熊野街道を井原里から
まだハナミズキのきれいだった4月中旬、井原里駅(泉佐野市)に向かった。井原里あたりまで歩いて、そのままになっていた熊野街道の続きを歩こうと思って。
熊野街道は住吉大社の東側を、紀州街道は住吉大社の西側を通っていて、近所を散歩していてその説明を見つけ、ちょっと歩いてみたのがそもそもの始まりだった。先に何があるか知りたくなって、そのうち電車に乗ってまで、街道の続きを歩きにいくようになった。
最初は苦もなく歩いていたものの、だんだん家から遠くなってきて、井原里となると行くのに1時間ほどかかるものだから、そのままになっていた。けれどこの頃、「茅渟」とか「鳥取」とかが気にかかっていた。茅渟道、茅渟王、鳥取氏とかが散歩しているとたびたび出てきたから。
熊野街道の続きを行くと、「茅渟神社」とか「和泉鳥取」とかにたどり着くようだった。片道1時間かかっても、続きを歩きに行くしかない。
井原里には、南海本線で向かった。岸和田も貝塚も二色浜も通り過ぎて電車は走った。急行が止まるならまだしも、各停しか止まらない駅なので、途中で乗り換えて、余計に遠く思えた。まあほぼほぼ寝ていたんだけれど。
せっかく井原里までやって来たので、熊野街道とは反対方向だったけれど、住吉神社にも行ってみることにした。前に井原里を散歩したとき、たどり着けなかったからリベンジで。
井原里駅を北から出た。ここも、駅の中に踏切があるというパターンだった。地下道や高架で北出口と南出口がつながっているんじゃなくて、駅内にある踏切でつながっている。近鉄電車で初めて出会ったパターンだったけれど、南海電車にもあったんだな。地方ではスタンダードなのかもしれない。
駅から府道20号枚方富田林泉佐野線を北に向かった。
都会の様相だったけれど、右手にはなかなかに立派な旧家が建っていた。最初の信号を通り過ぎ、次の信号を左折。「いこらも~る泉佐野」(ショッピングモール)などがあるところ。そのいこらも~ると向かい合って、住吉神社は鎮座していた。
神功皇后が三韓征伐の帰りに立ち寄り、船に祀っていた住吉大神をここに勧請したのだって。「神功皇后が三韓征伐の帰りに立ち寄り」というのは、「菅原道真が太宰府に左遷されて行く途中で立ち寄り」という天満宮のなりたちと同じくらいよく聞く話だったけれど、しばらくぶりの感じがした。ここのところ海の近くを歩いていなかったからかな。
神功皇后は15代応神天皇の母。夫だった14代仲哀天皇亡き後、朝鮮半島に渡り、新羅、百済、高麗を服属させた。それが三韓征伐というやつで、帰国するとホムタワケ(後の応神天皇)を出産。仲哀天皇の他の皇子たち(応神天皇には異母兄弟)の反乱に遭うけれど、住吉大社を創建するなどしてこれを平定した。
そして応神天皇が即位するまで政治を行ったのだって。
この神社は「いばら住吉」と呼ばれていたそうだ。「いばら」から井原里となったのかな? 住吉神社は神戸にもあって、元は摂津国菟原郡だったというところだった。大阪市西区には茨住吉神社があったし、住吉大神と「いばら・うばら」って、なにか関係があるのかな。
境内には、「水なすの碑」があった。水なすは生で食べられるナスの種類で、泉州の名産品。元々は農家が各々で作って売っていたのだけれど、農協が「泉州水なす」と銘打って、下瓦屋の農民たちの作った水なすを計画的に出荷。全国に先駆けての試みだったそうだ。今や泉州水なすは有名だから、大成功だったのだろうな。
ほか、子守神社なる小さな、背の低い祠があって、古そうだった。
元々は広い神社だったのだろうなあと思われた。けれどその神域だったと思われる森は小さくなって、塀がたてられ、その上部には有刺鉄線までつけられていた。神社はここまでね、とある日決められ、その外は、どんどん開発されていったという感じだった。
そしてすぐ横は盛り場となり、有刺鉄線も必要になったのかな。すぐそばに、廃業になった感じのスナックの古い看板なんかが並んでいた。
神域は狭くなり、しかも「いこらも~る」などもできて、周囲はどんどん賑わって、居場所を失ってきた感があった。わたしをバッグに入れておかあさんは神社の境界線を歩いてみていた。全部囲われて、いこらも~る側の大きな道路からしか出入りできないようになっていた。川に面した側も、川をのぞき見られるだけで、通り抜けはできない。素敵な田舎の川で、亀がいっぱいいた。
川は佐野川で、もう少し北で大阪湾に注ぐようだった。
前の熊野街道歩きでは井原里駅より少し先の元成寺まで歩いていたので、元成寺方面に向かった。というか、来た時とは違う道で駅方面に戻ろうとしたのだけれど、思うようには進めず、進める方向に進んでいたら、ちょうど元成寺あたりにでた感じだった。
田舎の方って、前回、二上神社口駅あたりでも思ったけれど、思ったようには進めないことが多いんだな。こっちにも道があったほうが便利、そんな場所には都会ではたいてい当たり前に道があるけれど、田舎ではそうではないらしい。
鯉のぼりがたんぼの上にはためくのなど見ながら、府道64号和歌山貝塚線が佐野川を佐野川橋で越えるあたりに出た。
左手には元成寺の緑が見えた。64号線を南西に進むと、今度は奈加美神社の緑が見えた。前回の熊野街道歩きでは、ここまで歩いていた。
ここからが今回の熊野街道歩きのスタートね。
そして紀州街道歩きでもある。井原里の東の鶴原あたりで熊野街道と紀州街道が合流して、このあたりでは同じ道。
64号線を進み、日新小学校の横を通り過ぎ、鉄塔があって道が左右に分かれるところで左側の道に進んでいった(右は64号線)。このあたりに佐野王子があったのだって。
平安時代頃から皇族や貴族の間で流行したのが熊野詣。京から船で淀川を下ってやって来て、渡辺津のあたり(八軒屋浜)で上陸して尾根道を熊野に向かったのだって。それが熊野街道。当時、お金は一般的でなかったし、旅なんてできるのは皇族や貴族くらいだったそうだ。
長旅だったので、熊野までの途中にいくつも休憩所が設けられ、それが「王子」。熊野に参る途中に立ち寄る熊野の子どもたち、みたいな意味で「王子」なのかな。最初に阿倍王子神社で「王子」の文字を見たときには、王子様のことかと思ったものだった。
王子は新しくできたり消えたりしながら多い時には80いくつ。「九十九王子」とか言われるくらいあったそうだ。
わたしの散歩してきた感じから言うと、王子はその土地の有力者が祀り、熊野に参る皇族、貴族を歓待したところ。王子で歓待するのをもって、熊野に気持ちで同伴させてもらう、みたいな感じだったのかも。
佐野王子もそんな王子の1つね。
このあたりは農村だったところと思われて、水路が多く残っていた。同じくらいに多く目立ったのは電線で、頭上ではりめぐらされていた。電線のことは全くわからないのだけれど、鉄塔に高圧電線で大量の電力が運ばれて、鉄塔から各地に送電されているのかな?
道は緩い上りになっていて、左手に見える緑は池だと思われた。このあたりはすっかり開発されて、新しくなっていた。国道26号線(「10キロで犬鳴山」だって)に交差して、そのまま道なりに進むのだけれど、信号がないのですぐ左の市役所前交差点で信号を渡った。
信号を渡ったところにはお地蔵さんがいた。このあたりの熊野街道で出会う地蔵堂はどれも低い位置にあるなあと思うのだけれど、ここもそうだった。この後で出会ったものも、みんなそうだったな。
道の続きを進み、市場町(市場西)へ。道はまた64号線になっていた。
古そうな家もあって、やっと現れたおもしろいところ。左手が古そうで道を入っていってみると、のこぎり屋根の建物があって、中では機械の音がしていた。周りもみんな家内工場だったのかなって感じの建物で、面白かった。少し高台にあって、水路も残っていた。
少し高台にある古い集落って、旧家がびっしり並んでいたりするけれど、ここではそんな旧家の人たちが興した綿工場が多いところなのかな。この後にも他にもノコギリ屋根の建物をいくつか見た。
ノコギリ屋根って、ノコギリの歯みたいに横から見ると屋根がジグザグになったもの。明治時代、日本の主な輸出品が綿だった時代があった。世界が産業革命で近代化していく中、日本でも工場が建てられ、過酷な環境の中で子どもまでがほんの少しの睡眠しか与えられずに働いていた。河内の多くの畑では綿花が育てられ、そこから集められた綿花で木綿がつくられた。
まだ電気のない時代、少しでも長く太陽光で明るくして作業を続けられるようにイギリスで考えられたのがノコギリ屋根だったそうだ。まだ夜の灯が火で、動力源が蒸気機関だった時代。
市場町という名も、江戸時代の頃から木綿の市場だったことからきているのかな?と思った。そうしたら、泉佐野には室町時代から定期市がたっていたのだって。それで市場町かな。
なんでも泉佐野は、かつてはかなり栄えていたのだって。
食野家なる有名な豪商(楠木正成の子孫で、江戸時代には船を使った商売で大豪商となるも幕末には没落)がいて、その人たちを中心にして、和泉国で堺についで栄えていたそうだ。食野家の商いの中心地は、泉佐野駅があるあたりから、北にすぐの大阪湾に向かってだったらしい。
泉佐野駅は井原里駅の隣の駅で、このすぐ北側のようだった。ここは、そこからほど近い熊野(紀州)街道沿いで、相当に繁盛していたのかな。
海側には時々、ハルカス風の建物が見えていた。その建物は、りんくうゲートタワービルだって。関空ができて、泉佐野は今また栄えようとしているんだな、と思った。南海電車の空港急行なんかに乗ると満員で、スーツケースだらけだし。
やや古い道標のある辻があって、「さのみち ふどうみち すぐ和歌山道」とか書かれてあった。
浮き彫りの指が矢印の代わりをしていて、中野鍼(大阪市東住吉区。平安時代、空海を泊めるとお礼に伝授してくれた鍼を一子相伝で伝え、今に至る鍼灸院)のところにあった「電車みち」を案内する道標と同じタイプだった。電車が出来た後の時代のものなのだろうな。
「ふどうみち」というからには〇〇不動があるのだろうな、と気になった。少し、その指の指す方向に、上り道を進んで行ってみたのだけれど、どれだけ遠いか分からないしな、と引き返した。
市場町を過ぎると、全部たんぼだったのだろうなって道が続いた。交差している道が全部きれいに直線だった。たんぼを一気に開発して、道もまっすぐにつくったのだろうな、と思った。けれど栄えていたという泉佐野の市場近くにこんなにただただ田んぼがあったのはおかしいなと思っておうちで改めて調べてみたら、田んぼ跡ではなかった。このあたりには飛行場があったのだって。
戦争の頃、このあたりは飛行場となっていたらしい。元あった池や墓地や神社(蟻通神社)や、集落の一部までも移転させて、佐野飛行場が作られたそうだ。それで、びっくりするくらいにまっすぐな道なんだな。まっすぐな滑走路跡に沿って道がつくられたのかな。
信号もずっとなくて、高速が近づいた頃、やっと葵町交差点で信号が現れた。高速の下を長滝北交差点で渡って、道の続きを進んでいった。しばらくは飛行場跡だった感じのまっすぐすぎる道が続いた。左には山も見えて、風光明媚なところだったのだろうなあ。
古い豪農風の家が現れ、ノコギリ屋根の建物もあった。けれどこのあたりも旧道らしさはなかったから、農家の畑は飛行場用に買い上げられて、代わりに木綿工場を興したとかかなあ、と思った。
しばらく進むと64号線は左にカーブしていくけれど、そのまままっすぐの道を進んでいった。
ここは古い集落のようだった。少し丘になっているみたい。浄蓮寺、極楽寺と古そうな寺もあった。地名は南中安松。長滝の古い集落なのかな?
長滝は犬鳴山の滝がこのあたりの「葛葉の井」までつながっているという伝承からつけられた地名らしい。そんな伝承があるということは、このあたりでは犬鳴山とのつながりが大事にされているんだな。となると、市場で見た「ふどうみち」は犬鳴不動への道を表しているのかも。犬鳴山はここから南東に数キロくらい。
古い集落のようだったけれど、工場も多々あった。集落のはずれの、一面田畑だったようなところに工場が集まっているパターンではなく、古い集落のただ中に工場が散在しているパターン。しかもその名前が、向かい合う大きな旧家の表札の名前と同じだったりした。古くから住み暮らし、名家となった人たちが、新しく工場を興したのかな。
右にも左にも古くて面白そうな道と、家々が続いていた。日根神社旅所があって、長滝西交差点の左手に出て、ここを右折。熊野街道は64号線を進んでいくのだけれど、その前に少しだけ信号を渡った向こう側の集落にも寄ってみた。ここも面白いところだった。
64号線を進むと、田んぼだったのだろうところ。左手の山が一段と近くなっていた。右手にもこんもりと緑が見えていた。船岡山なる山(標高30m未満)だったのかな。
麓には池や船岡神社があり、その横は船岡公園になっていて、そこに「坂田庄三郎の墓」があるらしかった。街道沿いに墓の案内があった。
坂田庄三郎って、樫井の戦いで亡くなった人だって。このあたりはかつて樫井村だったらしい。
樫井の戦いは大阪夏の陣で起こった戦い。天王寺や道明寺、若江なんかで戦ったのは知っていたけれど、こんな遠くでも戦争は繰り広げられていたんだな。夏の陣における最初の戦いだったそうだ。
当時、紀州藩主は浅野さん(長政の息子)だったらしい。徳川軍として和歌山城を出発して、ここ樫井で豊臣軍と合戦になったのだって。
そして船岡山にはこんな伝説があるそうだ。神功皇后の三韓征伐の時、苦戦する神功皇后を助太刀した人がいて、「和泉国のひめ」だと名乗ったのだって。そして神功皇后と一緒に帰ってきて、島だったここに船をつけた。
のどかだった。右に2キロで羽倉崎だって。池の間の道を進んでいった。池の手前、用水路と山とが一緒になった光景が素敵だった。
そして次に現れたのは、塙団右エ門の墓。塙直之ともいい、冬の陣、夏の陣で大阪側についた人だって。目立ちたがり屋というのか、「塙団右エ門参上」みたいな木札をまいたりする人だったそうだ。樫井の戦いで勝手に敵陣に攻め入って戦死。40代後半だったみたい。息子が母の旧姓から桜井を称するようになり、その子孫がここに墓をたてたそうだ。
そしてこのあたりには籾井(樫井)王子があったらしい。
次には奥家住宅が現れた。築400年だって。帰農した豪農、奥家の屋敷で、国の重要文化財。けれどそれが目立たないくらいに、ほかにも古い家々がいっぱいだった。どこもかしこも塀も屋根も古い。
それから正法寺があって、ここには淡輪兵衛重政の墓があった。この人も樫井の戦いで戦死したそうだ。塙団右エ門とは友だちで、水軍の出の武士だったんだとか。
近くに観音院もあった。紀州街道でもある道だから、田舎ではあっても、街道沿いには建物が並んでいたのかな。このあたりは、長滝のように右にも左にも古そうな道が続いて集落をなしているというのではなく、道沿いに2,3列だけ古そうな建物が並んでいた。
大正大橋交差点を過ぎた。大正大橋と言うけれど、川はなくて、橋もなかった。けれどどうやらこの左手(南)に樫井川が流れていて、大正大橋がかかっていたみたい。
しばらく行くと、旧家の藤棚の下にバス停がある、素敵なところに出た。このあたりは街道だけじゃなく、奥まったところまでずっと家々が続いていた。集落の中心地だった感じのところだった。
熊野街道は直進していくけれど、右手に日枝神社があるようで、ちょっと行ってみた。
楠が立派で素敵だった。名前から言って、比叡山近くの日吉大社(元々の呼び方は「ひえ」)から勧請したのかな?
最澄が開いた延暦寺だったけれど、最澄が亡くなると、ごたごたしていたそうだ。ごたごたから逃れて、日吉大社あたりから移住した人々が住んだってところが鶴見緑地の近くにあった(鶴見神社近辺)。ここもそんなところだったのかな?
すぐ北には国道26号線が走っていて、南部交流市民センター(元々は樫井人権文化センター)前交差点だった。少し西の樫井川北交差点のそばの若宮神社にも寄り道して行ってみた。
若宮神社は新しく見える神社で、このあたりが開発されたとき、移転してきたとかかな? 他にも元の居場所から移されたと思われるものがいろいろ隣の公園に集められていた。東妻さんの碑とか。
それから熊野街道の続きを歩くべく、藤棚の下のバス停に戻っていった。日枝神社の周りでうろうろ迷って、町のユニークさを身をもって感じた。ぜんぶ日枝神社の境内だったところで、そこにどんどん家が建っていったような、そんな家の並びの一帯だった。
街道の続きを歩いて行くと、街道沿いにダイワタオルの大きな工場があった。タオルのイメージとは違って、機械音のする、普通の工場だった。勝手に清潔感のある、音も優しい工場をイメージしていたな。
それから右手に現れた福正寺は古そうだった。独特な道の感じで、元は水路が流れていたんじゃないかなという感じがした。墓地や、東妻さんのおうちなどがあった。
この日歩いた一帯では、4月だというのにしめ飾りをまだ玄関先に飾っている家が多かった。長滝あたりからこっち、何軒か見た。このあたりでは「まだ飾っている」のではなく、ずっと飾っておくものなのかな。きれいな色の柑橘もついた立派なものだった。
樫井川に出た。南から流れてきた樫井川が、塙団右エ門の墓あたりから街道に平行に東に流れていたけれど、ここでまた北に向かって行くみたい。「樫井古戦場跡」の立派な碑がたっていた。
樫井川を明治大橋で渡った。大橋という名にしては小さな橋だった。川を渡ると、泉南市のようだった。しばらく行くと明治小橋。川は新家川。南から流れてきて、この北で樫井川に合流する川だった。
緑の多いところだった。鳥の声がして、人の姿はない。車も来ない。山近い田舎だった。
そこに突然、海会寺跡が現れた。国の史跡だって。
寺跡が公園になっていて、それで緑が多く、鳥の声がしていたようだった。公園の先には家々が建ち並んでいて、決して田舎なんかじゃなかったみたい。
公園なのに、神社の名で「犬NG」とあったので、わたしはバッグに入って荷物に化けた。
そして、他には誰もいない海会寺跡の公園に入って行った。




