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大阪を歩く犬4  作者: ぽちでわん
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日根野

日根野東上交差点まで戻って、日根神社に向かう道へと下っていった。

古い家もある中、新しい家々が建っていた。関空などもできて、いろいろ便利になって、日根野も開けてきたのだろうな。

田んぼだらけだった田舎に、家々が次々に建っていると思われて、建設中の家がいくつもあった。住人より建設作業員に多く出会ったくらい。

左手には素敵な林が続いていて、日根神社の入口はまだ現れないけれど、この林は寺社の境内と思われた。道を下っていくと、左手に慈眼院じげんいんの門が現れた。

慈眼院は天武天皇のときの創建で、空海が再興。鎌倉時代には「大井堰御坊」と呼ばれていたらしい。南北朝の戦いで焼け、再び再興。秀吉の根来攻めで焼け、秀頼によりまた再興。

泉州では信長の雑賀攻め、秀吉の根来攻めで焼けてしまった話ばっかりだな。

慈眼院の金堂と多宝塔は焼けずに残り、それぞれ重要文化財と国宝であるそうだ。そして「日根荘遺跡」の1つでもある。

入口すぐに金堂があって、寺の境内は奥にずっと続いているようだったけれど、閉ざされた門があって、中に入っていけないようになっていた。重要文化財であるわりには人っ子一人いなくて、自由に中も散策できるようにしちゃったら、不用心だからかな。

寺の壁はぼろぼろに年季が入っていた。そばで白い露草が咲いていた。

これも古そうな鐘や灯篭のある裏側に道があって、道をはさんで社務所があった。道は参道になっていて、右手には鳥居、左手には日根神社が見えた。

神社の境内とお寺の境内が隣り合っていた。神社と寺はしっかり分けなさいとなるまでは、一緒に存在していたのだろうな。

門に閉ざされていたお寺の境内の部分も、散策自由な神社の境内から見られるようになっていた。国宝であるらしい多宝塔もここから見えた。控えめながらも存在感を隠しきれていない感じの塔だった。


日根神社の祭神はウガヤフキアエズとその妻タマヨリヒメだった。神武天皇の両親ね。タマヨリヒメはワタツミの娘。

神武天皇東征の折、ここで戦勝を祈り、後にその地に両親を祀ったとかいわれているそうだ。神武天皇が東征してきて、東大阪あたりでナガスネヒコに負けて船で退却。そのとき、矢傷を負って兄が亡くなったといわれるのは泉南あたり。

鎌倉時代、荒野だったのを日根荘として開拓したという話だったけれど、泉北ニュータウンが古くからの土地の合間の丘陵を開発しただけで、元から古い集落もあったように、日根荘が開発される前も古い集落はあったのかな。

本当のところは、日根神社の創建に関わる詳細は不明なんだそうだ。けれど式内社で、大井関大明神とも呼ばれていたそうだ。

このあたり(樫井川流域)をもともと開拓した日根造の祖、億斯富使主おしふみのおみ(新羅からの渡来人)が祀られているともいわれるそうだ。

あと、「日根」の名は、アマテラスを表す「日」とスサノオを表す「根」を合わせたものなんだとか・・・(これはこじつけの気がする)。

ここら(大阪湾岸)には、ウガヤフキアエズやワタツミに関わる神社が多いな、と思った。

掃守村だった春木の弥栄神社もそうだし、タマヨリヒメの妹を祭る八木の夜疑神社もそうだし、住吉大社そば、玉手島だったところに建つ大海神社もそうだし・・・。

岡前神社(砂川変電所近くにあった神社かな)、丹生神社、比売神社などが合祀されていた。

日根荘遺跡の1つに「野々宮跡」があって、そこに丹生神社(丹生大明神と呼ばれていた)は鎮座していたのだって。比売神社は、元は溝口神社(溝口大明神)といったそうだ。これも式内社。

樫井川から取水していたあたりに祀られていたのが日根神社(大井関大明神)、取水した水(井川ゆかわ)を神社から流していたあたりに祀られていたのが溝口神社だったらしい。

そして溝口神社に祭られているのは、神功皇后の三韓征伐を助けた人だとも言われているのだって。神功皇后と共に帰って来て、船岡山に船をつけたという、和泉国の姫かな??

古くからあったのは溝口神社で、後に日根神社ができたとも言われているのだって。

つまりは分からないことだらけで、ああじゃないかこうじゃないかといろいろ言われているっていうことだな。

神社には水路が流れていて、素敵だった。天野山の金剛寺みたいだった。古くは寺社は、治水にも深く関わるものだったのだろうな。それに多くの人が境内に住み暮らしていた時代もあったから、境内に水路も必要だったのだろうな。

神社の右手に細い道があって、公園に行けると案内されていた。行ってみると、その小道は荒れていて、すぐ横は谷になっていた(「ろじ渓谷」だって)。神社と谷の間を通って、神社の裏にある「公園」に行ってみたものの、草ぼうぼうで、かなりの放置ぶりだった。

実はその先をもっと行けば、樫井川を渡って、大きな大井堰公園に行けたみたい。案内にあった公園は「大井堰公園」のことだったのだろうな。

けれどその時には知らなくて、草ぼうぼうの部分を「公園」だと思い込み、Uターンした。

社務所前や、小さな大井堰橋を渡って、参道を戻って行った。長い参道で、木陰で涼しくて、しばらくここで休憩した。

けっこうな時間になっていた。ここから意賀美神社、茅渟宮跡、蟻通神社、更には船岡山にも行って、羽倉崎から帰ろうかとも思っていたのだけれど、しばし悩んだ末、やめておくことにした。帰りがいつになるか分かったもんじゃないな、と思って。それに体がもたないや。


少し時間は早いけれど、JR日根野駅まで道を引き返し、帰ることにした。

途中、なんだか気になる道があって歩いていったら、また西上地蔵のところに出た。かつては「六道の辻」だったところ、とかかな、という気がした。

きょろきょろしながら歩いていて、1文字の名字が多いなあと思った。奥さんとかは普通だけれど、目さん(大宝令における四等官の「目」に由来?)、位さん、鶴さんなんて表札も目にした。

踏切の韓国語放送に驚いたJR日根野駅だったけれど、ホームでは、普通にハングルで会話がなされていた。

韓国人の留学生っぽく見える若者が多かった。近くの大学に韓国人が多く通っているとかかな? 調べてみると、「大阪観光大学」があって、日根野駅からスクールバスも出ているらしかった。過半数が留学生だそうだ。

この大学は元々は明浄学院だったところらしい。阿倍野を歩いていた時、高校があって、「日蓮生誕700年を記念して創立」とあったところだった。

元は都会にあったものが、人が増え、土地が足りなくなって、どんどん地方に移っていっているんだな、と思った。同じようなことが、古代にもあったんだろうな。都会から、どんどん地方へ。

そして古代には都会だったのは、今の和泉市とか柏原市とかだったのだろうな。


電車の中で、もう秋までは遠くには来るまい、と思っていた。

はるばる日根野くんだりまでやって来ても、暑くてあまり歩き回る気にもなれなくて、なんだか損している気がした。どんどん先を見てみたい、というよりも、木陰で休んでいたくなる。

遠出する散歩は25℃が限度かもしれない。

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