5 公爵家嫡男の妻 エミリアの決断
夫が他の女にキスをしている。
そんな衝撃的な場面を目撃した瞬間、エミリアの心はスッーと冷めていった。
口にではなく指先へのキスだったことが、かえって残酷だと感じた。
夫のあんな表情を初めて見た。彼女しか映さない瞳は熱を帯び、細い指に触れる唇は、息を呑むほど官能的だった。
戸惑う彼女の様子が、デイヴィットの片思いであることを物語っている。
わかっている。悪いのは夫だ。けれども、彼女を責めたくなってしまうこの気持ちは何だろう?
いっそのこと、これが明らかな不貞の場面で、リーシェが性悪ならよかった。
それならここまで傷つくこともなかっただろうに。
ヘイマー侯爵令嬢エミリアは、十二歳でラングレー公爵家の跡取りであるデイヴィットと婚約した。
王家と縁が深い格上の公爵家との縁談に舞い上がったのは、本人よりも母親だ。
「将来は公爵夫人になるのですから」と、礼儀作法や家政に関するあれこれをみっちり叩き込まれて育った。
公爵夫人として恥ずかしくないように――。
そのために努力することは、エミリアの人生において重要なことだった。
デイヴィットに初めて会った印象は「優しい人」である。
緊張して上手く話せないエミリアを気遣い、ちょっとした風魔法を披露して楽しませてくれた。今も忘れない。風に舞う花びらがとても綺麗だった。
この人とならやっていける、そう思った。それから穏やかに愛情を育んできたつもりだ。
デイヴィットが軍規違反で危機に陥ったときも、父の目を見て「彼と結婚したい」と答えることに躊躇はなかった。
結婚して最初の一年は瞬く間に過ぎた。家政を取り仕切るのに忙しく、ラングレー家には長らく女主人がいなかったので、茶会などの社交も再開させねばならなかったからだ。
とはいえ軍の要職にある義父はほとんど不在で、実質的に夫婦水入らずの新婚らしい生活でもあった。
エミリアは幸せだった。
そうして公爵家の生活に慣れた頃、義父が後見人を務める平民の元聖女リーシェがやって来た。
聖女は引退するにあたり結婚するのが慣例であるが、彼女は初めてそれを覆し独身のままだった。
政略で親に結婚相手を決められたエミリアには理解できない感覚だ。我が儘な女に違いないと思った。
しかし実際に会った彼女は控えめで、何も求めてはこなかった。
「あの戦で彼女の大切な人が命を落としたのだよ」
大切な人とは恋人か、婚約者だろう。なるほど、それなら縁談に消極的なのも合点がいく。彼女は悪くない。
屋敷で生活するにあたり侍女を付けたいところだったが、平民で教会でも侍女はいなかったのでと断られ、当主本人から「好きにさせてやって欲しい」と言われればそうするより他なかった。
「貴族女性と違って、風呂や着替えの時に人前で裸になる習慣がないんだよ」
恥ずかしいのだろうとデイビットからも援護射撃が入る。
なるほど、平民と貴族では生活様式もそれに伴う常識も異なるものなのか。
エミリアは必要なときだけ自分の侍女を貸し出すことにして、この件は妥協することにした。
リーシェにとってライ麦パンとアプリコットジャムはふるさとの味だ。懐かしいものを食べたい。その気持ちはエミリアにも理解できる。
しかし公爵家が黒パンを食べ、安価な平民街のジャムを愛用している。このような噂が立つのは好ましくない。
貴族が身なりを整え、夜会で豪華なドレスを纏うのは、家格に見合った財力があることを内外に示すためでもある。
「ドレスや宝石を買うために公爵家は質素な食事をしている」などと侮られては元も子もない。
「そうですね。お食事についてはエミリア様にお任せします」
エミリアの説明にリーシェはあっさりと引いた。彼女は何も求めない。何も悪くない。
ところがデイヴィットが「いいじゃないか、そのくらい」と自ら平民街でそれらを買って帰るようになった。
それが彼女の大切な人の死のきっかけを作ってしまった罪悪感からであることをエミリアは知っていた。いつしか彼女の喜ぶ顔が見たいという動機に変わったことも。
「彼女の前で一年前の北の砦の話は絶対にしないように」
当主自ら発したこの命令は絶対のものであると、エミリアは女主人として肝に銘じていた。
皆、勝利の女神と接点を持ちたがっている。この話題を避けるとなると社交は出来ないため、茶会も当然欠席となる。
「リーシェ様は元々お身体が丈夫ではなく、今日は臥せっておられるの」と、もっともらしい理由を付けてご婦人方の目を誤魔化すものの、たまに顔を出す夫が真に受けて、すぐに様子を見に行くものだからエミリアは困った。
訳を話しても「茶会に少し顔を出すくらいは、いいのではないか」と言う。
夫はわかっていないのだ。
そんなデイヴィットの行動を人々が噂するのに、さほど時間はかからなかった。
「デイヴィット様は元聖女様のために、自ら市井に赴いてジャムをお求めになっているそうよ」
「先日もお茶会に顔を出されたかと思えば、早々に辞してリーシェ様の元に駆けつけていらっしゃったわ」
「きっとリーシェ様を大切に想われていらっしゃるのね」
上位貴族は常に注目されている。
気をつけるように、そう母に教えられていたはずなのに。
コツコツと築き上げたものが、脆くも崩れ去ってゆく。味方であるはずの夫が敵のようにも感じる。
エミリアは女主人としての力量のなさを痛感した。
そしてあの日、デイヴィットの後を追いかけた先で、リーシェの指先にキスする夫を目にして心が折れたのだ。
夫はわかりやすい。平静なようでいて、いつも以上に彼女を目で追っている。話しかける声が遠慮がちで、動作がぎこちない。そんなギクシャクとした空気が漂っている。
リーシェの態度は変わらない。食事を部屋で摂る回数が増えたくらいだろうか。
わかっている。彼女は悪くない。次期当主に押し付けられる親切を、平民である彼女が無下に出来るわけがないのだ。
公爵家の噂をどうすべきか頭を悩ませていたある日、義父が帰って来た。
「明日、リーシェをこの屋敷から移すことにする。心無い噂があると聞いた。私の配慮が足りず申し訳なかった」
醜聞を耳にした義父の行動は迅速だった。その決断にエミリアはホッとした。しかしデイヴィットは目を丸くして異を唱えた。
「ただの噂のために、彼女を屋敷から出すなんて本気ですか?」
「噂を甘く見るな。その内容はお前の妻を傷つけるものなのだぞ」
「ですが……」
「これは王弟殿下の思し召しでもある。デイヴィット、我が公爵家はもう二度と失態は許されないのだ」
王弟殿下には恩があり逆らえない。夫は渋々口を閉じた。
この調子だと夫は噂を知っていたのだ。なのに放置し、守ってくれなかったことにエミリアは失望した。
リーシェが公爵邸を出た後、王弟の主催する紹介制のサロンで接待役を務めているという噂が流れたことで、徐々にではあるが夫の噂話は小さくなっていった。
デイヴィットは意気消沈して、王宮の宿舎に泊まり込むことが多くなった。本当にわかりやすいとエミリアは思う。
「離婚しても良いとお父上はおっしゃっているよ」
浮かない顔のエミリアを見かねたのか、従兄のブライアンが切り出した。ドーソン医師の息子であり、彼自身も医者である。二年前に留学したため、決まりかけた縁談が立ち消えになり未だ独身だ。
最近帰国した彼は、不眠がちなエミリアの体調を気遣い、薬草茶を持って時折この屋敷を訪れる。
「それは出来ないわ。あの時、叔父様にもお世話になった。それに母が承知するはずないもの」
エミリアは首を横に振る。自分の我が儘で叔父に危険な真似をさせてしまった。今さら別れたいなど言えるはずもない。
母にも叱られるだろう。公爵夫人として恥ずかしくないように――その呪縛にエミリアは絡めとられていた。
「それは違うよ。お母上がそう教えたのは、エミリアの幸せのためだ。父だって同じ気持ちだ」
君が幸せにならなければ意味がない。ブライアンはそう言って、そっとエミリアの手を取った。
以来、薬草茶と一緒に花が添えられるようになった。バラ、ゼラニウム、マーガレット……一輪、一輪、また一輪、贈られる花がぽっかりと空いた心の隙間に入り込み、埋め尽くされていった。
やがてその花々が溢れ出した頃、エミリアは離婚を決意した。
「なぜ……?」
よもや別れを告げられるとは考えてもいなかったのか、デイヴィットはポカンとしていた。手を握ろうと腕を伸ばすので、エミリアは思わず振り払い、声を荒げた。
「彼女にキスした手で触らないでっ! 全部知ってるわ。リーシェ様を好きだったことも、噂を放ってずっと逃げていたこともね。私はあなたが不在の間もずっと公爵家を守ろうと頑張って来たわ。でももう、うんざりよ」
「エミリア……」
デイヴィットは青い顔で固まっている。あれで気づかれていないと思っていたのだろうか。
「あなたにはわからないでしょうね。自分の夫が他の女に夢中になるのを近くで目にしながら、外では皆に嘲笑される妻の気持ちなんて。私はもうあなたを受け入れられない。触れられたくないの」
エミリアは胸の内を吐き出してスッキリすると、傷ついた表情の夫を残し公爵邸を後にした。
実家に帰り、役立たずと詰られるかと覚悟していたが両親は優しかった。
「触れられるのも嫌なら、跡取りを生むなんて無理ですものね」
母は肩をすくめて笑っていた。その余裕は再婚先に従兄のブライアンを候補にしているからだと兄に聞かされエミリアは驚いた。
二年前のデイヴィットの軍規違反の際、破談になることを見越して、既にその心づもりだったと言う。しかし婚約は継続され、ブライアンは他国へ渡った。
「この前、エミリアの様子がおかしいってブライアンに連絡したら、すぐに帰国してきたんだよ。あいつは昔からお前のことが好きだったからな」
兄の言葉にエミリアの顔は真っ赤になった。
両家の当主同士で離婚話は進み、最後に公爵から改めて謝罪があった。
デイヴィットは謹慎中だ。しかも廃嫡になったという。穏やかではない報告に後ろめたさを感じていると義父だった男は寂しく笑う。
「エミリア嬢は気にしないでください。家を窮地に陥れたうえ、この体たらくでは息子に家督を託しても長くは持たない。ならば有能な者に継がせるまでのこと」
厳しい口調で断じる公爵は「あなたの幸せを祈っています」と優しくエミリアを気遣う騎士でもあった。
青空が清々しいある昼下がり、ブライアンが捧げ持つ花の蜜を求めて、フワリと青い蝶が飛んでくる。
エミリアは「真実の愛」を意味する清楚な白い花束を受け取り微笑んだ。
「愛してるよ」
幸せの中で交わす優しい口づけは、蜜のように甘かった。