亀岡街道を岸部から
そして4月下旬のある日、行くことにしたのは岸辺。途中まで歩いて、そのままになっている亀岡街道の続きを歩きに。
だんだん暑くなってきていて、天気がいいと予報されていたその日、あまり長くは歩きたくなかった。亀岡街道の続きを岸辺から茨木まで歩いたら、ちょうどいい感じじゃないかな、と思った。
亀岡街道は大阪の高麗橋から北に亀岡まで。丹波の薪炭、寒天、農産物などを大阪市内に運ぶ道だったという街道で、前の年に大阪から、菅原、吹田、岸辺あたりまでだけ歩いていた。
久しぶりの岸辺駅(JR京都線)は、周辺一帯が工事中で、えらく開発されていっていた。以前の姿がいまいち思い出せなくてよく分からなかったのだけれど、岸辺駅自体もきれいになっているような。
歩道橋で駅の上を北側に向かい、地上に出た。歩道橋の下、駅の敷地はすごく広くて、線路が何本も敷かれていた。
途中まで「旧中西家住宅」の案内が出ていて、ついでに行くつもりだったので案内に沿って進んでいったのだけれど、途中からは工事現場に阻まれて、どっちに行けばいいか分からなくなってしまった。
出来たばかりの感じの遊歩道が線路沿いに東に続いていたので、そこを進んでいってみた。
右には線路、左には工事建設中の高いパネルがずうっと続いていた。やっとパネルが途切れて、ここからは左に山がきれいに見えた。これから大きなビルがいくつも建って、もう電車からも山を見られなくなるのだろうな。
車道に出て、遊歩道も車道と一緒に左折していった。この先にも工事現場は続いていた。「日本初」とかって言葉も大きく見えて、どれだけ大規模な開発なんだろう。歩いてきた遊歩道は「健都レールサイド公園」というらしかった。「健都」なる名称で開発が行われていて、それに先駆けて道路や公園を整備したんだな。
ここは吹田操車場の跡地らしい。同じく開発されている梅田駅近辺と同じように、操車場なるものが必要なくなり、その広大な跡地が「健都」として生まれ変わることになったみたい。「北大阪健康医療都市・健都」だって。これからの超高齢化社会に人気の町になるのだろうな。
開発にあたっては遺跡が調査されたらしい。開発するなら、そこに遺跡がないか調べ、遺跡が見つかった場合には調査をきちんと終わらせないといけないのだって。そして大阪はあちこちに遺跡があり、ちょっと掘りおこせばなにか出て来るそうだ。
ここでも遺跡が見つかった。明和池遺跡や吹田操車場遺跡(古墳~奈良時代)。調査が行われたらしく、その説明がパネルに写真入りでいろいろ説明されていた。近くには旧石器時代からの吉志部遺跡などもあると書かれてあった。
それからどうにか大光寺、旧中西家住宅にとたどり着いた。途中から道があちこち茶色っぽくカラー舗装されていて、一帯には古い家がごまんとあった。
旧中西家住宅は、中西さんから市に寄付されたのだって。大きさはかなりのものだった。そして同じくらい古そうな旧家は周りにもごろごろあった。
ここにも4月でもしめ飾りを飾ってあるお宅があった。「蘇民将来家門子孫」と書いてあって、これはちょっと流行りのものらしい。
伊勢では、しめ飾りは年中飾っているものなんだって。そして「蘇民将来家門子孫」と書くバージョンがあるらしかった。スサノオ(牛頭天王)の出てくる昔話が起源であるらしい。
むかしむかし、スサノオが伊勢を旅した時、一夜の宿を求めると、とある富める者は断り、貧しき男は快くひきうけた。その名は蘇民将来。
スサノオは蘇民将来の子孫には疫病など悪いことは起きないぞ、と言い残して去っていった。それで「蘇民将来家門子孫(蘇民将来の子孫です)」と、家に木札をつけるようになったそうだ。
今ではネットなどで誰でも購入できるみたい。
道はカーブを描き、そこに並ぶ家々は旧家ぞろいで、鷹合(東住吉区)みたいに素敵なところだったのだと思う。ただ、今では塀がところどころ現代的に変えられたりしていて、興を削いでいた。古い旧家の中に、古いアパートや新しい家も建っていた。それでも、この日歩いた中では、この岸部中の一帯がダントツで面白かった。かつては吉志部東村だったところだそうだ。
渡来系とされる難波吉志って人々がいた。古墳時代には渡来してきていたのかな、古くは大嘗祭(新天皇の即位に伴う儀式)のとき、安倍氏の元で吉志舞を舞ったとか言われていて、他、外交や屯倉の管理などを任されていた。
推古天皇の頃、難波に船で到着した訪日客の接待などをしていて、鵲森宮(聖徳太子が父を祀った森之宮神社)の名の由来になった鵲を推古天皇に献上したのも吉志さんだった。そんな吉志さんに関わると思われる吉志部の村が今では「岸部」の地名になっていて、駅は「岸辺」。
小さな信号を渡っていった岸部中3丁目あたりも面白かった。まるで迷路で、すごく細い路地や、小さな溝に小さな板が渡されているところなんかも歩いた。
敬愛保育園の西側の道を南下していて、右手に見えた常光寺に行ってみた。
「吉志部惣道場」と書かれ、寺の前には正源寺地蔵の祠があった。閉ざされて、鍵が閉められていた。
今、住民が寺内町と呼ぶあたり一帯に、かつて正源寺があったと説明されていた。大きな寺だったけれど、応仁の乱で焼失。それがこの一帯なのだろうな。
旧石器時代からの吉志部遺跡もあり、正源寺を中心とした寺内町だったこともある、古い土地柄なのだろう。
寺の北側の参道に出て、左折すると岸辺交差点。テイクアウトのパンもあるかわいいカフェがあり、その右手の道に入っていくと、大きな鳥居があった。
前の亀岡街道歩きで、気になって、ここから鳥居をくぐり、神社まで行ったのだった。何も知らずに行ったら吉志部神社で、古墳やら窯跡やらもあって、面白いところだった。今回は鳥居はくぐらず、常夜灯の前の道を北に向かった。ここが亀岡街道。この先、もう少し北に市場池公園を過ぎ、スサノオ神社のあるところまで前回歩いていた。
久しぶりの、少し上りの道を歩いて行った。道道、お地蔵さんがいっぱいいた。
途中、右に進むべき分岐点を左に行ってしまったみたいで、「七尾瓦窯跡」の新しい道標が現れた。行ってみるとすぐ近くに、瓦窯跡が小さな公園になって残されていた。
ここは難波宮(聖武天皇の時の難波宮)のために瓦が焼かれたところなのだって。少し階段を上ったところにある小さな公園には、窯跡が複数あった。それぞれの窯で異なる瓦が焼かれていたらしく、急ぎ仕事のため、異なる工人集団が何グループか集められたと考えられるそうだ。
びっくりしたのは、窯と窯との間が狭いこと。こんなに近い場所で仕事をしていたんだな。それはもうオフィスといっていいような狭さ、近さだった。
世間話もしただろうな。それぞれの工法についても話し、窯業のこれからのことも、難波宮のことも語ったのかな。
最近知ったのだけれど、縄張りをもつ猫たちは、縄張りの中ではあまり繁殖を行わないそうだ。シーズンになるとオス猫が縄張りを出ていって、違う地方に暮らすメスと恋をするんだって。近親相姦とかで血が濃くなるのを防ぐためなんだな。
猫だって知っている。人ももちろん知っていただろう。
ある者は隣ムラの権力者に娘を嫁がせようとし、ある者は隣ムラの同じ家業の者を婿に所望し・・・ってことが多くあったのじゃないかな。
前に竹内街道歩きで二上山に登った時、古代の人々にとって、山に上って見渡せる土地が、世界の単位だったのじゃないかと思った。
同じ1つの世界に住む者同士は同盟関係にあって、その中の、できるだけ遠くで繁殖を行おうとするのが自然の摂理だったのじゃないかな。
二上山でとれるサヌカイトで作った石器があちこちで見つかっている。人は、猫と同じように縄張りを出て行って、交易を行い、繁殖を行い、栄えていったのだろうな。○○氏とか、○○連とか、○○部とか、○○系渡来人とか、関係を持ち合い、姻戚になって、今の日本人になっていったのだろう。
この瓦窯跡の公園から、低地にある亀岡街道が見えていた。道中にある西教寺も見えていて、道を間違えているのが一目瞭然だった。間違えた分岐点までマジメに引き返し、亀岡街道とされている道を行き、西教寺近くで信号(府道135豊中摂津線)を渡った。
久しぶりの市場池公園を通った。江戸時代初期の味舌上村の灌漑用ため池だったのを公園にしたというところ。この周辺は今も水路や畑、家々が農村って感じだった。
更に北東を目指し、安楽寺や、山田川にかかる市場橋を過ぎていった。亀岡街道の右側は摂津市千里丘、左側は吹田市長野西の住所表示だった。亀岡街道が市境になっているんだな。そして須佐之男神社が現れた。
須佐之男神社は、亀岡街道に背を向けて建っていた。聖武天皇の時、行基が味舌上村に金剛院を建て、鎮守として牛頭天王を祀ったことに始まるそうだ。
ここからが亀岡街道の前回歩いた続き。
なのだけれど、この近辺にあるらしき伊射奈岐神社が気になっていた。ここから北西に行った山田東(吹田市)あたりにあり、山田は古い集落のようだし、行ってみようかな。
雄略天皇の時の創建で、式内社。祭神はイザナミ。けれど向かったものの、すぐに道がわからなくなり、断念することに。
選んだ道が悪かったのかな。丘の上が大規模に開発されているところに出て、周りは大きなマンションだらけ。広い道ばかりがあっちこっちに向かっていっていて、方向感覚を失った。歯が立たない予感がした。
不慣れな吹田でこれ以上進んでも迷うのが目に見えていて、引き返すことにした。なんだろう、このあたりの開発ぶりは、今までの感覚では切り抜けられない感じがした。高低差もある素敵なところだったろうのに、すっかり「造られた市街地」になっていた。
須佐之男神社まで戻り、亀岡街道の続きを歩くことにした。
暑くなってきた道をてくてく歩いていくと、昭和の時代の商店街みたいな賑わいの、おばあさんの多いところに来ていた。東(右)にJR千里丘駅(京都線)があるようだった。
途中から下りの道になり、墓地が現れ、駅近でもこっち方面は、かなり田舎の様相を最近まで残していたのだろうなあ。そこが今ではマンションだらけ。昭和な感じのマンションから新しいマンションまでいろいろ建っていた。
もう少し道なりに進んでいくと、府道14号大阪高槻京都線に合流。それからしばらく亀岡街道は14号線を北上していくのだけれど、またも寄り道。
千里丘上交差点で右手の踏切を渡って、東の集落に行ってみることにした。亀岡街道は岸辺駅から茨木駅までを歩くつもりで、短めだったから、いろいろオプションコースも設定してみていた。伊射奈岐神社は撃沈したけれど、この東の集落はどうだろう。
ここの線路を渡る距離が長くて、ちょっとびっくりした。高架の下をくぐり、貨物用のレールを1本渡り、また高架の下をくぐり、そのあと、4本もレールを渡り、やっと向こうに着いた。
ここまでは吹田市、線路を越えた向こうは茨木市だった。茨木市蔵垣内。茨木は初見参だった。
三島郡の一部だったところなのだって。今では島本町しかない三島郡だけれど、かつては茨木市も摂津市(このすぐ南が摂津市)も、吹田や高槻もほぼほぼ三島郡だったそうだ。古代から三島という地名で、後に2つに分かれて島上郡(今の島本町)と島下郡(それ以外)に分かれていたこともあったらしい。
そんな広い範囲の三島郡に、明治になってできた三島郡役所は茨木(茨木市役所のあるあたり)にあったそうだから、茨木が三島郡の中心部だったのかな。
蔵垣内は古そうなところだった。元は三島郡三宅村だったらしくて、屯倉や蔵があったところなのかな?
屯倉は県主とかの時代にあった、天皇直属の倉のこと。主には米倉だったのかな、倉に納める米をつくっていた周辺の田んぼや土地のことも屯倉と呼び、今も残る三宅の地名は、たいていは屯倉があった名残りみたい。
狭い路地の面白い道を歩いて行くと、郷社井於神社や万福寺があった。
明治時代、神社が官社と諸社に分けられて、諸社は3つに格付けされたそうだ。上から府県社、郷社、村社。ここは郷社に決められたのね。
元々は式内社で、古い神社らしかった。井於と書いて、元々は「いのへ」。室町時代までは宇野辺にあった神社なんだって。いろんな神社が同居して、総社みたいになっていた。
古い時代の感じをそのまま残しているような、素敵な神社だった。なかなかに広くて、ここで開かれるお祭りは素敵だろうなあ。
一帯は古くて、かつては栄えていたんだろうなあって感じがした。スサノオを祀っているのは、織田信長の頃、牛頭天王(スサノオのことだとされた)を祀る神社はさすがの信長も焼かないと思われていたからだと説明されていた。
このあたりに、詳細は不明ながら三宅城なる城もあったそうだ。
細川さんとか三好さんとかがごたごた戦っていた時代、三宅氏がここに城をもっていたらしい。けれど開発でなにも残っていないのだって。泉北では「開発にあたり、千里での失敗があったので、古い集落はそのまま残し」ということだったし、千里では古いものが多く壊されて、跡形も残っていないのかな。
亀岡街道を歩いていても、古い建物が時折あったし、古くからの村もあったと思われるのだけれど、そこに昭和風の建物が建ち並び、平成の建物も建設中だったりで、古い集落は消えいくもの、という気配が漂っていた。
南の方(河内)の、古いも新しいも一緒に生きていこうっていうこてこてのたくましさはなくて、古いものは消えいくものというムードがあった。蔵垣内も古さは相当のもので、雰囲気もかなりいいのに、いつか消えいくものという感じがしていた。
14号線に戻り、亀岡街道の続きを歩いた。
千里丘上交差点の次の吹田千里丘交差点を過ぎると、道は下りになった。
左手に「ポケットパーク 新芦屋下公園」なるスポットがあった。きれいに舗装され、整備され、大きなマンションの日陰に道路に沿ってオープンな広いスペースがあって、都会の様相だった。子どもが遊ぶ場所というより、大人が待ち合わせに使う場所。
名糖前バス停があったけれど、名糖は見当たらなかった。むかしにあったのかな。このあたりも、もう古いものは消え去った後なのだろう。
次の信号で左手に向かう道が現れて、そちらに入っていった。ここは宇野辺。ここも古そうなところだった。
井於神社があって、地名も「いのへ」から「宇野辺」に転じたのだろうと言われているそうだ。「いばら」「うばら」みたいに、「い」が「う」に変わる(「う」が「い」に変わる)のって、パターンなのかな。
素敵な水路があちこちに残っていた。緩く勾配になった西側には行かずに道なりに北上していった。
蔦の絡まった、素敵に古い水門。カーブした小川。お地蔵さん。
墓地の横を進み、古い道標があって道が2つに分かれたら、右側の道に。広い車道を横断したら、池があった(立入禁止)。
中環(国道2号線)に出た。モノレールが中環の上を走っていて、すぐ西には宇野辺駅があるらしかった。まだ一度も乗ったことがない大阪モノレールだけれど、西隣の駅は万博記念公園。
このまま進みたいところだったけれど、信号はなく、右手の下穂積1丁目交差点で中環を渡ってから、続きを歩いた。
左手に穂積小学校。地名は下穂積で、やや古い感じだった。ほぼ昭和の建物だったけれど。
奈良時代には既にこのあたりは穂積と呼ばれていたそうだ。穂積は古代からあった呼び名で、「わたつみ」「あずみ」なんかと同じ「ツミ」グループじゃないかということだった。「~ツミ」って「~コリ」みたいに一帯の主を表す呼称だったと思われるのだって。
広い通り(府道129号南千里茨木停車場線)に出て、東に行けばJR茨木駅だった。そしてこの先は線路から離れて山に進んでいき、街道の終点の亀岡あたりまで駅がない。亀岡は相当に遠いので、街道歩きはここまでとして茨木駅方面に向かった。
そしてせっかくだから、帰る前に、駅近くにある茨木神社に寄ることにした。駅を越して市役所方面へ。
JR茨木駅近くの交差点あたりでは、こてこての「昭和の駅前商店街」な感じのところを通った。複雑な歩道橋があって、かつては賑わっていたんだろうなあって感じがした。けれど今はほとんど人が歩いていなかった。
広い府道139号枚方茨木線でさらに東へ。お店やきれいな学舎が並んでいて、そのうち賑わいをみせてきた。駅(JR茨木駅)のあたりよりもにぎわっているくらいだった。
広い市役所が現れて、高橋なる橋が現れた。けれど川は流れていなくて、代わりに緑のきれいな遊歩道が下にあった。川跡を遊歩道にしたんだな。その緑は都会にしては勢いがよくて、市役所あたりの建造物と一緒になって、「スケールの大きい近代都市」の雰囲気を醸していた。
橋には狛犬もいて、橋の先には鳥居があり、ここが茨木神社の参道の入口になっていた。遊歩道沿いの参道を進むと茨木神社があり、その奥に小さな天石門別神社があった。
元々は、坂上田村麻呂がこの地を賜って開墾したとき、この近くに天石門別神社を祀ったのに始まるそうだ。茨を切って里をつくったので茨木になったんだとか(作り話だろうな)。
その後、楠木正成が茨木城を建てるにあたり、ここにお引越し。その後、信長が歴史に現れた。信長は寺社も容赦なく焼いたけれど、牛頭天王は信長の産土神だったとかで、焼くべからずとしたのだって。あと八幡神社なども。そこで、この神社も牛頭天王を祀ると称するようになったそうだ。
江戸時代、牛頭天王社と称したという神社は散歩していてあちこちにあった。そしてこのあたりでは、その説明として「信長に焼かれないため」説をとっているみたい。蔵垣内の郷社井於神社もそうだったし。
明治時代になって、神と仏は分けて祀りなさいってことになって、仏教由来の牛頭天王は神社の祭神にはなれなくなったから、多くの牛頭天王社は祭神をスサノオってことにした。
ここもスサノオを祭神とした茨木神社になり、天石門別神社は奥宮として残ることになったそうだ。
天石門別神社の祭神はアメノタヂカラオ。恩智神社にもともと祀られていた神さまと同じだな。
恩智は渡来人、アチノオミ(東漢氏の祖)のアチからきているとか言われていて、坂上田村麻呂はアチノオミの子孫を称していたそうだから、タヂカラオ(手力男)はアチノオミやその子孫と関係の深い神様なのかな。
石垣も古そうで、素敵な雰囲気の神社だった。
東門(茨木城から移築したものだそうだ)から出て、少し歩いてみると、やけに人通りが多かった。もう少し行くと、阪急京都線茨木市駅があったみたい。けれど知らなくて、もう時間もおしてきていたし、JR茨木駅に戻って帰途についた。遊歩道も素敵で、歩いてみたかったのだけれど。
茨木って、JR、阪急どちらにもアクセスできて、便利なところなのだろう。それに北摂と呼ばれるあたりは文教区としても人気なんだって。
でも、散歩犬の立場で言わせてもらえれば、少し面白味に乏しいところだ・・・というのが、初見参の茨木に抱いたイメージだった。
興味深いところもありげなのだけれど、全体的に近代都市化しすぎていて面白みに欠ける。どんどん歩いて行ってみたいって気にあまりさせてくれない。
けれど実はいろいろな歴史を隠し持っているらしき北摂。またやって来るしかない。




