところばかり回って、茨木駅がこんなに近代的で賑わっているとは・・・。JR茨木駅よりかなり賑わっていた。

またすぐに続きを歩きに行くつもりだった。そして茨木を歩くべく準備していた次の月曜日の朝、大阪北部地震が起きた。

地元でもはっきりと分かる大きな揺れだった。

タイミングが違っていれば、震度6に揺さぶられて、家に帰る電車も止まってしまっていたかもしれないんだな、と考えると、平和に電車に乗ってどこかに行って、また平和に帰ることができるって、ありがたいことなんだな、と知った。その日は近場だけの散歩にしておいた。

鬼瓦が素敵だった本源寺も、地震で一部被害があったそうだ。モノレールはその後、しばらく休止していた。

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