喪失令嬢と失恋魔法士の災婚 後編
宣伝欄
●2025年10月1日全編書き下ろし7巻&8巻発売
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侍女、アンリの朝の業務は多岐にわたる。使用人に対する申し付けから、仕えているハルミアの身の回りの世話など一般業務のほかに、そして婿に入ったシリウスの世話及び、彼が精神的に危うくなり始めてからは、屋敷の中で自傷可能なものを発見次第排除、長物を遠ざけ、趣味として行っている裁縫道具以外の刃物を遠ざける業務を彼の行動範囲分も広げて行っている。
そんなアンリは毎朝中庭を散歩することを習慣としている。この国は排他的で、他国から来た人間への風当たりがひどく強い。貿易品すら蔑みの対象とされる中、元々半分異国の血が流れている彼女は家から疎まれ、自分よりも三十以上歳の離れた王都の伯爵のもとへと慰み者として送られようとしていた。
彼女の運命を変えたのは、ハルミアの姉、リゼッタだった。
かねてより交流のあったリゼッタは「狸爺に嫁ぐのと私に仕えるの、好きなほうを選びなさい」と言って、主従というくくりにアンリを避難させたのだ。
以降、多大なる感謝の意をリゼッタに寄せており、彼女が目をかけていたハルミアを大切に想っている。
そして中庭には、リゼッタが好きだった花々、ハルミアが好きだからとリゼッタが植えさせた花々が混ざるように咲いていて、朝露に濡れ淡い色の花々が風に揺れる光景を見ることが、アンリの至福の時であった。
しかし、今日はその至福の空間に、一人の望まぬ客人が佇んでいた。
死んだような表情のシリウスが、到底爛漫とした花々に向けるべきではない目を向け、中庭の真ん中で棒立ちになっている。
なんとなく嫌な予感がして立ち去ろうか悩んだものの、また飛ばれても問題だとアンリは近づいた。
「どうされましたか、旦那様。お加減がすぐれないようなら部屋に戻られますか」
声をかけると、シリウスはばっと振り返り、落胆した顔をした。そして考え込みだしたことから、面倒なことになっていると悟った。
「ハルミア様と何か」
「……ノイル様とハルミア様は、仲がいいのですか」
ぼそり、とつぶやかれた言葉にアンリは驚いて振り返る。シリウスの顔はしまったといった様子で首を横に振り「……忘れてください」と俯いた。
「……ハルミア様の姉であるリゼッタ様は、ハルミア様を本当の妹のように愛しておられました。血の繋がりなんてものは、この世に存在しないのかもしれません。二人は本当に仲が良い姉妹でした」
アンリの脳裏に、リゼッタとハルミアの姿が思い浮かぶ。「私に妹が出来たの。ハルミア。綺麗な髪と目の色でしょう。本当に面白いのよこの子は。私の妹にぴったりだわ」そう言ってリゼッタは屋敷に薄汚れぼろぼろの娘を連れてきた。誰もが目を背けるほど汚れていた娘は、リゼッタの手によって貴族の令嬢として生まれ変わり、庭園では生き生きとリゼッタがハルミアの手を引っ張り、半ば引きずる光景が散見された。
「ノイル様は、ハルミア様に嫉妬をしていたように思えます。いえ、リゼッタ様を求める誰しもが、ハルミア様を羨み、時に妬んでおりました。なので貴方の感情は、もしリゼッタ様が生きておられたら、ノイル様ではなく間違いなくリゼッタ様に向けられていたでしょうね」
「どういう意味です」
「嫉妬、しておられるのでしょう。ノイル様に」
アンリはシリウスを見据える。そして、驚きに見開かれた瞳から視線をそらし、かつてリゼッタが愛した花に目を向けた。
――私ね、紫が大好きなの。だってとても綺麗だと思わない? ハルミアの色だもの。
「ノイル様に勝つことなんて、旦那様が思っているよりずっと容易いと思いますよ。問題はそのあとです。勝てるといいですね。リゼッタ様に」
アンリは悠然と微笑み、中庭を後にしたのだった。
◇◇◇
オルディオンの廊下は、二種類存在する。主に玄関ホールから客間、そして大広間など客人が通るところは華々しい赤い絨毯に、小ぶりなシャンデリアが回廊を照らすもので、ハルミアやシリウスなど家の者の私室につながる廊下は深海を模した段階的な色分けがされており、絨毯は花々の刺繍がされ、水辺に花が浮いているように見えるものだ。
そして今現在シリウスはその狭間でどちらに向かうでもなくうろうろと動いていた。
ハルミアとノイルが話をしているときに、自分本位な態度で逃げるように去ったことが、シリウスの頭の中から離れない。二人の前を後にしたときは、正しい怒りだと思っていたはずなのに、アンリの話を聞いてからというもの、自分が子供の癇癪を起したと感じられた。
まだ朝の食事にはだいぶ時間がある。そもそもシリウスは、昨晩一切眠れることがなかった。苛立ちと、そして初夜の日ハルミアに迫ったときは何ともなかったはずなのに、焚かれてもいない香が甘く、瞼が開かれる心持ちで仕方がなかったのだ。
よって、僅かにカーテンの隙間から覗く景色が明るくなった頃合いに寝台を抜け出し、それから帰ってこなくなったハルミアの後を追った。すると、隣の部屋から声が漏れていて、そこにハルミアとノイルが立っていたのである。
シリウスと話す時、ハルミアは身体を強張らせる。自分のことが好きなはずなのに、ノイルといる時の方がずっと心安らぎ落ち着いて話しているところも気に入らなかった矢先、ノイルの前で泣くハルミアを見てシリウスは自分を制御できなくなった。
よって、今まさにシリウスは夜着のまま当もなく彷徨っている。自分の部屋はノイルが使っていて、ハルミアの部屋に戻ることもできない。着替えもハルミアの部屋だ。
「あれ、どうしたんすか?」
のんびりした声にシリウスが振り返ると、使用人のベスが、いつも着ている執事の服ではなく、農民のような服を着て首を傾げていた。
「あなたこそ、何しているんですか。こんな朝早くから」
「俺は今日はお休みなんでぇ〜釣りに行くっす! 一緒に行くっすか?」
ベスが軽い口調でシリウスを誘う。どうせシリウスのことだ。「馬鹿らしい」そう言うに決まっている。けれども冗談は口から飛び出していくもので、そのままシリウスの横を通り過ぎようとした、しかし――、
「行きます。時間も空いていますし。洋服を貸して頂けますか?」
シリウスは現在、行く当てがない。よってベスの誘いに頷いた。
「えっ、ほ、本当っすか」
「はい。たまにはいいでしょう」
背に腹は代えられないと、シリウスは微笑んで見せる。ベスはぎょっとしながら「着替え、取りに行ってくるっすね……」と引き気味にその場を後にしたのだった。
一方、ハルミアはといえば、シリウスに去られた後、悶々とした気持ちで墓地に来ていた。彼女はシリウスに去られた理由を、実のところよく理解していない。ただ何となく自分が怒らせたことは確かだと分かっていて、見つからぬ理由を探し続けていた。
「なんだい変な顔して。そもそも墓参りに来て悩んでんじゃないよ。ここはそういう場所じゃあないんだよ。分かってんのかい? しかも自分の家の墓の前じゃなく、他人の家の墓の前で」
「すみません……」
ヴィータは溜息交じりに墓地に佇むハルミアを見やる。いつもハルミアは自分の憎まれ口を簡単に流すのに謝られ、今日は余程のことがあったのかと思ったものの、自分が介入すべきではないと考えヴィータは特に理由も聞かず、掃き掃除をしていた。
「そういや、ノイルの馬鹿が帰ってきたんだって? まだまだリゼッタの死んだ日よりずっと前じゃないか。どうしているんだい? 屋敷に泊めてんのかい?」
「はい……」
「婿養子の次は姉の元婚約者。オルディオンの屋敷は今年管理権限を譲渡するってのに最後の最後まで休まらないもんだねえ」
「そうですね……」
ヴィータは大方掃き掃除をして、身体を反らし腰を叩く。すると突然箒を音を立てて床に打ち「見せもんじゃあないんだよ!」と物陰に向け怒鳴った。ハルミアが驚きながら視線を向けると、人影がカサカサと音を立て植え込みの奥へと消えていった。
「あれは……一体……」
「どう見ても人間だ。最近いつもこうなんだよ。墓荒らしにしては上等な服を着てね、薄気味悪いったらありゃしない」
ハルミアは相槌を打ちながら、不思議に思った。なぜ上等な服を着た人間が、墓を狙うのだろうと。本来ならば、物盗りなんて墓場では最も適していない場所だ。店ならばその日の売り上げ金や前もって店に置いておく金がある。屋敷は言わずもがなだが、墓場なんて狙ったところで得られるのは骨だけである。
(もしかして、おばさまが……)
「ねぇ、ヴィータおばさま、最近何か、おかしなことがあったりしませんか? もしかしておばさまが……」
「こんな婆狙ってどうするんだい。放っておけば死ぬようなものを。それよりあんた自分の心配してな。私は今日ちょっと山の奥に花毟りに行かなきゃいけないんだから」
「それって、毎年の……」
「そうだよ。だからついてくんじゃないよ」
ヴィータは毎年この時期、花を摘んで海に流している。出会った頃から行っていたそれは、理由こそ話さないがヴィータの今は亡き夫に向けているものであると何となくハルミアは察していた。そして、その習慣を行うとき、ヴィータは必ず人を遠ざけるのだ。ハルミアもその心境が理解できるため、彼女は立ち止まった。
「……お気をつけください。あの、何かあればすぐ……」
「いい。それよりあんたは自分の屋敷に帰んな。何やら雲行きが怪しいからね」
ふん、と鼻を鳴らしてヴィータはハルミアの前から去っていく。追いかけることもできずハルミアはヴィータを見送ったのだった。
◇◇◇
「全然釣れないな! わはは!」
ベスと共にシリウスが釣りに出かけ、暫く立った頃。緩やかに流れるオルディオンの川めがけ釣糸を垂らすシリウスの隣には、ノイルがいた。
事の起こりは、ベスとシリウスが出かけようと門をくぐろうとした時だ。ちょうどノイルが散歩に出かけようとしている場に居合せて、ベスがどこに行くかを話し、ノイルが一緒に行きたいと言い出して三人で行くことになったのである。
辺りはオルディオンでは珍しい太陽の光が燦々と降り注ぐ場所で、青々とした草原の朝露が朝日を反射して輝き、爽やかな風が湿った草木の香りを広げている。人々の憩いの場所として親しまれているが、ノイル、シリウス、ベスと、気さくで裏がない二人に挟まれ、シリウスは川に到着し早々に辟易としていた。
「本当っすよ〜。いつもなら今頃五匹は釣れるっす! むぅ〜!」
ベスが不満そうに口を尖らせる。「よく釣りをされるんですか?」と何の気なしにシリウスが聞くと、ベスは「もちろんっす!」と笑みを浮かべた。
「釣るのも楽しいし、食えるじゃないっすか。それに、食ったらもうそっから無くなることもないっす!」
「食べたら無くなりませんか?」
「あれ? 旦那様知らないっすか? 食べれば血となり肉となるんすよ?」
小ばかにされたようで、シリウスは怪訝な目でベスを見た。しかしベスは川を眺めていて気付かない。
「確かに、食べれば無くならなかったんだよな……」
ノイルが昏い声を発した。シリウスが振り返ると、「なぁシリウスくん」とノイルが明るい声で顔を向けてくる。
「俺が言えたことではないが、何か話がしたいことがあったら、きちんと話さないと後悔するぞ」
「……は?」
「今朝、我が妹に何か言おうとして、いなくなってしまっただろう。ああいうのはよくない。とてもよくないぞ!」
ノイルがばしばしとシリウスの肩を叩く。手でシリウスが制していると、ベスが昏い声でぼそりと呟いた。
「正直に言っても、取り返しつかなくなることもあるっすけどね」
このせいでベスは王都の騎士団から見合いを勧められた際、さして好みでもない騎士団長の娘を褒めることを強要され盛大に吐いたことでその席を追われることになった。
以降、彼はあまり努力が好きではない。どんなに努力をしても、嘘がつけないだけで自分の日々の積み重ねは、砂で出来た城のように儚くなってしまうからだ。
騎士団を追われた経緯をリゼッタから聞いていたノイルは、一瞬口を噤んだ。しかし、「それでもだ!」と大きな声を発する。
「正直に言わないと、一生後悔することもある! でも、正直すぎて、失うこともある! しかしシリウスくんは今絶対正直であったほうがいい!」
「何故です。というかあなたは一体何なんですか? さっきから」
「シリウスくんが恋の病に侵されている。恋をしてるならば、絶対に正直であった方がいい!」
ノイルの言葉に、シリウスは手から釣竿を滑り落とした。ベスが「うわああああああ。高かったんすよ!」とすぐに釣竿を引き上げる。すぐさまシリウスに抗議しようと顔を向け、言葉を失った。
「は……は、はあっ?」
シリウスは顔を真っ赤にして、狼狽える。「そ、そんなわけないじゃないですか? っていうか誰に対して僕が恋をしていると? 意味が分からないです!」と早口で捲し立てた。
「あれ、お前自分のこと私って言ってなかったか?」
「わ、わ、わたしが、いつ、誰に恋をしていると言っているんですか?」
「そんなもん我が妹に決まってるだろ。そうじゃなきゃ問題だろう」
「確かにそうっすね……。不貞になっちゃうっす」
自分を置いて「そうだよな」「そうっすよ」と話し始めるノイルとベスを見やり、シリウスはぶんぶん頭を振った。
「わ、私はハルミア様なんて好きじゃありません!」
「俺も小さいころリゼッタに同じこと言った。俺よりリゼッタの方が俺を好きだともな。リゼッタに鼻で笑われたよ。それから正直に生きるようになった」
「それ聞いたっす。じゃあ別の婚約者を用意するよう御父様に進言致しますわって言われたんでしょ?」
「そうだ。あの時から俺は正直に生きると決めた」
「わ、私の話を聞いてください! 私の話をしてるんですよね?」
「お前と我が妹の話だけどな」
「そうっすね」
今、確実に自分は玩具にされているのではないだろうか。シリウスが二人を睨みつけると、ベスは笑い、ノイルは咳払いをした。
「ともかくだ。正直に生きろ。俺はそれからリゼッタに好きだと、大好きだとちゃんと言ったが、愛してると言えたのはあいつが死んでからだ」
真剣なまなざしに、シリウスが口ごもった。ノイルは川の対岸へ目を向け、呟くように話す。
「死んでから、ようやく言えた。言える機会なんていっぱいあったのに。何回でも言ってやれたのに。だから俺は会う人みんなに言うんだ、悔いなく生きろと」
「……」
「お前らはもう夫婦なんだ。まぁ夜に盛り上がったら素直に言葉が出てくるだろうがな! わはは!」
ノイルの言葉にベスが盛大に噴き出した。さっきまでとは打って変わった様子にシリウスの怒りは頂点に達し、オルディオンの川に盛大にシリウスの怒鳴り声が木霊したのだった。
◇◇◇
オルディオンの街並みを、夕景が包んでいく。あれから結局シリウスとベス、そしてノイルは森の麓で食事をとり、屋敷に戻ることはなかった。門番には元々ベスが戻るのは昼過ぎになると伝えていた為に、それを門番から聞いていたハルミアは特に何か慌てることもなく一日領地に関する残った仕事をしたり、空いた時間は刺繍をするなどして過ごしていた。
窓の外からオルディオンの街並みを眺めていると、不意に屋敷を囲う塀の隙間から、ベスやシリウス、ノイルの三人が歩いているのを見かけて、ハルミアは足早に自分の部屋を出た。
シリウスが、何について怒っているのかわからない。けれど怒らせてしまったのもまた事実であり、まずは謝り、それから訳を聞こうとハルミアは屋敷の門へと向かう。するとちょうど三人が門をくぐっているところで、迎え出ていたハルミアを発見したシリウスは目をぱっと見開いた後、口をまっすぐ引き結んだ。
「ハルミア様!」
「我が妹よ!」
「おかえりなさいませ。皆さま」
立ち止まるシリウスを横切り、ノイルやベスがハルミアの元へ向かう。そして顔を見合わせにやりと笑った後、ハルミアの肩を叩いた。
「では、あとは二人で話してくださいっす」
ノイルもベスも、今度はシリウスの方へ振り返り手を動かしたりして何かを伝える。シリウスはしっしと手を振り、怒る仕草を見せた。何が何だかわからないハルミアはぽかんとして、やがてノイルとベスが離れていき、シリウスが近づいてきた。
「あの……」
「あっ、シリウス様、私、お話があって……」
同時に言葉を発してしまい、ハルミアは自分の口元に手を当てる。しかしシリウスは「なんです?」とばつの悪そうな顔で話すよう促した。
「えっと、今朝。私、シリウス様に失礼なことを、怒らせることをしてしまって、申し訳ございませんでした。ずっとそれが謝りたくて……」
「別に、怒らせることは何もしてませんけど」
不機嫌な声色で、シリウスが呟く。恐る恐る顔色を窺うハルミアに、シリウスはふいっと顔を横にそむけた。
「……別に……。……私こそ、突然怒ってすみませんでした。その、最近感情の制御がうまくできなくなっていて……、申し訳ございません」
シリウスが一言ひとこと、言葉を絞り出していく。しかし、どれほど待ってもハルミアからの言葉が返ってこない。焦れて顔をハルミアに向けると、彼女は一点を見つめ顔を青ざめさせていた。
尋常ではない様子に、シリウスも視線を向ける。辺りは変わらず橙の夕景に包まれているが、一点だけ。オルディオンの山の上にかつてないほどの巨大な暗雲が立ち込め、今まさに山を食らわんと包み込もうとしていた。
二人の様子を木陰からにやにや見つめていたベスやノイルも、異変に気づきオルディオンの山を見て愕然とする。屋敷から外を見ていたアンリも慌てて出てきた。
「あ、あれ、何すか?」
「俺もわからない。あんな雲。嵐だってあんなにならないぞ!」
慌てるベスとノイルを横目に、シリウスも暗雲を見る。シリウスが魔物討伐に出たときに見た瘴気よりもずっと黒が色濃い。あんな雲を起こせる魔物なんて存在しないはずで、今まで彼が読んできたどんな文献にも載っていない。嵐の可能性が高いが、気象や天候を計算してもあれほどまでの巨大な雲が現れ、山の上を覆うことはありえないことだった。
「ヴィータおばさまが……」
ハルミアが呟く。今日、ヴィータは山の上にいるはずなのだ。そして黒い雲に覆われているということは、ヴィータに危険が迫っているということ。最悪のことを想定して、ハルミアはその場に膝をついた。
「ハルミア様!?」
シリウスが慌ててハルミアを抱き起こそうとするが。「どうして、嫌……」と繰り返し、震えるばかりだ。
「しっかりしてくださいハルミア様、屋敷にいればきっと――」
「違うんです、今日、ヴィータおばさまが山に登っていて……」
ハルミアの言葉に、周りにいた者全員が言葉を失う。ハルミアは、今すぐヴィータを助けに駆け出してしまいたい気持ちだった。しかし、彼女に魔力はほとんどなく、その力を行使することはできない。ヴィータを助け出す前に、救助隊の世話になるか、死ぬ結末になる確率の方がずっと高いということを自身がよくわかっている。
「どうして、私は魔法が使えないの。どうして大切な人を、殺して――」
頭を抱えるハルミアを、アンリがすぐに支えに入った。
「ハルミア様。あなたは殺していません。あれは事故です」
そのやりとりを見て、シリウスはすぐにわかった。ハルミアは自分が魔力がほとんどない。事故の現場に居合わせたとき、魔法が使えなかった自分のせいで姉や両親が死んだと思っているのだと。
「いや、嫌。どうして――!」
「行きましょう。ハルミア様」
シリウスが、意を決して言葉を発した。ベスは「は?」と目を見開く。
「私は、ハルミア様に魔力の権限を譲渡している形ですが、元は国で一番の魔法士。嵐の中がなんですか。老人一人助け出すことくらい、やすやすと行って見せましょう」
「嵐の中は無理っすよ」
「それに旦那様、ハルミア様をお連れするなんて、自分が何を言っているのかわかっているのですか?」
「当然です。彼女には捧生の腕輪がある。そして私の胸には印がある。ハルミア様を連れて行かなければ、死にに行くのも同然ですよ」
地に手をつくハルミアの前でそっと膝をつき、シリウスはその手を差し出す。どうしていいか分からず動かぬハルミアに、「私を見てください」とそっと声をかけた。
ハルミアは、大きく目を見開く。まっすぐ自分に向けられる紺色の瞳は煌めいて、初めて出会った時の彼を彷彿とさせた。恐る恐る手に取ると、ぐっと力を入れられ引っ張り上げるように立たされる。
「大丈夫です。僕が助けますから」
シリウスが笑う。ハルミアは縋るように頷いたのだった。
◇◇◇
オルディオンの山は、凄まじい瘴気が立ち込めているというのに、どこもかしこも静かだった。元から黒々として針金のようになっている木々が立ち並び、光は差し込まない。
唯一光に溢れ花畑のある湖は楽園という意味の名がつけられるほど、この森は太陽を拒絶している。
しかし、それでもヴィータを助けるために森に入ったシリウスとハルミア、そして騎士団に入っていたことを見込まれ同行を許可されたベスは愕然とした。
「風がこんなに無いってこと、あるっすか?」
嵐であるならば感じるはずの風が、微塵も感じられないのだ。草木も揺れることなく、動物たちは異変を察知して早々に巣に戻ったのか、物音ひとつしない。聞こえるであろう雷鳴も、地鳴りも、風の音も、世界の全てが無に還ったように、何の音もしなかった。ただただ森の周りに黒い暗雲が立ち込めているだけで、まるで瘴気を見ているのが幻覚だと思ってしまうほど、周囲は無に包まれていた。
「嵐がまだ始まらないことに越したことはありませんが……ハルミア様、魔道具の探知機はどんな反応を示していますか」
「まったく反応がないです」
ハルミアがノイルに渡された魔道具の懐中時計を見つめる。一般的な金時計の中央に円環状に加工された魔石がいくつも回転するそれは、魔物が近づけば発光し、その回転速度を上げることで持ち主に危機を知らせる仕組みだ。ノイルが家からくすねてきた最新の型のもので、何かの役には立つだろうと渡されている。
「魔物でも、嵐でもない……こうなることなら、オルディオンの古書を読んでおけば……」
「いえ、この辺りのことが記された古書は全て読み込み記憶していますが、こんな嵐が訪れたなんて記載はありません」
ハルミアの返答に、シリウスは「勉強熱心ですね」と返しながら空を仰いだ。雲は黒く渦巻いて、頂上を目指すようにしている。
「婆さんも頂上っすか?」
「多分……」
「よりによってこんな時に……! 街に降りてるなんてことないっすよね?」
森に向かう道中、ヴィータが街に降りてきていないか調べた結果、祈りを打ち砕く知らせがハルミアのもとに届いた。さらに果てにあるはずのヴィータの小屋にも彼女は不在で、山にいることが決定打となったのだ。
「それに、今日はおばさまが旦那様とお別れになった日です。なんとしてでも、花を海に送ろうとするはずです」
ハルミアは、もし自分が逆の立場だったらどうだろうと考えた。もし家族をいっぺんに失った時と同じ日に、嵐に出会ってしまったら。自分はきっと、街には下ることをしないだろうと。やっと、やっと向こうに逝けると思ってしまう。
しかし、ヴィータの夫は、まだ死んでいなかった。海の向こうへ行き、死体は上がっていない。もし彼女の夫が本当に帰ってきたとき、どう思うのか。ハルミアは胸が締め付けられる想いで足を動かした。
「あれ、あれ婆さんじゃないっすか?」
ベスの言葉に、俯きかけたハルミアの顔が上がる。丁度崖の途中、突出したところにヴィータが立っていた。そしてその前には上等な黒服を着た男が三人立っており、物々しい雰囲気で対峙していた。
「ハルミア様、魔法を」
「はっはい!」
ハルミアが捧生の腕輪をシリウスにかざす。しかし、本来ならば腕輪から魔力が流れ出し、印を持つものに注ぎ込まれるはずが、腕輪は光ることもなくそのままだ。
「どうしてっ」
「このままじゃ婆さんが落とされちゃうっす! 俺行くっす!」
「ベス!」
ベスが足元に加速の詠唱をして、そのまま差していた剣を抜き、男たちに襲い掛かった。しかし相手は三人、このままだとベスが危ない。ハルミアは焦りながら腕輪をシリウスにかざすも、腕輪は微動だにしない。ハルミアたちがやってきたことに気付いたヴィータは「なんで来たんだい、逃げな!」と怒鳴り声を上げた。
「こいつらは魔法士だ! 双水岩の洞窟を狙いに来たんだよ! あんたらに勝ち目なんてないよ、さっさと捨て置きな!」
「嫌です……!」
もう、大切な人を失いたくない。ハルミアは腕輪を見つめ、何が起こっているのか考え、はっとした。
「あのパーティーの時、詠唱が、普通の捧生の詠唱ではありませんでした。奴隷紋の詠唱も混ざっていた。もしかしたら……普通に魔力行使を許可するのではなく、私がシリウス様に命じる必要があるのかもしれません」
「では、すぐに。まずは貴女の使用人とあの老人を飛行魔法でこちらに引き寄せましょう」
「わ、わかりました。えっと、ハルミア・オルディオンが、シリウス・オルディオンに命じます。ヴィータおばさまと、ベスをこちらに飛ばしてください」
ハルミアが命じた瞬間、腕輪から光が放たれ、シリウスの印目掛けて吸い込まれていく。自分の手を動かし感覚をつかんだシリウスは、すぐに詠唱を始めた。すると苦戦していたベスの足元とヴィータの足元に魔法陣が現れ、下から風が浮かび上がり二人ともこちらに飛んでくる。
しかし、飛ばすことを命じた為に、二人はそのままの勢いでハルミアたちのもとに飛び、咄嗟に彼女を庇ったシリウスを下敷きにする形で着地した。
「し、シリウス様、おばさま! ベス!」
「大丈夫です、捧生の腕輪を使っての魔法効果は、研究の余地がだいぶありますね……」
シリウスが眼鏡の位置を整えながら立ち上がった。ベスやヴィータもふらつきながら立ち上がり、慌ててハルミアが手伝う。
「ったく、なんでこんなところ来たんだい。嵐だっていうのに」
「それよりおばさま、あの男たちは」
「知らないよ。一方的に追いかけてきて、逃げてみれば崖に追い詰められたよ。どうやらただ私に死んでもらいたいだけじゃなく、事故で死んでもらいたいみたいだね」
黒服たちは、今度はハルミアたちのほうへ向き直り、じりじりと近づいていく。
「ハルミア様」
「はい、シリウス様、ご指示を」
「土魔法でやつらの足場を崩し、それから確保です。まず……」
「なんすかあれ!?」
シリウスの指示をベスの絶叫がかき消す。シリウスが憤りを示す前に、凄まじい雷鳴が響き渡った。瞬間吹き飛ばされんばかりの豪風が吹き荒れる。瞬間的に瞳を閉じて、風が止んだのを感じハルミアが目を開くと、目の前には驚愕の光景が広がっていた。
「我の妻に手を出すとは、お前たち、自分たちが何をしたのか、分かっているんだろうな」
ハルミアの視界いっぱいに広がる、どす黒い鱗たち。ハルミアたちと黒服の間を分つように黒竜が降り立っていた。空は竜が降り立った場所の一点から晴れはじめ、あれだけ分厚くオルディオンの山を覆っていた暗雲が、そこから溶けるように消えていく。
ハルミアも、シリウスも、ベスも、御伽噺でしかない存在に愕然として、言葉を失いただただ茫然とする。一方ヴィータだけは、目を見開いたまま一歩踏み出した。
「オズ……」
ヴィータの呼びかけに、黒竜は振り返り、金色の瞳を柔らかく細める。
「遅くなった……我が妻よ。祖国の戦が中々締結しなかったのだ。許してほしい。まずは埋め合わせとして、この三人の人間を君に捧げよう……」
竜が飛び上がったことで、ハルミアたちの視界に黒服の男たちが映った。男たちは三人とも竜の存在に驚き、畏怖している。足は震え、逃げることもできず後ろへとにじり寄るばかりだ。
「殺すなオズ! 生かして何が目的か――」
ヴィータの叫びも虚しく、黒竜の口から無数の雷を帯びた閃光が発された。瞬く間に男たちの立っていた場所は白く染まり、地形を切り崩したように海へと落ちていく。閃光に触れた個所は皆削り取られ、煙が立ちその威力をまざまざと見せつけていた。
黒竜は満足そうに鼻から息を吐き出す。またハルミアたちの周りに降り立つと、その身を縮めさせ人の形に――ヴィータと同じ年くらいの、初老の男性へと姿を変化させた。黒い髪を靡かせているが、瞳だけは竜のものと同じくぎらついた金色で、その金色が先程まで閃光を放っていた竜と同じ存在であると雄弁に語っていた。
「我が妻、待たせ……」
初老の男性へと姿を変えた黒竜――オズが厳格な顔つきをやや綻ばせ、ヴィータへと近付く。しかし一歩近づいた瞬間ヴィータの平手打ちが炸裂した。完全に頬を直撃されたオズだったが、よろけることはなくただただ意味が分からないと立ち尽くす。
「殺すなって言っただろうが! なんで海に放った」
「しかし、やつらは君を殺そうとしていただろう」
「だから何で殺したか聞くって言っただろう! なんなんだお前は! 突然帰ってきて!」
ヴィータが顔を真っ赤にしてオズを怒鳴りつける。ばしばしと胸板を叩く姿を見て、ハルミアたちは目を丸くした。ヴィータはひとしきりオズを叩くと、ハルミアたちの方に振り返った。
「……私の旦那だ。あんまり広めるんじゃないよ。……で、オズ。この薄幸そうな娘がオルディオン家の娘、で隣の神経質そうなのが婿。馬鹿そうな顔してんのが使用人だよ」
「ひどいっす! せっかく助けに来たのに!」
「馬鹿だろう! どうせ待ってれば死ぬ老人助けにこれから私の五倍六倍は生きる若者の身が危険になってどうすんだい! 大方ハルミアが主犯だろうが、婿もベスも尻に敷かれてないで止めな! 本当に二人揃って、死ぬところだったんだよ! この大馬鹿どもが!」
盛大にヴィータがため息を吐く。そしてハルミアにもう一つ嫌味を言ってやろうとして、今の彼女の顔を見て言葉を止めた。
「何で、泣いてんだい。お前は本当に愚かな娘だねえ」
ハルミアが、目から大粒の涙を何度も何度も、ぽろぽろと流していく。球体を作っては筋を作って流れていく涙を見て、ヴィータはハルミアの頭を撫でた。
「ほら、墓守の婆は生きてるよ。どうせそのうち死ぬ老人が生きてたくらいで泣くんじゃないよ」
「で、でも……ヴィータおばさま、生きててよかった……」
「ったく……ほらこういうのは婿養子の仕事だろう。突っ立ってるんじゃないよ」
泣くハルミアをあやすヴィータがシリウスに声をかけながら、ハルミアを押し付ける。シリウスは目元を押さえるハルミアの腕を恐る恐る掴んでどかし、代わりにハンカチで拭ってやる。
ヴィータは満足そうにして鼻で笑った後、一瞬三人から視線をそらし、「悪かったね」と呟いた。ベスが「え? なんて言ったんすか?」と聞き返すと、「ありがとうって言ってるんだよ」と言い返す。
「今日は世話になったね」
ヴィータはそう言って、そっぽを向く。オズが「彼女にとって最上級のお礼を言っているんだ」と付け足し肘で腹部を打たれた。しかし彼は体勢を崩すことなく、そのままハルミアたちに頭を下げた。
「私からも礼を言う。このたびは我が妻を助けてもらい、感謝してもしきれない。この借りは必ず返そう。ありがとう、三人の人の子よ。まずはこれを……」
オズが手を差し出し、左右に払うように振った。雨が降るように落ちる欠片は間違いなく伝説の品とされ、空想でしか描かれない竜の鱗で、ハルミアたち三人はまた言葉を失ったのだった。
◇◇◇
「まず、どこから話そうか」
オルディオンの屋敷の広間にて、オズが出された紅茶を見つめながら呟く。オズの隣にはヴィータがおり、二人と向かい合うようにシリウスとハルミアは座っていた。後ろにはベスやアンリが控え、ノイルは壁にもたれている。屋敷に帰ってきてアンリやノイルに突然山の暗雲が消えた理由も含め説明をすると、オズの事情を聞こうと客間に集まったのだ。
「あんたはぼやっとしてるから、私から話すよ」
ヴィータが盛大にため息を吐いて、「私は、こいつのせいで四百年は生きるはめになっちまってるのさ」と苦々しくつぶやいた。ハルミアがはっとして、口を開く。
「もしかして、オルディオンの恋の話というのは」
「私たちのことさ。馬鹿どもの御伽噺にされるくらいのことをこいつは私にしてるんだよ」
オルディオンに纏わる竜と人の話は、恋の話として祭が開かれるほど浸透している。この国の中心では三百年に一度魔力を高く持つ神子が生まれ、神子を守るために竜が生まれた。
そしてこの地は神子の生誕を待つ竜が住まう土地でもあり、人と共存し異種族同士の結婚も盛んに行われていた。しかしある時、竜たちは、己の在り方を考えるようになった。竜たちは人間と結婚する歳、人が己とともに生き、死ぬようその鱗を身体に埋め込む。しかし、竜たちは自分たちの姿を変えて生きられるといえど、人間は老いたまま、寿命だけを伸ばされる形となる。そのことについて人間から訴えられ、竜の寿命を人間に合わせる術を求めた竜がおり、その方法を探そうと旅に出た。
そして残された竜の妻は、ただただオルディオンの果てで湖の花を摘み、海へと流す。戻ってきてほしいという気持ちを込めて。
ハルミアは、ヴィータが海に花を流す儀式を、オルディオンの因習に倣ったものだとばかり思っていた。
「では、ヴィータおばさまは、もう何百年と……」
「ああ、こいつのせいでね。他の竜なんて皆死に絶えていったのに、こいつが馬鹿みたいにしぶといせいで私は何年も待たされてんだよ。挙句帰ってきたのは方法が見つかったからじゃなく、神子が見つかったからって言うんだ。とんでもない話だよ。ったく」
うんざりした顔でヴィータがオズから視線を外した。その言葉に、シリウスが眉間にしわを寄せた。
「神子が見つかったって……神子はシンディー姫では?」
「いや、この国の姫ではない。聖女と言われる存在だそうだが、治癒魔法が扱える存在はおおよそ五十年に一度生まれる。神子に神託を告げるために、竜は永らく存在すると言われているのだ。神子は貴重であるし、聖女は王家が管理してもなんら問題はないが、神子の存在は独裁が生まれる。だから丁度良かった」
一体、何が丁度いいのか。不思議に思ったシリウスの前に、オズの人差し指が向けられた。
「お前が今代の神子だ。まぁその心根は、歴代の神子からはいささか見劣りはするが……な」
シリウスはすぐに不機嫌な顔をした。「ふざけるのはやめてください。僕は、僕の魔力は……」と奥歯を噛む。しかし続く言葉を見透かすように、オズは「魔力は少ない、か?」と彼を見据えた。
「人より魔力が劣り、どんなに頑張ってもお前の周りの人間の魔法の威力だけが上がっていく。そう思ったことは?」
「……」
「これのそばで魔法を使ったものはいないか? 不思議とその出力が過大となったのではないか?」
ベスがはっとして、「そういえば、お迎えの時……」と声を漏らした。ハルミアもすぐに身に覚えがあることに気付く。
「ハルミア様に、旦那様のもとへ行く魔法をかけて、ふっとばしちゃったことがあるっす!」
「それだ。神子には保身の加護が備わっている。神子にとっては呪いに感じられるかもしれないがな」
「私の力は、もしや、もとより自分の魔力を他人に放出し、譲渡するものであった、ということですか」
シリウスが思い立った仮説をそのまま口に出すと、オズは頷いた。
「魔力を膨大に持ち、さらにその効果を上げてしまうため、王家に奴隷として扱われたり、隣国に狙われたりすることも多かった。聖女の癒しの力と異なり、一人で一国滅ぼせる力があるからな。安心しろ、条件を満たせば加護が消えるよう出来ている」
「条件?」
「加護自身が、神子が万物を切り抜けられる感情――怒りや悲しみ、慈愛、その者にとって必要な感情が満たされたとき、神子は思う存分力を振るうことができる。まぁ、私の知っている限り、皆平凡を望み、弱い力を出してひっそりと農作などする者が多かったがな。オルディオンの湖だって、あそこだけ日の通りがやけに良く花が咲くのはそれゆえだ」
ハルミアは驚きながら、シリウスに目を向けた。彼は実感が湧かない様子で自分の手のひらを見つめている。
もしかしたら、彼が王都に戻ることができるかもしれない。捧生の腕輪を外すことだって、出来るかもしれない。そう思い立ち、ハルミアは「黒竜様……」と声をかけた。
「なんだ。オルディオンの娘よ」
「あの、シリウス様は現在捧生の腕輪によって、私に魔力を扱う権利を譲渡している形なのです。どうにかこれを壊すことは出来ませんか?」
「無理だな。神子が己の力を発揮できない限り、壊すことは出来ん。我にも叶わん」
「そんな……」
ハルミアの言葉に、シリウスは目を見開いている。その目があまりに悲痛で、彼女は自分の無力さを呪った。
「我がこの地を訪れたのは、神子に相対するだけではない。旅に出て、何の成果も得られぬことが分かったのだ。長らくの間、妻を一人にさせてしまった。だからこれからは共に暮らしていきたいと思ってこの地に戻った」
「冗談じゃない。あんたの住むところなんてないよ」
オズの言葉を、ヴィータは撥ね付けた。
「私の小屋にあんたの寝床なんて無い。とっくに処分しちまったんだからね」
「ヴィータ」
「……そう、言ってやろうと思ったんだけどね。もとは私の言い出したことだ。もう、どう怒っていいか分からなくなっちまったんだよ。私は。一緒に死にたいと言って、この男が姿を眩まして、私の願いのせいで会えなくなっちまった間に、確かに悲しいのに、お前のことをふいに忘れる瞬間が確かにあったりなんてしてね。百年前言いたかった言葉も、思い出せないんだ。薄情なのはどっちだろうってさ……」
大切な誰かを、ふいに考えなくなってしまう瞬間。ハルミアはぎりぎりと胸が痛んだ。手のひらを握りしめ、痛みをやり過ごす。
「だから、もう最期までは、もういなくならないでくれないかい。私があんたのこと、忘れちまわないように、さ」
「ヴィータ……」
二人が見つめあう。周囲がしんみりとした空気に包まれたその瞬間、「それさあ」と間延びした声が響いた。
「シリウスくんはどうするんだ。すげえ魔力があるから、訳を話せば王都に戻れそうだが、王家にばれたら利用される。いっそ復讐でもするか?」
「私はそんなつもりは……」
シリウスは首を横に振る。自分が五百年に一度の逸材の神子だという実感は、全く湧いていない。
黒竜を目にするまでは、捧生の腕輪の研究をしなければということに頭がいっぱいで、その次はオルディオンの伝説の存在であった竜の存在に驚き、次に神子だと言われ、あまりにめまぐるしく変わる状況についていけないでいた。
いつもならすぐに自分がいかに有益な存在であるか知らしめることを生きがいとし、人から承認されていることに重きを置くシリウスであったが、神子として扱われ生きることで今まで持ち直し始めてきた生活がすべて壊されてしまったほどの気持ちになっている。
「ちょっと……、考えます。まだ、受け入れられていないので……」
シリウスはふらりと立ち上がり、そのまま部屋を出ていく。全てが胡乱に感じられ、何も考えることができず、もう今はただ眠りたいと部屋へと歩いたのだった。
◇◇◇
黒竜と相対した晩のこと、ハルミアは窓の外を見つめていた。ヴィータたちは小屋へと戻り、皆元の生活に戻っていった。しかしシリウスは夕食の席に姿を現すことなく、共有している部屋のベッドに、掛け布を深く被る形で横たわっている。
そっとしておいた方がいいのか、話しかけるべきか分からない。
ハルミアは何度か口を開くが、最後の最後で声が出ないことを繰り返し、もう幾分か経つ。
そうして時間をふいにし続け、とうとうハルミアは声をかけることにした。
「あの、シリウス様」
「……なんです」
無視されることを覚悟していたが、あまりに早く返事が返ってきたことにハルミアは驚きながらも、彼のそばに寄り、膝を折った。
「あの、本日は、本当にありがとうございました。一緒に山へ向かっていただいて」
「別に、私が助けに行かずとも、黒竜が助けに行ったと思いますし」
ふん、と掛け布からくぐもった声が聞こえてくる。ハルミアは肩の辺りに触れようか迷い、その手を止めた。
「それでも、ありがとうございました。私のことをシリウス様は何度も助けてくださるのに、お力になれず申し訳ございません」
シリウスからは返事はない。ハルミアは今夜シリウスは一人で過ごしたほうがいいだろうと、部屋を後にした。最後に温めた香草を混ぜた紅茶を差し入れしようと廊下を進み、大階段を下りていく。すると玄関の大扉を開き、ノイルがどこからか帰ってきたところだった。
「お兄様、どちらへ……?」
「革命の準備だ!」
「え……?」
「冗談だ。ほら、王家から手紙だぞ」
渡された真っ赤な封筒に薔薇の封蝋がされた手紙は、ハルミアの手に渡ると同時にぽんと跳ねて、封筒だけがきれいに散り散りになっていく。浮遊する中身の書状に目を通し、ハルミアの目は見開かれた。
「どうしたんです。……それは、王家の……」
シリウスがハルミアの後を追ってやってくる。大階段を駆け足で降り彼女の隣に立ち、王家からの書状を見て言葉を失う。
『第二王女シンディーと、剣士ガイの婚約式の招待』
王家から送られてきた金の書状には、シンディーとガイの婚約式の日取りと、ハルミア、シリウスを招待する文字が流麗な文字で綴られていたのだった。
「これ完全に私の幸せ嫌いな男に見せつけて後悔させてやりたい! みたいな感じっすよね?」
オルディオンの玄関ホールで、届いた書状を指さしベスが吠える。
王家からの書状は、当日までその家の玄関に掲げられるよう浮遊する魔法がかけられている。当日ようやく書状はハルミアたちの手に戻り、それを持っていき王宮に入る仕組みとなっている。書状を無くすことを防止し、なおかつ書状が来る家であることを知らしめることが出来るが、罰を受けた場合は処罰内容を玄関ホールに飾りだされることとなり、処罰の効果も期待できるとおよそ三十年前からこの魔法がかけられることとなった。
そしてオルディオンの屋敷ではどうかといえば、まるで槍玉にあげるが如く書状について皆好き勝手口に出している。
「そうだなベスくん。相変わらず王家は汚いな。わはは! 一緒に革命でも起こしに行くか? シリウスくんもいることだしな」
「いいっすね。そうしたら俺、俺のこと能無し扱いした騎士団長を部下にして、あれこれ命令してやりたいっす!」
わはははは。とノイルとベスの笑い声が木霊するが、ハルミアは何一つ笑えなかった。シリウスとともに、王城へ行く。シリウスがシンディーに会いたいと思っているならば、会わせたいと思う。会いたくないのであれば、自分はすでに変人と呼ばれているし、自分を理由に行かないよう動きたい。しかし肝心のシリウスの気持ちがまったくと言っていいほどわからなかった。
シリウスとは昨晩、中央にかなりの距離を開けて一緒に寝た。軽く話しかけても答えはするものの心ここにあらずの状態で、とても婚約式に一緒に向かうか聞ける様子ではなかった。それに、神子の力のことだってある。
ハルミアは誰にも聞かれないようため息を吐く。こんなときヴィータに相談できればいいものの、昨日会いたくて焦がれ続けた夫と再会したばかり、二人の仲を邪魔することはとてもできず、早朝ひっそりと墓参りをして戻ってきた。
そして朝食をシリウスと取ったが、彼とはそれきり会っていない。刺繍をしているか書庫に籠っているのかもしれない。答えが出るまで待たなければならず、もどかしい気持ちでハルミアは書状を見つめる。しかし、皆が自由に過ごす玄関ホールに、ばたばたと足音が階上から響いた。
「ちょっと、だれか旦那様を止めてください」
アンリの声とともに、ばっと大階段に繋がる廊下からシリウスらしき人影が現れた。ただ頭はタオルをぐるぐるに巻き付けており、いまいち断定ができない。頭を押さえながら駆け回る彼に、ノイルが手をかざした。
「ほれ」
ノイルの指から光が発され、シリウスの足元にあたる。するとシリウスのつま先が石のように固まり、そのまま転倒した。
「あ、魔道具はあいつが近くにいると誤作動するんだったな、わはは!」
ノイルがけらけら笑う。階段を上がり切ったハルミアは、倒れるシリウスを見て愕然とした。
「シ、シリウス様?」
うつぶせに倒れるシリウスの真っ白で雪のような髪は、昨晩までさらさらと流れていたはずなのに、所々焦げ付き歪な曲線を描いていて、何かべったりとした緑色の油までついている。香水を混ぜ、ままごとを終え母に怒られる寸前の子供の匂いが広がっていた。
「シ、シリウス様に、何が……?」
「湯殿が不自然に開いていたので、確認に入ったところ逃走を図られました。この姿で外に出られたらまごうことなき醜聞。止めたのですが……」
アンリがシリウスを冷たく見下ろす。
あまりにも突飛すぎるシリウスの奇行に、ハルミアは驚く心を落ち着けながら倒れる彼のもとに駆け寄った。
「シ、シリウス様、どうして、こんなこと……」
「……何でもないです。ただ、侍女が騒いで……」
「逃げるっつうことはやましいことがあったってことか?」
ノイルの問いかけに、シリウスは彼を睨んだ。「あなたには分かりませんよ」と威嚇して、立ち上がり、その場から離れようとする。しかしベスの「かっこよくなりたいんすか?」との言葉にぴたりと足を止めた。
「……はあ?」
「だって、俺が十二くらい……丁度王都の騎士学校通ってた頃と同じことしてるっす! シリウス様髪いじって香水つけて男の色気演出しようとしてるっすよね?」
ベスに指摘され、シリウスの襟元からのぞく真っ白な細首がみるみるうちに赤く染まり始めた。追い打ちをかけるように、ノイルが首を傾げる。
「あれ、もしかして、神子で魔力はあることが分かったし、王女から言われた野暮ったい男っていうの、あれが気になりだした、とかか?」
「そ、そんなこと! あるわけ! ないじゃないですか!」
シリウスが怒声を発した。しかし周囲にとってそれは街で飼う愛玩用の犬程度の威嚇にしかならない。生ぬるい空気を感じ取ったシリウスは、唯一自分を馬鹿にしなかった存在――ただ唖然とするハルミアの手首をつかむと、そのまま強引に引っ張る。
「シ、シリウス様」
「黙ってください。もとはといえば貴女のせいなんですよこれは!」
シリウスはぐいぐいハルミアを引っ張っていく。そしてそのまま、怒りを込めた瞳で睨む。
「あ、あの、シリウス様」
「……ほら浄化の魔法を命じてください!」
オルディオンの屋敷の暗がりに連れ込まれたハルミアに、ずいっとシリウスが迫る。慌ててそう命じると、彼は詠唱を始め、べとべとしていた髪の毛は元通りに変わった。
「あの、シリウス様……何をされていたのですか?」
ハルミアが問いかけても、シリウスは答えようとしない。ばつの悪そうな顔をして、地面を睨むばかりだ。先程ベスの言っていたことは、ハルミアも聞いていた。しかし彼女は、今年もう二十五になる人間が、年頃の少年のするような、見目を気にした失敗をするとは思えなかった。シリウスは王都に住んでいて、オルディオンより、自分が想像するよりずっと煌びやかに生きていたはずで、見目を操る術には長けているに違いない。そう思い込んでいるハルミアは、シリウスの行動原理を掴めずにいた。
「もしかして、神子についての研究、ですか……?」
彼女の問いかけに、シリウスは驚きの顔をした後、すぐに小刻みに頷いた。
「ええ、そうですよ。その通りです」
シリウスは愛想笑いを浮かべた。実際のところ、ベスとノイルの言葉は完全にシリウスの心中を言い当てていた。彼の激しいコンプレックスである、魔力がない自分は神子であるという事実によって緩和された。いまだ心の整理はつかないものの、人生での唯一の汚点と感じていたものがなくなり、歪められた形で高くなった自尊心が次に標的にしたのは、自身の外見だった。
「実は、こう、神子の条件を満たすために、己の感情を極限まで高めると聞いて、今まで条件を満たせなかったのならば、今までしてこなかったことを試してみようと思いまして……」
いままで、シリウスは自分の見目をいじろうとしたことはない。顔立ちが整っていることは自覚しており、あれこれ手をかける人間を見下して過ごしていたからだ。髪型もその場に合わせ整える程度で、美しくあることに情熱をかけることはしなかった。
しかし、煌びやかに、派手に着飾るノイルや、「わりと地味で親しみやすいっすよね。庶民的というか、シリウス様って」と半笑いで自分に接してくるベスに、ひそかにシリウスの美意識は刺激され続けた。そして、婚約式のパーティー会場で、どうにかいいところを見せたいという気持ちになったのだ。
主に、ハルミアに対して。
「なるほど……」
そして、当事者であるハルミアはシリウスの苦し紛れの言い訳に納得している。
シリウスは、ハルミアにかっこつけたいと思っていた。彼は今までハルミアからの好意をひしひしと感じ、自分を優位であると考えていたが、最近はどうもハルミアが優位に感じ、自分を好きなくせに、自分の部屋にノイルを招こうとしたことを、彼は忘れていない。捧生の腕輪をすぐに手放そうとしたことも引き金となり、彼は少し見目を磨き、ハルミアに優位に立とうとしていた。
「この間のこともありますし、辺境の地に住む以上捧生の印は枷になってしまうと思うんです。いざとなった時、いつもお世話になっている皆様を……ハルミア様を守ることができない。出来れば神子の能力を得たいと思っているんです」
「……シリウス様……」
王都にいるときは魔術の研究やその訓練に明け暮れ、偏屈な人間として名を馳せていた彼は、着飾ることを最低限しか知らない。無礼にあたらないよう計算された装いしか知らず、自分を磨くことを知らなかった。よってなんとなく湯殿にあるものや、古書にのっていた古来の貴族の用法を試し、大惨事を引き起こしたのである。
「私に出来ることがあれば、なんでもおっしゃってください」
「では、ハルミア様。私の研究に協力してくださいますか?」
「はい。なんでも!」
自分がシリウスの役に立てると思っただけで、心が喜びでいっぱいになってしまうハルミアは目を輝かせた。シリウスは彼女に気付かれないようほくそ笑む。
「では、まず手始めにハルミア様とともにパーティーに着ていく服を決めましょうか」
「え?」
「髪を整えることも、してみたいですね」
「え……?」
ハルミアは目を瞬く。首を傾げる彼女を見て、シリウスが「勿論私の持参金でお支払いしますよ?」と満足げに笑う。
「えっと、違うのです。身なりを整えることが、神子の研究につながるのですか?」
「そうですよ。私はしばらくの間魔物対峙で着飾ることからしばらく離れていましたからね、そういったことから始めてみようと思いまして」
「あれ、でも今までしたことがないことから始めるのでは……?」
「……あ、あまり突然環境を変化させるのも、逆効果だと思うのですが」
シリウスがやり込めるように強めにいうと、ハルミアははっとして「なるほど!」と頷いた。ほっと胸を撫で下ろすシリウスは「まずは……」と顎に人差し指をあてる。
「やはり、まずは髪を少し切ってみましょうか」
「分かりました。えっと、それでは私が手配をして……」
「それには及びませんよ、ハルミア様」
アンリがすっとハルミアの背後から現れる。そして呆れ目をシリウスに向けた。
「王都からの招待は明らかにこちらを愚弄するもの、代々国を守るこのオルディオンへの明らかな挑発行為です。しばらく戦がないことで、敬意を忘れているのです。ですので仕立て屋の手配は昨晩に済ませました。さらに本日から、僭越ながら私からハルミア様、シリウス様のご予定を組ませていただきました」
「あ、アンリ? 怒って……」
「当然ですハルミア様。これは、王都がオルディオンに決闘を申し込んだのと同義、ハルミア様、そして旦那様は勝利しなければならないのです。他ならぬ、オルディオンの為に」
「えっと……、が、頑張ります。えっと、大丈夫ですよ、ね? シリウス様」
アンリの計画は、聞く限りではシリウスの意向と同じはずだ。恐る恐るハルミアはシリウスを見る。シリウスは眉を寄せながらも、背に腹は代えられないと頷いたのだった。
◇◇◇
王都から招待状が届き、七日が経った頃。とうとうこの国の末姫シンディーと、剣士ガイの婚約パーティーの日が訪れた。
ハルミアとシリウスは、アンリとベスを連れ、ノイルに屋敷を守ってもらう形で王都にやってきている。
移動には丸一日かかる為、前日に王都入りし、宿に泊まった。持参した服への身支度を手伝ってもらう為、ハルミアはアンリと、シリウスはベスとそれぞれ二手に分かれている。
「ハルミア様、とてもお綺麗です」
「そ、そうですか……」
鏡を前にアンリがうっとりと微笑む。アンリはまず初めに、ハルミアの髪を丁寧に手入れをすることから始めた。ハルミアは、あまり着飾ることに興味がない。
黒い服を身に纏っていることが良くないことを自分でも理解している彼女は、その一点以外は後ろ指を差されることがないよう、清潔さには気を使っている。
しかし、一定以上、自らをより美しくすることは避ける節すら見せ、リゼッタを失ってからはその傾向がより強くなった。
だからアンリは、シリウスの為だと方便を言い、初夜の時と同じく彼女の髪をいたわり、毎夜湯あみの時にはしっかりと蜜と柑橘、香草をこした特性の香油を塗り込んではすすぎ、肌はきちんとハルミアにあったものを滑らせ、徹底的にハルミアを美しく磨き上げた。
そして最終仕上げとして、自分でするというハルミアを説き伏せアンリが化粧を施していた。まつげはくるりと上を向き、瞼には光が散っている。唇は薄紅が引かれ、さらに艶めくよう香油を塗り込めたことで濡れた唇に仕上がっていた。
「きっと、リゼッタ様もお喜びになっているに違いありません」
アンリがハルミアの髪を撫でる。普段ハルミアは髪をまっすぐ垂らしているかだ。しかし今日は毛先をゆるく巻いて、耳の横からまとめ上げ、蝶を模した深紅の髪飾りをつけている。
ドレスはハルミアの意思通り黒一色ではあるが、繊細なレースが重なり、所々に深海色の宝石が瞬いている。人魚のシルエットと見間違いそうなそれは、裾が歩くたびにふわふわと揺れ、水中を縦横無尽に泳ぐ魚の尾ひれを意識したデザインだ。
「こういうのは、お姉様のほうが似合うのではないかしら……」
「そんなことありません。とても素敵ですよ。そろそろお時間ですから行きましょうね」
うっとりとした顔でアンリは微笑む。
ハルミアは落ち着かない気持ちで部屋を出て、下に停めていた馬車へと向かう。もう既にシリウスは待っており、ハルミアと同じ黒であるものの、やや柔らかな灰を帯びた色の上掛けを着て佇んでいた。普段ただ流しているだけの髪は、左右に分けながら前髪を上げている。束ねられた白銀の髪は落ち着いた色味の装いによく映え、深海色の宝石をあしらった装飾が夕日を受け輝いていた。
「きれい……」
ぽつりと零したハルミアの言葉に、シリウスが振り返る。シリウスも着飾ったハルミアを見て感嘆の息を漏らした後、はっとして手を差し伸べた。
「行きましょう。ハルミア様」
「はっはい」
恐る恐るハルミアが手を取る。シリウスは一瞬だけ顔を歪めたもののすぐに笑みを浮かべ、馬車の中へエスコートした。
「では、私たちはこれで」
「楽しんできてくださいっす!」
ベスが窓越しに手を振る。アンリはそんなベスをみっともないと窘めながらも、ハルミアたちに笑みを浮かべた。ハルミアが応えるように手を振るうちに、馬車はゆっくりと走り出していく。
「本当に、招待状が届いてから今日に至るまで、あっという間でしたね」
「そうですね……」
アンリの手入れによりハルミアの湯あみの時間が増える一方で、シリウスはアンリの組んだ予定に倣い、ベスとノイルから筋力をつける訓練を受けていた。筋肉は、そう短期間でつくものではない。知識として知っているシリウスは渋ったが、魔力により負荷を上げ行う騎士団式の訓練に晒され、よく言えば儚げ、悪く言えばただただ細く骨のようだったシリウスは、平均からはやや痩せ気味程度にまで筋力をつけることに成功した。
「あの、シリウス様。私、変じゃないですか……?」
「そんなことありませんよ?」
シリウスが上機嫌に首を横に振る。筋力をつけ髪も整えたシリウスだったが、本当に今が正しい状態なのかと半信半疑の気持ちもあった。なぜなら訓練をしている間も当然シリウスはハルミアと同じ部屋に寝ていて、彼の変化に気付きはすれど、顔をぱっとそむけるばかりで、前のように頬を赤らめたり取り乱すそぶりは見せなかったからだ。
しかし、先程自分の顔を見たときは、きれい。と言った。それだけでシリウスは、もう帰っていいくらいの気持ちだった。
「そうだ、シリウス様、これ……もしよければ」
ハルミアが懐からブローチを取り出した。金細工にタッセルがつけられ、シリウスの瞳の色と同じ濃い青色の宝石がはめ込まれている。華奢なチェーンには雫型の鉱石があしらわれていて、よく見るとひと針ひと針丁寧に縫った刺繍だった。
「これは……」
「何か、シリウス様に出来ないかと思いまして……。私に役立つことがあるならと言ったにもかかわらず、実際シリウス様のお役に立てたのはアンリですから。せめてと」
「ありがとう……ございます」
シリウスはハルミアからブローチを受け取り、自分の胸元に身に着けた。不思議と温かい感じがして、壊れないようそっとブローチをなぞる。
「いえ。それに、以前ハンカチをいただいたお礼です。今日も実は持ってて」
ハルミアがハンカチを出して、大切そうにきゅっと握り微笑む。シリウスはふいに自分の心臓が強く跳ねたことで、慌てて咳払いをした。
「シリウス様?」
「何でもないですよ。ほら、もう会場に着きそうです」
やがて、馬車はシリウスの思いに反し王宮の前に止まった。
「ハルミア様、シリウス様、お待たせ致しました」
御者が馬車の扉を開く。まずシリウスが降り、エスコートされたハルミアがゆっくり降り立つと、周囲で招待状を持ち王宮に入ろうとしていた貴族たちはほぉっと息を漏らし足を止めた。
「あれは、オルディオンの……」
「そうよ。確か死神令嬢と呼ばれている……」
周囲の声を聞いて、ハルミアは一歩後ずさった。普段言われることに慣れているが、シリウスも悪く言われるのではないかと身構えた。するとハルミアの手がそっと引かれた。
「あっ……」
「置いていかないでくださいハルミア様」
シリウスが優美な笑みを浮かべる。王都にいた頃は顔立ちは整っているものの、どちらかというと病弱で神経質そうな印象が先行し、近寄りがたさが勝っていた。しかし今のシリウスは眼差しこそ怜悧ながら色香を纏い、貧弱な印象は薄れ、御伽噺に出てくる氷の王子様と称されかねないほどに美しい。そして何より卑屈そうにも見えた顔立ちは堂々としている。
人々はハルミアとシリウス、どちらも印象が変わり美しく生まれ変わった二人を見て、ただただ言葉を失った。ハルミアはシリウスにエスコートされ、会場の中に入った。
◇◇◇
「こちらですよ」
王宮のダンスホールは、各地の公爵から子爵までを招待したことで、人でひしめきあっている。テーブルには各地の名産を新鮮なまま取り寄せた料理が並び、天井から吊るされたシャンデリアは全て水晶と宝石で作られ、国で最も知名度があり実力もある管弦楽団が会を盛り上げる演奏をしていた。
会場の一番高い位には玉座が並び、中央には王、隣には王妃、その下段には王子が並んでいる。皆配偶者や婚約者を隣に置き見下ろしているが、ハルミアとシリウスが会場に入ると皆が注目した。
「王が……」
「ええ。見ていますが、しかし今日のパーティーは諸外国の王族も来ています。彼らを押しのけて挨拶するわけにはいきません。礼程度におさめておきましょう」
「はいっ」
シリウスは堂々としている。酒を飲みたがらないハルミアの為に素早く果実水を手配して渡し、自分は葡萄酒を嗜み始めた。
「酒を飲むのは久しぶりです。といっても、口をつけてるだけですけどね」
普段、シリウスも食事の際酒を飲むことはしない。温めた極めて酒精の薄いものは眠れない日に飲むものの、きちんとした酒を飲んだのはオルディオンに来た当日だけだった。
「シリウス様はあまりお好きではないのですか?」
「はい。宴会の席が好きではないので、その延長ですね。なのでハルミア様が飲まないと知って、初日に飲む必要もなかったと思いました」
はは、とくだけたようにシリウスが笑う。やがて、管弦楽団が演奏していた曲を緩やかなクラシックからファーストワルツの曲に変えた。シリウスはハルミアから果実水を取り去ると、自分のグラスとともに給仕に預ける。
「ハルミア様、ダンスはお好きですか?」
「えっと、た、たくさん練習したので、できます」
ハルミアの返事にシリウスは微笑み、彼女の手を引いた。人々がホールの中央へ集まっていき、ゆっくりと踊り始める。ハルミアたちも周囲の流れに沿うように入り、そっとステップを踏み始めた。
「たくさん練習したというのは、今日の為に?」
「あっ、いえ、オルディオンに来た時に」
ハルミアの返事に、シリウスはやや落胆した。ハルミアは付け焼刃の技術ではないと伝え安心してほしかった為に、彼の反応に戸惑ってしまう。
「え、えっと、私は、何か失礼を……」
「いえ。まぁ別にいいんですけどね」
シリウスは、自分に芽生えた感情を、例え僅かであっても頑なに認めない。ハルミアがシリウスを好きであるならば自分も別に答えてやらんでもないという立ち位置は、絶対に崩したくなかった。
「でも、シリウス様……」
「ほら、回りますよ」
シリウスはハルミアにターンをさせる。ハルミアが、王都のパーティーで踊っていた記憶はない。壁の花となっているのが彼女であった。が、貴族令嬢ではあるのだから、ダンスは出来るはず。苦手ではあるだろう。だから自分がエスコートしてやらねばと思っていたシリウスだったが、すぐさま対応し、くるりと回ったハルミアに驚いた。
「シリウス様?」
「なんでもないです」
シリウスは急に、自分は何をやっているんだという気持ちになった。本当に最近、自分の気持ちがままならない。以前は突拍子もない行動は絶対に起こさなかったし、むしろそういった突然の何かを憎んですらいた。しかし、ここ最近は感情に流されないことのほうが稀で、大抵一定の状態を保っている時は、ハルミアの好意を感じ取っている時だけだ。
ワルツが終わり、人々が壁へとはけていく。シリウスは何となく悪戯心が沸いて、ハルミアの手の甲にキスを落とした。途端ハルミアの頬が赤く染まり、ぴたりと体が固まる。
「ほら、止まっていたら邪魔になってしまいますよ?」
囁くようにしてやると、ハルミアの肩がびくりと跳ねた。シリウスの心は満たされ、果実水を取りに行こうと彼女の手を自分の腕に回させる。ハルミアにほぉっと見惚れる周囲の人々の視線も心地よく、彼は上機嫌で歩みを進めた。
「シリウス?」
ざっと、シリウスのそばの人の波が割れた。不自然に開かれた間から出てきたのは、ガイを伴ったシンディーだ。彼女の登場にハルミアは身を固くする。シリウスは「ああ、シンディー王女。このたびは婚約おめでとうございます」と頭を下げ、ハルミアも「おめでとうございます」と礼を続けた。
「ありがとう。どうぞ頭を上げてちょうだい」
今日のシンディーの服は、淡い水色の婚約衣装だ。種類の違うレースをふんだんにあしらい、ティアラはシャンデリアの光を受け神々しく輝いている。隣にいるガイも騎士の礼装ではなく婚約式の衣装で、胸元には褒章が飾られていた。
「シリウス、あなたずいぶん変わったわねえ」
シンディーがシリウスのつま先から頭の先までまじまじと見回す。そして甘やかな笑みを浮かべると、「でも、婿としてオルディオンを統治することはできないのよね。もう今年にはその権利は手放されてしまうのだから」と笑った。
「ええ。なので妻とゆっくりすごしたいと思います」
「あらそう。わたくし、貴方に少しだけ申し訳ないと思っていたの。いくらわたくしを侮辱していたからといって、望まぬ結婚を強い、人生の終わりまで壊してしまうのは流石に子供じみた采配で、王女らしくないわ。だから王宮の仕事を紹介しようと思っていたのだけれど……必要はないみたいね?」
「私は、王都を追放されました。保身のため、自分の魔力を偽っておりました。ですから、一度この国の境を守る辺境にて国の為、王家の為に尽くし、ようやく一人前に手が届く身の上です。私のような無礼者にまで慈悲深きお心遣い、恐悦至極にございます。」
「ふぅん。もしかして、御子が?」
シンディーはつまらなそうにしてハルミアの腹部に目をやった。すぐにシリウスが「いえ。今の段階では」と切り返す。
「なんだ。子供を置いていくのが忍びないのだとばかり思ったわ。ふふ。共に魔物を討伐するために王都を出ていた時よりずいぶんとシリウスは変わったものねえ」
「それは、良い方向にですか?」
「ええ。とても良い方向よ。貴方を放り捨ててしまわないで、わたくしの元できちんと向き合い教育すれば良かったのにと、少し後悔してしまったわ」
「ありがたきお言葉でございます」
「いきましょうガイ。では、楽しんで」
シンディーはガイを伴い去っていく。ガイはシリウスを敵意の籠った瞳でにらみつけると、彼女の後を追っていった。
「……良かったのですか?」
ハルミアがシリウスに問いかける。シリウスは何も答えないまま、ただ黙って首を横に振り、笑う。結局ハルミアはシリウスに何も聞けないまま、パーティーは幕を閉じたのであった。
王都の街中を、宿に向かって馬車が走っていく。ハルミアはオルディオンとは異なる街灯や眩しいほどの光溢れる車窓に目を向けていた。隣にはシリウスがおり、ただ黙って前を見据えていた。
パーティーを終えて、普通の会話はしていても、シリウスの心はどこか心ここにあらずだ。かつて焦がれ、今もなお愛することをやめられないシンディーに会ったのだから、こうなってしまうことをハルミアは予想していた。しかし、王都での職を斡旋された時、シリウスがすぐに断ったことをハルミアは不思議に思っていた。
謀りを企てたかもしれないとはいえ、シリウスがその身を投げてしまうほど愛した相手に誘われたのだから、迷う瞬間があってもおかしくはない。にも拘らずシリウスは躊躇いすらみせず断った。そのことがハルミアにとって気がかりだった。
(シリウス様、もしかしてまた、何か――)
ハルミアの頭の中に、シリウスが飛び降りた瞬間の映像が繰り返される。あの瞬間、もし何か些細なかけ違いがあれば、シリウスは大怪我を、それどころか死んでいた。そして今夜もまたシリウスが死に向かうのではと、彼女の心は不安で占められていく。
「あの。少し寄り道しても?」
「え……」
ハルミアが返事をする前に、シリウスが御者に声をかける。行先は聞きなれぬ場所で、どこに馬車が向かっているのか見当がつかない。
「シリウス様、どこへ……?」
「私が、ハルミア様をお連れしたい場所です。……駄目ですか?」
やや上目遣い気味に、弱々しげに問われ、ハルミアはすぐに首を横に振る。シリウスはくすりと笑うと、馬車はゆっくりと加速して、宿に向かう道を大きく逸れて曲がったのだった。
◇◇◇
「ここは……」
シリウスがここだと言って馬車を降りた場所は、王都を少し出たところにある森であった。宿に残しているアンリとベスを心配したハルミアを察してか、「すぐ戻れるので大丈夫ですよ」と微笑む。
「ここは、私が王都にいた頃、魔法の研究をしていた場所です。街の中で生活に不要な術を扱うことは禁止されていますからね」
王都では、生活の補助や仕事の補助として扱う魔法以外……主に人を傷つけることや、必要のない加速の術を扱うことは禁じられている。
練習は訓練場や魔法学園の敷地内に限定され、そこ以外での魔法の行使は罰則もあるほどだ。しかし一歩でも王都を出れば規定はなく、学園や訓練場が休みの時、熱心な者は王都を出るのだ。
そしてここで、シリウスは学生時代から訓練を行っていた。人目を好まず神経質な彼は、周りに人のいる環境を好まない。よって、王都を出てさらに森に入り、その先を抜けた草原を秘密の場所として扱っていた。
「そうなんですね……」
ハルミアが辺りを見渡す。ちょうど小高い丘のようになっているこの場所は、王都の街並みを見下ろすことができる。すっかり周りは暗く、宙には星々が瞬いていて、日中青々としているであろう木々は黒く縁どられていた。
「なんだか、落ち着きます」
王都の中は店から放たれる無機質な白い光源にあふれていて、元は王都にいたといえど影が暗く落ちているオルディオンの暮らしに染まったハルミアにとっては、あまりいい環境ではない。火照った頬を優しくなでる涼風を感じていると、シリウスがハルミアの手を取った。
「では、命じてください。私に、綺麗な景色を見せて、と」
「えっ」
「捧生の印の研究です。黒竜が現れた時はかなり詳細に命じて頂けましたが、少しあやふやな表現にすれば一度に扱える魔法も増えるのではないかと思いまして」
「わ、わかりました。えっと、ハルミア・オルディオンが、シリウス・オルディオンに命じます。私に綺麗な景色を見せてください」
ハルミアが命じると、すぐに彼女の身に着けている捧生の腕輪が強い光を発し、宙へと打ちあがると、シリウスの胸の印へと降り注いでいく。
「では、お望みどおりにっ」
シリウスが指を鳴らし、詠唱を声高らかに発した。その瞬間二人の足元に魔法陣が浮かび、二人は空めがけて舞い上がる。
「えっえっこ、これはっ、シ、シリウス様?」
「やはり、限定的に命じさえしなければ、いくらでも応用が効くということですね」
自分の予想通りの結果に、シリウスは笑う。ハルミアは自分の体が浮き、足元からは王都の街並みが窺えることで驚き、彼の手をただぎゅっと掴むばかりだ。
「二人の身体に魔法をかけているので、私を離しても大丈夫ですよ」
「えっあっ申しわけご……」
「別に、掴んでいて貰ったほうが都合がいいですからね。でも、あまり驚くばかりの反応をされても可哀想になってしまいますから、少し趣向を変えてみましょうか」
シリウスがもう片方の手をふわりと払いながら、呪文を唱える。それと同時に、二人の周りに魚が泳ぎ始めた。極彩色の色をして群れを成していたり、花火のように弾けてくるくると円を描いて縦横無尽に泳ぐ小魚、二人に笑いかけ回遊を続けるカメなど、様々な海の生き物を観察できるオルディオンに住んでいても、見たことのない生き物たちでいっぱいだ。自分たちを巡る景色にハルミアは感動し、嬉しそうに笑う。
「素敵……」
「少し、歩いてみましょう?」
シリウスに導かれて、ハルミアはゆっくりと足を動かす。彼女がその足を下ろすたびに、光の波紋が浮かび上がり、鈴の音と共に光が瞬く。
「貴女は花もお好きでしたね」
そう言ってシリウスがまた詠唱を行うと、今度は真っ白な花々が二人に降り注いだ。花は二人にあたると、雪のように溶ける。いつの間にか空には小さな花火がいくつも打ちあがり、星々もずっと近くにあって、いくつもの星が流れていた。
「夢、みたいです」
「こういった研究はあまりしてこなかったのですが、案外簡単にできましたよ。といっても一週間程度で仕上げなければいけなかったので、大変ではあったのですが」
「もしかして、アンリの訓練を受けている間に……?」
「ええ。元々何かしたいとは思っていたのですが、あまり試行錯誤している姿を見せるのも滑稽でしょう? 丁度貴女の侍女の立てた計画は、貴女と別行動を取る機会が多いものでしたから」
ふっとシリウスは優しく微笑んだ。いつもと違う余裕は感じられず、ありのままの彼の笑顔に感じられてハルミアの胸がきゅっと切なくなる。
「でも、まさか貴女も私に隠し事をしているとは思いませんでしたけど」
シリウスが自分の胸元のタッセルに触れる。
「王都には、行きませんよ。いくら王女の願いといえど、私は私の楽しみを見つけましたから。他ならぬ、オルディオンで」
その言葉に、ハルミアは目を見開いた。彼女の心に、シンディーの誘いを聞いてからぐるぐると巣食っていた蟠りが、優しくほぐれていく。
「明らかに、暗い顔をしていたでしょう。そんなに私を手放すのがお嫌ですか?」
「そ、そんなつもりは。ただ、シリウス様があまりにもすぐ断っていらっしゃるのを見て、どういうお心なのだろうと、気になっていただけで……」
「ふふ。そうですか」
シリウスはこの上なく嬉しそうに指を鳴らす。ぽんぽんと降り注ぐ花々が光とともに弾けはじめ、大輪の花を作り出す。
「私をオルディオンに置いておけば、こういう景色が毎日見られますよ。良かったですね。私がオルディオンにいることを選んで」
「いや、わ、私はそんなつもりじゃ……」
「でも、素敵と言ったじゃないですか。こんなに目を輝かせて……」
シリウスはもっと、もっとと詠唱を繰り返す。ハルミアは自分を喜ばせようとする彼の気持ちがうれしくて、そっと彼の手を握った。
「シリウス様」
「なんです? 私の存在がいかに有益であるかを認める気に――」
「ありがとうございますシリウス様」
ハルミアが、じっとシリウスの目を見つめた。その瞳は極彩色の光を受けてか、潤んで見える。嬉しそうで、でも切なげで、シリウスは囚われたように少し止まった後、甘く微笑み返したのだった。
◇◇◇
「なーんか中途半端な天気っすねえ……」
パーティーから、三日が経った頃。オルディオンの天気はいつになくぐずついていた。日陰の土地、光刺さぬ土地オルディオンと呼ばれる所以は、晴れ渡っていても、背が高く黒々とした木々が多く、せっかくの日差しも木の葉たちに遮られてしまうことの他に、曇り空が多いからである。
しかし、オルディオンの雲はあまり雨を降らさない。春が終わり夏へ向かっていく時期に、雨季と呼ばれる雨が続く数週間があり、逆を言えば、曇りはすれど雨が降ることは王都より少なめであったりするのだ。
にもかかわらず最近……といってもここ七日は、曇り空であっても一瞬だけ雨が降ったり、かと思えば止んだりとはっきりしない不安定な天気が続いていた。
「そうですね……」
先程から仕事をすることもなく窓の外を眺めるベスの隣に、ハルミアがそっと立つ。彼女は、雨があまり好きではない。両親と姉が亡くなった日に雨が降っていて、雨で濡れた道路で馬車が横転したことにより、三人とも儚くなってしまったからだ。
「何をしてるんですか?」
並んで窓の外を眺める二人の間に、ずいっとシリウスが割って入った。押しのけられた形になったべスは「痛った! なんすか?」と驚愕の表情を浮かべる。
「なんですか、とは?」
「いや明らかに今俺のこと押しのけたっすよね? 絶対故意っすよね? もう何度目っすかこれ!」
「何のことやら」
シリウスは、「で、何をしていたんですか?」とハルミアに問いかける。明らかに強引にベスを避けたハルミアは戸惑いながらも無言の圧力により「天気が不安定だなと、窓の外を見ていて……」と説明した。
「まぁ、もうすぐ雨季の頃合いですからねえ……」
「いやちょっと雨季の頃合いとかじゃないっすよ。なんか最近二人近くないっすか? なんかあったんすか?」
じいっとベスが二人を見つめる。最近、シリウスは奇行が目立つようになった。それはハルミアと誰かが並んでいると、必ず寄ってきてその間に滑り込むというもの。相手が男の場合は無言で、アンリなど女性の場合は「ちょっと失礼しますね」の言葉がつくものの、全般的に褒められた行為ではない。主な被害者であるべスは、ある意味その身を以てしてシリウスの変化を感じ取っていた。
「旦那様本当節々の変化がものすごい餓鬼っぽくないっすか? この間はかっこつけて髪の毛ぐちゃぐちゃにしてみたり、今は何かまた訳分かんないこと始めたりちゃんと子供やってこなかったっすか?」
「ハルミア様、執事が煩いので口封じの命を」
「いやそれはちょっと……」
ハルミアが首を横に振る。そして彼らから視線を反らして、「あっ」と声を上げた。
「どうしました?」
「どうしたっすか?」
「そろそろ、ヴィータさんのところへ行ってきますね」
ハルミアはそそくさとその場を後にする。シリウスは口を開こうとして、ぐっと拳を握りしめ、口を噤む。
「いいんすか?」
「何がです」
「お墓参り、ついていかなくて」
ベスの言葉に、シリウスは答えない。シリウスがハルミアと共に墓へと訪れたのは、ヴィータにケープを贈ったあの日だけだ。以降、彼女に誘われることもなく、シリウスはただただ待つばかりだ。
シリウスはハルミアと接する中で、彼女がとても繊細で、そして流されやすい性格であると知った。にもかかわらず、彼女はどんな場所でも黒い服を身に纏う。
その覚悟を知っているのに、やすやすと墓参りに同行したいとは、シリウスはとても言えなかった。
だから、シリウスはハルミアから誘われるのを待っている。祈るように窓の外を見つめると、空は暗く、今にも雨が降り出しそうであった。
◇◇◇
レンガ造りの小道を、雨が叩く。ハルミアは鴉色の傘を差しながら、地面を踏みしめるように歩いていた。もう少しで、墓地が見えてくる。彼女が傘をそっと上へずらすと、道の先に傘をさす人影が見えた。周囲は雨がもたらす霧により、辺りは白んで見えるのに、赤い傘で顔を隠すように佇む人影は浮かび上がるように佇んでいて、見ていると漠然とした不安感が襲ってくる。
歩くたびに距離が近づき、やがてはっきりとした輪郭が見えたことでハルミアは驚きに足を止めた。
「シ、シンディー様」
「ごきげんよう。オルディオンの死神」
シンディーは安らかな笑みを浮かべているが、その瞳は全く笑っていない。捕食する視線をハルミアに向けている。
「お会いできて、光栄でございます。まさかオルディオンでお会いできるとは……」
「いいのよ。そういうのは。わたくしまどろっこしいのは嫌いなの。今日はねえ、貴女にしてもらいたいことがあってきたのよ」
そう言って、シンディーはハルミアとの間合いをぐっと詰め、ハルミアの捧生の腕輪に触れた。
「これねえ、印を入れた人間が外せるようにすべきでしょう? でも、着けている人間の許可なしに外すことは出来ないのよ。どうにかできないか聞いたら、第一声が普通は印をつけた人間が腕輪をつけるものだから、問題は起きてこなかったって言うの。それって、答えになってないわよねえ? 傲慢だと思わない? 貴女もそう思うでしょう? ハルミア。ねえ?」
「……は、はい」
有無を言わさぬシンディーの目に、ハルミアはただ頷くしかない。あまりの威圧に、首筋には冷や汗が流れていった。
「だから、私殺してしまったの。だって、それならどうにかします。研究します。申しわけございませんでした。なんて言うものだから。色々言い方ってものがあるでしょう? なのに、言い訳から始めたんだもの。美しくないわ」
それだけで、人を殺した。冗談だと思いたかったが、シンディーは平然と話していて、ハルミアは信じざるをえなかった。
「だから、貴女にわざわざ了承を貰いに来たのよ」
「ど、ど、どうして……、シ、シリウス様は、爵位をまた、もう一度……?」
「あはははは!」
ハルミアの言葉に、シンディーは笑い出す。涙すら浮かべ「ごめんなさい。あまりに荒唐無稽な絵空事を言い出すものだから!」とハルミアの肩を何度も叩いた。しかしその力はどんどん強くなり、やがて肩を握りつぶすように掴む。
「あのね。シリウスは私の元に戻そうと思ってるの。もうガイと婚約してしまったから、第二夫人……、いや夫ね。こういう時なんて言えばいいのかしら。良くないわね。片方にだけ言葉が与えられている状況は。私とシリウスの結婚を機に、何か新しい呼称を作って浸透させればいいのかしら」
ハルミアは、シンディーの言葉がまるで理解できなかった。呆然としながらも、真実を問う為手のひらをぎゅっと握りしめる。
「シンディー王女は、シリウス様に、暴力を振るわれていたのは、何か、誤解があってのこと、でしたよね……」
「わざわざ当たり障りない言葉を使わないで、正直に嘘って言ってくれていいわよ。わざと謀って彼を陥れたのに、どうして今更彼を戻そうとするのか、って。けれどそうね。シリウスは不敬罪として死刑にならないよう手配したけれど、貴女に対しては私は何もしないもの。いい判断だわ」
シンディーはくすりと笑う。その笑顔は、心底愉しそうなものだ。
「あの時は、ガイが欲しかったのよ。でもシリウスと婚約する手前、ガイの方が好きだから婚約破棄しますなんて正直に言えば、王家の品位が損なわれてしまうでしょう? 国民だって怒って、そのうち反感が高まって暴動なんて起きたら、平民は皆死んでしまうでしょう? だからああいう茶番を行ったの」
「そんな……」
「それに、ここだけの話、シリウスのいたルヴィグラ家って結構煩いのよ。王家が貴重な鉱石を取ろうとすると反対したりね……。だからルヴィグラ家を取り込もうと私の婚約が組まれた訳なんだけれど、考えてみればシリウスに婚約破棄されて醜聞になれば、あの家も弱体化、没落するでしょう?」
ハルミアは、薄々シンディーがシリウスを謀ったと疑っていた。しかしそれが確信に変わるとは思ってもみなかった。そして、思いたくなかった。
「そんな、シリウス様は、王女様を愛して……」
その身を、投げることまでしたのに。あんまりだ。これでは。ハルミアは涙を浮かべた。零してはいけない。辛いのは自分ではない。そう思っても、涙が零れてしまう。
「ははは。泣くほど彼が心配? 安心してハルミア。私は別にシリウスを虐待するために王都に戻そうとしているんじゃないの。愛する為に王都に戻すのよ?」
「え……」
「シリウス、とってもかっこよくなったでしょう? だから、私の夫になって、また魔法士として国の為、私の為に働いてもらうの。といっても、私と愛し合うのだから、あまり危ないことはしてほしくないし、働くのは……そうね十日に一回! 褒章もたくさんあげるわ。彼から奪ったものより、それ以上のものを与えてあげるの」
シンディーは嬉しそうに空を見上げ、手を伸ばした。
「地位も、名誉も約束する。ルヴィグラはシリウスを戻したことで王家に感謝するでしょうし、もう王家に手出しは出来ない。望まない結婚を強いられたシリウスは私の元に戻り、また国一番の魔法士の座に君臨するの! あれ、もしかして、魔力がないのにって心配してる?」
「い、いえ……」
「魔力の虚偽なんて、あんなの取って付けた理由だわ。魔力が少なくても高位の魔法が使えるよう彼、研究していたんでしょう? 今まで不便はなかったしね。その辺りの心配はしなくていいのよ」
馬鹿ねえ。囁きかけられた声の温度の低さに、ハルミアの足が地に縫い付けられたように動かなくなる。その間に、シンディーは目を輝かせ口を開いた。
「前は顔だけで野暮ったい雰囲気とか、弱そうな感じが好みじゃなかったんだけど、今のシリウスはとっても素敵。貴女のお古なのがちょっと難しいところでもあるけれど、でも貴女に出会ってシリウスは素敵になった。感謝してるわ!」
――だからほら、捧生を拒絶しますって、呪文を唱えて。無邪気とは言い難い無機質な声色で、まるで感情のない表情でシンディーがハルミアを見据える。今までの振る舞いはすべて演技なのか。手は震えながらも、シリウスの幸せの為に、ハルミアはじっとシンディーを見つめ返した。
「なあに、もしかして、シリウスを引き渡すのが嫌なの? 駄目よ。元はシリウスは公爵家。あなたは辺境の令嬢といえど、平民の出、しかも娼婦の娘でしょう? ひた隠しにしているようだけど」
シンディーの言葉に、ハルミアは目を見開いた。愕然とする彼女に、シンディーが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「王家に隠し事が出来ると思って? ねえ、シリウスは知っているの? 貴女が薄汚い生まれの娘だってこと……。リゼッタの気まぐれで拾われて、妹なんて言って飼われてる、本質は汚い野良犬同然ってこと」
自分を通してリゼッタを踏みにじられたことで、ハルミアの頭がとうとう熱くなった。しかし、目を閉じて、そっと怒りを殺し「違うのです」と首を横に振った。
「私は、証明が欲しいのです。私との婚姻を強いたことは、シンディー王女がシリウス様に、罰を与えたいと願ったことと存じます。あの場は、王の御前であり、この場は私と王女のみ。どうか、シンディー王女が私に命じた証明を頂けないでしょうか……」
「証拠? いいわよ。なんだ。何言うかと思ったら証拠ね。てっきり嫌だとか泣かれるのかと思ったけれど、貴女結構狡猾なのね」
シンディーが呪文を唱えると、二人の目の前に光が瞬き、金の誓約書が現れた。結界を張る魔法が施されたそれは、雨が降りかかることなく浮いている。
「私、王女シンディーは、ハルミア・オルディオンに、彼女の夫、シリウス・オルディオンをシンディーの元に戻すよう、王家の総意の命として命じたことを約束するわ」
シンディーの言葉に、金の誓約書が独りでに文字を付け加えていく。後は? と促され、ハルミアは意を決して口を開いた。
「私……ハルミア・オルディオンは、オルディオンの地の平和のもとに……」
「あら、民想いね」
「そして、夫シリウスが、何人にも辱められない。虐げられない。乏しめられない。強いられないことを条件に、シリウスを王女シンディーに引き渡すことに同意したと宣言します!」
二人を分かつように、雷鳴がすぐ近くで轟いた。捧生の腕輪がぱっと砕け、灰となって散っていく。その瞬間、シンディーがぱっと目を見開いて、笑い始める。
「ふふふ、嫌だわ。死神令嬢はそんなに慈悲深かったのかしら? 自分を拾った姉を、親を、殺してその財産を全て得たくせに。好きな男の為? おかしい。おっかしいわ!」
くすくすとシンディーは笑う。ハルミアの目は、ただ強い意志を持って彼女に向けられている。
「いいわ。予定を変更しましょう。本当はこのままシリウスを連れ帰るつもりだったけれど、貴女からシリウスに別れを告げなさい」
「え……」
「貴女から、きちーんと私の下にシリウスを返すことになったって伝えて」
そう言って、シンディーはぐい、と魔石ををハルミアに渡した。
「これねえ、私のもとに貴女の声が届くようになってるの。私、予想外の行動を他人にされたり言われるの、大嫌いなのよ。それに、自分がきちんと大切に思ってるのに、上からかぶせて大切にしろって言われるのも嫌い。だから、今あなたのしたこと、本当に大っ嫌い」
シンディーがハルミアの鼻先まで近づく。ハルミアは視線を逸らすことをしなかった。
「だから、これで許してあげる。好きな人と離れる苦しみ、たあんと味わって頂戴ね」
シンディーが囁き終えると、足元に魔法陣が浮かび、ぱっと彼女はその場から消えていった。ハルミアは傘を差したまま、降りしきる雨の中、進むことなくただただ立ち尽くしていた。
◇◇◇
オルディオンの屋敷を、雨が叩く。シリウスは足早に廊下を歩いていた。今日、ハルミアが墓場へ行って帰ってくると、彼女はしばらく用があるからと書斎にこもっていた。夕食も体調が悪いと言って出てこようとしない。しかし湯あみを終えると、話があるから時間が欲しいとアンリを通じて伝えられたのだ。
これは何かあるかもしれない。
シリウスは原因を考えた結果、もしかしたらハルミアに告白されるのではと考えていた。今までハルミアから、好きだと言われたことはないが、その瞳にのせられる好意と敬意は声を出さずとも雄弁に語られていて、始めこそうっとうしくも思ったが今は心地よく、むしろ好意を感じられない瞬間に不安を感じるほどだ。
今のシリウスに、コンプレックスはない。力の開放は出来ていないとはいえ神子であり、魔力が無いのではなく周囲にくれてやっている状態。野暮ったいと言われ負け惜しみをと思っていた容姿も磨かれた。散々かっこ悪いところを見せ迷惑をかけ続けていたハルミアに、連日徹夜で研究した幻影魔法も披露できたし、婚約式で見事にエスコートをしてみせたのだ。これできっと、ハルミアは完全に自分の虜となったはずだ。
もう婚姻し捧生の腕輪で決定権を全て持っているのに告白なんて大業なことをしようとしているから、今日のハルミアはいつになく暗いのだ。
自分はまぁ少しはハルミアのことを悪くはないと思っているし、告白しても王命による婚姻なのだから返事なんて意味をなさないが、まぁ好きだというのなら少しくらい応えてやっても悪くはない。シリウスは内心勝利を確信して、寝室に入った。
「シリウス様……」
墓場に行って以降姿を見せなかったハルミアの瞳は、想像以上に暗いもので、シリウスは胸が痛むのと共に不安になった。ベッドに腰掛ける彼女の隣に恐る恐る座ると、沈黙が訪れる。
ハルミアは手を開き、そして握ることを繰り返しては、目を伏せる。焦れたシリウスが「何かあるのでは?」と促した。
「……実は、これを見ていただきたくて」
ハルミアが、意を決して懐からイヤリングを取り出した。彼女はシリウスとの出会いを思い出し、静かに目を閉じる。シリウスは見覚えのあるイヤリングに目を見開いた。
「これは……!」
「今から、八年前、シリウス様から頂いたものです……」
ハルミアは、イヤリングを見つめる。美しい海原の色をした宝石は、照明の光を受けて揺らめく。その輝きは、八年前と全く変わることがない。
「でも、それは、私が平民の少女に渡したもので……」
「平民なのです。元は、私は」
ハルミアの言葉に、シリウスは目を見開いた。驚く彼の姿にハルミアの胸は締め付けられ、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「私は、娼婦の娘です。娼婦街で生まれ、五歳の頃父親を名乗る貴族の元に引き取られたのですが、その家は私に魔力が無いことを知り、母の元へ戻しました」
ハルミアは、影が集い、人が人を買う環境の中で育った。幼い間は商品価値がないとおざなりな扱いを受け続け、やがてこの世に出て九年が経った頃、そろそろ客が取れると店に出されそうになり、逃げ出すように娼婦街を出た。
「しかし、そこでの生活が嫌になり、私は母の元を去りました。しかし、幼く無学な娘が働くすべなどありはしない。盗みをすることで、かろうじて食いつないでおりました。そして商人から宝石をくすねた時に、シリウス様と出会ったのです」
ハルミアは、シリウスの顔を見ないよう、ただイヤリングを見つめて話を続ける。
「私は、誰かに助けてもらいたいと思っていた。苦しかった。拾った御伽噺を読んでは、自分の世界に助けてくれる光が無いことを呪いました。そんな時、貴方に出会ったのです。シリウス様」
「ハルミア……」
「それから、私はなんとか盗みをせず、真っ当に生きられないか道を探しました。しかし、中々難しく、恥ずかしながら結局行き倒れになってしまい……そんな時です。リゼッタ様に出会ったのは」
それはハルミアがシリウスと出会って半年経った頃だった。人々が行き交う大通りを逸れた裏路地で、盗みを止め何も食べることができず餓死寸前であった彼女の前に、リゼッタが通りかかった。リゼッタはハルミアを見つけると微笑んで、抱きしめ、「この子を御屋敷に迎え入れるわ」と宣言した。ハルミアは自分は死に逝き、これは夢で、リゼッタは天の使いだと考えたが、次に意識がはっきりすると彼女がいたのは天国ではなくオルディオンの屋敷で、羽はなく、しっかりと地に足の着いたリゼッタ、そしてオルディオン伯爵と夫人とまみえたのである。
「私は、平民の娘なのです。シリウス様の隣に、並び立ってはいけない存在なのです」
「そんなことはないっ私は――」
「だから、捧生の腕輪を、王女様にお願いして、外していただきました」
ハルミアがそっと自身の左腕をシリウスに見せた。そこにはあったはずの腕輪が無い。
「どうして……?」
「王女様が、シリウス様を旦那様として迎え入れたいとおっしゃっております。シリウス様の名誉と地位を取り戻し、きちんと愛を捧げたいと約束してくださいました。なので、私はシリウス様との婚姻、及び捧生の契約を、シンディー様の手によって破棄させて頂いたのです」
ハルミアは、微笑んだ。これがシリウスの門出であることを信じて。涙を流さぬよう、ぐっと堪える。シリウスは、身を投げるほどシンディーに焦がれたのだ。恋心はままならないもので、ガイという気がかりな存在もいるけれど、このままオルディオンにシリウスがいても、彼が王家に無礼をなし、シンディーを傷つけたという汚名が晴れることはない。ルグヴィラ家からの絶縁状も、きっと取りやめになるはずだ。
これで、幸せになれる。そう思っても、本当に、それがシリウスの幸せなのか。シンディーを信じていいのか。そして、あれだけ酷い言葉を浴びせていたルグヴィラ家と復縁することがシリウスの幸福になるのかとの疑念で、胸が軋む。
(でも、私がそう思って、シリウス様を手放したくないと、私のものでもないのに、彼を傲慢に、独占しようとそう感じるだけかもしれない)
「ですから、シリウス様はこれで――」
「僕を、捨てるんですか」
ハルミアの視界に、シリウスの顔が映る。目の奥はぞっとするほど暗く、その表情は、泣いているようにも、笑っているようにも、怒っているようにも見えるのに、声色は静かで淡々としていた。
「捨てるなんて、そんなことありません」
「だって、そうでしょう。今更、王女のところに行けだなんて。ははは。笑えない。ハルミア様は、僕のこと、好きではないのですか?」
シリウスの言葉に、ハルミアは目を反らした。彼に心の内を見透かされてはならない。ぐっと手のひらを握りしめると空気が凍てついたものに変わった。
「貴女の好きは、その程度だったんですか……?」
「……」
「その程度たったのかって、聞いてるんですよ!」
シリウスが拳を握り締め、ベッドサイドにあったテーブルに叩きつけた。テーブルは倒れ、上に置いてあった花瓶が部屋に砕け散る。
「何が、気に入らなかったんですか……。刺繍? 焼き菓子の手伝い? それとも、魔法? 剣術が得意ではないから? 容姿を磨くことを怠っていたから? あの義兄のように気さくさが無いから? すぐ感情的になってしまうから? でもこれは貴女のせいですからねぇ……ねぇ、僕の何が気に入らないんですか?」
ハルミアは、言葉を紡ぐことができない。否定してしまえば、王女との約束に反してしまう。するとシリウスが「あぁ……」と胡乱げな声で頷いた。
「最初から、ですよね。確かに僕は、貴女に酷い言葉を浴びせていましたもんね……。死神令嬢なんか、好きに、なるわけないって、そう言って……貴女の作った食事に手を付けず、会うたびに来るなと言って怒鳴りつけましたもんねぇ……」
シリウスの声は、震えている。瑠璃色の瞳からは一筋の涙が滴った。
「ねぇ、でも、僕のこと、好きでしょう……? 僕のこと、好きだったでしょう……? ずっと、ずっと見ていたじゃないですか、僕のことを、貴女は……!」
「……見て、いません」
「見てたんですよ! ……見てたじゃないですか。ねぇ、嘘つくの止めてくださいよ。ねえ、もしかしてこれも嘘ですか? ねぇ、そうですよね? 貴女が僕を捨てるなんてありませんよね? だって貴女、僕のこと、大好きですよね? 王女になんて、引き渡したくありませんよね……?」
「……そんなこと、ありません」
ハルミアの言葉に、シリウスの目から光が消えた。顔つきが明らかに変わり、ハルミアは息をのむ。
「なら、貴女は好きでもない男の子供を、これから抱くことになるんだ」
シリウスの瞳に、どろりとした蜜が揺らめく。ハルミアが咄嗟に後ずさりする前に、シリウスがハルミアの手首を掴んだ。しかしその瞬間、ばちっとハルミアだけが後ろに吹っ飛ぶように弾かれる。彼女は壁に頭を強く打ち付け、額から血を流した。
「ハルミア様っ!」
シリウスがはっとしてハルミアに駆け寄ろうとするが、目の前に突如シンディーが現れ足を止めた。
「かわいそう。そんなに強く頭をぶつけて」
吹き飛ばされ頭を強く打ったハルミアに、シンディーが手をかざす。聖女の力により血は一瞬で消え、傷口もふさがっていった。
「シンディー王女。どうしてここに……」
「あら、シリウス。貴方会わない間にそんなに物分かりが悪くなったのかしら? さっきハルミアはお前に言ったでしょう? 婚姻も捧生の契約もなしにして、お前が私の元に戻ってくるって」
「僕はそんなことを望んだ覚えはありません」
「あら、私の元に戻れることが嬉しくて、照れているのかしら。可愛いわねぇ。でも、思い出と慰めなら許すけれど、お前は王家の子の父親になるのだから、平民娘の子供の父になるのは許されないわ。わたくし、なるべく殺生はしたくないですもの」
シンディーはそう言って、ハルミアのお腹を見た。
「安心して、さっきの攻撃魔法は貴女をシリウスに襲わせないための風魔法。そして風魔法で受けた怪我を治す癒しの力よ。わたくし、民が増えるのは歓迎しているから、貴女が母になる権利を奪ったりはしないわ。だからシリウスではなく、まぁ同じ平民のいい男を見つけなさい。貴女が傷つけた分、きちんとシリウスのことを癒してあげるから、安心して幸せになってね」
シンディーは満面の笑みを浮かべると、詠唱を唱えた。今度はシリウスの足元にも魔法陣浮かぶ。シリウスはハルミアに必死に呼びかけるが、ハルミアは答えない。ただ、幸せになってくださいとだけ声をかけて背を向ける。
「ハルミア!」
シリウスの絶叫が部屋に響く。やがて、空間が歪む音がして、部屋にはハルミアただ一人が残ったのだった。
◇◇◇
「では、行ってきます」
オルディオンの玄関ホールに、ハルミアが立つ。使用人たちは皆彼女を見送り、頭を下げた。しかし、ベスとアンリだけは不安げにハルミアを見つめている。
「どうしたの?」
「いえ……、お墓参りのあと、すぐに戻られますか?」
「ええ。そのつもりです」
「本当っすか?」
ベスの疑いの眼差しに、ハルミアは苦笑した。大丈夫と頷いて、彼女は屋敷を後にする。
シンディーとの約束の下、シリウスを見送り二週間が経過した。今は雨期の真っただ中で、朝から大雨がオルディオン中に降り注ぐ。辺りは草露と土の混ざった匂いが立ち上り霧が漂い、遠くからは雷鳴が響いていた。
墨色の傘を差したハルミアは、滑らないよう足元に注意を向けながら歩みを進める。しかし、水溜りに映った自分の顔を見て、そっと足を止めた。
シリウスがいなくなったことについて、使用人はハルミアに問いただすことをしなかった。彼がいなくなった翌朝すぐ、王家からシリウスの引き渡しに対する礼状が届いたのだ。それを見て、使用人たちは皆、なんとなく何があったかを察した。始めこそシリウスがハルミアを捨てたのだと責める者もいたが、ハルミアが黙って首を横に振り、皆大方、言葉に出さずともすべてを察した。
雨季だからと昨日往診に訪れたハルバートも同じで、シリウスが王命により戻ったことを伝えただけで「そうですか」と、それ以上何も聞くことはしなかった。
このまま、シリウスのいなかった頃に戻っていく。ゆっくりとでいいから戻していけばいい。シリウスも、愛している人と暮らすほうが幸せに決まっているし、もしかしたら、シリウスが一番になるかもしれない。あれだけの執着をシンディー王女は彼に見せていたのだから。
ハルミアは目を閉じて、また墓場へ向かって歩く。降りしきる大雨の音がやけにうるさく感じて、雨の雫が触れた肌は、やけに冷たく感じた。
◇◇◇
「おばさま」
シャベルを引きずりながら歩く墓守の老婆、ヴィータに後ろから声をかけると、ハルミアに呼ばれた彼女は気怠げに顔を上げた。
「ああ、あんたかい。明日は命日だってのに、こんな雨の日に外出て熱でも出したらどうするんだよ。またハルバートに嫌味を言われるよ」
うんざりとした顔でヴィータはハルミアに目をやる。
「なんだい。雨を利用して死のうったってそうはいかないよ。馬鹿竜がいるといえどあいつは墓穴堀りの腕が鈍っちまってる。しばらく使いもんならないんだから、墓増やされちゃ困るんだよ」
「そんなことしませんよ」
「ふん。今にも消え入りそうだったじゃないか。素直に行かないでと言えばいいものを。馬鹿な国のお姫さんの言うこと聞いて、リゼッタがいたら引っぱたかれてるところだね」
「御姉様はそんなことしません」
リゼッタは、暴力を嫌っていた。魔物以外に対して攻撃魔法を使用するのは野蛮だ、言葉で表現できない愚か者だと心底馬鹿にしていた。ハルミアが首を横に振ると、ヴィータは「いや、絶対するね」と返す。
「リゼッタがお前に散々言ってただろう。欲しいものは欲しいと言え。大切にしろって。」
「……」
「それを自分が死んで四年後には好きな男を譲るなんて、私なら墓掘り返して戻ってきてるところだよ」
もし、リゼッタがいたならば。この選択を変えることがあったのだろうか。ハルミアが目を閉じて考えても、何も浮かばない。それどころかシリウスの別れ際の顔が浮かんで、頭にこびりついて離れない。
「本当にいいのかい? あの馬鹿竜に頼めば、王都まで飛ばしてくれるはずだよ」
ヴィータの言葉に、ハルミアが目を見開く。しかしすぐに首を横に振った。
「いいのです。元々シリウス様は公爵家。私は拾われた身です。住む世界が異なっておりました……。それに、彼は神子ですが、私は満足に魔法が使えない。どんな、どんなに、危険な状況でも、魔法が使えない。彼の身に危険が迫ったとき、私は助けることができないのです」
ハルミアは、落としていた視線をヴィータに向け、気遣いに対する礼を伝える。そして墓場の奥へと足を踏み入れていったのだった。
◇◇◇
「ただいま戻りました」
墓場からオルディオンの屋敷に戻ってきたハルミアは、玄関ホールで傘の水気を払った。べスはちょうど不在なのか、ホールには使用人、そしてそれらを束ねるアンリがいて、ノイルはただ暇を持て余した様子で壁に背を向けていた。
「おかえり我が妹よ。リゼッタの墓はどうだったか? 何か変わっていたか?」
ノイルも、ハルミアとは時間を変え墓参りをしている。よってどんな状況であるかをよく知っているはずだ。
しかしハルミアは「特に何もありませんわ」と丁寧に答える。そのまま部屋へと向かおうとする彼女を、アンリが呼び止めた。
「後でお茶をお持ちいたしますか?」
「はい。お願いしたいです」
ハルミアが頷く。アンリは優しく微笑んで、調理場へ向かったのだった。
◇
「失礼いたします。アンリです」
ハルミアがリゼッタの部屋で休んでいると、ほどなくしてアンリが現れた。自分の分のティーカップも運び、あらかじめハルミアが用意していた椅子に座った。
「では」
アンリが侍女用のヘッドドレスを取り去る。ハルミア、アンリ、リゼッタの三人でお茶をすることが、ずっと彼女たちの習慣だった。
日取りこそ決めていないものの、なんとなく三人のうち誰かが酷く疲れた時に開かれるお茶会は、主従の垣根を超え、ただ年頃の女三人が集い話す、自由で気ままなものであった。
だが、三人の秘密の茶会リゼッタの死により、永遠に開催されなくなり、今では雨季の時期、弔いとしてハルミア、アンリだけの茶会が開かれている。
「ハルミア様、シリウス様のことはもうよいのですか」
「ええ」
ぼんやりとしているハルミアに、アンリが紅茶を淹れる。ハルミアは、その茶を隣の空席に移した。そして二番目に出されたお茶を、今度は自分のところに置く。
大抵お茶会がしたいと言い出すのはリゼッタだから一番に、ハルミアはぬるめの紅茶が好きだから二番に、そして紅茶を淹れるのはアンリだから、アンリは特別熱いお茶を、そうして決まった順番は、リゼッタが亡くなっても変わらない。ただ変わったことは、一番手の紅茶はただただ温度を失うばかりで、一向に減らないことだけだ。
「今日、ヴィータおばさまに言われました。御姉様が生きていたら、私をひっぱたいているって」
「リゼッタ様はハルミア様の幸せを願っておりましたから、きっとそうするでしょうね」
「でも、思ったの。お姉様が生きていたら、シリウス様はもっと心安らかで、王女様と婚約するよりずっと幸せな結婚ができるんじゃないかって……」
「それはどうでしょうね」
ハルミアは、シリウスと接するとき、姉ならどうするかと考えたことがあった。だがリゼッタは奔放で、とにかく想像の出来ないことをしてみせ、人の前を歩いていた。だから彼女がどうするか何を言うかは実際のところ全く分からず、ハルミアは手探りで、自分なりにシリウスに接していた。
しかし、姉リゼッタのように出来れば、シリウスを元気づけることが出来るはずなのにと、頭の中は後悔でいっぱいだった。しかし、ハルミアの確信を崩すようにアンリが首を横に振る。
「私は、リゼッタ様の幼少の頃を知っています。彼女は分け隔てなく言葉を話す素直なお方ですが、もし二人が会いまみえたとしても、リゼッタ様ははっきりと元旦那様の短所を指摘します。一方で売り言葉に買い言葉と、元旦那様は逆上するでしょう、刃傷沙汰になっていたかもしれませんね」
しれっとした顔つきでアンリは言う。そしてくすっと笑った後、窓を眺めた。
「案外、旦那様は王女を殺して戻ってくるかもしれませんよ。そうしたら、どうします?」
「そんなことありませんよ」
「もしも、ですよ。人を殺してまで自分を選んだ人間を、ハルミア様は愛してくださいますか?」
アンリの真剣なまなざしに、ハルミアは考え込む。紅茶の波紋を見つめ、やがてアンリと目を合わせた。
「応えなくてはいけないと、思います。私がその方の人生を壊してしまった、その方を殺してしまったことと同じですから」
「では……」
「でも、もう私は誰かを殺したくない」
ハルミアは、視線を落とす。かつて、大切にしたい、恩返しがしたい、ずっと一緒にいられたら嬉しい。捨てられても構わない。奪われることが常で、得ることを諦めていたハルミアがそれほどまでに想った相手は、事故で死んだ。あの時魔法が使えていたら、三人は死なずにすんでいた。医者が来るまでの延命だって出来ていたかもしれない。癒しの力が使えずとも、何か方法があった。
その降り注ぐ雨のような追想は、四年経った今もなお、やむ気配がない。
「そうですか。残念ですね」
アンリが、ティーカップを横切って、ハルミアの手に触れる。
「とても、残念です」
アンリの声が、ハルミアには遠いもののように感じられた。不思議に思って顔を上げると、彼女の顔が霞んで見える。
「アンリ……」
「ありがとうございました。ハルミア様」
アンリ、呼びかけようとしても、ハルミアの口はただ空気を含んで動くばかりで、声にならない。やがてふっとハルミアは意識を手放すと、糸が切れた操り人形のようにテーブルに伏したのだった。
◇◇◇
大国ディミドリーフの王宮は、国旗にも使用されている大きな孔雀を模した塑像やステンドグラスがあちこちに使われている。光が差し込むことで床を極彩色に染め上げるその芸術は、国家遺産として職人の保護もされるほどだ。
一方、壁を彩るのは、羽一本一本手を抜くことなく仕上げられたガラス工芸で、魔法で火力を調節し生み出されるその繊細な技法は、優れた火力調整を行い、また緻密な彫刻を魔法で行える技術者を本来必要とされる軍事だけでなく、芸術分野にも惜しみなく動員できることから国力を国内外に知らしめるに最適で、ディミドリーフの王宮、そしてその部屋の各所には、必ずそれが置かれていた。
「私をここから出さなければ、貴女を殺します」
しかし、ディミドリーフの王宮の部屋の中でも一際繊細で美しいといわれる硝子孔雀は、床に打ち付けられバラバラに散らばっていた。そして、孔雀を残酷な姿に変えてしまったシリウスは、美しい片翼を拾い上げ、徐に目の前に立つ王女シンディーに破片を向ける。その大きさは剣にも似ていて、刺されば最後、助かる見込みはない。
一方シンディーは、凶器を向けられているにもかかわらず余裕の笑みを崩さない。「馬鹿ねえ」と一瞬にして硝子を砂に変えてしまう。
「王宮の中は、王家に忠誠を誓った者以外その魔力を行使することが制限される。だからこんなことしたのでしょうけど、そもそも私が不要と判断したものは塵と化すように出来てるの」
「……くっ」
「でもまぁ、魔法が扱えないと思ったら、すぐ別の手段を試そうとするところは好きよ」
ハルミアの元から離れたシリウスは、王宮の一室に閉じ込められていた。シンディーの予定であれば彼女の部屋で飼われるはずだったのだが、シリウスが到着早々シンディーを殺しにかかった為に、別室で折檻の処理を施したのだ。
「私と貴方は実力に大きな差がある。いくら少ない魔力で高位の魔法が扱えたとしても王宮では生活用の下位魔法しか使えないし、私は聖女よ。例え刺されたって自分を癒して終わりだわ」
以降シンディーは護衛を伴うことなく、シリウスのもとを訪れる。護衛を伴う必要すらないと部屋の外に待機させており、あれこれと手段を使って殺しにかかる犬以下の存在を観察していた。
「でも、誓約が本当に邪魔ねえ。お仕置きがしたいのに、出来ないだなんて……」
はぁ、とシンディーは溜息を吐く。本当は風魔法で肌の辺りを薄く切ってやりたいのに、ハルミアに対して行った誓約によりシリウスに攻撃魔法を向けることも、護衛を使って痛めつけることも、何もかもが封じられていた。
恩人を亡くし明日を見られない無気力な娘。元々平民上がりで生きる気力しかなく、学びもなかったのだから、脅威になることはないと自由にさせた結果、その誓約のせいでシンディーは悉く自由を奪われていた。
「誓約……?」
「そうよ。あなたを引き渡す時に、ハルミアが貴方を傷つけないならとの条件のもと引き渡しを宣言してしまったから、私はわざわざガイが貴方に毒を盛ろうとするのを防いだりしているのよ。貴方が毒で苦しんでも、癒しの力があるっていうのに、馬鹿らしい」
剣士ガイは、シリウスを迎え入れることに言葉に出さないまでも反対の意を示していた。挙句シリウスが戻ってくると、毒を盛ったり刺客を送るなど、暗殺を企てている。
「ガイも困ったものねえ……」
シンディーは、ガイが自分を求め愚かな行動を、自分の想像通りの行動を起こすことに愉悦を抱いている。なんて愚かだと笑い、愉しむために王や王妃に知られないよう、王家に知られぬよう動いてはいた。しかし、誓約の為に手伝いだけはできなかった。
「私、貴方の苦しんでいる顔、結構好きなのだけれど」
「私は貴女の死に顔が見たいですよ。早急に。そして早く、ハルミア様の笑顔が見たいです」
「捨てられたのに?」
シンディーが聞き返すと、シリウスはより一層彼女を睨む瞳を強くした。
「本当に貴方のことが好きだったら、ハルミアは私に泣いて縋り付いていたんじゃないかしら。貴方が彼女に縋り付いていた時みたいに」
くす、くすと少女のようにシンディーが笑い、散歩をするように部屋の中を歩く。
「結局ハルミアは貴方を、誰かを殺したいほど思ってはいないのだわ。一方通行ね、可哀想。可哀想だわ! とっても」
シリウスが硝子の破片を掴んだ。しかしそれは塵と化す。
「ハルミアはきっと、誰も本気で愛さない! そしていつか義務のように他の男の子を産んで、育てるのよ。でも安心して頂戴。私が貴方を愛してあげる。ハルミアが貴方のことを忘れてしまっても!」
シリウスは、ハルミアの顔を思い浮かべた。刺繍のハンカチを嬉しそうに受け取った顔。不安げに自分を見つめる顔。自分に別れを告げる顔。様々な顔を、瞳を閉じて頭の中で思い描く。
(ハルミアは、僕のことが好きなはずだ。僕を愛していた)
しかし、シンディー王女が邪魔をした。王女の手前ハルミアは断れず、別れを告げた。領民を殺すと脅されたかもしれない。だから自分を捨てたわけではないとシリウスは心を落ち着けようとして、あることに気が付いた。
(僕は、王女を殺してでもハルミア様に会いたいと思った。でも、彼女は違うじゃないか)
シリウスは、今なお懸命に王女を殺そうと動いている。しかしハルミアは墓場へ行き、そして帰ってきて自分に別れを告げた。僅かな間に別れる決断ができたということは、ハルミアにとってそれまでの存在だったんじゃないか。自分は、こんなにも愛しているのに。彼女に生かされて、今、ここにいるというのに。
ハルミアの顔を思い描くたび、心臓が強く脈打って、シリウスの身体の中に熱いものが体中を駆け巡る。
やがて塵となったガラス片は、歪に集まり、シリウスの手のひらの中で鋭い剣へと姿を変えた。
「なるほど、怒りや悲しみ、幸せか何かかと思いましたが、僕の条件はこれだったんですね……」
突然シリウスが魔力を行使し、それどころか膨大な力を発したことでシンディーは目を見開く。一方のシリウスは不敵に笑った。
「なるほど、どうりで今まで、条件を満たせなかったわけです」
ゆらり、揺らめくようにシリウスがシンディーに一歩近づく。光の一切入っていない瞳にシンディーが怯え後ずさりをしたとき――王宮全体が大きく揺れた。
立っていたシンディーが倒れかけ、壁に手をついた。その瞬間、シリウスとシンディーの間に黒い靄が現れる。
「なっなによこれ!」
シンディーの叫びが部屋に木霊する。禍々しく、光すら通さないそこからやがて真っ白なローブを着た人物が現れた。フードを深く被っていてシンディーからはその姿が見えないが、地に膝をついていたことで下からその顔を覗い知ったシリウスは、唖然とする。
「お初にお目にかかります、シンディー王女。突然の訪問、多大なるご無礼のことと承知しております」
ローブの人物は、徐にその顔を露わにした。そして、シンディーに手をかざす。詠唱なく発された魔法はシンディーの腕と足を壁に磔にした。
「なっどうして……、貴方、いったい……」
「貴女たち王家が疎み、虫けらのように殺した者を、神としていた者ですよ」
ローブの者――アンリがシンディーに告げた後、ゆっくりとシリウスへ振りかえる。
「終わりにしましょう。全て、ハルミア様と共に」
そうして、侍女であったはずのアンリは、闇を纏って笑ったのだった。
◇◇◇
「……あ」
強い光に瞼を焼かれ、朧げにハルミアが目を開く。周囲を見渡せば真っ青な空が広がっていて、地に触れている部分は固く冷やりとしている。どうやら自分はどこかの屋上にいて横たわっていたのだと彼女が認識してすぐ、先程まで自分の近くにいた名を呼んだ。
「アンリ?」
「はい。ハルミア様」
いつも通りの返事にハルミアは安堵しながら身体を起こす。彼女も無事だと声のほうへ振り返った瞬間、あまりの光景に絶句した。
白いローブを纏ったアンリが、微笑んでいる。しかしその隣には王女シンディーが、それだけではなく、王も、王妃も、王子も、剣士ガイまでもが磔にされ、必死にもがいている光景であった。アンリの近くにはシリウスも拘束されていて、あまりの状況にハルミアが愕然とすると、自分のすぐそばで呻き声が聞こえた。
「ノイル様?」
「う……」
先ほどのハルミアと同じく横たわっていたノイルは、胡乱に瞳を開いた。起き上がりながら頭を押さえる。アンリは「少々手荒すぎましたか」と、苦笑した。
「ノイル様は紅茶を飲んでくださらなかったので、魔法を行使させていただきましたが、やはりこの身体になってから力の加減が上手くいきませんね」
「アンリ……あなた、何を……」
「断罪ですよ。ハルミア様。この国は腐っているので、民のためにも膿を全て出さなければならないのです」
そう言って、アンリは徐に手を開いた。すぐに瘴気とともに禍々しい色をした剣が現れ、彼女はそれを構えると、シリウスの首に向ける。
「アンリ!」
「安心してくださいハルミア様。貴女が私のお話を最後まで聞いてくだされば、私の邪魔をしなければ、貴女の旦那様をお返しして差し上げます。でも……」
アンリは軽く剣で空を切った。ぱさり、とシリウスの毛先の一束が地に落ちる。
「次は首を狙います」
感情のこもっていない瞳でアンリが口角を上げた。今まで、姉のように慕っていた彼女の変貌に、ハルミアは息を呑む。
「アンリ、貴女、貴女は、どうしてこんなことを……」
「それはですね。先程から一言も発さないノイル様ならご存知だと思います。ねえノイル様。貴方は王族がこの国の子供から魔力を奪い軍事利用したこと、そしてそれを止めようとしたオルディオン辺境伯、夫人……そしてリゼッタ様を殺したことを、知っていましたよね」
「……お姉様が……お母様が、お父様が、殺され、た……?」
ハルミアの頭の中が真っ白になる。そして、ノイルへと振り返った。この国は腐っているという言葉。自分は地獄に落ちるという言葉。今まで聞いてきたそれらを思いだしながら、彼女はノイルへ振り返る。
「ノイル様、どういうことですか……」
「……」
「ノイル様!」
声をかけても、返事しようとしないノイルに焦れたハルミアが肩を掴むと、やがて彼は苦し気に口を開いた。
「アンリの言ったことが、全て正しい。国は、生まれたばかりの子供から魔力を吸い取る術を独自に得て、平民や、娼館で生まれた子供を相手に実験をしていたらしい。当初は魔力が膨大にある人間から少しずつ得る計画だったらしいが、平民の、貧しい出の子供なら、飢え死にするのが関の山。どうせ客を取ることしかないのだからと、殆ど吸い上げていたんだ……」
「その被害者の一人が、貴女ですよハルミア様」
アンリはハルミアを指した。自分に魔力がないことは、生まれつき。ずっと彼女はそう思っていた。だからこそ家族を一度に失ったあの時、やりきれない気持ちで、今日まで苦しみ生きてきた。
しかし、それが作り上げられたものだった。静かに、静かにハルミアは、磔にされた王家を見る。ある者は目を見開き、ある者は悔しそうに顔を歪め、またある者は命乞いを繰り返していた。
「オルディオンの双水岩の洞窟。あれは紛い物です。切り出せないからと双水岩に似せ、魔力石の備蓄を行っていたのです。しかし、唯一、誤算がありました。子らから吸った魔力石を使った人間が、人の形を成さなくなったのです。国は、それらを皆、東に捨てました」
人の形を成さなくなったもの。そう聞いて、シリウスの脳裏に魔物討伐の記憶がよみがえった。延々と沼地から隷属を生み出す禍の化身。中には、鳴き声をあげるものもいた。
「……もしかして、それが騎士団の討伐した」
「ええ。魔物の正体ですよ」
シリウスは、アンリの言葉に愕然とし、目を見開いた。
「東の魔物は減りませんよ。王家が変わらない限り、何故なら今もなお、王家はオルディオンへ貯めこんだ魔力石を使うために、実験を繰り返しているのですから。王家は東の民を、いいえディミドリーフの民全員を欺き続けたのです。この話を聞いた国民は、王家を許しはしないでしょう」
アンリはくすりと笑って、自分が纏う瘴気の中から水晶玉を取り出した。それらは伝達に使われる種類のものであるが、通常の砂粒程度のものではなく、彼女の手のひらに収まりきらないほどのもので、今までの話が全てこの国一帯に伝わったことを示していた。
「非合法な実験について調べ、魔力を失い死に絶える者が殆どだった中からハルミア様を見つけ出し、保護し、王家を止めようと動いたオルディオン伯爵、夫人、そしてリゼッタ様を、王家は殺した。ハルミア様を殺して魔物になってしまったらかなわない、そう思った貴方たちはハルミア様が何も知らされていないと聞いて、さぞ喜んだことでしょう」
アンリは剣を引きずると、磔にされている王家に近づいた。
「そして、今になってまた洞窟を有効利用できないかと、墓守の老婆を襲い、墓守を国が請け負うことで、双水岩――いえ、贄の洞窟の管理をしようと目論んだ。伯爵や夫人を裏切り、そして馬車に細工までした腹心の家にあの地の決定権が譲渡され、実質国の統治下になるとはいえ、老婆は不安要素でしかありませんからね」
「ど、どうしてオルディオンの侍女ごときが、そんなことまで」
「リゼッタ様から全部聞いていたのですよ。私だけは。まぁそこのリゼッタ様の婚約者の方は、自力で調べ上げたようですけれど」
アンリが一瞬だけノイルを見て、勝ち誇ったように笑う。
「貴方は革命を起こそうと各地で仲間を得ていたようですが、人を殺せば、地獄に落ちてリゼッタ様に会えなくなると悩んで、結局中途半端でしたね。魔物を食らって力を得るか悩んで、結局それもやれずじまい。でも、天国でリゼッタ様とお会いする夢が叶いそうでよかったですね……裏切者」
ノイルは拳を握りしめ、俯いた。
「私は、ハルミア様を守るよう言いつけられておりました。ですからリゼッタ様に頂いたスコープで、ずっと王家を監視しておりました。あの方はどんな職人からでも、どんな国からでも気に入れば買ってしまう。これは、貴方たちが蛮族の国と嗤う職人の道具で、どんなに遠く離れていても照準を合わせればすぐさまその会話が聞ける代物です」
素敵でしょう。と続けながらアンリはスコープに頬擦りをした。そして、徐に王を剣で貫くと、王家らに炎を放った。磔にされた者は皆燃やされ、絶叫が響く。
「私が貴方たちを磔にすることが出来たのも、王宮で魔法が使えることも、強行して復讐が完了するのも、全て貴方たちが馬鹿にし、自分たちの利益しか見ず、馬鹿にしてきた国々の研究の、技術の集大成です。魔力石なんて貯めこまなくても、少しでもこの国が開けていれば、こうはならなかったのに」
アンリは全てを終わらせるよう、開いていた手を握りしめる。瞬間、磔にされていた身体たちは炭へと姿を変え、風に流されていった。
シンディーを殺したいと願ったシリウスだが、あまりのあっけない最期に頭に何も浮かばず、ただ何かの区切りを終えた感覚があった。アンリはこれらの一部始終を国へ流していた魔力石を、天に掲げる。
「王家は、潰えました。これで悪は裁かれたのです。そしてこの国は隣国の統治下に入ります。安心してください。これまでの王家より、ずっといい国になることでしょう」
アンリはそう言って、水晶玉を割った。そしてゆっくりとした足取りでハルミアへとまっすぐ向かっていく。
「アンリ、貴女全て知っていたなら……」
何故私に言ってくれなかったの。そう続けたい気持ちを、ハルミアは抑える。きっと全て知っていたからこそ、言わなかったのだ。もし聞けば、ハルミアは復讐に加担していた。アンリの邪魔になろうと、姉や両親になってくれた人を殺された怒りは、到底殺すことができないからだ。
「私は、貴女が妬ましかった。リゼッタ様の愛情を独り占めする貴女が、憎かった。だから貴女を仲間外れにしたかった」
「アンリ……」
「でも、貴女を妬み憎む日々も、今日で終わりだ」
アンリは笑うと、突如瘴気を纏ったままハルミアに向かって倒れこむ。ハルミアは驚きアンリの頬に触れ肩を揺するが、アンリは血を吐きながらただ浅く息を繰り返すばかりだ。
「アンリ! アンリ! どこか、どこか怪我を――?」
「ふふ。魔物を食らい、魔力の補強をした代償ですので、怪我なんかじゃありませんよ」
「いや! 待って、待ってアンリ、私を置いていかないで! アンリ!」
「安らかな気持ちです。ねぇ、ハルミア様。ハルミア様も、何か、何か終わらせてください。例えばこの、黒い服を着ることとか……貴女はきっと、もっと明るい色のが映えますよ。あとは……そうだ、墓参り、毎日なんて行くのはやめて、もっと自由に過ごしてください……そして少しは、自分の幸せを見つける努力をしてくださいね……」
なんてことのない、世間話。けれどもう一生できないことがありありとわかって、ハルミアはアンリの頬に触れた。アンリはその手を掴み、涙で濡れる赤い瞳を一心に見つめる。
「ねぇ、ハルミア様」
「なに、なにアンリ」
「私、ずっと……私から、リゼッタ様の愛を奪った貴女のことが、大嫌いだったんですよ……? でも、いまは……」
「アンリ……!」
ハルミアはアンリの肩を何度も揺さぶる。しかし彼女の瞳は固く閉じられ開く気配がない。ハルミアは狂ったようにアンリの名前を呼び続ける。その絶叫は、やがて雨が降り出してもなお、王宮の屋上に木霊していた。
◇◇◇
オルディオンの夜空に、青白い月が浮かぶ。ハルミアは自室のバルコニーで、ただただそれを見上げている。
アンリは、何においても手を抜くことはなかった。復讐においても同じで、自分が死んだ後のことも完璧に計算し尽くし手を打っており、王宮の屋上でアンリの亡骸に縋りついていたハルミア、そして彼女を止められないシリウスやノイルの前には、アンリが手配していた隣国の遣いが現れ、皆を保護した。
そうしてその夜、アンリが術式を組んでいた魔法陣でオルディオンの地に転送されたハルミアたちは、明日から王家の体制が変わり全てが明るみになり、隣国とのこともあって、これから忙しくなると早々に各々の部屋に戻ることとなったのだ。
シリウスは、ハルミアの姿を後ろから見つめる。漆黒のローブを羽織る彼女は、今にも夜闇に溶けていくようにも見えた。手すりだって掴んでいるのに、今にもそのまま身を投げてしまいそうで、不安に駆られたシリウスはそっと彼女の隣に立った。
「シリウス様……、ご無事で、何よりです。本当に……」
ハルミアは、シリウスに目を合わせた。しかしその瞳は自分に向けているようでまったく向いていないと感じたシリウスの胸に、やるせない気持ちがよどんでいく。
「……アンリは、今、どこにいるんでしょうね……」
冷たい風が、二人の間を通り抜ける。ハルミアは、もう会うことのない侍女への思いを馳せていく。
「ずっと復讐を考えて、御姉様のことを、御父様、御母様の仇を討つことを考えて生きてきたのに、私はずっと、死ぬことばかり考えていました。助けてもらった命だから、間違っても無駄にしてはいけない。きちんと生きなければいけない。それなのに……」
ハルミアは涙を流す。彼女はずっと、ずっと死に焦がれていた。一途に一途に終わりを想っていた。
「三人に、会いたくてたまらないと……、寂しくて」
しかし、それを今日、こんなにも後悔するとは思っていなかった。もう少し、もう少し目の前のアンリを見ていれば、こんな結末を迎えることはなかったのかもしれない。呪いを分け合って、今彼女を失うことだけは避けることができたかもしれない。
こんなことになるなら、もっと、もっとアンリと話しておけばよかった。彼女を見ていればよかった。後悔をしても、何もかもが遅いことは痛いほどにわかっている。でもめまぐるしくアンリとの記憶を思い起こしてしまうほど、彼女との思い出はハルミアにとって温かく、今、抉るほどの痛みを伴うほどに優しい記憶だった。
「アンリと、お茶をする時間が好きでした。一緒にお花の水やりをする時間が好きでした。他愛もない話をする時間が好きでした。でも楽しいと感じるたびに、何かを裏切っている気がして苦しかった。だから、私は彼女に、何も伝えていない。好きだとも、なにも……それなのに、それなのに、私は」
ハルミアの瞳から、大粒の涙が溢れる。
「幸せになんて、なりたくないのです……!」
このまま、大切な人を見送って生きることなんて、拷問だ。御姉様も、御母様も御父様も、アンリだってこの世界にいないのにと、ハルミアは涙を流しただ掌を握る。誰の手も借りる気はないと、まるでそう伝えるように。
「許しませんよ。そんなことは」
冷たいシリウスの声が響いた後、ハルミアは腕を掴まれ引っ張られた。そのままシリウスに抱き留められ、その腕の中に囚われた。
「結局、貴女は死に魅入られているだけだ。貴女は、僕に救われたのでしょう。ならば僕だけ見ていればいいのです。でなければーー」
シリウスは、ハルミアの頬に触れ、無理やり瞳を合わさせる。月明りの光を受けたシリウスの瑠璃色の瞳はぞっとするほどに、ハルミアが今まで見てきたどんなものよりも昏く、凍てついた美しさを持っていた。
「僕は、貴女のせいで死にます。貴女が、僕を見てくれなければ、死に見初められるのならば、貴女の前で、世界で一番惨たらしく苦しみ、醜く僕は死にます。貴女が、僕を殺すのです、また、あの侍女のように、貴女の姉のように、母のように父のように、僕は貴女の心だけの存在と成り果てることを誓います」
シリウスは、薄く笑って、そのままハルミアに口づけをした。
「貴女は、この生き地獄の中で幸せになるのです。それが、僕を捨てようとした、貴女の罰なのですよ。どこまでも苦しみ、最期まで……地獄に落ちて落ちて、その果てまで、貴女は僕と一緒にいて、罰を受け続けるのです」
「シリウス様……」
「愛していますよ。だからどうか、全て、僕のせいにしてください」
シリウスが、ハルミアを見つめる。その優しさに、ハルミアはこんなに優しく、残酷な罰があるのかと、涙を流す。やがて彼方から日が昇り始め、月明りではなく太陽が二人を照らそうとしていた。
◇◇◇
ディミドリーフの王家は、正義の断罪者により、長年築き上げてきた暴虐の歴史に幕を閉じた。国の未来を担う子らから悪戯に魔力を奪った挙句、その魔力によって人から外れた者を東へと捨てた末、自身の道を阻もうとした辺境の一家を殺した悪しき王族は皆死に絶えた。そして今、ディミドリーフは隣国の協力や革命軍により新たな歴史を歩もうとしている。
奇しくも国が生まれ変わった日は、正義に生きたことでこの世を去ったオルディオンの伯爵、夫人、長女リゼッタの亡き日と重なったことで、毎年の雨季の半ばは、永年オルディオンの正義に散った者たち、王族により未来を悪戯に奪われた者たちの慰霊、犠牲となった者たちのために新しい未来を踏み出そうという決起の日というのが、この国を統治することとなった隣国の宰相、ダリウス・シャイルリードの名のもとに定められた。
今日は革命から一年が経ち、初めての慰霊祭だ。オルディオンの街並みは桃、橙、深緑などそれぞれリゼッタ、伯爵、夫人の好んだ色の傘が魔法を使って空に浮かべられ、その下では教会までの道のりを、純白の花々が縁取っている。
そうして人々が並び、教会へ向かっていく姿を、ハルミアはアンリの遺したスコープからそっと見つめる。しかし後ろからはたかれ、すぐ振り返った。
「なんだいお前は、そんな風にしてるならもう一回行って来たらどうだい」
ヴィータが怪訝な目をハルミアに向ける。ハルミアは「私はもう朝に行きましたし、それに私がいると騒がしくなってしまうので……」
慰霊祭の開催を主導したのはハルミアだった。長年本当は夫人や伯爵を殺し財を自分のものにしようと企んでいたと疑われた彼女の潔白は証明され、同情の声が増えた。慰霊祭が行われるなら自分が行いたいと考え実行した彼女だったが、今朝方、自身が教会に向かうと遠方から訪れた者たちが謝罪がしたいと複数現れたため、慰霊祭の円滑な進行の為、姿を見せぬよう配慮したのだった。
よって今現在は、現在国営の中枢で働くこととなったノイルに任せ、ベスに彼の手伝いをするよう命じている。
しかし、ハルミアには慰霊祭を主導した責任があり、墓場からスコープを用いて見回っていたのである。
「もう、あれから一年になるねえ」
ヴィータが傘が並べられた街並みに目を向ける。桃、橙、深緑、そしてもう一つ。淡い黄色がある。生前アンリが好きだった色で、今日の慰霊祭も教会では伯爵と夫人、リゼッタ、アンリの名前が大きく書かれていた。
「はい……」
ハルミアが手元のスコープに視線を落とす。アンリは自分が死ぬことを全て計算していたようで、侍女の自分が抜けたときの為にベスを教育し、挙句隣国に自国の情報を流して、王家が落ちた際には統括してもらえるよう働きかけていた。
なぜそんな芸当が出来たかといえば、アンリは元は不義の子で、その相手が隣国の人間であり、その血だけで見れば辺境伯で働くべきではないほどの娘だということが、彼女が死んでから分かったのだ。
ハルミアが寂しげにスコープを撫でていると、彼女の足元に影が差した。顔を上げると、柔和な笑みが視界に映り込む。
「シリウス様」
「そろそろスコープでの観察を終えた頃かと思いまして。もうお昼の時間になりますし」
シリウスは手に持ったバスケットを軽く持ち上げる。握りしめた左手の薬指には、ハルミアのはめるものと同じ、光を受け七色に輝くシリウスの魔力石で出来た指輪がはめられている。
あれから、シンディーが亡くなったことで彼女が直々に結んだ契約の悉くが無効化された。ハルミアとシリウスの結婚は、シンディーが命じ、用意されていた司祭たちによって契約が結ばれた。しかしハルミアとシリウスの離縁はシンディーが無理やり執り行ったために、離縁だけがなくなったのだ。
「そうですね……もうこんな時間ですもんね」
ハルミアはスコープを抱きしめ、墓場を後にする。ヴィータは手を振り、彼女の隣に立ちながらも一言も発さなかったオズもハルミアたちを見送った。ハルミアとシリウスは、ゆっくりと山の奥、湖へと歩いていく。
「本当にいいのですか? 領民と昼食をとらなくて。食事会、誘われていましたよね」
「はい……」
ハルミアは、視界の隅、鬱蒼と茂る木々からこちらを覗くように見える双水岩の洞窟に目を向けた。洞窟は、王家の罪を忘れぬよう残すことが決められている。洞窟に纏わる真実を知ってから、ハルミアは自分の魔力があそこに込められているということよりも、どこか子供たちが集まって騒いでいる奇妙な感覚がしていた。実際、シリウスとともに初めてこの場所を訪れたとき、学び舎に通う子供たちがいた事実はないと後になったことも思い出し、その考えは確信に変わりつつある。
「何を考えているのです。僕の話を聞いていましたか?」
「あ……、ああ。今日の様子ですと、きっと弔いとは異なった状態になってしまうでしょうから」
「皆さんが謝って、ハルミア様は気持ちよくないのですか? 貴方を侮辱した者が謝っているのに」
「ええ。今日は慰霊祭が大切ですから」
ハルミアの言葉に、シリウスは「そうですか……」と残念がる。そして彼女に見えないよう、聞こえないように音を立てず指を鳴らすそぶりをした。その瞬間、ふわりと風が舞い上がる。
ちょうど向かいから、ハルミアを探しにやってきた遠方からの来客がやってきていたが、二人ははっとした様子で踵を返し歩いて行った。
これでよし、とシリウスはハルミアを見る。
「では、食事が終わったら、午後にもう一度町に降りましょうか。やはりハルミア様がいらっしゃったほうがいいと思いますし」
「分かりました」
ハルミアの返事に、シリウスは胸をそっと撫で下ろす。先程音も立てずシリウスが放ったのは、洗脳の魔術だった。それも、ハルミアと深く関わった者だけを除く、全国民に対する、極めて高位の魔法だ。
アンリにシンディーを捉えられる直前、ハルミアへの焦がれにより神子の力を覚醒していた彼は、かつてハルミアに綺麗な景色を見せる為にかけた幻覚の魔法。それを国民にかけた。
ただ一つ違っているのは、綺麗な景色なんてものではなく、精神に作用しているということ。
ハルミアにかけた魔法は視覚や聴覚のみに絞っていたが、国民に対しては聖域なく意のままに操り、ハルミアを傷つけることがないよう、害をなすことがないよう、傀儡にしてしまった
このことは、国を統治する隣国の宰相、ダリウスも知っている。彼はそもそもこの国が自国に刃を向ければ消しにかかるものの、そうでなければ特に関心がなく、今回介入してきたのは有益だからということでシリウスの振る舞いも黙認していた。所詮、シリウスが国民全員を精神操作によってダリウスの国と戦争になったところで、勝負は決まっているからだろう。
よって今日、ハルミアに謝罪をした人物たちは皆シリウスに操られた者たちだった。しかし加減の調整ができなかったことで、ハルミアが慰霊祭からいなくなってしまう予想外の出来事が起きてしまったのである。
やがて二人は湖に辿り着き、刺繍の式布の上に座り、湖を眺め始めた。
「綺麗ですね」
「ええ」
シリウスは、そっとハルミアの膨らんだ腹を撫でた。中には、彼の子供が命を育んでいる。
オルディオンの夏が終わった時には、きっと元気な声をハルミアに聞かせているのだろうと、シリウスはうっとりした顔で笑った。
「どうされました?」
「ああ。来年にはこの子と貴女の作ったバゲットの取り合いをしていると思うと、感慨深いなと思っただけです」
「あ、赤子はバゲットを食べることは出来ませんよ……」
ハルミアが不安げにシリウスを見た。もともと研究気質なシリウスは、子についても学ぶようにしている。しかしそれも結局ハルミアの為でしかない。ハルミアの子ならば愛せるが、どうしても、ハルミアを生に繋ぎ止める為の楔を欲したシリウスは、重要なところで子への関心を落としてしまう。
「私は、いい父親になれるか、わかりません。何せ育った環境が特殊ですから、なので不安に思って、色々と可能性を考えてしまうのです」
「シリウス様……」
「暗い話をしてるわけではありませんよ。これから先、楽しみでもあるのです。貴女と家族になって、貴女の夫として生きることが」
シリウスは、ハルミアを見つめた。彼女の腹を撫でるのをやめて、そっと手を握る。
「ハルミア様。一緒に地獄に落ちましょうね」
「はい」
ハルミアが、しっかりと頷く。安心するようにシリウスの方にもたれ、笑みを浮かべた。シリウスは、肩越しに伝わる温もりを感じながら、彼女の微かな呼吸音に耳を澄ませる。
もう二度と、シリウスはハルミアに自分の手を離させることをしない。料理を作るのと同じように、少しずつ少しずつ愛情を注いで、刺繍をつぶさに入れるように逃げ道を丁寧に潰していく。
逃がさない。何をしてでも、何を壊してでもこのハルミアの為に作り上げた優しい国で彼女と共に生きるのだと、シリウスはハルミアの手の平を縛るように握ったのだった。