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喪失令嬢と失恋魔法士の災婚 前編

宣伝欄


●2025年10月1日全編書き下ろし7巻&8巻発売

◇予約ページ◇https://tobooks.shop-pro.jp/?mode=grp&gid=3106846

◆攻略対象異常公式アカウント◆https://twitter.com/ijou_sugiru?s=20/

 その日、娘はよく晴れ渡った夏空のもと、街中を駆けていた。


 煉瓦造りの溝には昨晩街を包んだ雨露がたまり、娘の靴を濡らしていく。浅い呼吸を繰り返しながら活気ある市場をすり抜け路地裏に入り込めば、通りには雨上がりの爽やかな香りとは程遠く、湿ってかび臭い、暗く陰気な別世界が広がった。辺りは勤めを終えた娼婦や酒浸りの男たちが煙管をくゆらせ、濁った空気が漂っている。


「待て! 物盗りめ!」


 娘を追う男たちは、娘の手に握られるいくつもの首飾りを求め泳ぎもがくように走っていた。裏通りに入ったとたん足を動かしながらも娘めがけて何度も詠唱を発するが、指先から放たれる閃光は、あと少しのところで当たらず、無造作に置かれたワインの木箱や芋の入った袋に命中し足場を悪くするばかりだ。


 一方商人から貧しい娘に所有者を変えた赤い宝石の首飾りは、かすかに届く日の光をいくつも受け、悠々と反射している。


 この国、ディミドリーフは古から伝わる魔法の力によって発展してきた国である。国民の誰しもが一定の魔力を有し、それらを用いることで人々は暮らしを豊かにしてきた。だからといって、貧しさがないわけではない。食うに困らない貴族もいる一方で、宝石商から一瞬の隙をついて首飾りを盗み、放たれる魔法をよけながら街を駆けることを日常としなければ、生きていけない娘もいる。


 首飾りを盗んだ娘は、つま先やかかとを泥で汚し、頬をすすだらけにして骨ばった腕を一生懸命動かしながら自分の住処へと急ぐ。


 しかし、懸命に走っていたがとうとう後ろの追手が放った閃光が脛をかすり、裏通りに出るあと一歩のところで倒れてしまった。


「くそ、手間取らせやがって!」

「宝石は無事か? 傷はついてないだろうな?」


 男たちは転がる娘を足で蹴飛ばし、首飾りを確認する。商品に傷がないことに安心して、さらに娘にもう一蹴り浴びせようとした――次の瞬間。娘に商人たちとは別の影がさした。


「なんて無粋な真似をしているのですか」


 凛として、それでいて冷えた声に商人たちの身が一瞬にしてすくむ。自分の周囲の空気が変わったことを感じた娘は、額から流れ出た血で目がかすみながらも自分を抱き起そうとする者を視界に入れた。その人物は、透き通るような空色の瞳をして、丹念に櫛で梳かしたのが分かるほどに光を纏いさらさらと流れる白い髪をした青年だった。


「ま、待ってくださいシリウス様、その子供は宝石を盗んだ泥棒で」


 商人は娘の罪状を告げる。ああ、今すぐ振り落とされるかもしれない。娘はこのまま固い地面へと叩き付けられることを覚悟したが、シリウスと呼ばれた青年は娘を立たせてやると、商人たちに真っすぐ向き直った。


「だから何だというのです。泥棒というのなら、拘束して衛兵に引き渡すべきでしょう。裏路地に追い詰め、蹴り倒していい道理にはなりません」

「その子供が勝手に逃げたんです」

「では何故衛兵を呼ばないのですか? 魔法をむやみに使用して、火災を起こしたら責任を取れるのでしょうか? 市民が不用意に攻撃魔法を使わぬよう、兵がいるのでは?」


 理路整然とした青年の言葉に商人は口ごもった。間髪入れず、青年は問いかける。


「兵を呼べない理由は、これですか?」


 青年が詠唱を始めると、娘の手に握られた宝石は光を放ち、鳥が卵から孵っていくように 赤の輝きを崩し、澄んだ瑠璃色の結晶へと姿を変えた。


「この国で装飾品としての扱いは禁止されている石ですよね」


 青年は商人たちを拘束する魔法を放つと、一瞬にして男たちは光の輪によって腕を縛られた。呆然とする娘を前に青年は安心させるように笑いかける。


「君を衛兵に引き渡すには、腕が足りませんね。僕はあの二人をつれていかなければいけませんから」

「えっ……」

「でも、もう盗みなんてしてはいけませんよ。悪いことをすると、人を傷つける。そして君自身、こうして危険な目に遭ってしまいます」

「……」


 娘は、口ごもり目を逸らす。今日は、失敗した。こうして危険な目に遭ったといえど、明日同じことを繰り返す気だったからだ。青年はそんな彼女の想いを察したように、自分の耳につけた飾りを取り、握らせた。


「どうか売ってください。質のいいものですから、きっと盗みなんてしなくてもよくなるはずです」


 娘は自分の手のひらにのった耳飾りを見て、目を瞬かせる。優雅な金細工で海色の結晶を幾重にも囲い揺れるそれは、彼女の手にはやや大きい。


 青年は少し道化じみた声で呪文を唱えると、縛られた商人たちの足元に魔法陣が浮かび上がった。彼は娘から身体を離し、発光する輪をまたいでいく。すると瞬く間に輪は光度を増し、周囲に向かって風を起こし始めた。


「あの」

「では、僕はこれで」


 青年が手を宙に向かって伸ばし、空へ合図を出すように呪文を唱える。輪は流れるように回転し、小さな粒子を纏って眩むほどの光を放って青年や商人を伴い消えた。


 残された少女は耳飾りを握りしめながら、今まさに青年が足をつけていた場所をじっと眺め、立ち尽くす。「シリウス、さま」 耳飾りを握りしめた娘――ハルミアが、そっと呟く。箱に大切にしまうように、優しく、きちんと思い出に残せるように。やがて彼女は踵を返し、通りを駆けて行ったのだった。


◇◇◇


 東の辺境に、死神令嬢と呼ばれる齢十八の娘がいる。娘はオルディオン辺境伯の次女で、名はハルミア。熟れきり、自らその身を落そうとする葡萄にも似た色の髪は弧を描いて靡き、透けるように肌は白く、瞳は紅蓮と紫水晶が拮抗せんと揺らめくような色をしている。


 人は誰しもその容姿を見て御伽話の悪役と称してしまうほど、彼女の容姿は異彩を放つものだったが、オルディオン家の者が皆、ハルミアと同じ容姿をしているかといえば、そうではない。


 辺境伯やその妻、ハルミアの姉であるリゼッタは、辺境でも特に多い栗色の髪に、夏空を彷彿とさせる鮮やかな青の瞳をしていた。だからこそハルミアの容姿は幼いころより悪い形で目立ち人目を惹いてしまう。


 さらに彼女は十四の頃からどこに行くにでも黒一色の姿で、さらに華やかな社交の場を徹底的に避けていた。よってまさに死神のようだと避けられるまでになってしまったのだ。


 しかしハルミアとて己の信念があるといえど、王家主催のパーティーに招待され、辺境からはるばる王城へやってきたとなればまた話は別である。


 この国ではほんのひと月前まで、ハルミアの住まう西とは反対の、豪雪により人を寄せ付けぬ土地に突如湧き出てきた魔物により人々の身は常に危険にさらされ続けていた。


 王が使節団を派遣し調査にあたると、西の最果てにそれはそれは大きな空にも届かんほどの魔物がおり、半身を地に溶かし無限に魔物を生んでいるとのこと。結果を聞いた王は、昨年この国でも特に珍しい癒しの力に目覚めた第二王女である末姫シンディーと、平民ながら国で最も剣術の才があるガイ、宰相の三男で国で最も優秀な魔法士シリウスの三名が頭となり編成した騎士団に討伐を命じ、見事騎士団は王命を遂行した。


 そして今日、西の魔物の討伐とこれからの平和を祝したパーティーが開かれたのだ。辺境の次女といえど、この国の王が主催したパーティーに黒装束を着ていくわけにもいかず、ハルミアは普段の黒の装束ではなく、どこを切り取っても巣食うような黒々としたドレスに身を包んでいる。


 だがその表情はドレスと全く同じ弔いを秘めたヘッドドレスにより隠されており、周囲は彼女に対して、自らを無理やり祝いの場に引きずり出した王に恨みを持っているのではないか、目が合えば最後呪われてしまうのではないかと揶揄をし、眉をひそめていた。


 さらにハルミアが騎士団を率いた三名を注視していることに気が付くと、三人のうち誰かに因縁があるのでは、呪いをかける気だと、あれこれ噂話を始めた。


 一方とうのハルミアが騎士団に向ける瞳には、呪いや苛立ち、憎悪ではない。幼少から育まれた、仄かな恋情である。


(ああ……シリウス様と同じ空間にいられるなんて)


 死神令嬢は、この国で最も優秀であり聡明とされる魔法士シリウスに恋をしている。彼女がシリウスをその瞳に映したのは黒の装束を纏う五年前のこと。当時ハルミアは辺境ではなく王都で生活を営んでおり、あることをきっかけに人に追われ怪我をしていた際、シリウスに助けてもらったのだ。


 追っ手を軽くいなす姿に彼女の心は一瞬にして奪われた。 以降ハルミアは王都から辺境に移り住んでもなお、国で発刊される新聞にシリウスの記事が載ると必ず切り抜き、木を組み、正しい順番で幾度もの工程を経なければ開かぬ深紅の箱にしまっている。


 そして、此度のパーティーでシリウスと末姫シンディーの婚姻を祝うことを知ったハルミアは、潜められた箱の切り抜きと同じように、その恋情の瞳を蜘蛛の巣とも似たヴェールで覆い、本来好まない豪華絢爛な煌めく光の下、じっと己の愛する人を見守っている。


 一方、死神令嬢に熱をのせた瞳で見つめられているシリウスはといえば、ひりついた冷たさを感じさせる天色の瞳を、慈しむはずである未来の妻、シンディーに向けていた。


 その敵意はまっすぐと流れた色素の薄い髪が逆立っていると錯覚するほどの強さであるが、周囲は彼と苦楽を共にし、一年にわたる長い旅路を共にしたはずの騎士とその関係者が集まっていることで、他の招待客たちに感情の機微は汲み取れない。


「今、なんとおっしゃったのですか、シンディー姫」

「だから、わたくしは貴方との婚約を破棄すると言ったのよ。そして、ガイと結婚するの」


 ふふふ、と鈴を鳴らすように、シリウスの前に立つシンディーは笑う。彼女は今日のパーティーに向け、甘やかな桃の布にごつごつと角張った緑水晶を施したドレスを着ている。


 それは、今日のパーティーにとシリウスが贈ったものとは異なるものだ。シリウスが選んだのは、華美さがなく、色身も落ち着いた風合いのもの。宝石も今シンディーが身に着けているように、歩くたびにその存在を主張するものではない。


「シリウス、お前のシンディーへの振る舞いは、非道であったと思う」


 ガイがシンディーの言葉に続いた。ガイの瞳は、シンディーのドレスに用いられている宝石を彷彿とさせるもので、シリウスはすぐに今彼女の着ているドレスが誰が贈ったものであるかを悟った。


「ガイ……」

「お前よく言ってたよな。シンディーに、王女の自覚をお持ちくださいって。でもなあシリウス、お前こそ魔法士としての自覚、いや、男としての自覚を持つべきだった」

「先ほどから、お二人の言っている意味がよく分かりません。それに、この公の場で一体何をしようと目論んでいるのですか?」

「決まっているだろう、お前の断罪だよ。散々未来の妻であり、この国の宝であり唯一の聖女でもあるシンディーを虐げたお前は、このパーティーで罰を受けるんだ」


  徐々にガイの声が張り上げられ、会場内は騒然となる。シンディーは驚きのあまり言葉を紡げないシリウスに向かって、声高々に宣言をした。


「シリウス・ルヴィグラ! 今日を以てわたくしは、貴方との婚約を破棄することをここに宣言いたしますわ!」


 シンディーのよく通るソプラノの声は、会場の隅で深いケープに顔を覆われているハルミアにも聞こえるほどで、あまりの衝撃的な発言に彼女は手に持った果実水を落としてしまいそうになった。


 周りの招待客も同じように慌てふためき、突如第二王女から発された言葉の真意を窺い、にぎやかであった会場はしんと静まり返る。


「今まで、シリウスは婚約者であるわたくしに、ひどい言葉を浴びせ続けました。挙句の果てに私が意に添わぬ行動をとると暴力まで振るってきたのです。わたくしの身体には、彼につけられた痣が幾重にもあります。はじめこそこの婚姻がこの国のためになるならばと耐えるつもりでしたが、この痣を見て、ガイは泣いてくれたのです!」


 シンディーの掲げた腕には、青々とした痣があった。それは故意の力を加え打ち付けない限りつかないような痣であり、ただただ騎士団頭三人の問答を呆気にとられ眺めていた王もさらなる驚きと、そしてシリウスに対する怒りで顔を歪ませる。


「自分の妻を殴るような男に、シンディーを任せることなんて出来ない。それに、国に混乱を招かぬようお前の偽りを黙っていたが、やめだ!」


 ガイが、懐から水晶玉を取り出した。それをシリウスに向け、「水晶よ、シリウスの本当の力を示せ」と詠唱を唱えていく。すると水晶は淡く、周囲の光に溶けてしまうほどの弱々しい光を放った。


「皆様! これが本来のシリウスの力なのです! 彼はもとより常人より劣る魔力しか持っていないにも関わらず、ルヴィグラ家の財力を用い魔力を込めた石を大量に手に入れそれを使うことで魔力が豊富であるように見せ、高位の魔法を使っていたのだろう!」


 本来、魔力の低いものは、高位の魔法――それこそ同じ炎の魔法を使ったとしても、ろうそくに火を灯すのが限界な者、片や山一つ焼くことすら可能な者と様々だ。


 保有量は血筋により左右される。高い魔力を持つ人間が力を込め作り出した石により他者に譲渡することも可能だが、石を作り出すにはかなりの力を消耗することから主に戦などの有事の際に用いられ、ほかの用途では高値で取引され一介の貴族程度では石一つ手に入れることすらやっとの代物である。


 そして、シリウスの家であるルヴィグラ家は、国の中でも極めて高い魔力を持っており、その高さ故に宰相の席に歴代当主が座っていたと言っても過言ではない。ルヴィグラ家の者であるならば魔力石など不要でむしろ国から作りだすことを要請される側ではあるが、ルヴィグラ家の力で魔力石を大量に集めることもまた可能なことではあった。


「そんなこと、するわけがないでしょう! それに王女を叩くなんて不敬なこと、するはずがない」

「では、先の戦いはどうした。下級の魔物を倒すのもやっとではないか!」


 ガイの言葉に身に覚えがあったシリウスは、悔し気に口をつぐんだ。シンディーは誰にも気づかれぬようふっと笑い会場を見渡すと、探していた弔いの死神――ハルミアに目を付けた。


「突然婚約を破棄された貴方に、王家から最後の慈悲として、婚約者を見繕って差し上げましょう。いっそ貴方よりずっと年上の御婦人にすることも考えたのだけれど、相手の御婦人があまりに哀れでならないから、やめたわ。歳は十八。安心して頂戴、爵位も申し分ないはずよ。何せ貴方が婿に入る相手は辺境伯の娘――ハルミア・オルディオンなのだから!」


 突然の指名に、ハルミアは今度こそ果実水の入ったグラスを滑り落とした。砕け散った硝子の音は、周囲のどよめきにかき消されていく。本来王族への不敬は死罪にあたる。しかし、王女から直々に発されたのは死刑の執行日ではなく、婚姻だ。


 本来婚約して三年ほどで至るはずのものを異例の速さで、さらに相手は死神令嬢であり事実上の死刑宣告も同然。この国で王家に次ぐ地位を持つルヴィグラ家の三男が処されたのだ。これからの未来を案じざわめく周囲を鎮めるように、シンディーは手を挙げた。


「これよりシリウスに、捧生の印を刻みます。さあ、指輪を持ってきて頂戴。彼に印を」


 控えていた騎士がシリウスに近づき、彼の四肢を魔法で拘束した。シンディーが詠唱を始めると、彼の心臓のあたりが黒い靄で覆われていく。


「う、ぐぅっ!」


 途端に呻きだしたシリウスに対し、シンディーは気にする素振りを一切見せない。やがて詠唱を終えると控えさせていた騎士から包みを受け取り、自分たちを囲う人々をゆるやかに割くようにして歩き出す。シンディーの進行方向にいるのは、ハルミアだ。


(一体何が……)


 一直線に自分のもとへ向かってきたシンディーを恐々見つめるハルミアは、底知れない笑みを浮かべる彼女に委縮した。そして目の前に立たれたことをようやく認識すると、慌てて頭を下げた。


「いいのよ頭なんて下げなくて。それよりほら、左手を出してちょうだい」

「え」

「ほら、早く」


 シンディーに言われるままにハルミアが指を差し出すと、そのほっそりした腕に黒曜石があしらわれた腕輪がはめられた。枷のように重みがあるそれをただただ眺めていると、不敵な笑みを浮かべた第二王女が彼女の隣に立った。


「今、ハルミアが捧生の腕輪を手にしたわ。これでシリウスの行動は、きちんと彼女によって制御される。素敵でしょう! 今日の私とガイの婚約、そしてハルミアとシリウスの婚姻を、どうか皆様祝ってはくれないかしら?」


 第二王女の言葉に、周囲は戸惑いながらも拍手を始めた。周囲の反応に気をよくした王女はけらけらと笑いはじめ、愛しの婚約者、ガイへと向かっていく。彼のすぐそばにはシリウスもいるが、シリウスは騎士らの拘束も解かれたというのに呆然と自分の胸元をつかみ、刻みつけられた印の熱に愕然としていた。


  しかし、何も愕然としているのは彼だけではない。今日何も知らされることなく王家主催のパーティーに招かれ、突如初恋の人との婚姻を命じられた挙げ句彼の全ての権限を譲渡されてしまったハルミアも同じである。 ハルミアは自らと初恋の人との婚姻を祝う拍手の中、渦の中に放り込まれた気持ちで立ち尽くしていたのだった。


◇◇◇


◇◇◇



 パーティーから三日が経った早朝のこと。王都からオルディオン家の領地に昨晩戻ったハルミアは、目を覚ますと両親と姉に挨拶を済ませ、すぐに黒の外出着に着替え領地の西の果てへ向かった。茨の森を潜り抜け領民を弔う墓地に足を運ぶと、墓守の老婆であるヴィータをつかまえた。


「私、結婚することになりました」

「そうかい。そりゃめでたい。ならこんな陰気臭い場所に来てないでさっさと帰んな」


 本来ならば突拍子もないことであるが、ヴィータはさして驚かず、墓と墓の隙間を縫うように生える露草を引き抜いていく。


 オルディオンの墓地は日中でも回りが山に囲まれ、わずかにしか太陽の光が差し込まない。木々も領民が多く住まう市街の木々とは異なり葉も緑ではなく黒々として、どこもかしこも尖っている。子供の描く禍々しい森のようなこの辺りは風土柄霧に包まれやすいこともあり、常に陰鬱な雰囲気を纏っていて人が訪れることは極端に少なかった。


「相手はルヴィグラ家のシリウス様です」

「興味ないねえ」

「今日、あちらが婿に来るのです」


 ハルミアも雑草抜きを手伝っていると、ヴィータは「たまげたなぁ」と墓石の隙間から生えるクローバーから目を逸らすことなく淡々とした声色を発した。


 ヴィータは、ハルミアがオルディオン家の領地に移り住んでからの付き合いだ。元々人付き合いを好まず、温和で気さくなオルディオンの民ですら距離を置いている。子供たちも「魔女みたいだ」と怖がり姿を見ただけで逃げてしまう存在だ。


 本人もそれを望むような態度で、話しかけられても軽くいなすような返事しかしない。気難しい老人であるが、ハルミアが毎日決まった時刻に墓地に訪れるようになってからはぽつぽつと言葉を交わすようになった。


「式の準備があるだろうに、あんたはこんな婆さんとっつかまえて何をしようっていうのかい」

「いえ、式はもう、終わったのです」

「……」

「それで、折り入ってご相談なのですが、捧生の印を解除する方法をご存知ないですか、出来れば、契約した人間に分からないように」


 捧生という単語を聞いて、ヴィータはそれまで雑草やクローバーにしか向けていなかった瞳をぎょろりとハルミアへと向けた。


「そのシリウスという男は、王家に何した」

「はい……あの、婚約者である第二王女に不敬を働いたと……」

「で、お前に婿入りさせようってかい。西の変人に婿入りさせて、罰を与えようなんぞまぁ陰湿なやり口だね。首の一つでもはねてしまえばいいものを……」


 はぁ、とヴィータはしわがれた声で大きくため息を吐いた。骨と皮で形成されているような指でハルミアの左腕を掴むと、彼女の腕にはめられた蒼水晶が輝く腕輪を指で数回はじく。


「駄目だね、契約は王家の魔力でしかどうにも出来ない。王族殺すか、竜か、それこそ魔族にでも何とかして貰わない限りあんたは死ぬまでこの腕輪と一緒だ」

「魔族……」

「滅多なこと考えるもんじゃないよ。腕輪に一太刀受ける前に心臓貫かれて終わりさ。それに、腕を切り落とされたところで契約は変わらないよ」


 ヴィータは「良かったじゃないか。シリウスという男もそれは分かっているだろうから、あんたに変なことはしないだろうよ」と喉の奥で笑ったあと、ハルミアに向かって指をさした。


「いいかい。その坊ちゃんに、お前が魔法が使えないことは絶対に知られちゃならないよ」

「それは……分かってます」

「腕輪がある限りあんたの意にそぐわないことをすれば、奴に頭を斧で割るような痛みを与えられる。お前を害することも出来ない。でもね、魔法士としてお国を相手に働くなんてこと、真っすぐで無邪気な人間には出来ないんだよ。舐められるようなふるまいをするのは絶対におやめ。間違っても愚図のベスみたいなことはするんじゃないよ」

「……はい」


 いつになく強い口調のヴィータに、ハルミアがためらいがちに頷く。


 ハルミアは少ない魔力を持って生まれた。およそ人並みの子供以下の力しかなく、日常的に魔法を使うことはおろか他人の魔力の気配を感じることすら難しい。彼女の秘密は家族、オルディオン家の屋敷の使用人たち、ヴィータ、そしてあともう一人、彼女の姉の婚約者が知っており、死神令嬢と呼ばれ呪いを与えられると王都の人間たちに忌避されることは彼女にとって都合のいいことでもあった。


「魔法が使えないなんて、言えるわけありませんよ」


 魔力が少ないということは、迫害の対象にされやすい。それを伝えるということは、自分の身を守る力がないと伝えることと同義だ。ハルミアが視線を落とすと、ヴィータが「ほら、今日婿に来るならさっさと準備をしたらどうなんだい」と手についた泥を払い、懐から包みを取り出してハルミアに放り投げた。


「これは?」


「目眩ましさ。どうせ魔法に頼り切ってる奴なんぞ、古知恵に興味なんて持たない。人の力なんて見向きもしないさ。何かあったらそれを奴の足元に投げておやり、ただし、一個しかないからね、ここぞという時に使うんだよ」


 ヴィータは魔法を好まない。ないわけでもないが、手を使わずに何かをすることに嫌悪を抱く老人であり、ほかの領民と異なって山々に採集に赴き自分で火を起こし薬を作っては売ることで暮らしている。墓守は趣味の一環で、迎えを待っている時間を潰しているのだとフィーネは元より聞いていた。


「ありがとうございます。また、明日来ますね」

「もう二度と来るんじゃないよ。毎日毎日ここへ来て、私もうんざりしてるんだからね」


 ふん、とヴィータは不満げに鼻を鳴らす。ハルミアは彼女に頭を下げ、包みをしまうと霧が立ち込める墓地を後にしたのだった。


 それからハルミアは屋敷に戻り、朝食を済ませると使用人たちと共にシリウスを迎え入れる準備を始めた。婚姻自体突然のことであったものの、オルディオンの屋敷にはいくつもの空き部屋があり、そのどれをも彼女は使用人たちと共に入念に手入れをしていた。


 数ある部屋の中でも、姉の婚約者が使うはずだった部屋が最適だろうとシリウスをそこに招くと決め、ハルミアは今まさに姉の婚約者好みである派手で奇抜な調度品を、天体を模した置物や永遠に循環を続ける水時計、観葉植物の鉢などに入れ替える作業を使用人のベスと共に行っている。


「ベス、私はシリウス様について新聞に載っていること以外は何も知らないのですけれど、ベスは何か知ってますか?」

「いやあ、騎士団から追い出される前も噂は聞いてたっすけど……、ものすごーく真面目で、あんまり誰とも話さないとか、なんだろう、ヴィータの婆さんほどじゃないすけど、たぶん気難しい人だと思うっす!」

「そうですか……」


 ベスは、今年で二十一になる青年だ。過去に王都の騎士団で働いていたことがある。だから彼に何かシリウスについて聞けないかと思ったハルミアは、要領を得ぬ答えに落胆した。


(望まぬ結婚を強いられたのだから、少しでも彼の心が和らぐようにしたいけれど……)


 ハルミアは、柔らかで厄介な想いを向ける相手と結ばれる権利を、王命で与えられた。しかし彼女は全く望んでいなかったのだ。ほんの少し、人生の瞬きにしかならない刻の中でその姿を少しだけ見たい。もう一度声を聴くことが出来たら嬉しい。でも、彼の冬を溶かした瞳に映り込みたいとは思わない。それどころか、誰とも幸せになりたくない、誰とも生きていたくない――というのが、彼女の願望だった。


「それで、ノイル様用の調度品はどうするんすか? 結構な量っすけど……」

「あの方が来るまでは、屋根裏にしまっておきましょうか」


 ハルミアの姉の婚約者であったノイルは豪快で、規則や常識という言葉が頭の中の辞書に無い。明るくはつらつとして、気落ちし憔悴した姿を見せることはほとんどない。太陽を思わせる橙の髪に、いくら外に出ても真っ白く澄んだ肌の美丈夫はどこへ行っても人目を惹き、常に話題の中心にいた。


 声が大きく自由を体現した生き方は人に下品と言われてしまうこともあるが、そんな気性は姉と婚約しても変わらず、侯爵家の次男という立場ながら、ハルミアが十四歳の頃からあちこちを視察と言って鞄ひとつで放浪を始め、彼の領地はおろか婿入り予定であったオルディオンの領地に滞在するのも殆どないほどだ。


 しかしそれでも一年に一度、姉に会う為にオルディオンの領地に足を踏み入れはして、丁度今から一月後が約束の日であった。ハルミアもノイルが屋敷に訪れる準備を始めており、その準備をシリウスへ回すことで突然の婚姻の準備も酷い混乱に陥ることなく済んだのである。


(シリウス様にノイル様を紹介しておかなければ……それに、ノイル様にもお伝えしないと……。手紙を送れないけれど、多分国内にいるのであれば、シリウス様が婚約を破棄されたことや、婚姻の相手が私になったことはノイル様も知っているはず……いや、知らないかもしれないわ)


 ノイルは、俗世に興味がない。新聞を読むこともなければ、貴族同士の噂話に交わることもない。さらに自分の興味がないことは、とことん視界に入れない。よってハルミアはこれから自分の想い人がどんな経緯をもって婚姻に至ったかを説明しなければならず、深いため息を吐いた。


「大変です、御嬢様!」


 しかし、そんな彼女のため息を破るように、どたどたと騒がしい足音と共に侍女が部屋へと駆け込んできた。


「どうしたのですか。アンリ」

「屋敷に向かって辻馬車が向かってきています! たぶん! おそらくたぶん! いや絶対にルヴィグラ家の婿殿です!」

「落ち着いてください。それより貴女はまた屋上でスコープを覗いていたんですか?」


 侍女のアンリは、ハルミアの指摘に手に持っていたスコープをさっと背中に隠した。ロングスカートに沿うように隠そうとしているとはいえ、華奢な彼女の背中では、天体の星々を観察するために、本来設置し用いるそれは大きすぎる。


 アンリの趣味は、屋敷の屋上でスコープを使い、方々を観察することだ。あまりいいことではないため、ハルミアはそれとなく注意をしたがやめる気配は見えない。


 ハルミアは呆れ目を向けた後、はっとして窓に目を向けた。


「シリウス様がもう屋敷に? 到着は夕方のはずでは?」

「はい。ですから私も驚きまして、のんびり屋上で皆を警備をしていたら、馬車がこっちに来て……あっ、あれです!」

「あの横顔、シリウス様っすね!」


 ハルミアとアンリが並んで窓を見ていると、ベスがさらに二人の隙間から顔を出し、屋敷の門の前に今まさに止まった馬車を指した。御者は馬車を止めつつも、動く気配はない。なぜ扉を開きにいかないのかと不思議に思っている間に扉は開かれ、すらりとした人影が降り立った。遠目から見ても一本のピアノ線を通したかのような佇まいに、ハルミアは胸をときめかせるのではなく、ただただ愕然とした。


「シリウス様だ、どっ、どうしよう」

「それより御嬢様、何か妙ですよ。御者が動こうとしません。シリウス様が荷物を運ぶようです」

「えっ、おっ、お手伝い、お手伝いをしないと」

「落ち着いてくださいっす! さっきのアンリより酷いっすよ!」

「そ、そうですね、深呼吸をします」


 ハルミアが大きく息を吸う、次の瞬間。アンリの「あ、魔法使った。荷物が屋敷の門の方へぽんぽん飛んできてますよ!」という言葉にハルミアは盛大にむせた。


「う、っああ、魔法が使えるからよね。えっと、じゃあ急いでお迎えしないと」

「じゃあ俺が魔法かけてあげるっす!」

「いえ、普通に私は歩いていきま――うわっ!」


 言い終える前に、ベスが詠唱を放った。瞬く間にハルミアの足元に小ぶりな竜巻が起こり、彼女の足が勝手に動いていく。


「あわわわわ、わわわわわ!」


 制御できない自分の足に引きずられるハルミアが振り返ると、ベスが小さな声で「あっしまった、どうしよう」と失敗を悟らざるをえない声を発した。


 魔法を放った当人が、どうしようなんて言うのはやめてほしい。切実にハルミアは思ったが、悠長に自分を憂う暇などなく足はどんどん加速して、屋敷の廊下や大広間、階段を抜ける。


 道中使用人の姿がちらりと見受けられたものの、屋敷の中で最も魔力が高いのは騎士団を追い出されたベスであり、対抗する魔法をかけられても無効化されてしまう。ハルミアが激突しないよう扉を開いたり、物をどかすことがやっとだ。とうとう屋敷の大扉が開かれると、泡が解け弾けるようにしてベスのかけた魔法が解けた。


「えっ」


 ぽんと、ハルミアの体が投げ出される。ベスのかけた魔法は、すぐにシリウスを迎えるようにする為のものだ。よって、ハルミアの魔法が解けたということは、彼女がシリウスの前に辿り着いたということである。


「えっ」

「えっ」


 ハルミアの視界いっぱいに、シリウスの整った怜悧な顔立ちが広がる。それどころか切れ長で晴れ渡った空色の瞳が広がり、やがて額に強い痛みと衝撃を感じた。


 反射的に瞳を閉じながらも、ハルミアは察した。自分がいま、完全にシリウスにぶつかったことに。よって彼女は着地した瞬間、押し倒す形になってしまったシリウスの身体からすぐさま飛びのいた。


「も、申し訳ございません!」

「いや……」


 シリウスは頭を左右に振り、何が起こったかよくわかっていない様子で瞳を彷徨わせた。やがてぼんやりと目の前に立つハルミアを見上げると、あっと目を見開いた。


「魔力石は!」


 シリウスがその白い髪を振り乱し、血の気が引いた顔で地面を手でさらう。その姿を前に漠然と捧生の儀を行えば、自身の魔力を使うことも腕輪を持つ者に制限されることをハルミアは思い出した。そうか、先ほど魔法を使ったのは、魔力石を使ったからか。大いに焦るシリウスを前に彼女が冷静に納得する中、オルディオンの庭に絶叫が響いた。


「ああああああああああああぁっ! わ、私の魔力石が……!」


 シリウスが、愕然としながら手を伸ばし拾い上げるのは、砕けた石の欠片たちだ。子供が海で拾う砕けた貝殻程になった魔力石たちは、輝きを失いただただ散らばるばかり、彼が握りしめ詠唱を行っても反応を示す様子は無い。


「あ……あぁ……」と絶望を帯びた声色で呻きただの石と化したものを拾い集める姿を見て、ハルミアは自分のしたことを理解した。


「も、申し訳ございません。貴重な魔力石を、えっと、べ、弁償致します。今すぐにとは言えませんが、必ず、必ず――!」


 魔力石は、貴重な品である。人が一生のうち作れる石は三つほどと言われ、さらに膨大な魔力を必要とするため、少し魔力に自信がある程度では欠片を作るので精いっぱい。硬度はどうあっても硝子を超えることはないため、国内で生成されるのは主に戦時に備える軍事利用か、大規模な災害、疫病が広がってしまった際に用いる防災、救護に集中している。


「〜〜っ! ……だ、大丈夫です。じ、事故のようなものですし」


 シリウスは一瞬、ハルミアを力いっぱい睨み付けた。しかしすぐに笑みを浮かべる。ハルミアが立ち上がろうとする彼に手を伸ばすと、避けるようにして立ち上がった。◇◇◇


「挨拶が遅れましたね。ハルミア嬢。私の名前はシリウス・ルヴィグラ。王家の命により、ここに馳せ参じました。突然のことで驚かせ、戸惑わせてしまっていることは承知ですが、どうぞよろしくお願いいたします」

「いえ、そ、その、こっこちらこそ、よ、よろしくお願いいたします」


 ハルミアはしどろもどろになりながら頭を下げた。そんな彼女を見てシリウスは怪訝な目をした。


「ハルミア嬢?」自分の行動に疑念を抱かれていることが雰囲気で分かったハルミアは、シリウスの視線から逃れるように「お部屋までお運びしますっ」と彼の荷物を引っ掴み、屋敷の中へと入っていく。


「いえ、荷物は自分で持ちま――」


「御嬢様! っと、旦那様! 大丈夫ですか?」


 想定よりずっと重いシリウスの鞄を、引きずらないよう腕に力を籠め運ぶハルミアの前に慌てた様子のアンリとベスが飛んできた。アンリがハルミアの持つ鞄を持ち、ベスがあわあわと手を動かしながら「どれをお持ちすれば?」とシリウスの両手に抱える鞄を見回した。


「使用人のアンリとベスです」

「へぇ、よろしくお願いしますね」


 ハルミアが紹介すると、シリウスが柔和な笑みを浮かべる。その視線がどこか値踏みをするようで、ベスは委縮した。しかしシリウスの額にあるものを見つけ、あっと声を上げた。


「あっ、も、もしかして、ハルミア様とぶつかっちゃったっすか? 申し訳ございません! 実はさっき、俺の魔法で……」

「ベス!」


 ハルミアは全てを話そうとしてしまうベスを反射的に止めた。しかし、ベスのある癖を思い出し、口を手で覆う。


「あっ……、えっと……――うっぷ」


 そしてハルミアが口を手で覆うと同時に、ベスも自分の口を手で覆い、凄まじい速さでその場を離れた。


「どうしたんですか、彼は」


 ベスの突然の行動に、シリウスの眉間に深いしわが刻み込まれた。不審者を相手にする目で、ベスの走り去った方向を見つめている。


「えっと、彼は、その、あまり身体が丈夫ではなくて……」


 ベスには困った癖がある。それも嘘を吐くと吐いてしまうという、ベス本人の人生の歯車さえも簡単に歪めてしまう恐ろしい癖が。


 しかし、本人が不在の間にそんな説明をできるはずもなく、ハルミアは「えっと、では、お部屋に」と強引に押し切ることにした。シリウスは警戒を隠さずベスの去った方向を見つめるも、ハルミアがそれ以上の説明はしないことを察し、屋敷の奥へと入ろうとする彼女の後に黙ってついた。


 そのまましばし無言の時間が続き、さっぱりとした顔立ちのベスも合流してシリウスの荷物を運び終えると、彼は「荷ほどきは自分でしますので」とハルミアたちを部屋から退出させ、扉を閉じた。残されたハルミアたちは、アンリやベスは夕食会の支度に、ハルミアは自分の部屋へ、とぼとぼ戻っていく。


(初日から失敗してしまった……)


 ハルミアは失敗がないよう、失礼がないよう心の中で何度もシリウスを迎え入れる練習をした。それは決して好意を持ってもらいたいからではなく、相手の記憶に残らないためだ。


 自分の存在を認識されたくない。間違ってもおかしな人間だと思われたくない。たとえ常に黒一色の装いであっても、後から思い返される発言はしたくなければ、後に違和感を抱かれる動きもしたくなかった。そして今日ハルミアがした行動は、彼女が忌避していたはずの、印象に残る行動だった。


(忘れられる計画が……)


 夕食会では変なことをしないよう十分に気を付けなくては。急がなくて済むように、もう今から大広間に座っていてもいいかもしれない。全くもって身にならないような対策を立てるハルミアの後ろから、ぱたぱたと忙しない足音が響いた。

 またベスか、アンリか。何の気なしに振り返ったハルミアは、自分を追ってきた人物――シリウスを見て絶句した。


「し、シリウス様……、どこかお加減が……?」

「手紙を送りたいのですが、遣いをお借りしても構いませんか?」

「はい。もちろんです。私からアンリに渡しますね」


 ハルミアが手紙を受取ろうとすると、シリウスがまた一瞬だけ怪訝な顔をした。先ほど大失敗をしたから疑われているのかもしれないと、ハルミアは不安な気持ちになる。しかしシリウスは「ありがとうございます」と甘く微笑み、手紙を差し出してきた。


「いえ、また何かあればいつでもおっしゃってください」


 ハルミアは手紙を受け取り、シリウスに背を向ける。そしてそのまま、二人は反対方向へ足を進め別れたのだった。


◇◇◇


「これ、ルヴィグラ家へのお手紙じゃないですか!」


 夕食会の支度のため部屋を訪れたアンリに、着替えを終えたハルミアが受け取った手紙を渡すと、アンリは手紙の宛名を見て声を上げた。


「そうですよ」

「そうですよ。じゃないですよハルミア様! 何故手紙を出すのか聞いたのですか?」


「いいえ」


 ハルミアのあっけらかんとした返事にアンリは眩暈を覚える。女が結婚し嫁ぐときも、男が婿に入るときも、わざわざその当日に手紙を家に送ることなんてない。相手の家へ印象を良くするために渡すことはあっても、自分の屋敷に手紙なんてわざわざ送らない。送る理由がない。にも関わらず送ったということは、何かがあるということだ。


 アンリは、六歳年下のハルミアを妹のように思っているふしがあり、幸せになってほしいと願っている。だからこそ、国筆頭の魔法士といえど、突然王女に婚約破棄をされたシリウスを懐疑的な目で見ていた。それがいま、完全に確信へと変わった。


「危険です。中身、確認しておきますか?」

「大丈夫ですよ。心の優しい清らかなシリウス様ですから、危ないことなんてありません」

「御嬢様……」

「それに、もし私の知っているシリウス様でなかったとしても、オルディオン家は辺境を守る家。いくらこの婚姻に不本意だとしても、おかしなことはしないはずですよ」


 オルディオン家は国の最西端に位置している。かといって港はなく、崖下に果てない海が広がっている。海にたどり着くまでどこまでも深い森が続き、また王都と比べかなり発展の遅れがあり、夏は猛暑冬は豪雪と極端で人の住みやすい土地ではない。王都の者は果てのオルディオン、人生の墓場、世捨て人は王都にいないでオルディオンへ行けと言うほどだ。


 だが果ての海の先には大国があり、開戦の際には最前線と戦地となる。いわば国全体の砦だ。そんなオルディオンは今年の末、辺境を守る権利を腹心の家に譲ることが決まっている。


 ハルミアの姉リゼッタの婿ノイルは放浪、ハルミアは死神令嬢と呼ばれ信用できないというのが王家の認識だ。血を絶やさずに結んでいくことが本来望ましかったが、無理だと判断され、辺境の管理を譲渡することが決定した。しかしオルディオン伯爵、夫人のこれまでの慈善活動や功績を称え、領地はオルディオンの名を受け継ぎ、屋敷もそのまま遺すという寛大な処遇を与えられており、オルディオンの国への影響が表れている。


 シリウスの家――ルヴィグラ公爵家も、公爵は現宰相でありそれを充分知っているはずだ。そうハルミアは考え、シリウスの手紙に不信を抱くことはなかった。


「では、お手紙はお送りいたします」


 アンリは渋々手紙を懐にしまう。ハルミアがお礼を言って場を後にしようとすると、アンリは呼び止めた。


「どうしたの?」

「その、本日は初夜のご支度があると思いますので、少々湯あみの時間が伸びることでしょう。なのでいつもよりお早めにお呼びしますね」


 アンリの言葉に、ハルミアは目を丸くした後、ぴたりと動きを止めた。(え、え、初夜――?)


 ハルミアは次は目をぱちぱちと瞬きし、「え、えっと、えっと、初夜?」と壊れたレコードのようにして繰り返す。見かねたアンリが「しっかりしてください」と窘めた。


「いいですか。ハルミア様。もし何か乱暴にされたり、恐ろしくなったらすぐに大声をあげるんですよ。うなるように出してください。その方がよく聞こえるので」

「え、は、はい」

「魔法はハルミア様なしに扱えませんが、王都の貴族は皆嗜む程度には剣術を楽しむと聞きます。念のため寝室から武器になりそうなものは撤去いたしましたが、武器がなくなってしまったのはハルミア様も同じです。どうかお気をつけてくださいませ」

「はい……」

「では、広間に向かいますよ」


 アンリは淡々と護身の仕方を話し、一通り説明を終えると、部屋の扉を開く。


 けれど、ハルミアは説明された護身術は、頭の中に一切入っていない。それはアンリが護身について話すきっかけとなったとある単語……初夜について頭がいっぱいだったからだ。


(シリウス様と、初夜……そんなの絶対無理。きっとシリウス様の意にそぐわないことだし……どうにかして避ける方法は……)


 ハルミアは先ほど彼と衝突したことについてのお詫び、さらには初夜について頭を悩ませながら、ふらふらとした足取りで部屋を出たのだった。


(どうしよう、ここで私が体調不良であると示して、どうにか初夜を避けることはできないかしら……)


 ハルミアは夕食の場である広間にたどり着くと、何とかしてシリウスに寝室を別々にすることや、今日に至るまで馬車に揺られていた彼に労いの言葉をかけつつ、それとなく今後に引き延ばせないかと考えていた。


 一方のシリウスはといえば、まだ訪れる気配がない。ハルミアはシリウスを待たせるなんて絶対してはならないと、予定より早く広間に着いていたからだ。よってテーブルにはただただ純白のクロスによく磨かれたカトラリーが並べられ、天井から吊るされたシャンデリアの光を反射するばかりだった。


 ハルミアは、銀食器たちに自分の影がどす黒く映る姿をじっと見つめる。今日が想い人との初めての夕食でありながら、彼女は変わらず深淵を彷彿とさせる黒の装いだ。たとえ、それが好きな人の前であってもだ。ハルミアは暖炉の上部にある、硝子の額にはめられた肖像画に視線を移す。


(私は、絶対に、この黒から逃れてはいけない)


「お待たせいたしました。ハルミア嬢」


 肖像画を眺めていると、投げかけられた声にハルミアはあっと声を上げそうになった。シリウスが、来ている。慌ててハルミアが扉のほうに目を向けると、彼は真っ白な正装に身を包み、穏やかに微笑んでいた。(この輝きに、私はきっと殺されるのかもしれない)


 どう見ても質のいい白の上掛けには、体のラインに沿うように曲線を帯びた金と青の刺繍がされ、職人が長い時間をかけて針を入れたのがよく分かる。埋め込まれた蒼玉と藍昌石がルヴィグラの家紋である鷲を模していて、黄金のタッセルが垂らされその存在を強く主張していた。


 表情にも、祝賀会で見たうろたえた様子はない。涼やかな瞳はまっすぐハルミアに向けられ、彼女はどう視線を向けていいか分からなくなり、息を呑んだ。


「こちらになります! 旦那様」


 ベスの案内のもと、シリウスがハルミアと向かい合うように座った。失礼があってはならないとハルミアは意を決する。


「王都からオルディオンまでの旅路、崖を下り山を越えとさぞ過酷だったことでしょう。食事は、果てのオルディオンといえど料理人が食材を取りそろえ腕を振るったものです。どうぞごゆるりと、そしてお楽しみいただければ……」

「ええ。オルディオンの魚は王都で高級品とされていますからね。とても楽しみです」

「はい。本日はラアル沖の魚を料理に使っていて……」

「ラアル沖ですか? だとすると、もしかして夜宵(やよい)の魚ですか?」

「ええ」

「まさか、夜宵の魚が食べられるとは。王族でも中々食すことが出来ないものを頂けるとは光栄です」(大丈夫、私はきちんと話ができている。大丈夫……)


 以前から頭に叩き込んでいたオルディオンの知識をハルミアはひとつひとつ思い出しながら声に出していく。シリウスは興味深そうにハルミアの目を見つめていて、彼女は黒いドレスの裾を握りしめた。


「それで、あの……」

「前菜をお持ちいたしました!」


 ベスが前菜を持ってやってくる。今日の前菜は、オルディオンの山で採れた山菜と、そのふもとにある牧場のチーズで和えたものだ。特に山の香草は婦人たちが夜会のドレスをさらに彩る香水にも用いられ、オルディオンの名産といっても過言ではない。


常月草(とこつきそう)ですか? これまた貴重な品を……」

「ええ。夜にならないと採取出来ないとされていますが、この辺りは山々の影によって太陽が昇っていても夜と同じ場所が多いですから」

「なるほど……なら日を求める植物は育ちにくいのですか?」

「そうなのです。日の当たる場所も確かにあるのですが、王都と比べると少ないですね。そういうこともあって日没から開かれる祭りは盛大に行われます。灯りを海へと送る祭りがあって……」

「ほう、どんな趣旨で開かれるのですか?」

「昔からここに伝わっているお話が起源と言われています。竜に見初められた花嫁が、戦いを終わらせようと海の先へ旅立った竜に恋を綴った灯りを送るという……」

「恋の祭り、なのですね。祭りが開かれる時には案内して頂けますか?」


 シリウスの突然の誘いに、ハルミアは言葉に詰まった。今季節は春を迎えたばかりで、雪解けで白く濡れている部分もまだ残っている。祭りが開かれるのは夏の終わりだ。遠い日のことといえど、シリウスと祭りに行く、そして彼に誘われたという事実はハルミアの頭を大いに混乱させた。


「えっと、私に案内が務まるのかは、分かりませんが、尽力させていただきます……!」

「はは。ありがとうございます。うれしいです」


 ハルミアは何とか言葉を絞り出す。すると途端にシリウスのまとう空気が冷たいものに変わった気がして、慌てて顔を上げた。しかし、彼は柔らかな笑みを浮かべるばかりで、その瞳も穏やかなものだ。


「では、えっと、お食事を……」

「そうですね」


 シリウスがハルミアに促され、フォークへと手を伸ばす。ハルミアは彼の様子を窺いながらほっと息を漏らしたのだった。


◇◇◇


 夕食会が終わり、夜も始まった頃。湯あみを終えたハルミアはオルディオン家の部屋で一人、寝台を前にただただ立ち尽くしていた。


(美しい女性に来ていただいて……。駄目だ。オルディオンに娼館はない)


 夕食会の席でシリウスはハルミアに対してにこやかに、紳士的にふるまっていた。意にそぐわぬ婚姻、そして、自身の魔力の権を奪われているにも関わらずだ。


 だからこそ彼も望んでいないだろう初夜は、ハルミアから引き延ばすよう働きかけなければならない。


 そう考えた彼女は夕食も終わりシリウスが広間から退出する際、意を決して彼に近づいた。しかし逆に彼のほうからさらに近づいてきて「夜、お部屋に向かいますね」と囁かれてしまったのだ。


 ハルミアは、シリウスに一等弱い。


 シリウスでさえなければ何の問題もなく行えることが、彼を相手にしただけでその悉くが駄目になってしまう。彼女の恋心はそれほどまでに染み付いていた。


 初夜の準備は、完璧だった。侍女であるアンリの手によって、湯あみは薔薇を浮かべ香油をたらされ、出た後は髪にも肌にもしっかりとクリームを塗りこまれた。寝室はほんのり色味のあるランプだけが灯り、香が焚かれている。天蓋のついた寝台は、華奢なレースが窓からの柔い風に揺られていた。


 本来ならば、夜着姿のハルミアがそのレースの中に入って籠に捕らわれた鳥のように行儀よく彼を待っていなければならない。


 しかし、ハルミアの浸食された恋心こそが、流されてはいけないと胸の軋みを伴い訴えかけ、彼女は天蓋レースの外に立っていた。昼間と同じ黒一色といえど、日中身にまとうものと異なり、前は開かれ滑らかな肢体は露わになっており、普段触れぬ風が触れることで、彼女をより一層弱気にさせる。


「いっそ、書き置きを残して私は自分の部屋に行ってしまおうかしら。でも、何か誤解をされ、シリウス様の評判に関わるようになってしまったら……」


 ハルミアは、どうしてシリウスに囁かれたとき頷いてしまったのだろうと後悔をした。あの時頷いていなかったらもっと事態はいいほうに転がっていたはずだ、もしかしたら自分はこうなることを望んでいたのではないかと拳を握りしめる。


(いいえ、私はこんなこと望んでいない……でも、私はいつだって、浅ましい人間であった……)


 寝室には、大きな竜を模った像が月灯りを反射して輝いている。


 オルディオンの地では竜に対し深い信仰心を持っており、竜を模したものを身に着ける者が何かと多い。竜神教と呼ばれ、月に一度祈りを果ての海へと捧げる教会もある。


 しかし、教会に入っていなくても竜というものは何かと馴染み深く、竜と花嫁の物語から寝室に竜を置くと夫婦円満であれるというのが言い伝えとしてあった。


 ハルミアは、竜を恨めし気に見つめる。彼女にとって神は三人の人間であり、竜ではない。そしてその三人は永遠にハルミアが向かうことの出来ぬ場所に行ってしまったことから、すでにこの世界に彼女の神は存在しない。


 ハルミアが燃えるような紅い瞳に暗闇を溶かしていると、静寂を打ち破るように寝室の扉がノックされた。


「こんばんは、シリウスです」


 低く甘い菓子のような声にハルミアの心は一瞬にして現実に戻り、すぐに扉へと向かう。慌てて開くと、真っ白な寝着姿のシリウスが目を丸くしいていた。


「え……」

「え……」


 本来ならば、ハルミアは寝台の上で了承を伝えればよかった。


 にもかかわらず彼女は寝台を抜け、扉を開いた。シリウスは目を瞬かせていて、そんな反応を見たハルミアもまた自分の失態を理解し取り繕いながらも「えっと、お酒、とか、飲みますか……」と初夜を望むような言葉を吐いてしまい、また自己嫌悪を起こした。


「お酒は結構です。少しお話をしたいのですが……」


 しかし、ハルミアの思惑は空しくも散った。「えっと」「その」を繰り返す彼女を見かねてか、社交の場をエスコートするよう、シリウスがハルミアの腰にそっと手を回した。


「まずは、座りましょう?」

「……はい」


 耳元で囁かれ、ハルミアがこくりと頷く。


 注ぎ込まれる声は毒だ。言いなりにされる魔法がかけられていてもおかしくはない。甘く感じるのは、自分のような愚か者を餌食にする為だ。


 ハルミアが何度も心の中で唱えても、紫水晶で作られたランプの光はシリウスの瞳に映り込み、妖しく揺らめていている。


 同じ寝台に並んで座り、妖艶さをまとって微笑まれ、ハルミアは夜着のフードを深く被り込んでしまいたくなった。しかし、フードを掴む手は、がっしりとした手が重ねられ、そのまま掴まれた。


「緊張していますね。私が恐ろしいですか?」


 シリウスに顔を覗き込まれ、ハルミアは息を呑む。逃れるように身を縮めると、すかさず彼はハルミアの掴んだ手を自分の胸へ導いた。


「私も、同じように緊張しています。でも、魔力の回路も、あなたのもの、私の全ては今、あなたのものなのですよ……?」

「う、えっと……私は、その、今日の初夜は……っ」


 ハルミアは何とか今日を引き延ばす文言を伝えるべく口を開くと、紡がれるはずの言葉はシリウスの唇に全て飲み込まれてしまった。


 氷漬けにされたように、ハルミアは固まってしまう。シリウスは彼女に口づけを落とし、幾度となく繰り返すと唇を離した。


「お嫌ですか? 私に触れられるのは」


 ハルミアは心の中で悲鳴を上げる。けれど、このままシリウスと共に夜を過ごしてはいけないことも痛いほどに分かっていた。


 彼は、王命により仕方なく自分と添い遂げようとしている。そして、酷く優しい彼だから、八つ当たりしたくなってもおかしくない存在の自分に甘く接してくれるのだ。


 だからこそ、甘えてはいけない。ハルミアがシリウスの存在を否定したと受け取られないよう、必死に言葉を考える間に、ハルミアの身体は寝台へと縫い付けられた。


「初めて見た時から、美しいと思っておりました。どうか私に身を委ねては頂けませんか?」

「わ、私は――」

「愛しておりますよ、ハルミア嬢」


 衝撃でハルミアは目を閉じると、シリウスの手がハルミアのフードにかけられた。暴こうとする手にただただ動けずにいると、彼が不自然に呻き、ハルミアは魔法が解けたように目を開く。それと同時に、彼はハルミアへとぐったりと倒れ込んだ。


「え、シリウス様……シリウス様?」


 ハルミアが恐る恐る体を揺らしても、シリウスの瞳は固く閉ざされ開くことはない。その姿に、ハルミアはざっと血の気が引いた。


「あ、ああああ、だれか、誰か来て、シリウス様が、シリウス様が!」


 震える手足を懸命に動かし、ハルミアは寝台をおり、何とか扉のもとへたどり着く。


 助けを求める叫びによって屋敷の者たちが駆け付けるまでの間、彼女は狂ったように「シリウス様が」と繰り返したのだった。


「重度の睡眠不足、そして栄養失調。あと、ここ数週間前まともなものを口にしていないにも関わらず、常人と同じものを食べた、というのもあるでしょう。おおよそ貧しい者が貴族に引き取られた時と同じ症状が出ていますね」


 老齢であり、古くからオルディウスの民を診ている医者、ハルバートは寝台に横たわり一向に目を覚まさぬシリウスを見て、ため息を吐く。


 シリウスが倒れ使用人が駆けつけると、ハルミアはすぐさま医者を呼んだ。どこが重い病にかかっていると不安に思っていた彼女は、医者の診立てに目を丸くする。


「なぜ、こ、公爵でもあるシリウス様にそんな症状が……」

「本当のところはわかりませんが、婚約破棄により眠れなくなり、食事が喉を通らなくなった、と考えるのが妥当でしょう。これからしばらくの間は病人の食事をさせ、眠らせていればある程度は良くなりますよ。念の為、薬も出しておきましょうか」

「お願いします」


 人を癒す能力は、聖女しか持ちえない。どんなに魔力があろうとも、人を殺すことはできても殺さぬようには出来ない。薬や治療に頼り、究極的に言えば医者でなければ当人の回復を待つことしかできない。ハルミアは歯がゆい気持ちでシリウスを見つめた。そんな彼女にハルバートは薬を渡しながら冷たい目を向ける。


「恋心で身を亡ぼすとは、人間とは何年経っても変わらぬものですな」

「え……」

「どうかお気を付けください。眠れぬ、食事が取れぬまで追い詰められた人間が最後の最後にすることといえば、牙を向けることです。自分でも、他人でも。なるべく目を離さぬように。では私はこれで」


 念を押すようにしてハルバートはハルミアに翡翠色の目を向ける。鋭く淡々としているが腕のいい医者は、時折全てを見透かすようで、ハルミアは相対することを苦手としていた。自分の思惑を全て悟られ、最も見られたくない裏側を暴かれてしまう気がして彼女はうつむきがちに頭を下げる。


「ありがとうございます。ハルバート先生」

「仕事ですからね。それと、ハルミア様」

「はい」

「先ほど私が気を付けるよう伝えたのは、あなたの旦那様に対してだけではありませんよ。あと一月もすれば雨期が来るでしょう。それまで一度往診に呼んでいただけないのであれば、勝手にお伺いしますからね」


 刺すようなハルバートの視線が、ハルミアを貫く。そしてハルバートは返事を待たずに部屋を出て行った。


 寝室に取り残されたハルミアは、端正なシリウスの横顔をじっと見つめる。――初めて見た時から、美しいと思っておりました。――愛しておりますよ、ハルミア嬢


 耳に残るのは、毒を孕んだ言葉だ。ハルミアは、自分の容姿が人と異なることを知っている。そして、自分を愛する人間が、もう世界にいないことも。(だって、私を愛してくれる人は、もう、会えないところに行ってしまった)


 そしてシリウスは、シンディーに焦がれ、眠ることすら出来なくなり、食事をとることまでやめてしまった。


 愛している人間に会えない辛さをハルミアは痛いほどに理解している。愛する人を失った虚ろを共有するのが好きな人だとしても、自分の恋が叶っても、彼女はただ、シリウスに傷付いてほしくなかった。


 末姫に暴力を振るったなんて、間違いだ。きっと何らかの思惑に巻き込まれている。そうでなければ、シリウスは死刑になっているはずなのだ。末姫に暴力を振るった罪は重い。いくら姫が望まないといえど、不敬は許されない。だからこれは、何者かが仕組んだ謀りだとハルミアは考えていた。


 そして、シリウスを黒い渦の中へと落とすため、その背中に手を伸ばしたのはシンディーの可能性がある。愚かな自分でも想像に容易いのだから、聡明なシリウスが気付かないはずもない。それでもなお恋心を捨てることは出来なかった彼を、ハルミアは憂いた。


(もし、シリウス様が悪い人だとしても、私はきっと愛してしまう。あの日、助けてくれた優しさを思い出して、胸が痛む。きっとシリウス様も、同じようにシンディー姫を愛しているのだわ)


 どうか彼が幸せでいてくれますようにと、ハルミアは祈りを込める。けれど決してシリウスの手には触れない。だらりと伸びたその手に触れ、握ることは許されないと思っているからだ。彼女はそっと立ち上がると、寝室を後にしたのだった。


◇◇◇


 初夜にシリウスが眠りについて、とうとう丸二日が経過した。「少なくとも三日は目覚めることはないでしょうから、水滴で少しずつ水分を取らせるように」というのがハルバートの診立てであったが、ハルミアは気が気ではない。毎日絞った果汁とスパイスを加え温めた葡萄酒、パンを香草とミルクで煮たスープなどを用意しては、不安な気持ちで彼の目覚めを待っていた。


 疲れに効く文織草と虹浮木を調合した香を焚いてみたり、カーテンを白から安らぎを感じさせるといわれている新緑色に変えるなど、出来ることは全て行っている。けれどその成果が表れることはなく、長く繊細なまつげに縁どられた瞼は閉じたまま、毒によって眠りに落ちた姫のようにシリウスは眠り続けていた。


 そしてハルミアは、温度の調節が出来るよう、額によく水で冷やした布をのせることもしていて、今日もまた冷たい水を桶へと入れるため、オルディオンの廊下を往復していた。


「御嬢様、また旦那様のもとへ行ったんすか?」


 ハルミアが振り返ると、べスが立っていた。彼女が持つ桶を見て、「行ったんすね」と、不安げな目を向ける。


「旦那様がお目覚めになられる前に、このままだとハルミア様が倒れてしまうっす。看病は俺たちに任せて休んでほしいっす!」

「でも……」

「旦那様が起きたとき、ハルミア様は旦那様の看病してて倒れたって説明しなきゃいけなくなるっすよ? それでもいいっすか? 嫌なら俺、嘘ついて旦那様の前で吐いちゃうっすよ?」


 べスは、自分の癖についてよく思っていない。にもかかわらず口に出したということは、よほど思いが強いということである。彼の言葉にハルミアはゆっくり頷いた。


「分かりました。でも、水を汲んで、シリウス様の寝室に飾る花瓶の花を庭園で摘むことはさせてください。それが終われば、きちんと休みますから」

「仕方ないっすねえ。なら俺も郵便の確認が出来てないっすから、お供するっすよ」


 べスがはぁ、と溜息を吐きながら歩き出す。べスの使用人らしくない振る舞いは、気質だった。元は騎士の家系ではなく公爵家に勤める使用人の家系であったが、性格上働けないとのことで騎士団に入った結果、武功を上げたものの癖により退団を余儀なくされてしまった。そして巡り巡ってオルディオンの屋敷に勤めることとなったのである。


 この状態で招待客などの接待を頻繁に行うのであれば問題であるが、幸か不幸か今現在オルディオンの屋敷に訪れ中に入ることが出来るものはごく僅かな家の関係者のみで、ベスの悪癖も承知している。よってベスは奇跡的に仕事が続けられる状況を手にできていた。


「あれ? なんかぴっかぴかのお手紙が入ってるっす!」


 花を摘み終え水も汲み終わり、二人がポストへ向かうとベスは郵便受けに入っていた手紙を掲げた。手紙は白の粒子を纏ってくるくると踊るように円を描き、ハルミアの手元に収まる。宛名はシリウス・ルヴィグラ。封蝋を見るとルヴィグラ家の家紋を押されており、彼の色味を模した深海の蝋が垂らされていた。


「シリウス様宛だわ。すぐにお渡ししなきゃ」

「待ってくださいっす。置いていかないでほしいっす!」


 ハルミアはすぐさま屋敷へと駆けていく。オルディオンの庭は広い。いくつもの深紅の外灯を潜り抜け黒煉瓦で出来た屋敷の中へと戻っていくと、ちょうど大階段のところでアンリがぱたぱたと走ってくるところであった。


「ハルミア様! 旦那様がお目覚めになられました!」

「本当ですか!」


 アンリの声に、ハルミアは驚きと喜びで目を開く。飛ぶように階段を駆け上り、一目散にシリウスのいる寝室の扉を開くと、彼は半身を起こし、ややぼんやりした目つきでこちらを見ていた。


「あ……ハルミア様……」

「お目覚めになられたのですね。喉の渇きはありませんか? どこか痛いところは……。医者をお呼びしますね。えっと、あとまずは……食事の用意は……」

「ハルミア様落ち着いてくださいっす。旦那様がびっくりしてるっす!」


 自分を追いかけてきたベスに窘められ、「ああ! 申し訳ございません」とハルミアは落ち着きを取り戻す。


「あの、ハルミア様、私は……」

「丸二日、眠っていたのです。医者は睡眠をとっていなかったことや、食事をとっていないことが原因だと言っておりました」

「そうですか……」


 ハルミアの言葉に、シリウスは驚く様子もなく、そっと天色の目を伏せた。いつもならばその姿にときめくハルミアだが、今のシリウスはどこか泡と共にふわりと消えてしまいそうで、彼女の心を不安にさせた。


「えっと、それと、ルヴィグラ家からお手紙が届きました。シリウス様宛です」

「本当ですか!!」


 ハルミアが手紙を差し出すと、シリウスはそれまで終末を迎えるかのような雰囲気を一変させ、手紙に飛びついた。手紙を乱雑に開くと、朝日を受けた波を彷彿とさせるほどきらきらした瞳で、便箋に綴られる文字を嬉々として読み上げ始めた。


「……拝啓シリウス、先日送ってきた手紙についての返答と、今後についての話をしよう。なに、会って話すことでもない、お前はオルディオンへ婿に入れられたと考えているのかもしれないが、……我が家にお前の帰ってくる場所などない。代々築き上げてきた、我ら、ルグヴィラ家の名を汚す……面、汚しめ……、二度と、顔も、見たくない……」


 その内容は、間違いなく絶縁状であった。徐々に読み上げるシリウスの声から覇気がなくなり、瞳も徐々に光を失っていく。


「お前の名前は、ルヴィグラ家から永遠に抹消する……。今までのお前の些細な栄誉など、お前の犯した罪に比べれば霞程度。王都に戻れるなんて……考えないことだ。果てのオルディオンで、せいぜい国に尽くし詫びながら苦しんで……死ね……」


 あまりの内容に、騎士団を追われ家を追われたベスも言葉を失う。ハルミアは手紙を滑り落とし、愕然として瞬きひとつしないシリウスに声をかけようと近づいた。しかし、


「近付くな死神!」


 シリウスは、手を振り払いそれを制する。手を伸ばしかけていたハルミアの手に音を立てて当たった。手を叩かれたハルミアは、ただただ愕然と立ち尽くした。


「シリウス様……」

「馴れ馴れしく呼ぶな!」

「え……」


 シリウスの態度の急変に、ハルミアは言葉を止める。するとシリウスは畳みかけるように叫びだした。


「死神なんて好きになるわけがないだろ! 捧生の腕輪を使えるようにして、王都へ戻るつもりだったのに! ルヴィグラ家に僕の居場所がないのなら、お前の利用価値なんてない!」


 シリウスは、ベッドサイドに置かれた花瓶を手に取ると、壁に向かって叩き付けた。ハルミアが片付けようとすると、枕やクッションを取り、投げつけ威嚇していく。


「くそ、くそ。俺は筆頭魔法士だ。東の魔物だって倒したじゃないか。それなのに皆魔力魔力と……」

「シリウス様……」

「出ていけ! そんな辛気臭い黒色なんて! 縁起でもない! お前の顔なんて見たくない! 出ていけ!」

「でも……」

「出て行けと言っているだろう!」


 シリウスはうんざりだと言わんばかりに叫ぶ。あまりの様子にハルミアはどうすることも出来なくなり、ベスやアンリがハルミアを無理やり退出させる。そして扉が閉まってもなお、シリウスは叫び続け、怒りを露わにしていたのだった。


◇◇◇


 オルディオンが看病の際に作る料理で有名なのは、麦パンや木の実をミルクで甘く煮込んだパン粥だ。麦は日差しをたっぷりと受け、香ばしい風味のある夕笛麦を使った歯ごたえのあるパンを焼き、主に森でとれる甘酸っぱい凪苺の実やスパイスと共にじっくりミルクと火にかける。パンはとろりとして、味も優しくまろやかになり、栄養価も高いことからオルディオンの病人を救う定番食とされている。


「シリウス様、お食事をお持ちしました」


 そんなパン粥をハルミアがシリウスに運んで行っても、寝室の扉は開かれることなく、彼女は困ったように「扉の前に置いていきますね」と声をかけ、その場を後にした。


 シリウスが、目を覚まして五日。彼がハルミアに拒絶の意を伝えてから、扉の鍵は固く閉ざされたままだった。


 オルディオンただ一人の医者、ハルバートの診立ては「出るまで食事も水も出さずに放っておけば、そのうち出てくる」というあまりに慈悲のないもので、ハルミアはシリウスに不要だと怒鳴りつけられてもなお、部屋に食事や飲み物を献身的に運んでいた。


 無駄になってしまう可能性があるからと、料理人ではなく自分が彼の食事を作り、飲み物と共に運んでいる。そして手を付けられることなく食事を下げることを三日繰り返し、今に至っていた。


「ハルミア様。もう、ベスに扉を開けさせるべきでは? どうせ相手は対抗魔法が使えないのですから」

「そうですね……。あまり強引な手段をとってもし何かあったらと思っていましたが、そろそろ考えないとシリウス様の身が……」


 ハルミアは静かにうつむいた。人間がおよそ一週間、飲まず食わずで生きられることを彼女は知っている。けれど、生きながらえていたのはそういう風に身体が慣れていたからだ。恋に身を滅ぼしかけたといえど、今は大丈夫だとしても、公爵家で育てられたシリウスの身体がこの先絶対に持つわけがない。だからどうにかして食事を、それか水だけでもとってもらいたいと彼女は考えていた。


「……明日、明日一度、扉を破ります。ベスに伝えておいてもらえますか」

「承知いたしました」

「では私はまた、西の森のほうに行きますので、シリウス様をよろしくお願いします」


 西の森、と聞いてアンリの表情が一瞬曇った。「今日は午後から風が強くなるそうですよ」と彼女の言葉に、ハルミアは「大丈夫」と頷く。


「風が強くなる前に帰ってきます」

「ハルミア様……」

「いってきますね」


 ハルミアはアンリから顔をそむけるようにフードを深くかぶり、その場を後にする。廊下から見える窓の外の景色は、分厚い雲に覆われ嵐が来ることを予兆していた。


◇◇◇


「なんだい。あんたも暇だね。婿に泣かされでもしたのかい」


 ハルミアが墓場にやってくると、丁度塀を掃除していた老婆、ヴィータが心底嫌そうに顔を向けた。辺りは春だというのに寒々しく、花芽吹く季節といえど枯れ葉が落ち、竜の鱗を象った石畳を焦げ色に染めている。


「いえ、その、彼が家からの手紙を受け取ってから……部屋から出なくなってしまって……」


「ふん。家からの手紙っていうのは、もう二度と王都に戻るなとか、どうせそんなところだろう?」


 ヴィータは傍に置いてあった金の薔薇が刻まれた如雨露を塀にかけた。


「結局泣かされたんじゃないかい。で、どうするんだ。末姫のお古なんて屋敷に置いておいても、ろくなことなんてないよ」

「……捧生の契約が解かれたら、きっと彼は屋敷を出ようとすると思います。ですから、私はその契約を解く方法がないか、調べます」

「あんたも人が良すぎるね。馬小屋にでも捨て置いちまえばいいものを。自分と境遇が似てるって思ってんのかもしれないが、あっちはお貴族様なんだよ? あんたとは育ってきた世界が決定的に違うんだ」

「わかってます」

「あと、あんたそろそろ護衛を連れてきな」

「え……」

「最近、東のほうが騒がしいって街の噂好きの馬鹿共が言っていたよ。魔物が出たとか言ってねえ。こっちだっていつ同じようなことになるか分からないんだから、愚図のベスでも頭でっかちのアンリでも引っ張ってきな。二つ返事でついていくだろうさ」

「ひ、東に新たな魔物が出たのですか?」

「街の人間はそう言ってるが、取りこぼしたってこともあろうだろうね」


 取りこぼし。もしそれが本当であるならば、筆頭魔法士のシリウスや、国一番の剣技を持つガイと、他二万の兵士の目から逃れた魔物であり、王都に危機が迫っているということだ。


「国は動いてるだろうけどね。西の変人を引っ張ってまで平和を知らしめるパーティーを開いた後に万が一魔物を逃がしたってことが明るみになったらそれこそ革命が起きちまうよ。内々に処理するはずさ。でも」

「でも?」

「人間、自分の都合の悪いもんは軽く見えるように出来てんだ。もしかしたら気のせいだとなーんにもしてないことだってあるかもしれない。だからお前も一人でのこのことこんな所に来るんじゃないよ。守ってもらった大事な命なんだろ」

「……はい」


 ハルミアは自分の胸に手をあてて、鼓動を確かめた。この心臓は、自分のものではない。三人のものだ。目を閉じて三人の笑顔を思い浮かべてから、彼女はまた前を向いた。


「では、挨拶をしてきますね」

「ああ。さっさと済ませな。雲行きがどんどん悪くなってきてるよ」


 急かすようにヴィータがしっしと手を振っていく。ハルミアは促されるまま、墓地の中へと向かっていった。


 墓場を後にしたハルミアは、しっかりとした足取りで屋敷に向かって歩いていた。


 オルディオンは土地柄、日中でも薄暗い。よってせめて視界に入る建物は明るい色でいようと、この地方の屋敷の外装は皆明るい色味だ。


 上部に竜の彫刻が置かれた街灯を幾度も通り抜け、色彩豊かな煉瓦で出来た屋敷を過ぎていくと、壁は濃紺で、屋根だけは淡い極彩石が用いられたオルディオンの屋敷が見えてくる。


 オルディン伯爵は、その物の来歴について厭わない人柄で、見目や能力さえ伴っていればどんな物でも扱った。


 今屋根として使われている石は、魔力で加工したものではなくここから南の海街で取れたものだ。道はなく、海の中に屋敷が立ち並び人々は船で移動する場所で、いわば何も手が加えられていないもの。来歴を聞けば手抜きであると人々は避けてしまう。しかし伯爵は来歴の価値観なんて時代とともに薄れてしまい、いつかこの極彩石も日の目を見る日が来るはずだとハルミアに話した。


 かつての記憶を思い出しながらハルミアが歩いていると、丁度オルディオンの門の中へと入ったところでアンリが血相を変え走ってきた。反射的にシリウスに何かあったのだと察知して、ハルミアは駆け寄る。


「どうしましたか、アンリ」

「大変です、旦那様が、ま、窓に、とにかく来てください!」


 顔色が真っ青になっているアンリを見て、ただ事ではないと感じ取ったハルミアは屋敷へと足を速める。しかしアンリを追って辿り着いたのは、オルディオンの屋敷の中央に位置する中庭だ。屋敷に囲われているこの場所は花壇が並び、屋敷の中から人々の目を愉しませられるよう職人が設計した。しかし中庭に集まっている使用人たちは、皆足元にある花々ではなく皆天を仰ぎ愕然としている。


「一体、何がー……っ!?」


 ハルミアが、顔を上げる。するとそこには、三階の窓――寝室の窓から身を乗り出し、外壁の縁に足をかけ、今にも飛び降りようとするシリウスの姿があった。


「し、シリウス様!」


 ハルミアは全身から一気に血の気が引いていくのを感じながら、シリウスが今落ちようとする真下へと駆け寄ろうとした。しかし「来るな!」とすぐさまシリウスに制され、足を止める。


 後ろについていたアンリが「庭師が、血相変えて走ってきて……、申し訳ございません」と謝りハルミアは首を横に振った。


「いいえ、こんなことになるのなら、今日扉を開いてしまえば良かったんです……私の判断の誤りです……シリウス様! 今すぐお部屋に戻ってください! 落ちたら死んでしまいます」

「うるさい死神め! 少しでも邪魔をするそぶりをしてみろ。この魔力石の欠片を使って、屋敷を燃やしてやる!」


 シリウスの言葉に、屋敷の者たちが皆息をのんだ。屋敷の使用人たちは皆ハルミアほどではないものの、魔力は高くない。シリウスを浮かせ部屋の中へ押し戻したり、落ちてきた彼を受け止めるほどの魔法は使えず、だからこそ彼の暴挙を許してしまった。


 屋敷の中で唯一高い魔力を持つべスも、こればかりは手の尽くしようがない。人を早く歩かせることは、早く向かいたいというハルミアの想いが根底にあったからこそ作用した。しかし、今のシリウスは部屋の中へ戻ることを望んでおらず、その手足に戻るよう命じることは出来ないのだ。


「どうして……」

「どうして? 当然じゃないか。国で一番の魔法士になれた! 将来は宰相の席だってあったんだ。聖女と結婚して、その地位は完璧だったはずだ。父上だって母上だって、兄上たちだって、僕のことをこれで無視できなくなった! なのに! 全部壊れた! 挙句の果てに、死神に魔力を奪われて、一生お前の傀儡として……俺は、俺は男娼として生きろと? 冗談じゃない! 魔物に食われた方がまだましだ!」


 シリウスは叫びながらも、縁からつま先を少しずつ出し始める。


「ま、待ってください。私は貴方を自分の言いなりになんて絶対にしません!」

「嘘だ! 僕に復讐する気か? 僕を生かして、苦しめようとしているんだろう!」

「私はそんなことするつもりもありませんし、魔力が、殆どないんです! 貴方が私を恐れる必要なんてない!」

「僕が、お前を恐ろしいと……?」


 ハルミアが叫んだ瞬間、シリウスの目の色が変わった。先ほどまで窓枠にかけていた手を離し、ハルミアを真っすぐと見た。


「いいか、僕はお前なんてちっとも恐ろしくない! たかが辺境伯の娘を何故恐れる必要がある! お前が捧生の腕輪を身に着けようと、僕は僕のものだ! お前のものになんてなってたまるか!」


 シリウスが怒鳴り、飛び込むようにして身を投げた。ハルミアは咄嗟に彼を受け止めようとアンリを振りほどき駆けていく。屋敷の者達は声を上げ、咄嗟にハルミアを戻そうとするが、誰一人その手は届かない。


 やがてハルミアとシリウスがぶつかった瞬間、橙、桃、そして深緑色の粒子が瞬いて、二人を包みながら眩い閃光を放った。


 周りにいた使用人たちは反射的に目を塞ぐ。眩い光が収まり、皆二人の元に駆け寄ると、ハルミアもシリウスも傷を受けることなく、ただ二人とも固く目を閉じたままそこに倒れていたのだった。


◇◇◇


 シリウス・ルヴィグラが初めて挫折を知ったのは、五つの時であった。大国ディミドリーフでは、生まれて五度目の春が訪れた子供の魔力を必ず測定している。そしてその高さが毎年新聞の一面に取り上げられ、ルヴィグラ家三兄弟の長兄、次兄はその高さを更新し続けており、末弟シリウスには、家の者のみならず、各公爵家、ひいては王家まで方々から大きな期待がされていた。


 しかし、その年シリウスが魔力保有量一位を取ることはなかった。


 それどころか、新聞に掲載される上位五十名に入ることすら出来なかったのだ。


 以来、ルヴィグラ公爵と夫人は、彼の存在を徹底的に無視した。魔力が少ないことを上の兄が馬鹿にし、玩具のように扱っても止めることはしない。遊びの延長でシリウスが死んだとしても、むしろ都合がいいとすら考えている節があった。


 上の兄に魔力を吸い取られた、空っぽの玩具。兄のみならず周囲からも揶揄され、シリウスの居場所はどこにも無かった。


 だからこそ、シリウスは努力を重ねた。魔力が少なくとも高位の魔法が扱えるよう、寝る間も惜しんで努力を重ね、魔術の研究をした。そしてとうとう、十二の時に少ない魔力で高位の魔法を繰り出せる術式を開発し、学園に入学したその年の武闘大会で優勝を果たした。


 それから、兄や両親はわずかながらシリウスを視界に入れるようになった。成績一位を取れば、挨拶を交わすことができるようになった。首席で学園を卒業したら、言葉が交わせるようになった。魔法士の資格を最年少で取れば、共に食事をするようになった。


 そして、国一番の魔法士になったら、祝いの言葉をもらえるようになった。


 シリウスが家族の輪に入れたと感じるようになったのは、彼が卒業と同時に魔法士の資格をとった十五の頃だ。彼は魔法省で働きはじめ、違法な魔力石を売買する人間の取り締まりを行う仕事に就いた。そこでも最優秀の成績を納め続け、彼が二十歳になったころだ。兄たちを抜いて次期宰相の話が持ち上がり、末姫である王女シンディーとの婚約話が舞い込んだのである。


 このままいけば、きっと家族でいられる。


 シリウスはそう考え、日々の仕事に打ち込んだ。魔法士の職務は順調であったが、最年少である彼と、彼より一回りも二回りも年上の部下たちとの折り合いは、決して良くなかった。


 シリウスは、神経質なところがあり、幼いころから矜持を踏みにじられ続けてきたために、気位が高すぎる面がある。そういったところで軋轢が生じていた。さらに、完璧でないと両親に目を向けてもらえないという彼の強迫観念に似た部分は、奔放で、よく言えば自由、悪く言えば幼いシンディーと、日頃衝突を繰り返した。


 シンディーは、度々ガイと姿を眩ますことが増え、シリウスが注意をしても聞くそぶりがない。東へ向かう旅の途中、自分と婚姻することは国の均衡を保つ上でどんなに重要なことなのか、婚約者以外の男と王女が二人きりになることが、外国にどんなふうに広がり、そして国民に対してどんな影響を及ぼすのか何度説き伏せてもついぞ頷くことはなかった。


 誰も自分を理解しようとしない。でも、自分は将来宰相の地位を得るのだ。そうしたら、きっと理解せざるをえなくなる。誰にも無視なんてさせない。シリウスはただひたすら宰相への夢を追いかけ生きてきた。東の魔物を見事討伐し、全てが順調にいっているはずだった。しかし、あと一歩のところで、全てが砂の城のように、荒れ狂う波にさらわれ崩れていったのだ。


 魔力を奪われ、挙句の果てに奴隷契約に用いられる捧生の印を与えられ、死神令嬢の婿にされる。


 シリウスは、前から死神令嬢の噂は聞いていた。どんな場所でも黒い服を着る変人。この国ではどの色のドレスを身に纏おうと自由であり規定はないが、毎シーズン同じ色に身を包み誰とも接しようとしない彼女の存在は異質だった。


 周囲から奇異の目で見られ、辺境伯の令嬢といえどもその管理権限が譲渡される娘との結婚なんて、シリウスにとって何の益もない。そしてシンディーが結婚相手に指名をしたということは、シンディーと死神令嬢が裏で繋がっていたということ。彼はどうにか死神令嬢を利用し挽回が出来ないかと考えオルディオンの屋敷へと向かった。


 そしてハルミアの反応を見て、自分に気があると確信したシリウスは、シンディーとなにか契約があったのだと踏んで、彼女を利用することにした。並行してルグヴィラに何とか王都へ戻れないかという相談と、シンディーやガイが言ったシリウスの行動はすべて冤罪ということを訴える内容を認めた。


 シリウスは、シンディーを責めることはしても、暴力を振るったことは一度もない。ましてや痣になるほどなんて、人間相手にするなんてありえなかった。しかし、ルヴィグラ家からの返信は彼の身が潔白であるとは全く信じておらず、王都へ戻るシリウスを拒絶するどころか、彼の生すら拒絶するものあった。


 よって、彼は生きる意味を失った。このまま生きていても仕方がないと、導かれるように淡々と窓の外へと身を投げたのである。


 そして、そんなシリウスが目覚めると、眼前には気難しそうな老齢の医者が自分の腕を取り、骨を確認しているところだった。窓の外は日が暮れかけており、真っ赤な夕焼けが部屋に差し込み、強い光によって一面を強い橙に染め上げている。


「あ……」

「お目覚めですかシリウス様」


 声をかけられ、シリウスはすぐさま起きそうになるが、使用人のべスに押さえられた。


「なっ何を!? 離せ」

「ばたばた動かれても迷惑ですからね、べスくんに押さえてもらうことにしました」

「ぶっ無礼な」

「無礼? 私は医者です。貴方を治す側だ。敬意を持つべきはそちらでしょう」

「は……?」

「ですから、大人しくしていただけますか? 私は今、治療用の薬品を持っています。貴方の意識を奪うことなんて簡単だ。しかし、薬は貴重なものです。無駄な消費をさせないでください」


 冷ややかな目でハルバートにそう吐き捨てられ、シリウスは口ごもった。周囲を見渡すと、自分がいつも寝泊りしている場所とは違い、家具は少なく窓しかない。隣を見るともう一つ寝台が置かれ、ハルミアが瞳を閉じてぐったりと横たわっていた。


「生きていますよ。彼女は」


 シリウスの視線に気づいたハルバートが、無機質な声色を発した。しかしシリウスは興味ないと言わんばかりに、「興味ない。勝手にしたことだ」と視線を背ける。


「そんな言い方はあんまりではないですか!? ハルミア様は貴方を庇って!」

「アンリさん待ってくださいっす、相手は病人っす!」


 思わず掴み掛かろうとするアンリを、べスが必死に止める。シリウスは気に留めることもなく目を伏せた。


「シリウス様は、何か勘違いをしておられるようですね」


 ハルバートが、シリウスを見やる。その視線だけで、空気が変わった。


「彼女が生きているのは、ただただ運が良かっただけです。本当なら、今頃葬儀の準備をすべきだと、私はこの二人に伝えていたことでしょう」


 責めるわけでもない淡々としたハルバートの口調に、アンリとべスの動きが一瞬にして止まる。ハルバートは、シリウスが顔を向けた方へ移動して、ただただ見下ろした。


「ハルミア様は、寝ずに貴方の看病をしていました。愚かですよ。一方的な奉仕など、自己満足でしかならないというのに。貴方が目覚めてから、不要だと言っていた食事はすべて、ハルミア様がご自身で作られたものです。それしか尽くし方が分からないのですよ」

「そ、それがどうした……」

「死神令嬢なんて馬鹿な噂を鵜呑みにして、貴方を庇った娘を不死か何かだと思っているのかもしれないですが、貴方が婿入りする随分前からこの娘は、棺に半身を置いた生き方しかしておりません。心なんて、もう弔いに預けている。十八だと言うのに、振る舞いに幼さを感じたことはありませんか?」


 ハルバートの言葉に、アンリとべスの表情が苦々しいものに変わった。空気が変わったことを敏感に察知したシリウスは、言い返すことができず押し黙る。


「この娘は、まだ産まれて十八年だ。いや、ただ死に至ってなかっただけで、正しく生きた年数なんて、三年にも満ちていない、幼子同然の特殊な娘です」


 ハルバートは、ハルミアへ視線を向けた。目を細め、鋭い目で見据えてから、無感動な瞳でシリウスを射抜く。


「貴方は多くの不幸に襲われて、心に余裕がないと見受けられます。何も優しくしろと言ってるわけではありません。自分の心のさざ波は自分で沈め、癇癪を子供にぶつけるなと、私は無傷の貴方への診立て代わりに伝えましょう」

「わ、私は癇癪など……」

「あと、それともう一つ。彼女の身体に殆ど魔力がないというのは本当のことです。オルディオン伯爵や夫人、姉のリゼッタ様は優しく温かく彼女に愛情を注ぎましたが、他の者は異なります。魔力が低い者に対して、人々がどんな反応を示すのかは、貴方もよくご存じではありませんか? シリウス・ルグヴィラ様」

「き、貴様――」


 シリウスが言い終える前に、ハルバートは荷物をまとめさっさと部屋を後にした。アンリとべスは声をかけることもできず、ただ隣で眠るハルミアの元へ集い、彼女の目が覚めることを願って祈り見つめていた。


◇◇◇


 瞼の裏に眩く白い光を感じ、波の音だけが響く。潮風の匂いにハルミアが目を開けると、雪と見間違えるほどの砂浜に一面の海が広がっていた。空も鏡写しのように遥か遠くまで鮮やかな青で染まっている。


「ここは……シリウス様……?」


 自分は、先ほどまでオルディオンの屋敷にいたはずだ。目の前の光景が理解できずに俯くと、足元に色とりどりの貝殻を見つけた。


 夏の深緑、秋の夕景、そして、春の花畑を思わせる、貝殻たち。一つ一つ手に取ったハルミアが、日の光に掲げていると、「ハルミア」と彼女を呼ぶ声が響いた。


「えっ……」


 鈴のように軽やかで甘い声に、ハルミアはすぐに立ち上がり、辺りを見渡す。しかし彼女の探し求める者の姿は見えず、たまらず彼女は駆け出した。


「ハルミア」

「ハルミア」


 どっしりとして、安心を覚える声がハルミアを呼ぶ。続いて、どこか神経質ながら、慈愛を帯びた声がハルミアを呼んだ。


「待ってください……」


 ハルミアは砂浜を駆けていく。走るたびに着ているドレスがもつれ、やがて彼女は転び、砂浜に倒れこんでしまう。すると遠くに探し求めていた人影が見えた。


「待って、待って、私を、どうか――」


 ハルミアが叫ぶ。しかし人影は陽炎のようにゆらめくばかりで、とうとう景色に溶けていった。


◇◇◇


「お目覚めですか。ハルミア様」


 ハルミアが目を覚ますと、そこはいつもハルミアが寝起きしている彼女の部屋だった。しかし最後の記憶はシリウスに向かって駆けたもので、混乱する彼女にハルバートが声をかけた。横にはアンリやべスも立っている。


「あっあの! シリウス様は、ご無事ですか?」

「大丈夫ですよ。それよりご自身の心配をなさってください」

「ハルミア様、あれから三日も眠り続けてたんすよ?」

「え……」


 ハルミアが驚くと「散々婿殿に寝ずの看病をしていたのですから当然でしょう」とハルバートが切り捨てるように言い放つ。


「は、ハルバート先生、シリウス様は今、どんな様子で……?」

「あなたが庇いましたから、生きてますよ。もうすぐ来る頃合いでしょう。……ほら」


 ハルバートが扉へ視線を向ける。すると、真っ白な布を深く被り、足先だけを出した、子供が仮装でお化けを模した姿にも似た人物がやってきた。ハルミアが首を傾げると、布お化けは「食事ですよ」と、不機嫌そうに手に持ったトレーをアンリに渡した。


「布を被ったまま食事を運ぶことは、いささか不衛生だと思うのですがね」


 ふ、と馬鹿にしていることを隠さず、ハルバートが鼻で笑うと布お化けはぴくりと反応し、そそくさと部屋を出て行く。


 状況を上手く呑み込めないハルミアにべスが「旦那様、ハルミア様を下敷きにして、ハルバート先生にこっぴどく叱られたんす」と伝えると、ハルバートが鋭い目をべスに向けた。


「それより、貴方たち使用人が下に綿や寝具でも重ねて並べ置いておけば、わざわざ私が無傷の人間を診にここまで足を運ぶことはなかったのですよ。それに、私の専門は人間の内臓でも、骨でもない。そのことをお忘れなきよう」

「わかったっす……」

「あの、ご足労いただきありがとうございました」

「礼などいりませんよ。慈善事業ではなく仕事ですから」

「それでも……ありがとうございます」


 ハルミアが頭を下げると「病人に頭を下げられても嬉しくありません」とハルバートは撥ね付け、使用人二人に顔を向けた。


「では、私は本業の仕事をしてから帰りますから、アンリ、べス、出て行ってくださいますか」

「分かりました。ハルミア様、何かご入用があればなんなりとお申しつけください」

「じゃあ失礼するっす!」


 ぱたぱたと慌ただしくアンリとべスが部屋を後にした。ハルバートは足音が遠ざかっていくのを見計らって、寝台近くの椅子に座る。


「あの……シリウス様は」

「ええ。貴方を下敷きにしたその日の夕方に意識が戻りました。翌日の朝からは運んできた食事も取っているので、それまで床に臥せり、使用人が泣き明かしても目を覚まさなかった貴方よりずっと健康になりましたよ」

「……ありがとうございます」

「病人の礼など不要だと、何度言えばご理解頂けるのでしょうか。それより眠れていなかったのは、旦那様の看病だけが理由ではありませんよね」


 ハルバートの言葉に、ハルミアは口を噤んだ。視線を伏せて、ぎゅっと手のひらを握りしめる。


「薬もいくつか出しておきます。雨期も近い」

「……あの、シリウス様が、もうあんな行動を取らないようにするには、どうしたらいいのでしょうか……どうにか元の気力を取り戻して頂きたいのですが……」

「何か、小さな成功体験を重ねることですね。今の彼は悉く矜持を踏みにじられ、夢も希望もない状態ですから。しかし、ハルミア様がそれを与えることに私は反対です」

「え……」

「共倒れ、道連れにされますよ。貴方はようやく持ち直してきたところなのですから」


 ハルバートは、日頃その瞳に感情をのせることはない。しかし、今日はそこに心配の色が混ざったことを感じ、ハルミアは静かに頷いたのだった。


◇◇◇


「私、シリウス様とお話をしてみようと思うのです」

「お前は馬鹿なんじゃないのかい」


 ハルミアが目覚めて一週間が経過したころ、久しぶりに彼女はオルディオンの果ての墓地に訪れた。そしていつも通りに墓守の老婆、ヴィータを捕まえそう宣言する。


「お前が倒れたって愚図のべスが報告に来たとき聞いたよ。お貴族様、飛び降りたんだってね」

「はい。それでハルバート先生に聞いたのです。シリウス様がもうそんなことをなさらないよう、元気になる方法を……そうしたら、何か小さな成功を積み重ねることが大事と聞いて……」

「はん。そんなのお前がくれてやってどうするんだい。共倒れになるってハルバートに注意でもされなかったのかい?」


 まるでその場で聞いてきたとしか思えない言葉に、ハルミアは目を見開いた。しかしヴィータは当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす。


「あたしはね、ハルバートを小さい時から見てきたんだ。あいつの診立てなんてなくてもそれくらい分かるよ。で、何をする気だい。止められたところでするんだろう?」

「はい。実はちょっと考えがあって……」


 そう言ってハルミアは、ある計画を話す。それを理解したヴィータは「あたしを巻き込むんじゃないよ」とハルミアをはたいたのだった。


◇◇◇


 ハルミアが目覚めるまでの間、シリウスは彼女の食事を運んでいた。それは、医者であるハルバートに伝えられた言葉が、全て彼の行動に身に覚えがあったからだ。


 初夜の日に、自分が倒れた後、朧げにであるが、ハルミアが自分に声をかけていたことに、聞き覚えがあった。


 さらに目を覚ましたことを喜ぶハルミアの目には、フードで少し隠れていたものの隈があり、最初オルディオンの屋敷で対面した時よりずっと、服の袖から伸びる指先はほっそりと、青白くなっていた。


 それでも、シリウスが彼女に感謝を抱くことはできなかった。シンディーに魔力の権を譲渡させられたといえど、今シリウスの魔力を奪っているのはハルミアで、自分の全てをハルミアが握っているのだと思っただけでシリウスはハルミアが敵にしか見えなくなる。心を許す気には到底なれない。


 だからこそ、身を投げようとしたときのハルミアの自分を恐れる必要はないという言葉に強い反応を示したのだ。


 自分が恐れるはずがない。魔力の権を持っているからと言って、馬鹿にするな。ただただ子供の癇癪でシリウスは飛んだ。はじめこそあと一歩で近づけたはずの自分の夢が泡と消えたことに絶望し、縁へと立ったが、あの瞬間のシリウスは、ただただ自分にわずかに残った矜持を崩されまいとする一心だった。


 そしてその、僅かながらの矜持も、霞と消えた。――彼女の身体に殆ど魔力がないというのは本当のことです。


 半信半疑で夜半、ハルミアの眠る部屋に入ると、ハルバートの言葉を裏付けるように、ハルミアからは魔力を感じなかったのだ。いくら魔力を失っていても、他者のそれを感じることはできる。そして人は活動するとき、無意識に魔力を放出しており、眠り、そして意識がない時は活動時に放出されるべきだった分が体内に蓄積し毒にならないよう、より放出されるはずだった。


 しかし、シリウスはハルミアから、まったくと言っていいほど魔力を感じることができなかった。


 彼は戦時に幾つもの同胞の亡骸と対面してきたが、その骸と同じ、それ以下の魔力しか、感じ取ることができなかったのだ。魔力が少なく生まれた人間がこの国でどんな扱いを受けるか、シリウスはその身を以てよく知っている。ハルミアの身体に何が起きているかを知り、そこでようやくシリウスに、後悔、そして詫びの感情が生まれた。初めに反発しか感じなかったハルバートの言葉が、深く刺さった。ハルミアに対して、自分がどんな態度を取っていたかをようやく理解したのだ。


 ハルミアが目覚めるまでシリウスは食事を運んでいた。いつか、ハルミアは目を覚ます日が来る。合わせる顔がないと、シーツを被って。そしてハルミアが目を覚ましてからは、食事を運ぶことを続けるか迷い、結局顔を合わせることから逃げ、シリウスはずっと部屋で過ごしていた。食事はべスが運んできて、それとなくハルミアの様子を知らせてくる。まるで、会いに行けと伝えんばかりに。


 ハルミアと、一度しっかり話をしなければいけない。それはシリウスもよく考えたことだった。けれどなかなか上手い言葉が思いつかず、一筆すら書けなかった。


 だから、シリウスも想定していなかったのだ。


「シリウス様、もしよろしければ、明日、共に外出を致しませんか?」


 ハルミアが目覚めて一週間後の夕暮れ、彼女から出かけようと誘われるなんてことは。


◇◇◇


 オルディオンの山は、およそ登山には向かない土地だ。山頂部と麓ではその気温が大きく異なり、人々が汗をかき、外出すら億劫になる夏場でも、その山頂ではしんしんと雪が降り積もり、一面凍て付いた銀世界が広がっている。


 黒々とした針金のような木々からは剣と見間違えんほどの氷柱がいくつも並び、迷い込んだ人々の命を気紛れに奪うからと、親が子に言って聞かせるほどだ。ではオルディオンの街並みが白く染まり、一年を終えようとする頃はといえば、灼熱の暑さとともに酷い干ばつが襲う。一歩踏み入れればすぐさま身体中の水分が抜け、渇きの苦しみと共に息絶えることで、動物の侵入を悉く拒絶しているとすら言われていた。


 しかし、その麓はそうでもない。


 日差しが入り辛いことで薄暗く、どこか寒々しいのは、春夏秋冬を通してあるものの、逆を言えば常に一定といっていい気温で、人々は遠乗りに出かけたり、山菜や木の実の収穫に訪れることもしばしばあり、ピクニックや散歩にはうってつけの土地であった。


 そして、昨晩シリウスを誘ったハルミアもまた、晴れ渡る青空の下、彼とともにオルディオンの山の麓へ散歩に訪れていた。


「えっと、この道はあまり町の人も訪れないところなので、安心してください」

「人知れないところで、私を殺すにはうってつけの場所ですね」


 白いローブを着て、フードを深く被ったシリウスが返事をする。彼の今着ているものは、ハルミアが与えたものだ。自分が昨晩誘いに行ったとき、慌ててシーツを被る彼を見て、あったほうがいいだろうと朝に持っていくと、出発する際、着替えて現れた。


「そんなことしませんよ。この辺りはほかの場所より影が濃いので、子供たちに近付かないよう町の大人たちは話すのです。そして、子供たちに示しをつけるよう、昼間は必要でない限り、近付かないようにしています」

「そうですか」


 一方のハルミアもまた、今日も今日とて全身真っ黒な装いに身を包んでいる。傍から見れば、黒い塊と白い塊が微妙な距離を取り並び歩く奇妙な光景であるが、黒い木々がささくれ立って並び、ぽつぽつと石が落ちているだけで周囲にそれを揶揄する人影はない。


 急ごしらえではあるが今日のためにと用意したものを詰め込んだバスケットを手に持ち、ハルミアは歩いていく。途中、シリウスは何度も声をかけようとしたが、その度に小鳥がさえずったり、春風が吹き、彩度の低い木の葉たちが渦を作り音を立てることで、叶わずにいる。


「この辺りは、幼い頃に家族で来ていたんです。姉様は外に出ることが好き……というより、屋敷の中にいられない気質で、よく、一緒に習っていたピアノや、ワルツのレッスンを抜け出そうと言ってきて……ここから左に逸れ、あの洞窟を抜けると、湖と木の実が沢山取れる草原に出ます」


 ハルミアは歩きながら、遠くに見える洞窟に指を指した。所どころ苔で覆われたその場所は、周囲の木々は白く、洞窟の奥からは柔らかな光を発していて、幻想的だ。シリウスは興味深そうに足を止めると、ハルミアも足を止めた。


「洞窟の中の空気の濃さが外とは極端に異なり、また、洞窟を作り出しているのが、双水岩(そうすいがん)ですから、ああいう風に見えるのですよ」

「双水岩……魔道具の材料のですか?」

「はい。王都で使われているのは加工されたもので薄めたものだと聞きますが、あれは天然もの、いわば原石です。国もなんとかしようと動いていて、調査員が過去に何百と訪れていたのですが、やはり硬度が問題で……」

「それで……」


 双水岩といえば、魔力を使って動かす道具の主原料になるもので、魔力を内側に流すことができ、さらに外側からほかの魔力を弾くことが出来るという、極めて需要が高い素材だ。


 しかし、採掘できる場所は限られ、さらにかなりの硬度で、高い魔力を持たなければ切り出しや熱で溶かすことも困難である。ただでさえ、拳ほどでも加工に手こずる品物だ。洞窟を作り出してしまうほどの大きさともなれば、戦時を想定した魔力を用いて加工しなければならない。


 さらに場所は果てのオルディオン。何百人もの魔法士を扱い岩を切り出しても、それを今度は王都で職人が加工するためさらに裁断しなければならない。そこまでの労力を用いるならば、今限りある場所から発掘した岩を加工するほうが、よほど効率がいいのである。


 シリウスが感心しながら歩み始めると、今度は七色の羽を持ち、粒子を発する鶴がハルミアと彼の頭上を旋回した。


「あれは、現鳥(うつつどり)ですね」

「現鳥?」

「知らないのですか? あの鶴の羽は薬効作用があり、さらに飛行魔法の力を増強する装飾に使われる鳥ですよ?」

「え……! あの鳥は、馬鹿にしたり意地悪をすると必ず仕返しをしに来るとこの辺りで言われ、子らに恐れられている鳥ですよ」

「へえ」


 自分の言葉に驚いていたハルミアに気を良くしたシリウスは、得意げになって話を続けた。


「王都であの鳥は貴重な鳥です。街から少し離れていたとしても、飛べば、すぐに撃ち落とされ、我先にと羽を毟られますよ」

「なら、この辺りで子供に恐れられている方が、あの鳥にとっては幸せなのでしょうか」

「そうですね。身は特に利用価値がありませんから。捨て置かれて腐るだけでしょうし」


 説明をして、シリウスから静かに目を伏せた。自分も、散々利用するだけ利用され、王家に捨て置かれた。このまま腐っていくだろうことも、自分と似ている。


 さっきまで言葉を交わしていたシリウスが黙ったことで、ハルミアは彼の顔を見つめた後、気を紛らわせるため、先ほど見た洞窟を振り返った。


「今度、あの先へ行ってみませんか?」

「え……」

「実は今日は、町の学び舎の子らが森との触れ合いの為に来ているのです。木の実が欲しい人は朝と晩に集中しますし、昼はあまり人がいません。ですから、その時にでも」


 本当なら、人に元気を出させるとき突然外に出すことはいいことではないと医者であるハルバートからハルミアは聞いていた。しかし今日彼女がシリウスと外出したのは、シリウスが人の目を気にするからだ。


 オルディオンの屋敷では、シリウスを表立って悪く言うことはしないまでも、王女から婚約破棄をされたこと、そして飛び降りをしたことで、目立ってしまう。だから、少しでも落ち着けるようにと、ハルミアは今日シリウスを誘った。


「まぁ、別に構いませんよ」


 シリウスは素っ気なくも、きちんと返事はする。ハルミアはぽつぽつと、少しずつ、シリウスと会話を交わす。彼が負担に感じないよう、答えやすい質問を選び取って。それは丁寧に砂を集めて、城を作り出すことにも似ている。柔く壊れやすいから、そっと、恐る恐る砂を盛る。壊れそうになったと感じたら、手を止める。


 そんな風にハルミアがシリウスと言葉を交わしていると、目的の場所に辿り着いた。


「ここは……」


 辺りは大きな湖が広がり、淡く鮮やかな花々が、己を見てと言わんばかりに咲き乱れている。柔らかな風が巻き上がって吹いており、花弁が絶えずひらひらと舞い上がっては、静かに降り落ちてくることを繰り返していた。それまで薄暗く、日差しの一つも入っていなかったのに、辺りは燦燦と光が差して、花々を祝福するように照らしている。


「綺麗ですよね。とっておきの場所なんです。よく、姉にここに連れられてました」


 あまりの景色に圧倒されたシリウスを横目に、ハルミアはピクニック用の敷き布を広げる。そこにはハルミアが丁寧に刺繍した花々が咲いていた。


「どうぞ、座ってください」

「あ、ああ」


 シリウスは刺繍の上に座ることが申し訳なく感じて、ひと際念入りに縫われた部分を避けて座る。ハルミアはバスケットから水筒とカップを取り出して、準備していたものを注ぎ、シリウスに渡した。


「どうぞ。レモネードです」

「……」

「私から飲みますね」

「いや、疑っているわけではなく……」


 受け取ったレモネードをじっと見つめるシリウスを気遣うハルミアが、もう一つのカップにレモネードを注いで飲んでみせた。シリウスは慌てた様子でカップに口をつけ、そしてわずかに目を見開いた。


「美味しいです。このレモネードは、貴女が?」

「はい。レモンと……それとライムを輪切りにして、しばらく蜂蜜と漬けて煮込んだものを水と割っています。実はほんの少し、お塩を入れてるんです」

「それで、あまり飲んだことのない味が……」


 熱心に研究する目をレモネードに向け、シリウスはカップに入ったレモネードを飲み干した。ハルミアがさりげなくおかわりをするか問うと、遠慮がちにカップを差し出す。ハルミアは追加のレモネードを注いだ後、バスケットからさらにボックスを取り出した。


「実は、お昼のお食事も作ってきたんです」


 ハルミアが包みを開くと、中から出てきたのはバゲットだ。瑞々しい野菜、香草のオイルに一晩漬け込んでから焼いた肉を挟み、さらに茹でた卵を刻んで合えたソースが挟まったそれを見て、シリウスはごくりと喉を鳴らした。


「お口に合うといいのですが」


 シリウスはハルミアからバゲットを受け取って、かぷりと一口、小さくかじった。バゲットは断面にもこんがりと焼き跡が付いていて、香ばしい風味が喉を抜ける。肉はしっとりとしていながら、味が濃く香辛料も強く効いているのに、野菜が一口大に千切られている為か、むしろ丁度いい具合でまた一口、また一口と食べたくなる味だとシリウスは感じた。


「どうですか?」

「……いい味だと思います」


 がっついているのだと思われないよう、シリウスはそっけなく返す。しかしハルミアは安堵した様子で、途端に申し訳ない気持ちになった。一方ハルミアはシリウスの返事に安心して、自分のバゲットに手を伸ばす。食べながら湖に小鳥が止まり、水を少しずつ吸い上げていく姿を眺めていると、ぼそりと呟く声が聞こえてきた。


「……あ、貴女は、食事を作られたり、するのですね」


 近年令嬢たちの間では、意中の相手に対して焼き菓子を贈ることが流行っている。しかし今だ貴族が料理をすることは否定的に見られており、ハルミアはそれとなく注意をされているのかとも思ったが、シリウスの声色からはそういったことを感じず、静かに頷いた。


「ええ。でも町やオルディオンの屋敷の料理人の方たちのようにはいきませんけどね」


 ハルミアが、シリウスではなく湖に目を止めたまま答える。フードから覗くその横顔は憂いを帯びていて、シリウスは時が止まったように感じた。


「……よく、姉様や、伯爵、夫人にお作りしていたので、菓子なども焼けますよ。もしよろしければ、今度一緒に作ってみませんか?」

「……そ、そうですね」


 今にも溶け消えそうなハルミアの雰囲気が、ぱっといつもと同じに戻る。シリウスは戸惑いながらも返事をした。


「バゲット、もう一つ食べてもいいですか?」

「ぜひ」


 ハルミアの表情は安らかで、いつもの彼女の表情だ。しかし、どこか仄昏い静けさを感じて、狼狽えていることを隠すように、シリウスはバゲットに手を伸ばしたのだった。◇◇◇


 湖の前で昼食を終えたハルミアとシリウスは、その後何かするでもなく、ひと並びに座り、レモネードを飲んだり、彼女が予め一口大に切っていた果物を口にしたり、ただのんびりと過ごしていた。湖では現鳥の群れが湖を縁取りながら悠々と羽を休めている。七色の羽は湖の水に沈み込み、七色の粒子は溶けこみ、彩は水の中へ閉じ込められ、静かに底へと舞い落ちている。一方で遠方の鳥たちは一羽、また一羽と湖を飛び立ち、飛沫を挙げて天へ向かっていて、ハルミアはただ見送りながら午後の時を過ごしていた。


「あの」


 丁度湖の中央にいた現鳥が飛び立ったとき、シリウスがハルミアへ顔を向けた。ゆっくりと振り返ると、シリウスはフードは被っているものの真っすぐその天色の瞳をハルミアに向けていて、彼女は何事かと心臓が強く収縮したのを感じた。


「ど、どうしましたか」

「……」


 呼びかけたにもかかわらず、シリウスは次の言葉を紡ごうとしない。口を開き、ぱくぱくと動かして、俯く。また顔をあげて、今度は口を動かすことなく俯いた。辛抱強くハルミアが待つと、ようやくシリウスは「私が、倒れていたとき……」と呟く。


「食事は、貴女が作っていたと聞きました……」

「ええ。そうですよ」

「……無駄にして、申し訳、ございません」


 ぎゅっとフードの裾を掴みながら、震える声で話すシリウスを見て、ハルミアは驚き固まって、すぐに首を横に振った。


「そんな、私に謝る必要なんてありませんよ。それに、体調が悪い中で無理に食べてしまったら、身体に響きます。気にしないでください」

「でも……」

「それに、私はシリウス様が元気になっていただけたらと用意したのです。食べてもらいたくて作ったわけではありません。今こうして、食事はとれているのですからそれだけで十分です」


 屈託なくハルミアは笑う。よりシリウスは申し訳ない気持ちになって「何か」と俯きがちに彼女を見た。


「貴女の手伝いになるようなことがあれば、したいと思っています……」

「手伝い……」

「何か、ありませんか?」


 シリウスの言葉に、ハルミアは考え込む。そして一つ思い至ると、彼に真剣な表情を向けた。


「あります。していただきたいことが一つ」

「なんですか?」

「それは……」


 ハルミアは言いかけて、ぴたりと止まる。そして空を見上げ、その後少し視線を落としてきょろきょろ周りを確認すると、晴れやかだった青い空は彩度も明度も低く分厚い空に代わり、わずかであるが遠くからは雷鳴が響いている。


「少し、天気が悪くなってしまいそうですね……まだ来たばかりですけど、撤収の準備はしておきましょう」


 てきぱきと撤収を始めるハルミアに、シリウスは手伝いの内容が何か問うことが出来なくなる。せめて撤収の支度はできないかと恐る恐るシリウスは敷布を畳もうとするハルミアへ手を伸ばした。彼の意思を汲むように、ハルミアは反対側を渡した。そのまま、折りたたんで、離れてしわを伸ばして長くある面を折っていくと、運びやすい大きさへと変わっていく。二人はそうして敷布を小さくして、ピクニックの品物を片付けバスケットに詰めると、足早にその場を後にしたのだった。◇


 ピクニックから翌日のこと。シリウスは窓辺に立ち、中庭で花を見て回っているハルミアをこそこそと陰から見つめていた。


 昨日の夕食は、ハルミアと出かけたことで、広間で食事を摂るのかとばかり思っていたが、変わらず自分の部屋に食事が運ばれてきて、部屋から出ずとも何も言われず、ただいつも通りそっとされていることに戸惑いながら彼は一夜を過ごしていた。


 そして朝はどうだと考えてみれば変わらずベスが食事を持ってきたことに拍子抜けして、自分の身の置き方に悩んでいる。


「どうしたんすか? なんか困ってるんすか?」

「うわっ」


 突然後ろからぬっと現れたベスにシリウスは心底驚いた。「ノックぐらいしていただけませんか?」と遺憾を示せばベスが「したっすよ〜」と大して悪びれもせず答え、シリウスは眉間にしわを寄せた。


「一体何の用です?」

「旦那様に用はないっすよ。花瓶の水を入れ替えに来たんす」


 ベスは、シリウスが初夜に倒れたことを知り、馬鹿にしないまでも自分と同類だと感じていた。さらに除名だけではなく決定的に家から否定されたというところも似通っており、早い話敬いの対象から完全に外し、職場に入ってきた新入り程度の認識で見ていた。


「旦那様は何してるんすか? アンリみたいに覗きっすか?」

「はぁ!? な、なんで私がそんなことを」

「だってハルミア様のこと陰からちらちら見てるじゃないっすか。なんすか。捧生の腕輪なんとかして奪えないか考えてるんすか?」


 ベスの言葉を、シリウスは否定しようとした。しかし即座にベスは「無理っすよ」と何の気なしに続ける。


「ハルミア様、オルディオンでいっちばん長く生きてる婆さんのとこ行って、どうにか旦那様の捧生の契約外せないか聞いてたっすけど、駄目って言われたらしいっす」


 シリウスは、その言葉に驚いた。まさかハルミアが自分の捧生の腕輪を何とかしようとしてるなんて、思ってもみなかったからだ。


「それはいつの話だ」

「旦那様が屋敷に来る前っすね。婆さんから聞いて〜そんでもって婆さん、下手なやり方したら王女様に気づかれるからやめろって言ったらしいんすけど、ハルミア様腕切り落としかねないから、気を付けてくれって」

「腕を切り落としかねないって……」

「やるっすよ。あの人は。自分の身体に興味ないっすもん」


 ベスが花瓶の水を入れ替えながら、ふざけるわけでもなく言う。シリウスはその意味に愕然とした。


 花瓶を置いたベスは、「じゃあまたっす〜!」と軽快に部屋を後にする。昨日見た表情といい、ハルミアの心根が分からずシリウスは混乱したまま立ち尽くしたのだった。


◇◇◇


「刺繍をしませんか?」


 ピクニックから翌日の昼。食事を終えたハルミアは、裁縫箱を持ってシリウスのもとを訪れた。


「……もしかして、それが、手伝いということですか?」


 戸惑いがちに問いかけるシリウスの問いかけに、ハルミアが机の上に裁縫箱を開きながら頷く。ハルミアの手伝ってもらいたいこと、それは刺繍だった。


 大体が同じ動作の繰り返しで、簡単なものであれば目に見えてすぐに結果が分かる。


 だからこそ、成功体験を積み重ねてシリウスの気力を取り戻すにはうってつけだと考えていたのだ。


 ハルミアは刺繍枠をはめた白いハンカチを取り出して、シリウスに差し出した。


「まずは、私と同じ柄を縫ってみましょう?」

「私は、一度も針を持ったことはないですよ? 私より適任な人間はいくらでもいると思いますが……」

「大丈夫です。私も初めは針を持ったことがありませんでしたし、失敗してもいいんです。解いてまた上から縫ってしまえばいいのですから」

「……」


 シリウスは恐る恐る白いハンカチを手に取った。ハンカチには薄く線が引かれていて、そこに刺繍を入れていくだけでいいようにしてある。ハルミアが裁縫箱を開いて、針を選び取り、シリウスには沢山の刺繍糸が並ぶ小箱を向けた。


「どんな色がいいですか? 好きな色で大丈夫ですよ」

「好きな色と言われても……」


 箱には、春の花々の印象が強い淡い黄色や桃色など暖色の糸、深みを帯びた枯れた青や緑の寒色の糸と画家の絵具箱と見間違えんばかりに様々だ。自分の好きな色すら存在しないシリウスはしばらく考え込んだ末に、白いハンカチを縫うならば、濃い色が見やすいだろうと効率を重視して濃藍色の糸を指した。ハルミアは手早く針に糸を通して、シリウスに渡す。


「では、私から始めますね」


 ハルミアは桃色を選び取り、糸を通した。そしてシリウスの隣に座って、ゆっくりゆっくりと布に針を通していく。シリウスも見よう見真似で彼女に倣った。もう一度針を刺すと、ハルミアのハンカチには桃の点が、シリウスのハンカチには藍の点が取り残された星座のように浮かんだ。


「もうこれで完成したのと同じですよ」

「そんなはずがないでしょう」

「でも、これと同じ作業を繰り返すのです」


 ハルミアは少しずつ針をハンカチへ入れていく。シリウスは彼女の動きをよく観察して手を動かした。しばらくそうしていると、ぽろりとシリウスの針から糸がすり抜けてしまった。


「あっ」

「貸してください」


 ハルミアは手を止め、彼の糸を通してやる。「こうして入れなおせばいいだけなので、大丈夫ですよ」と落ち着かせる言葉をかけながら。シリウスが線に合わせ黙々と縫っていると、徐々に淡く引かれた炭の曲線は鮮やかな藍に覆われていく。


 ハンカチに針を刺して、糸が絡まらないようしごいて、また針を通していく。それらを繰り返し、窓から差し込む光の角度が変わり、ハルミアたちの手元に影が差したころ、とうとう二人の炭の線は完全に糸に覆われて消えた。


「そして、縫い終わりはこうするのです」


 ハルミアが手本を見せると、ゆっくりゆっくりシリウスも後に続く。ハルミアが余った刺繍糸を金細工の鋏で切り落としてやると、それまで縫うのに夢中で気にしていなかった図面の全体像にシリウスははっとした。


「シリウス様の頭文字です。これは、シリウス様のものです。どうぞ」


 ハルミアが刺繍枠を外したハンカチを彼に差し出す。藍色の刺繍を見て、シリウスは感動したようにそれを眺めている。


 曲線を描いたシリウスの頭文字は、図面が筆入れの部分はほっそりと、そして止めの部分はあえて強く力を入れた時のものになっており、ただの文字よりもずっと映えて見える。やや拙い部分はあるものの、糸の並び部分は均一で、初めてながらに秀逸な出来栄えであった。


「少しずつ点を作っていって、綺麗な刺繍ができていくのですよ」

「き、昨日の敷き布も、同じようにするんですか?」

「はい。いくつか違う縫い方も含まれますが、大元を辿れば同じですよ。どうですか、刺繍は」

「こうして、結果が出るものは好きです」


 シリウスの言葉に、ハルミアは胸が痛くなった。宰相の座を失くし、好きな人との婚約を解消されてしまった彼を想い、言葉を失う。けれどぎゅっと手のひらを握りしめて、「またしませんか?」と問いかけた。


「ええ。是非」


 シリウスが午後の日差しを受けながら優しく微笑んだ。やや弱々しくあるものの、ハルミアは内心安堵する。


「それにしても、時間が過ぎるのがあっという間に感じました。っいてて」


 時計を見ながら伸びをしたシリウスが、腰をさする。ハルミアは「夕食までまだ時間があるので、良ければどうぞ」と包みを取り出した。渡されたシリウスが包みを開いている間に、ハルミアはアンリを呼び、紅茶を淹れてきてほしいとお願いする。


「疲れた時には甘いものが一番ですから朝に焼いておいたんです。紅茶に浸してどうぞ」


 ハルミアが、今度はシリウスと向かい合って座った。包みには、ビスコッティが入っている。砕いて炒った木の実に、麦の粉やバターをよく混ぜて焼いたそれは、飴色に煮詰めた砂糖を絡めており、包みを開いただけで優しいバターのにおいが香った。


 アンリが紅茶を淹れるのを待ってからシリウスがそれを口に運ぶと、木の実の歯ごたえと、ややほろ苦くも甘みが広がる。さくさくとした軽い口当たりで、紅茶を一口飲むと、菓子のために調整されているのか、さっぱりと、どこかぴりりとしていてシリウスは驚いた。


「もしかして、紅茶も変えてあるのですか」

「はい。甘いものに甘い紅茶……というのも、あまり合わないような気がしてアンリにお願いしたんです」


 ハルミアは、笑ってカップに口をつける。そして思い出したようにシリウスに目を合わせた。


「ハンカチは、貴方のものですから、どうぞ使ってくださいね」

「わ、分かりました」


 あなたのもの。シリウスが反芻しながら手元のハンカチを見て、藍色の刺繍をなぞる。久々に疲れを感じそのあとに甘いものを食べたのか、何かを完成させたからか、珍しく満たされた気持ちで、シリウスは紅茶を飲んだのだった。


◇◇◇


「できました。現鳥です」


 朝食を終え、ハルミアが中庭を散歩していると、シリウスが向かいからずんずんと足音を立てる勢いでやってきた。見せつけるよう広げられたハンカチには一面に青空を背景に大きく羽ばたく現鳥の姿がある。羽は七色で、粒子も散り、その身は糸を重ねたことで立体的で、嘴は今にも子供の頭を突かんという迫力だ。空も水色一色ではなく、遠くは淡く、高い場所は色濃く段階的に色を変えているため、空間が広がって見える。


 シリウスがハルミアに刺繍を教わって二週間。彼の刺繍の腕は留まることなく上達し続け、名前の頭文字を恐る恐る刺していた姿から一変し、色合いを変え多様な色味を使い、異なる技法を扱い、複雑な曲線も難なく針を入れるまでになった。元々凝り性で、気になることはとことん突き詰め高みを目指し、静かな作業を苦に思わない彼の気質と、作業中に目に見えて結果が分かり、人を必要としない単独で行う刺繍が見事に合致したのだ。


 さらに、シリウスは眠りが浅く、夜起きて何もせずいることも多かった。しかし今、彼には刺繍があり、眠れなければ手を動かし、また眠りにつくという生活をしていた。


 もっといえば、彼には今何もすることがない。日中ただ窓を眺めたり他人の気配を気にしていた時間がすべて刺繍に変わり、分からないことがあればハルミアを呼べばすぐに来ることから、刺繍を上達させる環境は、完璧といっていいほどに整っていた。


「まぁ、輝いて見えるようここに白を入れているのですね……完成まで大変だったでしょう……、これは、額に入れておきましょうか」


 さらに、シリウスは刺繍の話題に関してならば、ハルミアに滞りなく声をかけることができた。


 よって、このままならばなんとか彼女と落ち着いて話ができるのではないかと考え、元々の承認欲求の高さもあり、出来た刺繍をハルミアに見せることを続けていた。


「ずっと思っていたんですけど……、シリウス様、一度その刺繍を誰かに贈ってみるのはどうですか?」

「はい?」

「実は、墓守を勤めているお婆様にケープを編んだのですが、どうも見目がしっくりこなくて、よければシリウス様に刺繍を入れていただきたいのです」

「あなたが刺せばいいのでは?」

「もう、幾度となく刺繍を入れたものを贈っておりまして……私の入れたものは飽きたと……」


 なぜ、他人の刺繍を飽きたなどという老人のケープを刺繍してやらなければならない。シリウスは率直にそう思った。しかしハルミアは話を続ける。


「私だけでは、勿体無いですし……、使用人の皆さんに見られることに気後れなさっているのでしたらと思っていて、ならばと……」


 ハルミアは、毎日自分のもとへ刺繍を見せに来るシリウスを見て、彼の才能を感じていた。


 ほかの人間も間違いなくシリウスの刺繍を見て喜び顔をほころばせるはずなのに、彼は


「使用人なんて皆口をそろえて褒めるにきまってますよ。相手は主なのですから」と言い、屋敷に飾ったり見せることを躊躇った。


 よってハルミアは使用人ではなく、ヴィータにシリウスの腕を見てもらおうと考えたのだ。ヴィータは口が悪くそっけない老人であるが、嘘だけは吐かない。ハルミアの最後に贈った刺繍に向かって放った言葉も、「腕も色選びの目もいいけどね、作った人間が同じだから飽きるんだよ。いやがらせかい?」だ。


 シリウスの刺繍を見れば、きっと彼の腕を率直な言葉で認めてもらえるに違いないと考えていた。


「でも……」


 一方のシリウスはといえば、ただの墓守の老人に刺繍して自分にどんな益があるのかと返事を躊躇っていた。


「お願いします。ヴィータさんは嘘も吐かない方で、お世辞を言ったりすることは絶対にありませんし、わざとらしい態度で接してくることは絶対ありませんよ」

「ヴィータ?」


 その名を聞いて、シリウスの目の色が変わる。ヴィータは、ハルミアが捧生の腕輪の相談をしていた老婆だと気付いた彼は、すぐに頷こうとして、慌てて咳ばらいをした。


「し、仕方がないですね。そこまで頼むなら構いませんよ。時間はありますしね」

「ありがとうございます!」


 ハルミアの喜びように、シリウスはふいっと目をそらした。「で、大体いつ頃完成させればいいのですか」と問いかけると、彼女は「出来たらで大丈夫ですよ」と答える。


「は?」

「出来たら渡しに行こうと思っているので、その時で大丈夫です」


 なんだそれは。今作れということか。シリウスは気が遠くなりながらもハルミアからふんだくるようにケープを受け取る。


「柄は?」

「何でも好きなものでいいですよ。好きなものを聞いたら、好きも嫌いもない、とおっしゃっていたので」


 本当に、なんなんだそれは。シリウスはどこか自分がハルミアの手のひらの上で踊らされているような気がして、むしゃくしゃした気持ちでケープを掴み「じゃあ縫ってきますよ」と中庭を後にしたのだった。


◇◇◇


 ハルミアから刺繍を依頼され、翌日の昼間、シリウスは中庭でケープを握りしめていた。


 シリウスは、計画の立たないことが嫌いな男である。自分で目標を決め、こつこつと計画を立て実行することはできても、他人に突然課題を投げられいつでもいいと言われると困ってしまう。


 彼は大抵他の予定を鑑みて、突然入ってきた仕事に最優先の順位をつけて無理にでも消化して、事なきを得ることを繰り返してきた。


 よって、今回もシリウスはケープを縫い、オルディオンの屋敷のあちこちに竜を象った家具があることを思い出し、ケープに竜を刺繍していた。あまり原型を留めた図面だと老婆にはいささか厳めしい気がして、身体は色とりどりの花にした。遠目で見れば竜に、近くで見れば花々の刺繍に見える一品で、彼自身会心の出来だと自負がある。このまま使用人に包ませハルミアに送り届けてやるのもいいが、まずは見せてやろうと彼がハルミアの部屋に向かうと、ノックをしても返事がない。では中庭かと姿を探しても、そこには誰もいなかった。


「旦那様。どうされましたか?」


 待っていればここに来るか、それとも部屋の前で待つか考えていると、庭の真ん中で仁王立ちしているシリウスの背中に声がかかった。振り返ると洗濯物を取り込んだ侍女のアンリが首を傾げている。


「……ハルミア様の姿が見えないのですが……今どちらにいるかご存知で?」

「いいえ……もう午後ですから、墓参りへ向かわれているではないと思うのですが……」

「誰のですか?」

「えっ、決まっているじゃないですか。ハルミア様のお父様とお母さま、そしてお姉さまのリゼッタ様のですよ」


 アンリの言葉にシリウスは霧が晴れたような、奇妙な感覚がした。そもそも自分がこの屋敷に来てから、自分のことで精いっぱいで気に留めなかったものの、ハルミアの伯爵や夫人、そしてその姉、リゼッタは亡くなっている。


 婚姻はあまりに急で相手の家を知ることより自分の身の潔白をどう主張するかだけを考え、そのあとは家に戻れないと絶望し、オルディオンの家について考えたことは、今の今まで一度たりと無かった。


 まだ王都にいた頃、オルディオンの夫妻とその娘が事故で亡くなったことは新聞、そして貴族たちの間を瞬く間に駆け巡り、しばらく夜会はその話題で噂になった記憶がシリウスには確かにある。


 夏のある日、突然降った大雨により、夫妻とその娘が乗った馬車は崖から落ちてしまったのだ。夫妻には血の繋がらない養女がいて、実の娘は死に養女だけが生還したことから皮肉だと言われ、しばらくの間貴族たちの話題の種となっていた。


 思い返してみればハルミアは深い紫の髪に赤い目をしている。一度シリウスは王都の防衛会議の際、オルディオン伯爵と夫妻を見たことがあった。ハルミアとは異なる色合いであり、そもそもハルミアは、この国であまり見ない容姿をしていた。


 オルディオンの養女は、死神だ。あの娘が死を招いたのだ。


 誰かがそう言ったような記憶が、シリウスにはある。シリウスが以前ハルミアを死神令嬢と罵ったのは、毎日毎日黒を身に纏っていたからだ。どう見ても辛気臭く、また自分を迎え入れる時も同じで馬鹿にしているのかとすら思っていた。


 しかし、彼女が死神令嬢と呼ばれる由縁が、家族の事故にあったのなら。


 なんてことを言ってしまったのだろうと、シリウスは愕然とした。ケープを持ち顔を青くするシリウスを見て、アンリは怪訝そうにする。


「どうしました、旦那様……あ。ハルミア様」


 会い辛い。直感的にシリウスはそう思ったが、彼が振り向くとすぐ近くにハルミアは来ていて、逃げるに逃げられなくなった。さらにアンリが「旦那様、今ちょうどハルミア様を探していたのですよ」と付け足したことで、退路は完全に絶たれてしまう。


「シリウス様、どうされたのですか……あ、それってもしかして……」

「そうです。ケープが完成しました」


 シリウスは出来上がったそれをハルミアに渡す。上手く視線を合わせられずにいると、無邪気に感心するハルミアの声が聞こえて、シリウスは胸が痛くてどうしようもなくなった。


「では、私はこれで……」

「待ってください。これ、せっかくですし明日持っていきませんか?」

「えっ」

「早くヴィータさんに見てもらいたいですし……。シリウス様、明日のご予定は空いていますか?」

「空いているも何も、私に予定なんてありませんが」


 不貞腐れた声色になってしまい、シリウスは俯いた。しかしハルミアは気にすることなく「では、明日持っていきましょう」と笑いかける。


「あっ、そうだ。せっかくですし、ケーキを焼いて持っていきましょう。良ければこれから作りませんか?」

「これから?」


 シリウスが驚いている間にも、ハルミアは「はい!」と明るい返事をして、どんどんアンリと話を進めていく。


「アンリ、厨房は空いていますか?」

「はい。料理人たちは買い出しの時間ですし、大丈夫ですよ」


 ハルミアは早速と言わんばかりに厨房を目指して歩き出す。シリウスはそんなハルミアに引っ張られるように、しかし手を捕まれることもなく彼女の後を追ったのだった。


◇◇◇


「では料理をしましょう!」


 ハルミアは、厨房に向かうと黒いドレスから、暗い色のエプロンと軽装に姿を変えた。いつだってハルミアは黒を身に纏って、露出も殆どない。しかし今日は二の腕あたりまで露わになっていて、その細さや白さにシリウスは驚いた。


「どうされました?」


 自分を凝視するシリウスに、ハルミアが首を傾げた。彼は咳ばらいをしてふいと顔を背けると、すぐ目の前に真っ白なエプロンが出された。


「シリウス様のものです」


 シリウスは、ハルミアにこそこそ食事を運んで以来、なんとなくローブを被っていたり、被っていなかったりする。自分でこそ理由はわからないが、なんとなくローブがないと不安な時とそうではない時がある。そして今日彼はローブを着ている日で、ハルミアの気遣いはありがたいものだ。


「……どうも」


 シリウスはハルミアから目を反らしながらローブを受け取り、それを身に着ける。彼女に倣って袖をまくり、言われるがまま手を洗うとハルミアは「では!」と麦の粉や大きな瓶をいくつも取り出した。


「今日はケーキを焼きます。まずは、生地作りです。そのあと上にのせる苺を煮て、二つを合わせて完成になります」


 シリウスは目先の計画が立たないことが苦手だ。ハルミアに自分の気質が知られているのか、自分をよく見ているのかと考えている間に、彼女は深皿に麦の粉、バター、砂糖を入れ始め、「こうやって切るように混ぜてくださいね」と器具を渡してきた。


「私は初めてですよ? 人に渡すものを任せていいのですか?」

「大丈夫です」


 安心させ言い含める声色に、シリウスは幼子として扱われているのかと不服に感じながら手を動かし始める。雪のようにさらさらした粉や砂糖たちは、バターと混ざり合いぽろぽろとした塊になっていった。まだ混ぜるのかと思いながらハルミアのほうに目を向ければ、彼女は山苺を刻んでいる途中だった。その華奢な指先を艶めいた赤で染まり、シリウスはどきりとする。


「あ。そろそろ卵を割り入れたほうが良さそうですね」


 ハルミアは生地を見て手早く手を洗い、卵をぽんぽんと片手で軽快に割り入れた。指示されるがままシリウスが混ぜていくと、ばらばらだったものが卵液と混ざり合い徐々にクリーム状に姿を変えていく。ハルミアはさらに追加でミルクを加え、深皿の中身はとろとろの液状のものへと変化した。


「こんな風に、変わっていくんですね……今は液状なのに」

「はい。最終的には綺麗なケーキになりますよ」


 ハルミアは苺を煮始めたため、もう手は赤く染まっていない。なのにどこか落ち着かずシリウスは視線を彷徨わせる。甘酸っぱい苺の香りが部屋いっぱいに広がって、ケーキを食べている時よりずっと甘く感じ喉の渇きを強く感じた。


「味見しますか?」

「え」

「山苺のジャムです。まだ完成ではないですけど、この辺りの山苺はとても甘みが強いので、煮詰めなくても美味しいですよ」


 ハルミアに小皿を渡され、シリウスは戸惑いながら口をつける。舌先に酸味を感じた後に、すぐに強い甘みが迫ってきた。


「少しレモンを足して酸味を加えますか?」

「どうでしょう……」


 心ここにあらずな返事に、ハルミアは迷いながら鍋の木べらを動かす。その姿を見てシリウスは何とも言えない気持ちになった。


 今までハルミアがこうして料理が出来ることは、彼女の特性のようなものだとばかり思っていた。しかし、その身に降りかかった不幸を知った今、その特性は本当に彼女が望んで得たものなのかと疑問が残る。そうして得た負の遺産を、自分を死神令嬢と罵った男に惜しげもなく与えてしまうハルミアを思い、ぎりぎりと胸が締め付けられた。


「……すみませんでした」

「え……」

「死神、令嬢なんて、言ってしまって。それと、他にも、お前なんて、好きになるわけないとか、利用価値がないだとか、言って……」


 ぽつぽつと、それも突然反省の言葉を発し始めたシリウスにハルミアは驚き、手の動きを止めた。


「貴方だって、望まぬ婚姻を強いられた被害者であったのに、俺は、いつだって被害者ぶって、食事だって取らず、捨てさせて。お礼の一つも、言わないで……」


 シリウスは握りしめていた調理器具から手を離し、ハルミアに向かって頭を下げる。騎士としての最上位、王族相手にしかしない傅き方をした彼に、ハルミアは慌てて首を横に振った。


「やめてくださいシリウス様。もう過ぎたことです」

「そんなことはありません。したことは消えない。……本当に、申し訳ないことをしました……」


 一歩も引かないシリウスに、ハルミアは戸惑い、どうしていいか分からずただただ彼に向かって伸ばしかけた手を彷徨わせた。


「シリウス様……」

「すぐに、謝ることも出来ず、避けておりました。どう謝っていいか、分からなかったんです。二十五年と生きて、酷いことをして、どんな風に謝れば、いいのかということも……それに、私は、お礼すら貴方にまともに伝えられなくて――」


 シリウスの言葉に、ハルミアが自分の手のひらをきゅっと握りしめた。自分には、謝罪される価値なんてない。人殺しなのだから。しかしそれを言い出せず。口を引き結んだ。静かに目を閉じ、三人の最後の表情を思い浮かべ、彼女は目を開く。


「……私は、かつて、かつて罪を犯しておりました。シリウス様が知らない、私がいるのです」

「ハルミア様……」

「私は、もうその罪を、終わりにすることが出来ません。でもシリウス様は、終わりにすることが出来ます。ですから」


 ハルミアが、震える手でシリウスの肩に触れた。そして彼の夜空色の瞳を見つめる。


「今日で、終わりにしましょう。これからを、考えましょう」


 シリウスの言葉を待たず、彼女は「お願いします。これから」と頭を下げる。シリウスはしばらく見つめ、やがて「分かりました」と頷いた。


「ありがとうございます、ハルミア様」

「いえ。……ケーキ、作りましょう。後は焼いて、上にジャムをのせるだけですから」


 作りかけの材料を示し、ハルミアはシリウスの方へ向く。シリウスは頷いて、二人は作業を再開したのだった。


◇◇◇


 麗らかな午後の昼下がり。赤々と熟れた木苺が豊富に実るオルディオンの森の小道を、ハルミアとシリウスが並んで歩いていく。


 小道はきちんと舗装されていて、赤銅色の煉瓦が均等に墓地まで並んでいる。墓地に近づくたび、実りある青々とした木は、墓地に近付く度にが色味を失っていった。やがて漆の竜のアーチが見えてて、そばでは墓守の老婆、ヴィータが大きな箒をもってあたりの枯葉をさらっているところだった。


「ヴィータさん」

「ああ、また来たのか」


 ハルミアが手を振ると、ヴィータは分かったと言わんばかりに頷き、素っ気なく手を上げる。


 偏屈な老人と聞いていたものの、その容姿が絵本の悪い魔女そっくりな老婆を見て、シリウスはぎょっとした。


「こんにちは、ヴィータさん。えっと、こちらが――」

「なんとなく見りゃ分かるさ。あんたの旦那だろう」


 ヴィータが胡散臭いものを見るような目でシリウスを見る。ぎょろりとした爬虫類を思わせる老婆の目つきに彼はやや後ずさりながらも、挨拶をした。


「えっと、シリウスと申します。よろしくお願いします」

「ヴィータだ。あたしゃ骨になってない人間とよろしくすることはないよ」


 ふん、と鼻で笑われ、シリウスは眉間にしわを寄せた。ヴィータは気にすることなくハルミアに向き直る。


「で、婿引き連れてなんでお前は墓場なんて来てるんだい。そこを下ったところに湖でも何でもあるだろうよ。正気かい?」

「今日はヴィータさんにケープとお菓子を持ってきたんです」

「本当にお前は物好きだねえ。あたしなんかに構ってそのうち愛想つかされても知らないよ」


 歯に衣着せぬヴィータのやり取りと気に留めないハルミアの問答を見て、シリウスは圧倒されてしまう。しかしすぐに「彼が刺繍をしたのです」と話の矛先を向けられはっとした。


「えっと、僭越ながら私が刺繍をさせて頂きました」


 一応微笑んで見せたものの、ヴィータはシリウスの顔など目もくれずケープの刺繍に、竜に見入っていた。余程気に入ったのか、それとも逆か、ただただ黙って微動だにしない。


「竜か……腕がいいね。これで婿殿は生きるつもりかい?」

「いっいえ、そんなつもりは……」

「色遣いはまだまだだけど、技術は街で物売りしてる奴らと張り合えるよ。嫁の言いなりになって死にかけの婆の相手なんてしてないで家に金を入れな」


 どう返事をしていいか分からず、シリウスは口ごもる。ヴィータは「でも、これは貰っておくよ」とケープをひっつかみ、顎でついてくるよう二人に示した。


「茶くらいは出せるけど、どうするんだい」

「どうしますか?」


 ヴィータの言葉に、ハルミアはシリウスの顔色を窺った。彼もまた「私も予定はありませんので」と頷く。無理はしていない様子に安堵して、ハルミアがヴィータに笑いかけた。


「では、お言葉に甘えさせてください」

「ふん。じゃあついてきな」


 二人そろってヴィータの後ろについていく。墓守は基本的に墓の近くに住むもので、ヴィータの住んでいる小屋は、丁度墓場の裏手の墓参りに来る人間が通ることのない崖を背にした位置に建っている。円筒状の壁は黒く平たい屋根には鴉が羽を休めていて、遠方から見れば大きな墓にも見える外観だ。


「中にお入り」


 壁と同色の木造りの扉を開いて、ヴィータが中に入るよう促す。ハルミアは普段通りの様子で、シリウスは緊張した面持ちで入っていった。中は外見で見た通り、丸い円筒の部屋で壁伝いに棚と一体化した螺旋の階段が続いている。寝泊まりしているのは二階よりも上で、一階は食事や客人をもてなす場所として使っているらしく台所と中央に四角い机、四人掛けの椅子が並んでいた。


「ったく、立て付けが悪いったらありゃしない」


 最後に家に入ったヴィータが大きな音を立てて扉を閉じ、ハルミアを呼んだ。


「お前はわざわざケーキなんて持ってきたんだから自分で責任もって切りな」

「はいっ!」

「で、婿殿はこれで机を拭きな。座っておやり。彷徨かれるのは好きじゃないんだ」


 ヴィータの視線の先、シリウスは部屋の中央の椅子に座った。階段の用途も兼ね備えている棚には、二百年ほど昔の年代が書かれた雑誌や、書籍が所狭しと並んでいる。部屋を半分に分割するように、片側は図鑑や賭博誌。もう一方は恋愛色の強い物語や料理に関するものと区分けされていた。シリウスが見入っているとケーキを切り分けたハルミアが戻り、ヴィータが紅茶を並べた。


「茶だよ。御貴族様の口に合うかは分からんけどね」


 ハルミアとシリウスが並び、ヴィータと向かい合って座る。ヴィータはハルミアたちの焼いたケーキを見て「見目は悪くないね」と皮肉めいた声色で言ったあと、シリウスに顔を向ける。


「で、なんで婿殿は老人の本棚をじろじろ見ていたんだい」

「いえ……あの、かなり昔の書物があるのだなと思って……。あと、あの、ああいった物語を読まれるんですね」

「ふん。あんなものあたしは読まないさ。あれは同居人の本だよ」

「同居人……ご主人ですか?」

「まあそんなもんだね。あたしのことほっぽって、海の向こうにひとっ飛びさ」

「それは……、すみません。聞いてしまって」

「別に構いやしないさ。どうしたって命が違えば死に別れるしかない運命なんだから。はぁ、本当に、ろくでもない男に捕まっちまったよ」


 ヴィータは身に着けている牙の首飾りを握りしめた。シリウスは話を変えようと、首飾りに視線を向けた。


「この辺りの方は、皆竜神教に入っているようですね」

「らしいね。竜なんてろくなもんじゃないよ」

「そうなんですか?」

「ああ。あれらはね、人間とは異なる時間に生きてるんだ。人間がどうこうする相手じゃないんだよ。それにここら辺の馬鹿どもは神様扱いしてるけどね、全然神様なんて高尚な存在じゃあないのさ。獣と一緒だよ。畜生と同じさ」


 鼻で笑うヴィータを見て、シリウスは疑問に思った。ヴィータは今、竜の牙の首飾りをつけている。しかし、口では獣と一緒などという。そして、部屋には竜の痕跡は見られない。


 ハルミアに視線を向ければ、静かに紅茶を見つめているばかりだ。


◇◇◇


「で、だ。お前さんたち、王女と平民男の結婚パーティーには行くのかい」


 ヴィータの言葉に、ハルミアは心臓がはねた。聖女である末姫と剣士ガイの婚約は、平和記念パーティーで発表された。ということは、近い時期に結婚パーティーが開かれ、正式に祝うということだ。招待状こそまだ来ていないが、辺境の管理権限が今年いっぱいはある以上、必ずそれはハルミアとシリウスのもとに届く。シリウスは、窓から身を投げるほどの絶望に至った末姫と顔を合わせなければならないのだと、ハルミアは届いた時のこと、そして出席か欠席のどちらを選べばいいのかと決めかねていた。


「王家主催といえど、今年からもう私は管理者の権限を譲渡致しますから……」


 弱々しい声で返事をするハルミアの横顔を、シリウスはちらりと盗み見る。彼は末姫シンディーへの恋心を持ち合わせていなかった。末姫と婚約し、ともに旅をしたとき、彼の心にあるのは常に自分であり他者をそこへ入れたいとも、誰かの心に触れたいと思うこともなかった。


 よって、シリウスはハルミアが俯き辛そうな表情を浮かべることについて、祝賀パーティーの日に捧生の腕輪によって見世物の扱いを受けたこと、元々死神令嬢と揶揄され忌むべき存在として扱われているからだと結論付けた。


「私も、同じ意見です」


 ハルミアの言葉に続き、シリウスが頷いた。ヴィータは「いいんじゃないかい。王都も今や安全な場所じゃないからね」と忌々しそうに窓の外へ目を向けた。


「東の魔物……」

「なんです、東の魔物とは」


 ハルミアのつぶやいた言葉に、シリウスがすぐに食いついた。ハルミアは言いづらそうに


「東にまた、魔物が出たらしいのです」

「え……」


 シリウスは愕然とした。東の魔物は、シリウスやガイ、シンディーの率いた騎士団の手で完全に討伐したはずだった。魔物が無尽蔵に生み出されていた沼地もシンディーが封印をして、下級の魔物は近づいただけで消滅するよう、強い魔法もかけてある。にもかかわらず、なぜ魔物が出るのか。考えてもシリウスは思い当たることなく、新たにまた強力な魔物が沸いたのだと結論付けた。そして、新たな魔物が表れてもなお、自分に声がかからないことに、完全に国から必要とされなくなってしまったのだと悟り、誰にも気付かれないよう拳を握りしめる。


「それで、騎士団の状況は……?」

「視察団を派遣したと、先日文が届きました。念のため、気を付けるようにと……」


 ヴィータから話を聞いていたハルミアのもとに、東の状況を知らせる文が届いたのは、彼女から聞いて十日のことだった。国の防衛にかかわる伝達は東と西の果てに最も早く届くようにと決められているため、王家の対応の遅さが如実に表れていた。


「王家は大事にしたくないんだろうねえ。あんな演技がかった平和を大々的に示してしまったのだから」


 その言葉が、シリウスの心に重くのしかかる。自分を呼ばないのは、出るほどのことでもないからではないか。いまハルミアに魔力の権を譲渡されているから呼ばれないんじゃないか。だから呼ばれないだけで、きっと、自分が無能だからと、血を吐くほど努力した魔術の腕の評価が完全に落とされたわけではないはずだ。ぐるぐると思考は渦を巻いて、シリウスを苦しめ、彼は視線を伏せた。


 ハルミアはそんなシリウスを見て、机の下で自分につけられた捧生の腕輪に触れ、ヴィータと会話を交わしながらも自分の無力さを呪ったのだった


◇◇◇


「今日はありがとうございました」


 夕焼けに染まる森の小道を並んで歩きながら、ハルミアはシリウスに話しかける。ヴィータが見送る元小屋を後にして、シリウスはずっと考え込んだ様子で物思いにふけっていた。そして今はといえば、追い詰められた様子はなくただ前を見据えて歩いており、ハルミアは今だと声をかけたのだ。


「……え」

「刺繍と、あと、一緒に来るお願いを聞いてくださって」

「別に、捧生の印がある以上、私が貴方の許可なしにどこかへ出かけることは叶いませんからね。身体を動かしたいとも思っていましたし、丁度良かったんですよ」


 捧生の印は、隷属契約や奴隷契約とも呼ばれており、腕輪の所有者により激痛を与えられるほか、所有者の定めた場所を動こうとしても立っていられないほどの痛みを受けるものだ。よって、シリウスは、ハルミアの同意なしに外に出ることは叶わない。けれど、ハルミアが自分を屋敷に留め置くような人柄でないことも、なんとなくここ一か月の彼女の行動で分かってはいた。


「でも、それでも……ありがとうございます」

「別に」


 シリウスが呟いて、静寂が訪れる。遠くでは滲むように赤い夕陽が沈もうとしていて、二人の影がより濃いものになった。逆光の光がお互いの顔を見えなくして、ハルミアもシリウスも、ただ黙って歩いていく。


「これ、どうぞ」


 ぽつりと何気なく言われ、ハルミアが振り返るとシリウスがハンカチを差し出していた。


「え……?」


 シリウスがハルミアに不機嫌な調子でハンカチを押し付ける。彼女がそれを開くと、ハンカチにはともに見た花畑の花々が輪飾りになっている刺繍が入れられていた。


「王命の制約上、貴女は私の妻です。にもかかわらず、初めて贈る刺繍が知人になる老婆では、問題があるでしょう」」


 初めての刺繍。それだけではなく、シリウスからの初めての贈り物だ。ハンカチを見てハルミアは胸がいっぱいになって、目を輝かせた。優しい微笑みを浮かべた彼女に、今まで笑顔を見たことが見たことがなかったシリウスが目を見開く。その瞬間、二人の間に花びらをまとった大きな春風が吹き抜けて、慌ててハルミアはハンカチを握りしめた。


「あ、ありがとうございます。シリウス様」

「……別に、最低限の義務ですから。それより暗くなりますよ。行きましょう」


 置き去りにするように、シリウスは背を向ける。ハルミアはハンカチを亡くしてしまわぬよう、大切に大切に手に取って、彼の後を追ったのだった。


◇◇◇


 やがて街灯がぽつぽつと光を帯びてきた頃、二人にはオルディオン家の屋敷の前に馬車が泊まっているのが見えた。


「あれは、もしかして……」


 ハルミアの脳裏に、ある人物が過る。すると今まさにオルディオンの屋敷へ通されようとしていた人影は二人へ振り返り「おっ!」と快活でそれはそれは大きな声を上げた


「我が妹ではないか!」

「妹?」


 シリウスが知っているハルミアの家族構成に、兄は存在しない。首を傾げている間にうっすらと街灯に照らされ、輪郭がはっきりとしてきた。オルディオンの屋敷に入ろうとしていたのは、がっしりとしたシリウスと同い年くらいの青年だ。濃い赤銅色の髪は短く切られ、天を仰いでいる。闘志が燃えんとするほど強い青の瞳に、がっしりとした体格の――、


「姉の、婚約者です」


 公爵家次男、そしてハルミアの姉リゼッタと婚約をしていたノイルが、大きな鞄を抱え、二人の前に立ったのだった。


◇◇◇


「いやあ、実は乗っていた船が難破してしまってな。幸い怪我人や死人は出なかったんだが、俺の旅行計画だけは完全に駄目になってしまったんだ! わはは!」


 オルディオンの広間で、グラスを片手にノイルが楽しそうに笑う。ハルミアの姉、リゼッタの婚約者であるノイルは、雨季にだけオルディオンの土地へと足を踏み入れる。王国の魔道具開発を一手に担う公爵家次男である彼は豪胆な性格で笑い方も豪快だ。シリウスと並んで椅子に座るハルミアは、控えめに相槌をうった。


 本来、ノイルが訪れるのはハルミアの姉や両親が共に儚くなった雨季の第三週の真っ只中の日だ。ノイルは必ず命日の二日前に訪れ、命日が過ぎた明け方に屋敷を出る。しかしまだノイルが普段泊まる日から二週間以上の猶予があった。


「それで、俺の義弟になる婿様と会話もしたいしで、ここにやってきたんだ」


 シリウスは突然現れたノイルに、心の中で怪訝な顔をした。自分の身もほぼ居候の形に近いとはいえ、連絡もなしに泊まりに来るとは非常識であること、婿様婿様と半笑いで距離感を最初から詰めてくるノイルに対し、オルディオンの屋敷に共に入り互いの自己紹介を交わしながら失礼な男であると判断を下していた。


「俺は兄しかいないから、ずっと弟がいたらいいのにって思ってたんだ! そういえば婿様も上に兄がいたなあ、同じだな!」


 わはは、と、心のあまり触れてないところを図々しく土足で踏み込んでくるところも、シリウスの嫌悪のひとつだ。それとなく返事をしていると、ノイルはグラスを煽った。


「それに、最近東の魔物が騒がしくなっているし、この西の辺境を守る上でも安泰だ」

「東の魔物……ノイル様も旅の途中で話をお聞きに?」

「いや? 実際に見てきたぞ」


 あっけらかんとした物言いに、ハルミアもノイルも驚きで目を見開いた。ぽかんとしている二人に「なんでそんな顔してるんだよ」と笑いながらノイルはグラスを傾ける。


「見てきたって……と、遠くから、ですよね?」


「いや? 六体は殺したな。小さいのだけどな。丁度あのかかってる時計と同じ身の丈くらいだ。あっ、同時じゃないぞ? 行きに一体会って、帰りにも会う。みたいなことが続いたんだ」


 ノイルは平然と暖炉の上にかけられた時計を指す。彼は公爵家の子息で、剣術もある程度は習う。しかしそれは実戦向きではなく、あくまでも教養としてだ。


 魔力も人並み以上あるものの、日常的に使用する魔術に困らないだけで戦えるほどはない。それを知っているハルミアはとうとう驚きで何も言えなくなった。シリウスは眉間にしわを寄せたままノイルに問う。


「ノイル様は、どうやってその魔物を退治されたのですか」

「食った」

「……は?」

「嘘だよ。魔喰いは魔力を得られるらしいが短命になると言うからな! 道具を使ったんだ」

「道具?」

「ああ。俺の家は魔道具を扱う家だからな。まぁ、勘当されてるが……そこら辺を歩く時の為に色々くすねてきたんだよ。研究中のものも含めて。だからそれで殺した。なんならいくつかここに置いていくか?」


 傍らに置いていた大きな鞄をぼん、と叩くノイルに、シリウスは拍子抜けした。盗品を屋敷に置こうとするノイルに首を横に振り、脱力する。


「じゃあ、そろそろ寝るかなあ。俺は」


 気ままに伸びをするノイルの言葉に、ハルミアははっとした。ノイルの使う予定であった部屋は、今まさにシリウスが使っている。そしてノイルが泊まる部屋はないのだ。事前に部屋の説明を聞いていたシリウスは、一瞬停止したハルミアを見て顔をしかめた。


「えっと、すみませんがノイル様、お泊りに私のお部屋を使っていただいてもよろしいでしょうか?」

「は?」


 シリウスが意味が分からないというように低い声で聞き返す。ノイルも「何故だ?」と訳がわからない様子だ。ハルミアは慌てて付け足した。


「お恥ずかしながら、まだお部屋の準備が出来ていないのです。なので、私はアンリの部屋に泊めてもらうので、お兄様は私の部屋に……」

「いえ、ノイル様。それならば私の部屋にお泊りください。実は今ノイル様の部屋を使っているのは私です。私はハルミア様の部屋に泊まりますので」

「え」


 ハルミアの話をシリウスが素早く遮った。ノイルはといえば「お前ら寝室別だったのか?」と目を瞬いている。


「どうした。喧嘩でもしてたのか?」

「いえ。王都からオルディオンまでの長い旅路に疲れているからとハルミア様の配慮の元です。私自身体調を崩していたこともありまして、でももう今は本調子ですので」


 きっぱりとしたシリウスの物言いにハルミアは頭が真っ白になった。ノイルは「そーかそーか。ありがとうな!」と明朗に笑う。


「この方がよろしいですよね。ハルミア様」


 シリウスが冷ややかな目を向ける。ハルミアは静かに頷きながらただただそこに座っていたのだった。


◇◇◇


(か、片付け……そ、掃除……!)


 広間でのささやかな酒の席を終えたハルミアは、自室を忙しなく回遊していた。彼女の部屋は掃除婦が毎朝彼女が山へ向かう間にきちんと業務を行い整理されており、窓枠の隅やひびが入って壊れ置物と化した時計まで塵一つなく磨き上げられている。


 そのことをよく分かっているハルミアは、掃除も片付けも意味がないことを思い出し、片手に持った布巾を机に置き、また手に取ることを繰り返していた。


「私は、ソファーで寝るといえど……」


 いつもハルミアの部屋には、大きな二人掛けのソファーがある。左には黒の、右には桃色のクッションが置かれ、なだらかな曲線を描いているそれは、ハルミアの渾身の力により寝台から反対の位置にある壁に寄せられた。


 心もとない気持ちで部屋の中を彷徨いていると、扉が控えめにノックされた。


「はい」


 ハルミアが扉を開く。そしてノック音の主――大荷物を抱えたシリウスに、ぽかんと口を開けた。


「失礼します。今日からよろしくお願いしますね」


 シリウスは開けられた扉を片手で押さえ、すり抜けるように入っていく。その手には大荷物が抱えられていて、驚きに停止したもののすぐに彼女は手伝おうと動くが、それはシリウスの手によってどすんと大きな音を立て部屋の中央に置かれた。


「し、シリウス様、そのお荷物は……」

「私の荷物です。あそこはノイル様のお部屋ですし、ここが夫婦の部屋になるのでしょう?なので荷物を全て持ってきました」


 慌てるハルミアに涼やかな顔つきで言い放ったシリウスは、部屋の状況――不自然に背を向け壁に寄せられたソファを見て怪訝な顔をした。


「私は、模様替えの途中に来てしまいましたか」

「いえ。私はそこで寝ようと……」

「何故です? どんな問題で?」


 シリウスは責める口調でハルミアに詰め寄った。彼女がノイルに自分の部屋で寝るよう伝えた時、シリウスの心はさざめきだった。落ち着かない感じがして、頭が痛み苛立ちばかり増してしまう。その原因も理解できず、ただただ顔を見ても声を聞いても、やり場のない怒りが沸いて、後悔をさせたいような、かといって離れられても嫌だという奇妙な感覚がしていた。


「えっと、シリウス様の眠りを……」

「初夜の際、僕はよく眠れていましたが」


 それは、昏倒では。ハルミアが言い返せるはずもなく、口を噤む。シリウスは「ベッドは明日私が直しておきましょうね」と、自分の荷物からあれこれ出し始めた。主に刺繍箱と、糸、そして刺繍枠のついた縫いかけのものを点検して、また箱にしまった。


「では寝ましょうか」


 ハルミアもシリウスも、眠る支度はできている。今だ扉の前から動けないハルミアを見て、シリウスは「どうぞ」と先に寝台に入るよう促した。


「何か問題でもありますか? ハルミア様」

「いえ……」


 ハルミアは機械のような角ばった足取りで寝台に入った。シリウスの眠りを妨げないよう隅に寄ると、部屋のランプが消された。心臓の鼓動がうるさすぎないか不安に思っている間に、寝台がぎし、と音を立てて揺れる。伝わってきた振動にシリウスが寝台に入ったことを察したハルミアは、体の向きを完全に外側に向けた。


「ハルミア様」

「はっはい」

「ちょっとこっちに顔を向けていただけませんか。話があるので」


 言われるがまま、ハルミアが振り返る。すると目と鼻の先にシリウスはいて、彼女は慌てて後ろ向きに転がり落ちそうになった。しかし寸前のところでシリウスがハルミアの腕を掴み、彼女は間一髪のところで難から逃れた。


「も、申し訳ございません」

「いえ。落ちそうで危ないので声をかけたのですが、危ないところでしたね。私はまだ余裕があるので、こちらに詰めても大丈夫ですよ」

「え、あ、ああ、ありがとうございます」

「では、どうぞ?」

 シリウスは少しだけ端に寄って、ぽんぽん、と二人にできた隙間を叩く。ハルミアが躊躇いがちに僅かな移動をすると、「まだ全然余裕がありますけど」と寄るように促した。

「えっと……」

「落ちて、ハルバート医師を呼ぶのは面倒です。私はあの方、あまり好きではないので」


 ハルバートは切り捨てるような物言いで冷たく、ちょっと言い方をどうにかできないものか。ということを使用人たちからハルミアは聞いていた。


 なんとなく察したハルミアは恐る恐る距離を詰める。「もう大丈夫です」とシリウスに声をかければ、「そうですか」と期待はずれだったかのような声色で返事をされた。


「では、おやすみなさい」

「はい。シリウス様」


(シリウス様がおやすみと言ってくださったけれど、今日は絶対に眠れない)


 ハルミアは目を閉じながら、シリウスの眠りを妨害しないよう息を顰める。動いている壁掛け時計の音がやけに大きく聞こえ、まだ肌寒い季節のはずなのに、掛け布から伝わる温度はやけに高く感じた。微かな呼吸音や布ずれさえもそうなってしまいそうで、触れれば切れてしまうピアノ線を張り巡らせているかのような緊張感がハルミアを襲う。


(明日は、少し森へ行く時間を早めようかしら……)


 ハルミアは静かにそう決めて、瞳をぎゅっと閉じたのだった。


◇◇◇


 翌日、ハルミアは一睡もすることなく朝を迎えた。隣のシリウスはといえば美しい陶器の作品のように眠り、胸が苦しくなるのに耐えながら部屋を出て着替えを終えると、彼女は廊下を足早に歩く。今日はいつも起きる時間よりもだいぶ早く、屋敷の中は使用人たちが朝の業務を粛々と行っていた。挨拶を交わしながら姉の部屋の前を差し掛かると扉が僅かに開いていた。中を見ると、ちょうどノイルが姉の部屋の鏡台の前で何かを話している。その表情は冷たく寂しげで、一歩踏み入れると彼はさっと顔を扉のほうへと向けた。


「お、おーう早いな我が妹よ!今丁度リゼッタに挨拶をしていたところなんだ!」


 明るい笑顔に、憐憫の面影は見えない。ハルミアが近寄ると、ノイルは立ち上がった。


「おはようございます、ノイル様」


 頭を下げ、部屋を見渡す。奇抜で派手な色味の家具でまとめられた姉の部屋に入るのは、久しぶりだった。彼女は「精神が引きずられる」とあまりこの部屋に入らないようハルバートに言い含められており、訪れないようにしている。


 しかし雨が降った日にはどうしても焦がれるようにここに来て、ハルミアの部屋にある同じソファーに座り、いつも姉の座っていた左側にしばらく体を傾けるのだ。


「お前たち姉妹は、本当に仲が良かったよなあ。婚約者である俺は、普通ほかの令息に嫉妬を感じるものなのに、俺はいつもお前を羨ましく思うくらいだったぞ」


 ノイルが窓の方へと歩いていき、ハルミアの顔も見ず語り掛ける。


「姉様は、私に数え切れない程……私に生きるすべてを与えてくださいました。感謝してもしきれません」

「俺も、あいつには感謝してる。だから礼を言うまで死なないでほしかったのに、なんで死んじまうんだろうな。あんまりいい奴だから、神様が欲しがったのかな」


 ハルミアは目を伏せる。彼女の姉であるリゼッタは、間違いなくハルミアにとっての、絶対的で、最も身近な神様だった。神を信じず、未来を呪い、泥をすすりながら生きていた彼女にとっての未来が、希望こそがリゼッタだった。


「上手くいかないよな、この世界。どうでもいい、それこそ人を傷つけることしかしないような奴がさ、のうのうと生きてるんだから」

「それは、どういう……」

「国はどうやら魔族が沸いていること、隠蔽しようとしているらしい。挙句莫大な被害が出てるってのに、シンディー姫の祝い金には金をざぶざぶ使っておいて、王族の外の人間は無視らしいぞ。俺の家も少しは出資すればいいものをだんまりだ」


 ノイルはがっくりと肩をさげ、両手を挙げた。その様子に、彼がここしばらくの間は魔物の討伐に単独に繰り出していた可能性を悟った。


「もしかして、魔物を討伐する過程で、姉様のもとへ……」

「そんな大層な理由じゃないぞ。旅の途中で出くわしただけだ。それに、自死だと地獄に落ちると言っても、所詮迷信だしな」


 朝日を背に受けていることで、ノイルの顔は逆光によって見えない。リゼッタと彼は、妹であるハルミアから見て、本当に仲のいい婚約者同士であった。


 快活で朗らか、やや風変わりなノイルと、物事をはっきりと言い、気位がやや高いものの心優しいリゼッタの相性は抜群で、その容姿もオルディオンの女王と称されるほど美しいリゼッタと野性味ある美丈夫のノイルは周囲から羨望の眼差しを集めながらも自分たちは気の向くままに過ごす、そんな二人がハルミアは好きだった。


「ノイル様……」

「俺、王族はちょっと汚いと思ってたんだが、そんなのどこの国も同じだと思っていた。でも、違う。この国は間違いなく腐ってる。一度、それこそ竜の怒りにでも触れて、めちゃくちゃにされてしまえばいい。リゼッタはきっと俺を見て怒るだろうけど、怒られたいくらいだ」

「ノイル様」

「怒られたい……でも、彼女は来てくれない。もう、いないから」


 寂し気に笑うノイルに、ハルミアは姉の面影を見出した。姉は、ハルミアに優しくしていたが、叱ることもあった。ハルミアが「自分なんて、私なんて」という言葉を使うたびに、「卑下はするな」と厳しく厳しく言い含めた。そんな姉の最後の表情に似ていて、ハルミアは俯く。


「どうした? 我が妹」

「……今の、ノイル様の表情が、お姉様に、似て……」


 ハルミアの目尻に涙が浮かぶ、その姿を見てノイルは一歩近づいた。その瞬間、「何をしてるんです」と冷たい声が響いた。ハルミアが振り返ると、シリウスが立っていた。涙を浮かべる彼女を見て、シリウスが目を見開く。


「何をされているんですか。ノイル様」

「何って、何も」


 シリウスの問いかけに、ノイルは首を横に振る。しかしシリウスは「ハルミア様に何をされたんですか」とつづけた。


「シリウス様、私は何も」

「ではあなたはどうして泣いているんですか」


 シリウスの言葉に、ハルミアはどう答えていいかわからない表情をした。その顔がノイルを庇っているようにみえ、シリウスの苛立ちは募る。


「どうして隠すのですか? 酷いことをされても……庇わなくてはならない理由が……?」

「それは違――」

「……もういいです。少し頭を冷やしてきます」


 シリウスは、踵を返す。ハルミアが後を追うと「放っておいてください」と切り捨てる。


 ハルミアは追いかけることも出来ず、ただただ立ち尽くしていた。

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