第43話 余波
「おはよう」
里花は家の門を出た緋色を見つけ、声をかける。
(よかった。元気そう)
〈今日、緋色学校に行くよ〉
晃希からメールはもらっていた。しかし姿を見るまでは心配だったのだ。
「おはよう」
笑顔だ。
もしかしたら、何日も休むんじゃないかと思っていたのだ。今まで何度もそれをくりかえし、少しずつ元気になってきた。
昨日緋色に会わなかったのは、二、三日は様子を見ようということだったからだ。
晃希と翔がついているから大丈夫だと思ったのと、よけいな刺激はしたくなかったし、心を落ち着ける時間が必要だと思った。そして、ただ見守ることも大事だと思ったから。それが三人の出した結論だった。
よかった。藤と佐々も安心するだろう。
*****
緋色は体育館の観客席に座っていた。昼休みの時間、誰もいない。しんと 静まり返ったコートを見下ろすと、亮の姿を思い出す。いつもは心の奥底に隠してしまった思いがよみがえる。
いつの頃からだったのだろう。
こんなにお兄ちゃんを好きになったのは……
大好きで、大好きで、いつもお兄ちゃんと一緒だった。笑顔が好きだった。見つめる優しいまなざしが好きだった。緋色って呼ぶ声が好きだった。抱きしめてくれると安心した。誰よりも誰よりも大切な人。他の誰も目に入らなかった。お兄ちゃんがいればそれだけでよかった。
四つも離れていては、一緒に学校生活は送れない。一緒にいられる時間は限られている。
だから、バドミントンをしたい。お兄ちゃんが教えてくれると言ってくれた時はうれしかった。お兄ちゃんと同じものを見ていたい。同じものを体験したい。同じ時間を過ごしたかったから、どんなことがあっても続けたかった。
唯一共有できる大事なものだったのだ。
お兄ちゃんが亡くなって一度はやめてしまおうと思った。あの日の約束は一生果たされない。幻になってしまったから。
お兄ちゃんはいないのに。お兄ちゃんがいたから始めたのに。
もう意味はなくなってしまった。そう思ったからやめてしまおうと思っていたのに。まさか、翔くんがお兄ちゃんから聞いていたなんて……
『緋色、バドミントンはどうするんだ?』
『……わからない。でも、もう……』
『前に兄貴が言っていたんだよ。全中で優勝させたいって、そのための協力はせいっぱいしてあげたいと言ったんだ。だから、叶えてくれないか? 兄貴の思いを無駄にはしたくないんだ。考えてくれないか? でも、これはおれの勝手な願いで、決めるのは緋色だから、どんな結論を出してもおれは何も言わない』
請われるように言われて悩んだ末に決心したのだ。
そしてお兄ちゃんが通った高校で、もう少し続けてみようかと思った。
お兄ちゃんがいた高校を見てみたいと。お兄ちゃんが残してくれたバドミントンのために。もう少しだけ、高校の間だけでも。
(いた……)
里花は緋色を見つけた。これまで何度かいなくなる緋色を探して、やっとここを探し当てたのだ。
一人観客席に座って何を思っているのか、見つけるたびに中へ入ろうとしたができなかった。何も言わずにいなくなる緋色の心境を思うと、どうしても二の足を踏んだ。
立ち入ってほしくなかったのだと思う。自分だけの時間が欲しかったのだろう。今日もそうなのかもしれない。
けれど、里花は思い切って扉を開けると、中へ入った。そして、緋色の隣に立った。緋色は突然現れた里花の姿に、びっくりしたような顔をして、それから微かに微笑んだ。その様子を見て受け入れてくれたとほっとすると隣に座った。
緋色はじっとコートを見下ろしていた。今、何を思っているのだろう。
里花は何も言わなかった。ただそばにいたかったのだ。心の内を話して欲しいとも思わなかった。そばにいてあげたかった。
どのくらい経った頃だろうか。
「もうお兄ちゃんには会えないんだね」
自分に言い聞かせるような声だった。
「わたしお兄ちゃんの事大好きだった。今でも、誰よりも大事な人だったのに」
里花は初めて聞く言葉に心を突かれた。緋色の気持ちは亮への態度を見ていればわかる。亮だけをまっすぐに見ていたから。羨ましいくらいに亮だけを。だから言葉に出さなくてもわかっていた。
けれど……言葉にするとまた重みが違う。だが緋色の大好きな亮はもうこの世にはいないのだ。思いが成就することもない。だからこそ、その思いが里花の心を締め付ける。
「緋色、泣いていいのよ。感情を抑える必要はないの。泣きながらでいいの。悲しみながらでいいの。その度に、顔を上げて前に進んでいけばいいのよ」
里花は緋色の肩をそっと抱き寄せた。緋色は素直に里花に体を預けると、ぽろぽろと涙を流した。止めどもなく溢れてくる涙を拭うこともせず、肩を震わせ声も出さずに静かに泣いていた。
言葉にするとつらいから今まで我慢してきた。何も言わずそばにいてくれる里花の心づかいがうれしくて、つい本音が出てしまった。
そうして亮はいないのだともう二度と会えないのだと再認識させられた。わかってはいても認めたくないと心のどこかで思っていた。
そして、涙が枯れた頃、緋色が尋ねた。心が軽くなったのだろう。幾分か明るい声に戻っていた。
「ねえ、里花ちゃん。わたしどのくらい部活休んだのかな?」
「そうねえ。三日間くらいかしら?」
「結構休んじゃったんだね。ごめんね、心配かけて。今日から行くね」




