和泉の流通センター
暑くなって、真夏日も記録した6月。梅雨入り前だったけれど、午後からかなり信頼できる曇予報だったので、少しはましだろうと散歩に出かけることにした。
前に思ったことがあった。高石神社から加茂を通って、和泉黄金塚古墳を通って、荒山公園(タジハヤヒメ神社)にと向かったら、ほぼ一直線だな。
その道を歩いてみることにした。一直線であることに意味なんてないかもしれないけれど、なにか気になったのだ。
南海本線高石駅に降りたった。前に高石神社から鴨公園までは歩いたことがあったけれど、同じ道をとりあえず鴨公園まで行くつもり。それから荒山公園まで東南東に進んでいく。
高石駅は前回と同じく工事中だった。
高石神社はパスして東に向かうつもりで、とりあえず前回と同じくライフの方向へ。ライフは閉店中で、「2020年リニューアルオープン(予定)」だって。そしてライフすぐのパン屋さんショパンへ。羽二重餅デニッシュなどを買った。
パン屋さん前をそのまま道なりに東に進んだ。このあたりも、古そうな、面白いところだ。右手に踏切が見えると、ここを渡った。
高石駅まで高架を走ってやってきた南海電車だった。和歌山方面に向かう線路は高架化工事が終わって高架を走っているけれど、大阪方面に向かう線路はまだ工事中で、今はまだ地上を走っているらしい。それで踏切があり、工事の作業員の人たちやガードマンさんが多くいた。
しばらく南下し、信号のある車道に出た。通りの向こうに公園が見えていて、信号を渡って、公園(加茂中央公園)の左側の道に進んでいった。
すぐの5つ辻で左折。少し変わった感じのところで、かつてはどんな辻だったのだろうな、と思った。
住所表示を見ていると、加茂1丁目、2丁目、3丁目と順調に進んでいく感じが面白かった。じぐざぐに南下していくと、高石市役所の南側の道に出ていた。それから鴨公園に入っていった。
前は区役所の北側の道から公園に入っていったけれど、今回は区役所の南側の道からの遊歩道で公園をつっきる感じだった。
「水辺の遊歩道」になっていて、あらいぐまや、亀とそれを見る猫なんかの、リアルなサイズと動きの像があしらわれていて、面白かった。前回素敵だった鴨広場は、今回は草ぼうぼうでスルーした。荒れているというより、緑が、草刈りがおいつかない生育を見せる季節だったんだな。
児童公園もあって、「この公園は毎日放送の協力で整備されました」みたいなことが書かれてあった。
遊歩道から公園を出ると、やや右手の道を進んでいった。振り返ると、「毎日放送ラジオ送信所」と、レトロな大きい文字が見えた。前回見た、太陽光パネルがズラリ並んでいたところが送信所の敷地らしい(毎日放送高石太陽光発電所)。
今は「MBSラジオ」という名称。AM1179。この送信所は昭和36年に送信開始。平成25年に太陽光パネルが設置されたんだって。
広い道(第2阪和)に出て、ここには信号がなかったから、けっこう遠回りして信号を渡らなきゃ・・・と思っていると、地下道の入口があった。西取石第2地下道だって。
みんなどんどん地下道に入っていった。かつてはメインストリートで、そこを大きな道路が横切るようになって、地下道がつくられたのだろうな。わたしたちも地下道に入っていった。
地下道を出てそのまま進むと、右手に大歳公園が現れた。
鴨公園に大歳公園ときたら、カモ神社と大歳神社があったのかな、と思った。合祀されたとしたら、近くのトノキ神社にかな、と改めて調べてみたら、綾井と新家から大歳神社を合祀とあった。その新家がここなのかな? 地名は取石だったけれど、電信柱なんかに「シンケ」と書かれているのをこのあたりで見た。
元々はこのあたりには、大歳神社はもっといっぱいあったらしかった。どんどん壊されて、辛うじて残った2つの大歳神社が最後にトノキ神社に合祀されたのだって。
大歳神社は地元の住吉大社界隈にもあって、おもかる石で有名だった。けれど正体のよく分からない神社だ。
元々は大歳神は、スサノオの息子とされているそうだ。大山ツミという大物がいて、この人の娘が、コノハナサクヤ姫(ニニギの妻になった。山彦の母)、コノハナチル姫(スサノオとクシナダ姫の間の息子の妻になった。オオクニヌシの先祖)、神大市姫らなんだって。その神大市姫がスサノオの妻になって、ウカノミタマと大歳神を生んだんだって。
ウカノミタマは稲荷神社に祀られる神。大歳神は大歳神社に祀られる神。大歳神の子が御歳神で、大歳神と御歳神の二人(二柱)を祀る神社の総本社は葛木(御所市)にあって、高鴨神社(祭神はアヂスキタカヒコネ)、鴨都波神社(祭神は事代主とシタテル姫)とセットの鴨社であるらしい。
大歳神には他にも多くの子がいて、その一人が聖大神。信太山の聖神社に祀られる神様だ。
JRの踏切を渡り、取石小学校の横を通っていった。JR富木駅すぐの医院の看板が目立っていて、富木駅に近いようだった。
赤い古い円柱のポストが立っていたり、小学校の校門には「マムシに注意」と書かれてあったり、水田もあったりして、田舎の様相だった。けれど新しい家もどんどん建っているようで、電柱も新しく架設されているところだった。たんぼが売られては、家が建っていくのだろうな。
ちょっとした丘だったんじゃなかったかという雰囲気だった。なんだろう、吹く風が、丘に吹く風の感じだった。
小学校から南下して、澄明寺の横などを通った。ここだけは古そうな道だった。他はみんな開発で、道も新しく変わっていっているのだろうな。
広い府道30号線に出た。
30号線は、最初に熊野街道で歩いた時から何度か歩いていて、おなじみになってきた道。東(北東)に歩き、クリーンセンター前交差点を過ぎて、次の信号を右折。
信号を渡ると池があって、高台になっている。元々は大きな池だったのだろうなあと思いつつ通り過ぎた。
池を過ぎると左右に道が分かれて、左の道へいつもは進むのだけれど、今回、初めて右に向かってみた。左に進むと、和泉黄金塚古墳らしきところが右手に見えているものの、近寄れないまま通り過ぎてしまうので、ここで右手に進むと、古墳に行けるのかもと思って。
和泉黄金塚古墳は古墳時代前期(4世紀後半頃)の前方後円墳で、玉手山古墳(柏原)ほどではないけれど古く、出土品の数々は重要文化財になっているのだって。卑弥呼が魏の皇帝から100枚の鏡をもらったっていう、その年の銘のある鏡も出土しているそうだ。けれどそれよりは新しい(100年ほど後?)時代のものらしく、レプリカなのかな。鏡を元に粘土で型をとり、それでレプリカを作ったとかなのかな?
古墳には3人が埋葬されていたそうだ。中央が女性。祭祀を行っていたのだろう人。その後、その左右に男性がそれぞれ埋葬されたのだって。政治実務を行った首長と、守り人である武人だということだった。
道を進むと、人家もまばらに数えるくらいしかない砂利道になり、左には田畑が広がり、右にはクリーンセンター、という具合だった。
クリーンセンターはゴミ処理施設かな。前にたくさんのゴミ収集車が出動していくのを見たことがあった。広くて、大きな複数の建物が見える、柵に囲まれた新しい施設だった。
左手の田畑の向こうには、こんもりと森が見えていたけれど、田畑は出入り自由ではなさそうだったし、そちらには向かわずに、道を進んでいってみた。
そうしたら、クリーンセンター沿いに道は続いて、森とクリーンセンターとの間の細い道を歩いているうちに、古墳への入口がないまま30号線の近くまで出てしまった。
道の途中、一ヶ所、森の中に入っていけそうなところもあったけれど、すごい草ぼうぼうで、もう「道なき道」って感じになっていて、入って行かなかった。他には分岐点はなかったように思う。
30号線に下って行った。
かなり道を下って降りていった。黄金塚古墳は高台にあり、クリーンセンターはその斜面にある感じなのだろうな。きっときれいなところだったろうな、と思った。
クリーンセンターのあるあたりには取石池があって、万葉集にも詠まれている、風光明媚なところだったそうだ。けれどほぼ水田となってしまい、クリーンセンターも建てられ、30号線もできて、変わってしまった。
取石(とろし)には、取石造が住んでいたのだって。古い時代の百済からの渡来系氏族だったそうだ。新撰姓氏録なる平安時代に編まれた氏族一覧があって、そこに和泉国の取石造が記載されていて、その説明には「出自百済国人阿麻意弥也」とある。
同じく百済からの渡来系の信太氏も4世紀末頃、須恵器の技術をもってやって来て、信太に住み着いている。「天武天皇が信太首に聖神社を祀らせた」と伝えられる信太首かな。新撰姓氏録には「百済国人百千之後也」。
須恵器の発生には諸説あるものの、信太氏が信太山で須恵器の生産を始めたともいわれているそうだ。須恵器作りはまず信太山で始まり、それから一帯の丘陵に広まっていったらしい。他、このあたりで広まった製塩や火葬も、信太山やその近辺で始まっているらしい。
取石氏は、そんな信太氏の近辺にいた人たちで、取石池は、須恵器を大園に集めるのに使用したらしき池なのだって。大園では大園遺跡が見つかっていて、古墳時代には丘陵で焼かれた須恵器を集めて各地に流通させるセンターの役割を果たしていたと思われるところ。
平安時代になると、取石には取石宿があり、三昧堂もあったのだって。三昧堂って、本来は念仏をずっと唱える(念仏三昧)ためのお堂のことだったみたい。三昧聖の三昧も元々はそういう意味だったのかな。けれど三昧=墓くらいの認識になっていって、囚人なども預かるようになったみたい。元関白九条政基って人の日記にそういったことが書かれているのだって。
九条政基は応仁の乱の頃の人で、殺人事件を起こしたりもしている。晩年に日根荘の管理のために慈眼寺(日根神社の横のお寺)に住み、日記を残しているそうだ。
30号線をクリーンセンター前交差点の次の信号まで戻り、左右に分かれるところで、今度は左に進んだ。
やっぱり左から攻めてみようと思って。
地名は原田。左手は低地になっていて、歩いていて、河内長野の千代田駅近くの原町に似た感じだな、と思った。
左手に墓地があって、右手の田畑が途切れたところで、遊歩道的なあぜ道(?)が現れた。南に向かっていくあぜ道。その道の横は小さな新興住宅地になっていたけれど、その範囲は狭く、周辺は古そうな集落だった。
このあぜ道を進んで行ってみることにした。あぜ道はいろいろ分岐して、こんもりした森のあたりにも、何カ所からか進んでいけるようになっていた。この「こんもりした森」あたりが和泉黄金塚古墳じゃないかなと歩き回った。
森のあたりに入っていくと、草木が生い茂っていた。そしていくつか池があり、柵も何もない、大きな底の見えない池のすぐ横を通ったりもした。「私有地につき立入禁止」という、草ぼうぼうで、遠目にだと何がどうなっているのかも分からないところがあったりもした。草木が野放図に育っていた。
そして結局、原田町集会所に出ていた。レトロな、こじんまりとした町の、レトロな集会所。
この町からの公道では黄金塚古墳には行けない感じ・・・。やっぱり黄金塚古墳に近づける道は見つけられなくて、今日もまた退散かあ・・・と黄金塚をあきらめた。
歩き回ってみて、ここは「こんなところが今もあったんだ」という、すごいところだっていうのは分かった。田舎の古い集落って、みんなこんな感じなのかな? でもわたしには縁遠いから新鮮だった。
集会所の南側の道を東に向かうと、池や原田児童公園、石灯篭なんかがあった。ここを左折して、つきあたりを右折。草部交差点にたどり着いた。
ここを起点に東に向かうのが和泉街道。喜志を通って、近つ飛鳥あたりに通じていた。古代からあった茅渟道かもしれない道。
草部からはちょっと寄り道して、鶴田池に行ってみた。鶴田池は草部交差点の南西にあった。北には大鳥神社、南には信太山、西には葛葉というあたり。
ちょっとした寄り道のつもりだったのだけれど、池にはなかなかたどり着けなかった。新興住宅地や鶴田池ゴルフセンターがあって行き手を阻まれ、ぐるりと南に回らなければならなかった。池はゴルフの打ちっぱなしの練習場になっていて、池の外周には緑のネットがはられていた。けっこう人が入っていて、小さな浮島(?)に向かって球が打ち込まれ、池には大量のゴルフボールがぷかぷか浮いていた。
南下して鶴田池交差点で高速(堺泉北道路)の下を通り、次の信号を右折。福泉中学校の北側を通り過ぎると、やっと池がそばに現れた。
どうやら道の左右両側に池があるようで、右側は茂った緑で見えなかったけれど、左側には池がきれいに見えていた。
どうやら右側は福泉公園になっていたみたい。けれど気づかず、左側の池を眺めて満足した。この日、いくつも池を見たけれど、ここが一番素敵だった。奥の方まで池が続いていて、その向こうには色濃い緑の森が見えた。惣ヶ池に似た感じだな、と思った。前に信太山の聖神社に行ったとき、鶴山台って住宅地を上って行って、そのてっぺんあたりにあったのが惣ヶ池だった。鶴山台は鶴田池のすぐ南西あたり。
素敵な鶴田池には釣り人がいっぱいいて、車もいっぱい路上駐車していた。池には柵があるのだけれど、大の大人たちが柵を越えて、池のほとりに立っていた。見知った者同士と見えて、「おつかれ~」なんて言って帰っている人もいた。ほとんどがおじさんだった。
この鶴田池もまた、行基がつくったと言われているそうだ。天平9年(737年)、行基70歳の時、鶴田池院も建てている。
久米田池を造成した時、久米田寺(天平10年)を建てたように、鶴田池を造成して、鶴田池院(大鳥郡凡山田村)を建てたのかな。行基に対する迫害も終わり、朝廷と手を結び始めた頃かな。
そんな池の上に今や高速が走り、ゴルフの練習場が作られている。




