陶器とオオタタネコ
ここは泉北高速深井駅と、その南の泉ヶ丘駅の間あたりだった。
泉北では丘陵にニュータウンと駅が造られていて、丘陵と丘陵の間の谷間あたりには古くからの集落がある。ここは陶器川の流れる谷間になるのかな?
陶器川は、流域には岩室(西高野街道歩きで通ったところ)や平井(和泉街道で通ったところ)なんかもあり、石津川に注ぐ川。
陶荒田神社は、10代崇神天皇のとき、オオタタネコが創建したと伝わるそうだ。陶邑の産土神で、今も「太田の杜」と呼ばれているのだって。当時から「太田」と呼ばれていて、そこに住んでいたからオオタさん(オオさん?)となったのかな。
オオモノヌシは、むかし、オオクニヌシの国造りの時、三輪の神になった人。手助けしてくれていたスクナヒコナが国造り半ばで海の向こうに消えていってしまい、オオクニヌシが困っていると、オオモノヌシが現れて「我を三輪に祀れ」というので、実行して、国造りは完了。
それから10代崇神天皇のとき、疫病がはやって人がバタバタと死に、国は乱れた。天皇がどうすればいいか思い悩んでいたところにオオモノヌシの神託があり、「三輪にいる我を大田田根子に祀らせろ」ということだった。
崇神天皇は三輪のオオモノヌシを祀らせるためにオオタタネコを探させた。探しにいったのはイカガシコオ、肩野物部氏の祖。
日本書記によると「茅渟県陶邑」、古事記によると「河内国美努村」で、オオタタネコは見つけ出されたそうだ。
茅渟県陶邑はこのあたり。後の5世紀頃、このあたりの丘陵で最高品質の須恵器が大量生産され、その須恵器は大和朝廷はもちろん、九州や東北にまで流通していたそうだ。流通センターなども設置されていたのだって。
陶でつくられたから須恵器と呼ばれたのかな?
河内国美努村は、八尾の御野縣主神社の鎮座するあたりとも言われているそうだ。御野県主の一族は和泉が発祥で、後に河内の御野にも勢力をのばしていた。
けれど、河内国美努村はここだったのかもしれない。元はここが美努村で、ここから八尾方面に進出していったのかも。日本書記で言う茅渟県陶邑は、古事記に言う河内国美努村と同じ、ここを指すのかも。
和泉国も8世紀初めに河内国から分かれる前は河内国だったし、陶器川の源流あたりには見野山がある。ここもまたかつてミノと呼ばれていたところだったのかも。
オオタタネコが選ばれたのは、オオモノヌシの血を引く人だったからみたい。
オオタタネコの先祖は、オオモノヌシと、スエツミミ(オオスエツミ)の娘との間に生まれた子。スエツミ(陶津耳命)は陶の王だった人なのだろうな。「ツミ」や「ツミミ」はワタツミやアヅミと同じ。
スエの王だったスエツミミの娘がオオモノヌシの子を産んだ。その子孫がオオタタネコで、オオタタネコの子孫は賀茂(鴨)氏などになったそうだ。役行者もこの一族らしい。祖神とされるのはアヂスキタカヒコネ。
オオタタネコが三輪の祭主となった後、陶荒田神社は創建されたそうだ。
元々はオオタタネコの祖先を祀っていて、祭神はタカミムスビ。
そのタカミムスビの直系の子孫が太田の杜にいて、その名が荒田だったので、陶荒田神社となったんだとか。
タカミムスビって大物だった感じがする。ニニギの父(アメノオシホミミ)の舅がタカミムスビだった。そんなタカムスビの直系の子孫の荒田さんって何者だろう・・・。そんな人がどうしてここにいたんだろう。
オオモノヌシの血をひくオオタタネコは、タカミムスビの子孫でもあり、アヂスキタカヒコネの子孫でもあった・・・のかな。
境内にある地図を見ると、陶器川も描きこまれていて、ここから北には兒山家住宅があるようだった。
ここまでけっこう道を下って来たけれど、この先、北にはまだ下っていくようだった。兒山家は大庄屋で、小出氏の陶器藩の代官もつとめていた旧家であるらしかった。近くには陶器城跡もあるようだった。面白そうだったけれど、時間を考えて今回はパスすることにした。
自治会館のある辻まで戻り、左折。バス通り(上之交差点の東側)に出るとしばらくその道を進み、右手に分岐する道に入っていった。
地蔵がいて道が2つに分かれ、左手の道も古くて面白そうだったけれど、ウォーキングコースにそって右手の道へ。
午池があり、周りに陶の里広場がひろがっていた。陶の里広場は行政ではなく、地域の人たちによる手作りの広場かなって感じのところだった。広くて、気持ちよく整備されていた。のどかで素敵なのに、人っ子一人いなかった。
そのまま進むと道は田畑の中のあぜ道になった。ゆるやかな上りのあぜ道が続き、ここは見野山であるらしかった。途中、後ろを振り返るときれいだった。
残念なことに工場などもあり、山を歩いているというより、開発されていく中に辛うじて残った丘の上のあぜ道を進んでいる感じだった。周りが新興住宅地になり、車道に出て、このあたりはもう山ではなく住宅街だな。
車道につきあたったら左折して、ゆるやかな下りの道を北上して行った。
右手には緑が見えていた。これはこの後で行った阿弥陀池あたり。古い家もあって、田舎の様相だった。
またバス通りに出て、右折。ゴーストマンションみたいな建物があった。
阿弥陀橋があって、池が現れた。右手の池は、幅は狭くてすぐに終わったけれど、奥行きはずいぶんあった。遠くの方まで池が続き、その向こうには緑が見えていて、思わず立ち止まってしばし鑑賞した。これは阿弥陀池だって。
こんなに何気なく存在していていいのか?と思うような池だった。こんなに一帯の雰囲気をガラリと変えてしまうほどの素敵な池が、注目もされずに存在しているんだな・・・。
これが特別な池というわけでもなくて、かつてそこらじゅうにあった池は、みんなこんなものだった、というならそれはそれですごいことだった。ちょっとした異界に来たような感じさえした。
池からは北に陶器川が流れていて、そこにかかるのが阿弥陀橋だった。
陶器川の流れていく左手は急な窪地になっていて、そこにも池が見えていた。中池と老ノ池らしかった。
展望のきく道で、右には阿弥陀池、左には遠景、そしてゴーストマンション(?)。池畔の窪地に建ち、かつてはどんなに素敵な団地だったことだろう。
そのまま進むと、前方には泉東墓地があり、左手には祠などがあった。だんじりの倉庫が見えていて、「隠」とあった。
ここ堺でも、だんじりは盛んだったそうだ。けれど危険すぎるってことで禁止になり、多くのところではだんじりの代わりに布団太鼓ってものを引くようになったのだって。
「隠」というミステリアスな地名のいわれにはいろんな説があるようだけれど、分かっていないらしかった。
墓地で左右に分かれる道を右折し、突き当たりまで進んでいった。この一本東の道は西高野街道だった。地名は岩室。阿弥陀池の少し南が、前に行った極楽寺のあたりのようだった。窪地にあって、ここも異界のようだった岩室の極楽寺観音院。行基の創建で、大寺院だったと伝えられるところ。
見野山、阿弥陀池、極楽寺、その南には陶器山、東には狭山池。今みたいに住宅密集地じゃなかったら、素敵なウォーキングコースだったことだろうなあ。
つきあたりを南下すると西高野街道につながっていて、西高野街道を北上して行った。
街道の右手は山本南(大阪狭山市)、左手は陶器北(堺市)だった。この先、東側はずっと山本(山本南、山本中、山本北)で、西は福田になった。
綿花をつくるようになって栄えたという福田には、古い家々が建ち並んでいた。陶器藩の藩主の小出さんが、大阪の豪商、福島屋さんに協力してもらって開いた新田だったそうだ。
福上自治会館があるあたりは古いまんまで、「クボタ農業機械愛用者」のプレートがあった。前にふるさと農村テーマパークみたいな上之郷(泉佐野市)で見たのと同じもの。
途中、左手に福田公園が現れて、ここの煉瓦塀が古かった。この辻のあたりも古そうだと思ったら、交差するのは和泉街道(伊勢街道)だった。
この和泉街道を東に向かい、そう遠くはない北野田駅から帰ろうと思っていた。けれどふと気が付いた。前から気になっていた土塔がそうは遠くないんじゃないかな。
行基のつくった土塔が、前に「日本のピラミッド」と紹介されているのを見た。土塔と言ってもどんなものか想像できないのだけれど・・・。その土塔のある町は土塔町という名になっていて、福田の北あたりにあるようだった。前に行った行基の生家の家原寺や、母親の実家の八田は、その東に2kmくらいのところ。
急遽、土塔に行ってみることにして、福田南交差点から国道310号線を北上していった。途中左折して行くと、融通地蔵尊や、片岡牛乳の牛乳受けのある古い家々があった。
きょろきょろ見ているうち、道に迷ってしまった。ぐるぐる歩き回って、どうにか高速(阪和自動車道)の下に出た。なんだか不思議なところだった。無骨な高速、工場なんかがあって、緑もあって、その緑は遠い日の記憶を残しているようだった。そしてそこで、自転車のおばさんや、自転車の茶髪の小太りママやおじいさんなんかが一緒に信号待ちしている。ばらばらのものが一緒にスタート地点にいる、不思議な感じがあった。
信号が青になると、いっせいにそれぞれ、てんでばらばらの方向に発進していった。
北に進むと土塔町福田だった。道なりに行くと墓地があり、墓地の右手に進むと、いきなり土塔が現れた。
どうやらここは土塔町公園のようだった。かなり広い公園の片隅に土塔があるのだけれど、ちょうど土塔のところから公園に入って行ったみたい。
ぺんぺんと少し生えた草に薄く覆われた、段々重ねになったものがあった。四角すいの小山をレゴを使ってつくったような形。上段になるに従ってだんだん小さくなっていく四角形が何重にも積み上げられた土の塔。
ピラミッドとは別物かも・・・と、エジプトのピラミッドしか知らなかったから思った。でも今になってピラミッドの形がきれいな四角すいのものだけじゃないと知ると、マヤのピラミッドに似ていると思う。
ここに、各々に人の名を書いた瓦がびっしりと並べられていたらしい。寄進されたものだったのかな。
土塔は大部分がリペアされているみたいで、どうしてリペアされているかというと、大きく損壊していたからだそうだ。戦後、ここは誰か個人の持ち物になっていて、土塔はぶっ壊し、更地にしてなにか建てようとされていたらしい。そして実際に工事に着手。反対運動が起こり、市が買い取って、どうにか一部を残せたんだそうだ。
土塔は残せたけれど、そうやって消滅したものも多いのだろうな。今回歩いたあたりにも、陶器千塚と呼ばれる多くの古墳があったそうだ。けれどほぼすべて壊され、更地にされ、宅地などになってしまったのだって。
地元の上町台地でも、形が残っているのは帝塚山古墳など少しだけだけれど、本当は数多くの古墳があったそうだ。みんな潰され、宅地や公園や寺院やテニスコートなんかにされちゃったのだ。
「日本のピラミッド、土塔」も、もしかしたら消え去って、ただの住宅街になり、「このあたりに行基の作った土塔があったと伝えられる」ってことになっていたかもしれないんだなあ。
後で知ったことには、陶器千塚の中にはカマド塚もあったのだって。土で作った窯状のところに入れて火葬にしてしまって、そのままそれを墓とするという埋葬法。
日本で最初に火葬にされたのは道昭だっていうのは、嘘だったんだな。実は古墳時代から行われていた。道昭よりも100年ほど前に信太山で始まっていたそうだ。
近くにはお寺(大野寺)もあって、気になったけれど、もうすっかり遅くなっていて、スルーした。
土塔って、元は大野寺にあったものだったそうだ。このあたり全部、大野寺だったところなんだろうな。
広くて、なかなか野趣あふれる部分も残る土塔町公園を抜けて、深井駅目指して西に向かった。てくてく早足で歩くとすぐだった。途中、水賀池公園なる公園があった。なかなか賑わっていて、池が素敵そうだったけれど、ここもスルー。
なんでも2万本のツツジの植えられた大きな公園で、水賀池もまた行基がつくったため池ではないかと言われているそうだ。別の日、深井駅近くを走る電車から大きな池が見えたんだけれど、それが水賀池だったのかな。
急いで回ったのが残念だった。またツツジの季節にやってこよう。




