9 第三王子ルーファスの結婚 下
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愛する人を手に入れたルーファスは有頂天だった。
聖女の称号を持つとはいえ、さしたる反対もなく平民のリーシェと婚約できたのは、自分が第三王子だったからだ。これが王太子であったなら、こうもすんなり認められたりはしなかっただろう。
そう思えば、いてもいなくても同じだと不貞腐れていたこの立場も、今となっては有難かった。
リーシェは今、アパートメントを出てルーファスの別邸にいる。
公爵位を継ぎ、本邸に移るまでの暫定的な処置だ。
近々、現当主のブラッドは軍を退役し、領地の別邸に隠居する予定なのである。彼も、もう四十を過ぎた。国王が譲位を考えていることもあり、次世代にすべてを託すことにしたのだ。
王弟の言う通り、オジサンの引き際は見事だった。
「リーシェが決めたことならそれでよい」
恋人を奪ったのだ。恨み言の一つや二つ、殴られることも覚悟していた。
だが、彼が口にしたのはそれだけだった。
リーシェは何も望まない。宝石も豪華なドレスも豪勢な食事も。
焼いたパンとアプリコットジャムを好んで食べる。
そういえば、サロンでもアプリコット酒を愛飲していた。
だからだろうか。彼女からはいつも甘酸っぱい良い香りがする。
頻繁にリーシェのいる別邸に泊まる。
まだ結婚前なのにと侍女長に諫められるが、やめられないのだ。
夜遅くに寝顔だけでも見たくなって、ルーファスがこっそり寝室を覗くとアプリコット酒を飲みながら歌を口ずさんでいることもある。
どこかで聞いたような、この国ではない言葉の不思議な旋律。
思い出そうとするがリーシェに「おかえりなさい」と微笑まれると、どうでもよくなってしまう。
そんな夢見心地な気分に水を差されることもある。
ルーファスは最近、夜会に婚約者のリーシェを伴うようになった。にもかかわらず、色目を使う女性が後を絶たないのだ。社交に慣れないリーシェを睨む、婚約を解消しろなどと言う、そんなあからさまな態度の令嬢もいた。
ルーファスは見目も良く元々女性に人気がある。しかし夜会で近づいてくる女性たちは、第三王子の肩書だけを好いているような気がして苦手だ。
「殿下、踊っていただけませんか」
その晩、声を掛けてきたのは、あの侯爵令嬢の元聖女だった。彼女はルーファスの婚約者候補を外れた後、同じ家格である侯爵家の次男を婿に迎え、侯爵夫人となっている。
ルーファスは躊躇した。リーシェは公爵邸で同居していたエミリアとその夫ブライアンと話している。彼の迷いが伝わったのか、侯爵夫人は懇願した。
「お願いです。お話があるのです。今回だけですから」
そう言われれば拒絶することも出来ず、手を差し伸べた。
最初は無言だったが、侯爵夫人はおずおずと口を開いた。
「殿下、私……私は、ずっと殿下と一緒になるものと思って参りました。そう言われて育ったのです。殿下も憎からず私を想って下さっていると信じてきました」
「侯爵夫人、そのようなお話ならば私は――――」
「いえ、違うのです。リーシェ様に接する殿下を見て私の勘違いだとわかりましたから。ですけれども……なぜリーシェ様なのでしょう。彼女は純潔ではないでしょう?」
さすがに声を落としてはいたが、あけすけな物言いにルーファスは不快感を露わにする。
「何が言いたい? 私の婚約者を侮辱するおつもりか」
「いいえ。いいえ、そうではないのです。うまく言えませんが、嫌な予感がするのです。私はリーシェ様のように魔法力は強くはありません。けれど他人よりほんの少し敏感なのです。彼女は平民でありながら、過去に例を見ないほどの力を宿していました。ですが異例なのは魔法力だけでしょうか」
「というと?」
「任期が残り少ない聖女の監視は緩いのです。引退と同時に結婚するのですから、見合いや婚約をすることもあり得るので当然ではあるのですが、その頃のリーシェ様は既に、あの……」
「ラングレー公爵か?」
「はい。彼と親密な仲だったように思うのです。ですが……私は見たのです」
「何を見たのです?」
「転んで怪我をした教会見習いの男の子に、治癒魔法をかけているのを」
「それは……」
純潔を失えば聖女の力は消える。つまり、その前提が崩れているというのか。
「結婚した私にはもう聖女の力はありません。おそらく他の方も。彼女だけが異質なんです。治癒の最上級魔法を一日に何度も唱えられることもそうですが、もしかしたら今でも治癒魔法が使えるのではないですか?」
「そんな馬鹿な」
「そもそも彼女は聖女だったのでしょうか」
侯爵夫人は、そこまで言うとハッとして口を噤んだ。
「すみません。殿下の他に話せる方がいなくて……詮無いことを申しました」
それきり二人は沈黙した。曲が終わり侯爵夫人の手が離れる。
「どうかお気をつけくださいませ」
最後にそう言い残して去っていった元婚約者候補の忠告に、ルーファスはスッキリとしない心持ちだ。
いったい何を気をつけろと言いたいのか。リーシェに企みがあるとでもいうのか。
いや、もしかしたら本人にもわからないのかもしれない。だから誰かに話したかったのかもしれない。
そもそもリーシェは聖女だったのか。
ルーファスの頭に、北の村の彼女の婚約者の存在が浮かび上がった。結婚の直前だったと聞いていた。平民は貴族のように堅苦しくはない。気軽に交際に発展し、結婚前に肌を合わせることもめずらしくない。結婚前と言えば自分だって――。
まさか……いや、あり得ない。教会の水晶が反応したのだ。
――今でも治癒魔法が使えるのではないですか?
だから何だというのか。
ルーファスは、このもやもやに蓋をした。
爵位を引き継ぎ、結婚の日を迎えたのは、それから半年が過ぎた頃だった。
その間、リーシェに変わった様子は見られなかった。
相変わらず、何も欲しがらない。
アクセサリーは小さなムーンストーンのネックレスだけ。
たまに、アプリコット酒を飲みながら、あの不思議な歌を歌っている。
それだけだ。
青空のもと、王都の中心にある教会の大きな屋外式場で、結婚式は執り行われる。
大勢の招待客が見守るなか、ルーファスは純白のドレスに身を包んだリーシェの手を取り、大司教の前へ向かって進んだ。
リーシェは緊張を解すように小さくあの歌を口ずさんでいた。歩みを止め、大司教の前に並び立つのと同時に歌い終わる。
やはりどこかで聞いた、いや、知っている歌だ。
ルーファスはそう思ったが、緊張とリーシェの美しさで余裕がない。
チラリと隣のリーシェを盗み見ると、首飾りがあのムーンストーンのネックレスであることに気づく。たしかドレスに合わせて真珠のネックレスが用意してあったはずだ。
人生最良の日に思い出したくない男の存在を仄めかされて、気分が暗くなった。
胸騒ぎがする。
ルーファスが、リーシェを失うのではないかという不安に襲われたその時、彼女は悲しそうな顔で「ごめんなさい」と言って指を鳴らした。
パチン。
まるでそれが合図であったかのように巨大な立体魔法陣が次々と出現する。
何が起きているのか理解が追いつかないまま、無数の魔法陣が展開されていき、ルーファスの体は金縛りにあったように動けなくなった。
皆、動かない。
時が止まっているかのように、いや、きっとリーシェ以外の時間が止まっているのだ。
――そもそも彼女は聖女だったのでしょうか。
侯爵夫人の問いが脳裏に浮かぶ。
違う。彼女は聖女じゃない。こんな巨大な魔法陣を描ける聖女はいない。これほどの大魔法を唱えられる人間はこの国には……この世界にはいない。
止まった時の中で、どこからか青い蝶が飛んできてルーファスを横切る。ひらりと羽根の一部が唇をかすめると、口だけが自由になった。
その瞬間に記憶が弾けた。
聞いたことはないが、知っている歌の正体。
あれは王家の書物庫にある遥か昔の魔導書に載っていた禁呪だ。この国ではない言語……古代語だ。古の大魔女キルケートが構築したと伝えられている魔法。
魔女は書物にしか記されていない幻の存在だ。その呪文と術式を彼は読んで知っていた。
「大破界」
ルーファスが正解を口にするより先に、リーシェが告げた。
大破界は滅びの魔法だ。国を壊滅させるというレベルではなく、この世界ごと消滅させる。
そんな破壊をもたらすほどの魔力量と術を発動できる魔法力を持つ者がいないので、事実上不可能とされていた。
「ごめんなさい。この魔法はもう誰にも止められない。だけど発動までに少し時間があるの。せっかく口が自由になったのだから、疑問があるなら答えるわ」
リーシェは申し訳なさそうに佇む。青い蝶がリーシェを横切ろうとすると、彼女は素早く蝶を掴んだ。掌を開くと蝶は亡骸になっていた。
聞きたいことは山のようにある。婚約者として、国一番と称された魔法持ちとしても。
限られた時間の中で、ルーファスは必死に言葉を探す。
「君はなぜこの魔法を……?」
「アランがいなくなったこの世界など必要ないからよ。私は聖女じゃないって何度も訴えたのに、聞いてもらえなかった。私たちはひっそりと暮らせればそれでよかったのに」
「君は何者なんだ。どうやって膨大な魔力量を……」
「私はこの呪文を作った魔女の娘よ。魔女は寝た男から魔力を吸い取るの。ラングレー公爵は魔法は使えないけど魔力量は多かった。ヒースもそう。あなたは特に魅力的だった。予定よりずっと早く魔法陣を描き終えることが出来たわ。感謝してるの」
ああ、彼女はそうやって魔力を補給し、歌で魔力の糸を紡ぎ魔法陣を描き続けてきたのだ。アプリコット酒のグラスを傾けながら。
気づくべきだった。気づけたはずだった。
あの時マノンは、魔力量が魅力的だと言ったのだ。
ルーファスは激しい後悔と共に、愛しい人の心が自分にないことを知った。
「ごめんなさい、あなたにはずっと親切にして貰ったのに傷つけてしまった。だけど心配しないで? いずれこの世界は再構築されるはず。この悪夢は一瞬のものよ。次に目が覚めた時、何も憶えていないわ。私のこともね」
絶望に染まったルーファスをリーシェは慰める。その瞳から涙がこぼれ落ちて、彼の心の柔らかい部分を刺激する。泣き虫なのだな、と思う。そして、そんな彼女のことがやっぱり好きなのだ。
「リーシェ、最後にキスしてくれないか」
空がひび割れている。そろそろ時間切れだろう。
「いいわ」
リーシェはルーファスに近づき口を寄せた。
甘く柔らかい唇が優しく重なる。
ルーファスは唯一自由になる口で、彼女を味わう。
そして世界は闇に閉ざされた。