源氏3代の墓
踏切を越えて上ノ太子駅の南側に向かっていった。
のどかで、車の通りも少ないところだったけれど、上を高速(南阪和道路)が走っていた。上の太子駅前交差点が2つ並んでいて、その西側の羽曳野IC前交差点の、もう少し先で、上りの道に向かって左折した。
飛鳥川が流れる周辺に丘陵があり、その丘陵の1つにできた集落って感じのところだった。
上りの道を進んでいくと、時々道標が現れて、源氏三代の墓に案内してくれた。また一段と田舎になった感じだった。空が広い。そこに木々と、ぶどう畑と、家々。
尾根道だったところなのか、一番高いところを歩いているように思った。
竜王寺があり、老人ホームと配水場を過ぎると、道は下りに変わった。下の方にPLの塔が小さく見えていた。
上ノ太子駅から西に石川のほうに歩いてきたようだった。
このあたりではぶどう畑の周りに電気を通した電線が張られていた。イノシシが出るのかな。
丘の上には昭和の感じの家が多かったけれど、下っていくと、また旧家だらけになってきた。丘の上には昭和になって家が建てられるようになったのだろうな。
そして右手に史跡「壺井の水」が現れた。説明はほぼ文字が消えてしまっていて、詳細は分からなかったのだけれど。
清和天皇のひ孫の多田(源)満仲には息子が何人もいたそうだ。
多田満仲って、前に歩いた河内街道で知った人だ。清和源氏(56代清和天皇の子が多すぎて、一部は皇族を離れて臣下になり、源氏の名をもらった。その子孫)だったけれど、住吉大社で神託を得て、多田ってところ(兵庫県川西市)に移り住んで開拓し、多田を名乗るようになった。多田では武士団も結成。
その長男は摂津源氏の祖、次男は大和源氏の祖、三男は河内源氏の祖と呼ばれるようになった。河内街道で歩いた若江には、四男の美女丸が住んでいたってことだった。
三男の源頼信は、晩年になって河内守に任命されて(1020年)、兄たちに倣い、任地に本拠地をおいた。それが「香呂峰」。このあたりだったのだって。そして三代(頼信・頼義・義家)に渡りここを本拠地とし、河内源氏となった。
前九年の役とかにもここから出陣したんだって。前九年の役って初耳。陸奥ってところをしきっていた安倍氏が国の言うことを聞かなくなっていっていたのを国が誅したこと・・・かな? 源頼義が出陣し、安倍氏を成敗したらしい。
前九年の役の時、頼義、義家親子の軍は、大旱魃で喉の渇きに苦しむことになった。頼義は天に祈り、弓矢で岸壁をほると、清水が湧き出、戦いにも勝利したのだって。
この清水を壺に入れて持ち帰り、井戸を掘って、壺ごと入れたんだって。それが「壺井の水」で、地名も「香呂峰」から「壺井」に改めたそうだ。最近まで井戸水を飲むこともできていたらしい。
「壺井の水」の奥には石段が続いていて、その上は壺井八幡宮だった。楠がうわあ!というくらい立派で、樹齢約千年だって。
義家公の後裔の三王さん(阿倍野区・山王商事)寄進の石碑(?)があった。35世後裔大尉壺井さんの名の入った石も。
前九年の役で出陣の途中、源親子は石清水八幡宮に参拝したんだそうだ。そして勝利したので、1064年、石清水の神を勧請。それがここ、壺井八幡宮だそうだ。
元禄時代、綱吉の命令で再建されたらしい。屋根の茅がきれいだった。
境内には義家の歌碑があった。
吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな
これも前九年の役に向かう途中にか詠んだとされているそうだ。
壺井八幡のすぐ横に、並んで壺井権現社があり、「イノシシ出没注意」と書かれてあった。
壷井には河内源氏の祖の頼信、息子の頼義と、更にその3人の息子たちが祀られているのだって。
3代目の3人は、長男の八幡太郎義家(石清水八幡宮で元服)、次男の賀茂次郎義綱(京都の賀茂神社で元服)、三男の新羅三郎義光(近江の新羅明神で元服)だそうだ。
八幡宮の階段を降りて、そのまま南下していくと、源氏三代の墓のようだった。
進んで行ってみると右手に地蔵堂があって、修験道のシールが貼られていた。左は山、右は平地が続いていて、工場の音と、カラスの鳴き声がしていた。
このあたりは、おうちもやたらと大きかった。
通法寺跡(頼義の墓)はこちらと案内が出ているところは工事中で通行止めだったので、そばの道から行ってみた。
どど~んと立派な旧家が水路の向こうに並んでいて、それと向き合ったところに「通法寺跡」はあった。
門は残されたのかな。「跡」にしては立派な門があって、その中は広場になっていた。そしてその一角に源頼義(2代目)の墓があった。
頼信、頼義の親子がお堂をたてて、それが源氏の氏寺、通法寺となったんだって。
ここにその跡が、今も確かに残っている。呆然とした・・・。平安時代、武士の活躍し始めた頃の河内源氏たち。かれらが建てたお寺や墓がずうっと存在し続けているんだな。現代社会とはまるで違った時代を生きていた人たちの残したものが、ずっと残されて、こんなところに存在しているんだな。
ここは地名も通法寺だった。
今ここに暮らす人たちは、源氏や通法寺と何か関係を持つ人たちなのかな? お寺と向き合って並ぶ家々を見るとそんな感じがした。
通法寺跡の外れには「源氏館跡」の説明版もたてられていた。館がどこにあったかはまだ不明だけれど、「八幡の丘の上」にあったと伝えられているのだって。
説明板から南下していくと、義家の墓の案内が出ていて、矢印は山の中に入る上りの階段を指していた。ここにも「イノシシ注意」と書かれてあった。
山の中に入っていく、急な階段を上っていった。
しばらく進むと、丸い平地にたどりつき、そこには、中央に大きく高く盛られた八幡太郎義家の墓と、少し離れて、ずらりと並んだ「法印○○」と書かれた小さな墓があった。「法印」って、お坊さんの最上位のことらしい。通法寺の代々の法印の墓とかかな? 五輪塔タイプの墓だった。
そして、さらに奥に進むと、100mで頼信の墓があるらしかった。
荒れた元ぶどう畑にはさまれた山道を進んでいくと、イノシシのものと思われる足跡があった。お供え物はみんなイノシシがいただきます、しているのかな。
河内源氏初代の頼信は、説明板を読むと、藤原氏に仕えた人という印象が強かった。
藤原道長らに仕えて各地に送られ、晩年になって河内守に任命されて、ここに落ち着いている。その後、息子の頼義、孫の義家が前九年の役で戦勝をあげ、名をあげた。後三年の役でも勝利したものの、これは勝手に戦っただけだろ、という扱いで恩賞もなにもなく、冷遇。
義家は、自分の財産から戦ってくれた武士たちに恩賞を与え、東国での人気が不動のものとなったらしい。後に平安時代末期、源頼朝、義経兄弟が活躍したのも、人気の高い義家の血をうけついでいるってことも大きかったみたい。
少し離れたところには、大僧正隆光の墓があった。
だれ?それ、と思ったら、生類憐れみの令を発令した人なんだって。江戸時代、徳川義綱(5代)によって出された悪名高き法令。綱吉亡き後は左遷させられ、通法寺の住職になっていたんだって。そして奈良の自宅で亡くなったあと、ここにも分骨されたそうだ。
墓はもうボロボロになっていた。イノシシにか、一部倒されたりもしているけれど、そのまま放置されていた。
ここにも前に三箇の水月院跡で見たバットを逆さにしたような墓石がたてられていた。卵塔ね。
河内源氏は頼信、頼義、義家、その後はどうなったんだろう?と思って調べてみた。
その後はぱっとせず、というか、没落かな。
義家の息子が棟梁を継ぐ(4代目)も、殺人事件の犠牲者に。義家の弟(賀茂次郎)とその息子に嫌疑がかけられ、それに抗議して、息子たちは次々に自害。
けれどすべては義家のもう一人の弟(新羅三郎)の陰謀で、それがばれて、逃亡。
サスペンスドラマばりの事件だな。その後、義家の孫が棟梁になる(5代目)けれど、河内には本拠はおかず、京などにいて、その息子のとき(6代目)、東国を基盤とするようになったみたい。それが源義朝。頼朝、義経の父だ。
喜志駅に向かった。後で思えば上ノ太子駅に戻った方が早かったのだけれど。
通法寺跡に戻って、南下していった。墓地を過ぎ、白とピンクの梅が咲いている旧家を過ぎ、富田林市に入ったようだった。ここは羽曳野市と太子町、富田林市(あと河南町も)の境あたりだったみたい。
太子交差点に出て、西に約2kmで喜志駅だった。
東には叡福寺も近いようだった。寄りたいところだったけれど、また次回としよう。聖徳太子御廟とか見所いっぱいだから、見て回るには時間が足りなすぎた。
それからは面白くない府道32号線をひたすら西へ。散歩って、たいして面白くない道を歩いていると、長距離に感じるものなんだな。
梅川を過ぎると工事中のそばを歩き、石川を過ぎて、喜志駅に。府道32号線には「太子美原線」とあって、美原(丹比だったところ)と太子も近いんだな、と改めて思った。
聖徳太子が馬で行き来することもあっただろう丹比道(今の竹内街道が引き継いでいるといわれている古代の道)、そこにはいろんな分岐点があって、いろんな道、いろんな集落へと続いていたんだろうな。