竹内街道を古市から
3月、ぽかぽか陽気のある日、古市へやって来た。
電車の外は、天王寺から河内松原、藤井寺、土師の里、道明寺、それから古市、少しの間に風景はどんどん変わっていって、古墳、水路、桃色の梅が素敵だった。
電車から見える古墳、応神天皇陵のそばにあった、あの風の強い桜の季節に登った小山は、可愛く花を咲かせていた。久しぶりの古市で、懐かしい感じがした。
犬の身でありながら、古墳に懐かしさを覚えるようになるとは思わなかったなあ。おかあさんと散歩をするようになって、4度目の春だった。といっても、最初の春は近くの住吉大社界隈を歩くくらいだったから3度目か。
近くだけを散歩していた1年目、もう少し先には何があるのか気になり始めて、少しずつ距離を伸ばしているうちに4年目、古市くんだりまで来るようになっていた。
住吉大社近くを散歩していて、熊野街道の碑に気がついたのが始まりだった。住吉大社の東を熊野街道と書かれた道が通っていて、南にずっと続いていると説明されていた。どこに行けるんだろうと歩いて行って、ひとまず遠里小野にたどり着いた。遠里小野には八尾街道の碑があって、八尾街道はどこにつながっているんだろうと歩いていってみた。八尾街道はその名の通り八尾に通じていて、途中で通った平野には古市街道の碑があった。そこで古市を知ったのだ。
古市街道を歩いてみると、平野から古市までの街道で、余裕で一日で歩き通せた。古市はけっこう近いところだと分かったけれど、ある意味、遠かった。古墳、土師ノ里、県主神社、そんなところの向こうにある古市は、タイムスリップして行くところみたいだ。だいたい古市があるのは羽曳野だけれど、その羽曳野の地名も「ヤマトタケルが亡くなった後、白鳥に姿を変えてここに飛来した。そして羽を曳くが如くまた飛び立った」ことに由来しているというんだからなあ。すぐそばにはヤマトタケルの墓もあるのだ。応神天皇陵などと古市古墳群を構成している。
住吉大社の西には紀州街道が通っていた。紀州街道や熊野街道を南に歩いてみると堺にたどり着き、堺で竹内街道のことも知った。堺から始まる竹内街道はどこに行くんだろうと、堺から歩いてみると、こちらも古市にたどり着いた。
竹内街道はその先、竹内峠を越えて奈良まで行ける道らしい。けれどひとまず古市までで満足していた。大阪界隈には街道がいくつもあって、他の街道をいろいろ歩いてみていた。竹内街道の続きを歩こうと思ったら、古市からだからとりあえず電車で古市まで行くことになり、散歩で電車に乗るなんてなあと思っていた。
そして目ぼしい近場の街道はだいぶ歩いた・・・と思う。そしていろいろ歩いているうちに、散歩のために電車に乗ることも普通になってきていた。
それで、久しぶりに竹内街道の続きでも歩きに行こうかと思った。電車に乗って古市に行って、そこから東に歩いて行ってみよう。
古市駅(近鉄南大阪線)を東口から出て行ったらすぐ白鳥神社があった。元は白鳥陵(ヤマトタケルの墓とされている古墳)に祀られていたという神社。
神社を出ると、方向がいまいち分からなかった。散歩していて分かってきたことには、一番方向が分からなくなるのって、出口のいくつかある駅周辺だ。
参道方面に歩いていくとすぐ古市小学校があって、その向こうは、前に歩いた東高野街道。古市は今ではマイナーかもしれないけれど、古市街道も竹内街道も東高野街道も通る、賑わいのあるところだったのだ。
小学校の手前で右折して、すぐ交差する道が竹内街道だった。古市駅を西口から出て、白鳥交差点を東に向かえばよかったみたい。前に歩いたのが1年以上前だったので、すっかり忘れていた。
古市にはカラー舗装されている道が多かった。けれど舗装されているのは東高野街道やウォーキングコースのようで、竹内街道は自分で把握して歩かないといけない。
まだおかあさんはスマホをもたないでいた頃で、歩くべき道は紙にメモして歩いていた。
わたしは体一つで歩いていたけれど、おかあさんの持ち物はわたしを入れるバッグと、もう1つカラビナをつけた小さなバッグ。中には水1本、メモ、ペン、ガラケーとお金、ピタパ、うんち袋。
道を進んでいくと左手に長円寺があって、「大楠公守護仏」と書かれてあった。大楠公は楠木正成のこと、小楠公は息子の楠木正行のこと。そういうことも散歩していて知った。
羽曳野って、南北朝の戦いでは楠木正成が活躍したところであるらしい。だから戦火で焼失したところも多いそうだ。
それから右手にも古いお寺が見えて、行ってみると、西念寺だった。立派なお寺だった。ここも南北朝の戦いで焼けたところの1つ。
その後の室町時代には、羽曳野には河内守護だった畠山氏の居城の高屋城があって栄えたそうだ。このお寺も畠山さんによって再建されたのだって。家臣が再建し、その子孫が代々住職をされているらしい。山号は高屋山だった。
地図で改めて見ると、東高野街道で歩いた高屋城跡(安閑天皇陵が本丸にされちゃってたところ)って、ここから南に一キロも離れていないところにあった。東高野街道はけっこう最近歩いて、南に何日かに分けて河内長野まで行っていた。
聖武天皇の時、古市の賀茂某さんが、甲羅に文字が刻まれたような亀を発見したことがあるそうだ。そこには「天・・・平・・・」と、天皇の治世を称えるような言葉が読み取れて、古市は褒美に1年間、税を免除されたらしい。そしてその文字をとって、年号も天平と改められたそうだ。
村人たちは甲羅に似せて石を彫った・・・のかな? 西念寺では変わった石が出土したことがあるそうで、今も寺の庭に保存されているらしい。
まだ駅からそうは歩いていないのに、一帯は古かった。古い建物が普通にごろごろある。近くで「ON SALE」と書かれた物件も、相当に古そうなツシ2階の大きな町家だった。
「左大和路 右大阪」と書かれた道標があり、「ふれあいスポット竹之内」なる小さな公園があった。道標は1848年のもので、ここは東高野街道と竹内街道の交差点で、蓑の辻というらしい。
このあたりに、最近まで銀屋の建物が残されていたそうだ。18世紀のものと思われる商屋で、剣先船の船板を利用した外壁を持っていたのだって。両替商だったと言われているようで、古市が賑わっていた時代の名残り。
ここを左に行くとすぐ西琳寺だった。東高野街道歩きでも寄ったところ。西文氏(15代応神天皇のときに渡来してきた王仁博士の子孫とされる人々)の氏寺と言われるお寺ね。元々は今より大きくて、竹内街道にも面していたというお寺。
船氏の野中寺も遠くはないし、少し北には葛井氏の葛井寺、津氏の大津神社(寺もあっただろうな)もあって、このあたりは飛鳥時代の頃、渡来系氏族のお寺が建ち並んでいたところなのだろうな。柏原も寺社の建ち並ぶところだった。その柏原とは石川をはさんで、ほぼ隣り合っている。
散歩していて知ったことには、仏教が国教になって古墳時代が終わり、豪族たちは古墳ではなく、こぞって氏寺を建てるようになった。
その頃のお寺は、氏寺とは言いつつも、智識寺の性格が強いものだったのかな。智識寺って、みんなで協力し合って、みんなのお寺をみんなでつくるっていう感じのもの。西琳寺も、西文氏が主導していたのだろうけれど、近くの土師氏とかも関わっているそうだ。
仏教を信じることにして、寺というものを建てるようになった日本で、基礎のつくりかたとか、瓦の焼きかたとか、初めは渡来してきた人たちに教えてもらう感じだったのだろう。
たびたび国が不穏になった中国や朝鮮半島などから続々とやって来た渡来人たちは、古墳時代からかなり広い範囲に住むようになっていたみたい。特に八尾街道界隈や石川あたりなど河内には。
石川と大和川が合流するこのあたり一帯に、渡来人主導でか、寺がいくつも建てられたのだろうな。
そのまま進むと、またもや古くて立派なお寺(真蓮寺。平安時代にはあったそうだ)が見えたけれど、入口は街道側にはなくてそのままスルー。
このあたりもずっと古い町並みが続いていた。それから大乗川なる川に出た。川から生えている枯れ草と、遠くの山々が一体になって、素敵な光景だった。
大乗橋で川を越えると、次には続きで石川を渡った。大乗川は元々はもっと西、古市駅の西の方を北に流れていたみたい。それを大和川付替えの時、古市で石川に注ぐように付替えたのだって。東にカーブする流れに変えられた大乗川は、この南で石川に沿って北上し、この北で石川に注ぐ。
大和川付替えってご存じだろうか。人間には常識の話なのかな?
わたしは最初聞いた時、度肝を抜かれた。大和から流れてきた大和川は、この北で石川と一緒になった後、北西に流れて大阪城の北側で淀川に注いでいたのだそうだ。けれど氾濫などがひどく、流れを変えてしまうことにした。西に流して、遠里小野方面から大阪湾に注ぐように。流れを変える工事を行ったのは江戸時代のこと。
石川を渡ったのは臥龍橋。右手に見える橋の上には近鉄電車(南大阪線)が走っていた。
橋を渡ると右折して、次の信号まで進み、左折して東へ。ここからは歩道は無いか、あっても狭いかだった。古市からこっち、竹内街道として歩いてきたこの道は、国道166号線だったみたい。田んぼの中、道沿いには工場が並んでいて、割合に大きな車がそばを通った。風光明媚なところだっただろうのに、残念な感じ。
そのうち、右手に近鉄電車(南大阪線)の線路が見えてきた。南大阪線はしばらく竹内街道に沿うように走るみたい。小さな踏切の向こうに公園があったので行ってみると、石川河川公園。石川から駒ヶ谷駅にかけての公園だった。池や芝生広場がある広々とした公園で、凧揚げにもってこいな感じ。
街道の続きを行くと、「であいのみち施設」なる公園が現れた。素敵なところで、おばあさんたちがたむろしていた。元々は川だったところじゃないかな。
緑の一里塚があった。緑の一里塚は竹内街道敷設1400年のイベントがあった時、竹内街道沿いにところどころ設置されたもの。古い書物(日本書紀)に推古天皇(聖徳太子のおば)の時、難波から都(飛鳥)に至る大道を置いたという記述があって、それが今の竹内街道とされ、推古天皇時代の敷設から1400年ね。
チョーヤ梅酒の会社があり、駒ケ谷駅があった。近鉄もよくこんなところに駅を作ったなあと思うくらいな~にもなかった。
駒ケ谷の北側は円明町のようだった。玉手山あたりを散歩した時に行ったところ。伯太姫神社という忘れがたい神社があった。
石川の東側は安宿郡だったところ。このあたりも玉手や円明町も安宿郡。今の雰囲気から言うと、玉手山や円明町の方が郡の中心部じゃなかったかと思われるけれど、どうなんだろう。
西に駅を見ながら東に進み、逢阪橋を渡った。渡った川は飛鳥川。橋を渡ると左右に道が分かれて、右へ。
このあたりからはほぼ飛鳥川に沿って進んでいった。奈良にも飛鳥川があるそうだけれど、それとはまた違う川で、それぞれ流域には飛鳥があり、河内の飛鳥を「近つ飛鳥」、大和の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼ぶそうだ。元々は河内に飛鳥があり、そこに住んでいた蘇我氏が遷都とともに大和に移り、蘇我氏の住んだ大和の地も飛鳥となったんだとか。相当古い時代の話だな。
飛鳥と書いてどうしてアスカと読むのか、そもそもどうしてアスカという地名になったのかもよくは分かっていないそうだ。
すぐ地蔵があり、このあたりから竹内街道と書かれた行灯がところどころ置かれていた。ここまでは竹内街道と書かれた小さな植木鉢だった(ほとんどなかったけど)けれど、ここからは河内長野からの高野街道と同じ行灯タイプ。
道は川沿いと、その左手とに分かれて、左手の道に入っていった。道ぞいの家々は古かった。それからすぐのところで工事をしていたので、一本左側の道で進んでいった。そうしたらここが蔵通りって感じのところで、違う世界に迷いこんだみたいだった。
河内長野の酒蔵通りにも似た感じだった。見当違いかもしれないけれど、道をかつては川が流れていて、水運に使っていたとかではなかったかなあ。そんな土地柄の名残か、家と家との間の狭い部分には水がたまっていた。
そして杜本神社が現れた。宮山の頂上付近に鎮座しているってことだったから、ここは宮山と呼ばれたところなんだな。「水分神社ハ楠公遺物陳列場ヘ三里」とある道標などが入口あたりに立てられていて、そこから階段を上って行った高台に本殿はあった。
杜本神社は安宿(飛鳥戸)郡の式内社で、祭神はフツヌシとフツヌシノヒメ。
平安時代には百済宿禰と、その祖の飛鳥戸さん(百済からの渡来人)を祀っていたそうだ。そして当時の実力者だった藤原冬嗣の母がこの百済氏だったから、式内社(大)とされたみたい。
式内社は平安時代に編纂された神社目録みたいなものに記載された神社のこと。各地の主要な神社が大社と小社に分けられて記載されていて、ここは河内国安宿郡の大社として記載されているうちの1社。
前に行った額田や刑部で知ったことには、「〇〇部」は養育係たちにつけられた名らしかった。額田に住む豪族がいて、やんごとなき姫がそこで養育された場合、姫の名に「額田」を冠し、その世話をする部民は「額田部」と呼ばれたそうだ。
同じように飛鳥戸さんはあすか某さんの世話をする部民だったのかな? そう思ったのだけど、渡来系の人たちには「部」とはまた異なる「戸」の呼称を与えたのでは?とも言われているみたい。(まあ、よくは分かっていないんだな。)
飛鳥戸さんはそんなには位の高くない貴族だったそうだ。飛鳥戸さんの祖だとされるコンキ王は、百済21代目の王の息子だったけれど、兄が王だった時代、人質として雄略天皇の元に送られた。5人の息子たちも一緒だったみたい。その子孫たちが飛鳥戸さんとなったのかな。
息子の一人は百済に帰り、24代目の王になった。その孫が聖王。聖徳太子のおじいちゃんが天皇だったころ、仏像などを贈り、これが日本への公的な仏教伝来とされている。日本にいたコンキ王の子孫たちにとっては、ちょっと遠いけれど聖王は親戚だったんだな。政情は不安定だったみたいで、その後、聖王は戦死している。
そして聖王の孫の孫が王(31代)のとき、百済は滅亡。その息子(善光さん)もまた日本にいて、その子孫は百済王の名で河内で生きた。
時代は過ぎて、藤原冬嗣誕生。母は飛鳥部(安宿・飛鳥戸)ナトマロさんの娘で、後に桓武天皇の寵愛を受け、子を産んでいる。そのためにか、後にはナトマロさんの子孫は百済宿禰の名をもらったのだって。
冬嗣さんは桓武天皇の息子の嵯峨天皇が皇太子だった時代から仕えて昇進。何人かいた妻の一人が産んだ子が仁明天皇(嵯峨天皇の息子)の女御となり、後の文徳天皇を産んだ。
今では杜本神社の祭神は渡来系氏族の飛鳥戸さんになっているけれど、元々はフツヌシが祀られていたとも言われるそうだ。
この近辺にフツヌシの陵があって、そのフツヌシを子孫の伊波別命が祀ったのだとか。そして伊波別の子孫は後に矢作(忌寸)を名乗るようになって、代々神主をしていたのだとか。
確か八尾にかつてあった矢作神社の祭神もフツヌシで、祀った矢作氏は物部系氏族と思われるってことだった。
フツヌシは日本書紀に出てくる神らしい。
う~ん・・・突然にもうヘビーだな。
いろいろ散歩して、やっといろいろ分かることも増えてきたけれど、最初は「ふじわらの」「〇〇てんのうが」「へいあんじだいには」「くだらが」とか言われてもちんぷんかんぷんだった。
だから出だしは出だしらしく、軽くさらっといきたかった。あんまりヘビーじゃなく。
でもいきなり南北朝の戦いやら河内守護やら渡来人やら宿禰やら。
わたしが悪いわけではないのだ。歩けば次々に書くべきことが出てくるヘビーな大阪が悪いのだ。