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大阪を歩く犬4  作者: ぽちでわん
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竹内街道を上ノ太子まで

むかしむかしあるところにオオクニヌシがいました。オオクニヌシには多くの兄がいたけれど、あれこれあって王になり、葦原中国あしはらのなかつくにを治めていました。

高天原たかまがはらには天照大御神アマテラスオオミカミという神がいて、葦原中国を自分の息子(オシホミミ)に治めさせたいと思いました。けれど息子は「ちょっとムリ」。

そこで葦原中国に、国を譲るように使者をたてました。

1人目のアメノホヒはオオクニヌシの元に行って心服したか家来になり、戻ってきませんでした。

2人目はアメノワカヒコ。けれど彼もオオクニヌシの娘でアヂスキタカヒコネの妹のシタテルヒメと結婚し、戻ってきませんでした。

次にタケミカヅチ。出雲のオオクニヌシに国を譲るか訊ねると、オオクニヌシは息子に問うてくれと言いました。オオクニヌシはもう引退して出雲にいたとかかな?

初めに息子の八重事代主に聞くと、「分かりました。譲りましょう。」

次に別の息子のタケミナカタは「力比べして決めよう。」

勝利したのはタケミカヅチで、国は譲られることになりました。

けれどオシホミミはやっぱり嫌だったのか、自分の息子に譲り、アマテラスには孫のニニギが葦原中国に降臨しました。


前に知ったことには、タケミカヅチは天鳥船に乗ってやって来たということだった。けれどそれは古事記に書かれた話で、日本書記ではフツヌシ(香取神)って人がタケミカヅチ(鹿島神)を従えてやって来たということになっているそうだ。

杜本神社の近辺にそのフツヌシの陵があったかもしれないんだな。子孫の伊波別命がここに祀ったのは、10代崇神天皇の時とされているそうだ。

けれど、すべて確かなことではないみたい。フツヌシについては不詳、伊波別命についても不詳、それどころか杜本神社についても不詳。安宿郡の式内社に杜本神社が記載されていたものの、もうどこにあったかさえも分からなくなっていた。そんな中、この神社が「うちが杜本です」と手を挙げて、名前も杜本神社と変えたのかな?


杜本神社には、奈良時代の貴族、藤原永手の墓碑もあった。初めて聞く名だったけれど、藤原不比等の孫(父は藤原4兄弟の次男)で、藤原冬嗣の伯父さんらしい。771年に亡くなっていて、冬嗣さんはまだ生まれていないけれど。墓碑は自然石に文字を彫ったもののように見えた。文字ももうほとんど見えなくなっていた。

春日神を祀る総本社は春日大社で、そこに祀っていたのは元々タケミカヅチだけだったそうだ(一説には)。そこに香取神社のフツヌシと枚岡神社のアメノコヤネ夫妻を連れてきたのが藤原永手なんだって。まとめて藤原氏の氏神とされ、春日神と呼ばれるようになったそうだ。

藤原永手の墓のそばには、伊波別命他を祀る境内社の維谷稚宮いびやわかみやなどがあった。

他にも杜本神社には隼人石なるものもあるらしかった。本殿横に隠れていて、見えなかったけれど。石に線画で描かれた、顔は獣の人物画で、隼人石と名付けたのは江戸時代の学者らしい。元々は干支の12の動物を描いた絵の一部じゃないか等と言われていて、ここにあるのは江戸時代に作られたレプリカ的なものと思われるそうだ。


神社前には、聖徳太子がどうの、競い馬がどうのと説明されていたように思う。

聖徳太子も馬で駒ケ谷にもやって来ていて、その馬は各地の豪族が、競馬などで竸った上で献上していたのだろう、みたいな内容だったような・・・。

高台で竹に囲まれて、独特な感じのする神社だった。すぐ隣には金剛輪寺址があった。杜本神社の神宮寺だったらしい。

明治時代、神社と寺は分けましょう、神社には神を、寺には仏を祀りましょうとなるまでは、神も仏もほぼ関係なく一緒くたにして祀っていたそうだ。1つの寺社に山門あり鳥居あり、神社と寺が隣り合っていたり、仏教由来の神を祀る神社があったりした。

寺なのか神社なのかはっきり分けることが必要になって、神社に決まったところにある寺は「神宮寺」、寺に決まったところにある神社は「守護神」とか「鎮守」として説明されるようになったみたい。

金剛輪寺の名は、後村上天皇が命名したそうだ。けれど後村上天皇といえば南北朝時代に生きたここはさらっといこう。金剛輪寺も戦火をうけて消失。

そして杜本神社もまた、信長の高屋城攻めで消失。再建されていた金剛輪寺の住職(覚峯峰)が再興したそうだ。


神社を出て、竹内街道の続きを歩いた。神社の隣には西應寺もあった。門などは新しくなっているけれど、中はとても古かった。左手、路地の奥にもお寺が見えて、路地に入っていってみると、願永寺。ここも古そうだった。このあたりはなにもかも古くて面白そうで、しばし探索してから街道に戻った。

月読橋で渡ったのは、再び飛鳥川。ここからしばらくは飛鳥川の西側を南下していく。月読橋は覚峯峰が名付けたと言われているのだって。覚峯峰は学僧でもあり、歴史研究家でもあったそうだ。

橋のそばには「伊勢燈籠」が立てられていて、説明も添えられていた。伊勢参りが流行った江戸時代、みんなでお金を出し合い、代表者が伊勢に参るっていう伊勢講が村々にできたそうだ。その道中の安全を願って、また、無事帰ったお礼に、燈籠をたてたそうだ。それが伊勢灯篭(おかげ灯篭)。

「太神宮」と彫られていた。今まで何度も見てきた「太神宮」と入った灯篭って、おかげ灯篭だったのかな。


川と旧家と山との素敵な光景の中を歩いて行った。川には緑と白鷺。川沿いにも古そうな家々が並んでいた。

道に歩道はなかったけれど、車は滅多に通らなくて、全く問題なしだった。道路全部が歩道のようなものだった。家々は多いけれど、人影もほぼなかった。

小学校も幼稚園も敷地は広かった。小学校なんて駐車場まで広い。庭で飼われている犬が多くて、なんどか吠えたてられた。広い庭を走り回っている小犬も見た。

すぐそばには線路も通っていたけれど、電車も車もあまり走ってこない、長閑なところだった。

線路沿いに赤い小さな鳥居があって、小さな一角にいろいろなものが集められていた。田んぼにする中で場所を移されてここに集められたとかかな? 「役行者錫杖水の道標」とか、地蔵とか。

「八丁地蔵」は、この先にある八丁橋にあったものかな? 蓋をされた井戸の跡もあった。最近まで使われていた感じのその井戸は、旅人の喉も潤していたのかな。

壺井道との分岐にあったという道標もあって、「壺井 ?(読めず) 上ノ太子 金剛山へ」と書いてあった。これは堺の鋳物師、神南辺隆光(道心)が天保年間にたてたものなんだそうだ。

神南辺さんは有名人らしかった。堺の人で、嫌われ者だったけれど心を入れ替えて仏門へ。橋を架けたり、寺社に石碑、辻に道標を立てたりしたんだって。堺には「神南辺」の地名もあって、この神南辺さんが住んでいたことに由来するらしい。

この後も行った先々で(竹内街道だけじゃなく)、気をつけて見てみれば、神南辺の名の彫られた石はけっこうな確率であった。

神南辺隆光は覚峯峰とも面識があったのだって。


畑が多くて、なんだか臭かったのは、有機肥料かな? 車の通りの激しい都会とは違って、田舎には田舎の臭さがあるんだな。

左側はすぐ山で、柏原の「柏原ワイン」と大きく書かれた山のぶどう畑みたいに、ここには「チョーヤ梅酒」と大きく書かれていたから、梅でも育てているのかな? ぶどうらしきものも道端の畑で育っていた。

そして八丁橋で再び飛鳥川を渡り、道は川の東側に。

橋周辺では工事が行われているところだった。道のガードレールはみんな白くぴかぴかで、橋と道を新しく上の方に付け替えた感じだった。まだ、ぼうぼうとすすきなどの生える野趣あふれる川べりの部分も残っていたけれど、そのうち全部埋められるのだろう。

あすくの里なる老人ホームを過ぎると、また一段と鄙びた感じになり、飛鳥の集落に入っていった。

そしてバキュームカーに出会った。ちょうど作業中で、そのわきをすり抜けていった。その向こうは旧家と水路の集落。


集落の中には家々が密集していて、道も狭い割に車はまあまあ通った。

市会議員金銅さんのポスターが貼られていた。ここに来るまでにも何度か目にしたその名前は「こんどう」さんと読むらしかった。

集落の中で、集中して何度か目にする名前って、あるな。この日は金銅さん、松田さんが多かった。

右は下りで左は上りという間の道を歩いていった。

途中、左手に地蔵堂があって、「飛鳥地蔵講」などなどの文字が見えた。先に鳥居が見えて行ってみると、古い佛號寺。鳥居の向こうにはまだ上り坂と、その両脇には家々が続いていて、古すぎて迷子になりそうだったので、元の道に下っていった。ここをもう少し行けば飛鳥戸神社だったみたい。

安宿郡のもう1つの大社の式内社。牛頭天王を祀っていたけれど、牛頭天王は仏教由来の神だったから、祭神はスサノオということにされた。江戸時代、牛頭天王は病を防いでくれると流行していて多くの神社で祀られていたそうだ。でも神と仏は分けなさいとなったから、ほとんどのところでスサノオってことにされたみたい。

飛鳥戸神社には、元々はコンキ王が祀られていたと思われるそうだ(一説には)。飛鳥戸さんの祖の百済の王様ね。


古い集落で、「隣組組長」と門前に札がさげられていたり、昔ながらの赤い縦長筒型ポストがあったり、牛乳受けは「豊田牧場」だったりした。

右手に上ノ太子駅(近鉄南大阪線)が現れた。駅前に小さな商店が1軒あるだけの駅だった。駅自体は大きくて、バイク置き場にもバイクがけっこう並んでいたから、「○○台」(新興住宅地)が近くにあるというパターンかな。

駅前すぐにある墓地を過ぎ、飛鳥戸神社をパスする気はなかったので、このあたりから左折して上っていってみた。「飛鳥ワイン」の案内の矢印のあるところ。

てくてく行くと、坂道の左手に、低い位置に神社の屋根が見えた。案外小さくて驚いた。ずっと上まで続くぶどう畑よりも低い位置にあった。畑の一角にこじんまりとしていて、階段も拝殿もミニチュアって感じがした。

引き戸を開けて中に入り、向こうの本殿に手を合わせる、という初めての形式だった。そこに賽銭箱などもあって、なんだか楽しかった。

引き戸を開けるのも、親しい神社にお邪魔している感じだった。賽銭泥棒が現れたようで、「ご迷惑をおかけしますが防犯カメラを云々」と書かれてあった。


高台にあって、見晴らしはよかった。本来は山をバックにしていたのだろうけれど、その山にブドウ畑がどんどん広がっていったのだろうな。

もっと上には観音塚古墳があったみたい。朝鮮半島の技術で造られたと思われる古墳だそうだ。横穴式石室が百済のものに似かよっているとかで。他にも飛鳥戸さん一族のものと思われる古墳群(飛鳥千塚古墳群)があったのだって。ほぼほぼぶどう園になってしまっているみたい。

今では、ぶどう畑とワイナリーの山で、ワイナリーには1934年からと書かれてあった。

「カタシモ」などの柏原だけじゃなく、もう少し南に位置するここ飛鳥も河内ワインの名産地であるらしい。河内ワインの会社があって、経営しているのが金銅さん一族なのだって。


ここから先、竹内街道には、終点長尾あたりまで駅はなかった。今まで失敗して懲りていたので、これ以上は先を進まないことにした。今から長尾はちょっと遠すぎるかもしれない。

代わりに源氏三代の墓に行ってみることにした。前に貴志と太子町の間にあると知って気になっていたのだ。

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