転生令嬢の巡情 義弟の呪婚 後編
宣伝欄
●2025年10月1日全編書き下ろし7巻&8巻発売
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ぼんやりしていたフィリーゼは、近くに雷が落ちたことでハッとした。雷が合図だったかのように雨は止み、あたりには独特な空気が漂っていた。
「何なの……、貴方はいったい、誰なの……?」
思わず突き飛ばすと、相変わらずヴェインは複雑そうにフィリーゼを見返す。そして治りゆく怪我に視線を落として、「ごめんなさい……怪我をしているのに……」と、苦々しく呟いた。その顔は捨てられた子供のようで、フィリーゼが返事を出来ないでいると、ヴェインは静かに顔を上げた。
「僕、姉さまを前に見たことがあるんです。お屋敷に行く前に……」
「え……?」
「今からだいぶ前、姉さまが六歳の頃の春のお茶会です。シャイニング家のクレイスさまと、姉さまがご婚約される、かなり前……」
クレイスと婚約する前の、春の茶会。そう言われフィリーゼは子爵家の茶会が思い至った。しかし、ヴェインが暮らしていた元の家も参加していたものの、ヴェインの姿は見ていなかった。
「実はあの日、死にたくて家を出ていたんです。毎日……毎日辛くて、僕の生きる意味なんて無いんじゃないかって思って、もうこれ以上誰かに疎まれ続けるくらいなら、死んでしまおう。そう思って……でも、その日丁度隠れて、いろいろなお屋敷の庭をつたって逃げている時、貴女を見つけました。令嬢が悪口を言われているところに止めに入って、そのあと僕の汚れた頬を……拭ってくれたんです。」
ヴェインの言葉に、フィリーゼは眉間に皺をよせた。そんな記憶はどこにもない。しかし自分にその記憶が、ヴェインに前世の記憶がなかったとして、自分の頬を拭い、さらには悪口を言われていた令嬢を助けたことを理由に、何故自分に執拗に絡んできたのか。疑念を隠さぬ表情のフィリーゼに、ヴェインは暗い顔をした。
「悪口を言われていた令嬢が、フィリーゼ様、ありがとうと姉さまに言った。僕はその名前を聞いて、僕は家に戻る決心をしたんです」
「なぜ」
「それは、僕の父の息子……本当の跡取りたちと、貴女の婚約の話題が出ていたからです。あの人達は声が大きいから、僕の部屋は離れたところにありましたが、屋敷でなにがあったか、予定とか、全部聞こえるんです。フィリーゼという名前も、よく聞いていて……」
ヴェインの暮らしていた侯爵家と、クリアノーツ家の縁組。それは不自然な話ではなかった。不義の存在がいるとはいえ、侯爵家はそこまで粗末な家でもない。そもそもクリアノーツ家の跡取りとして養子を迎えることが出来る家ではあるのだ。義弟ではなく、婿取りとして関係を持つことのほうが自然だ、フィリーゼはその点については納得した。
「あの家の跡取りの人間たちは、おかしいです。人をいじめて楽しむなんて狂ってる。でも、彼らは姉さまとの縁を当たり前のように話していましたし、当主も同じです。僕は絶対にあの家の令息たちと、姉さまの結婚を阻止しなくちゃいけないと決めて、屋敷に戻りました」
「阻止って、どうするつもりだったの」
「あの家の人間は、外面だけはまともです。だから、顔合わせや両家が揃う場で、僕が粗相を働くとか……」
突拍子もない、粗しか無い義弟の考えに、フィリーゼは黙る。かつてあれほど自分を陥れた王太子と比べると、目の前のヴェインはお粗末だと感じた。すべて演技でフィリーゼを騙すためとしても、ここまで愚かに見せる必要はない。
「僕は姉さまと婚約できないように……と、家の人間を見るようにしていたんです」
「でも、結局私はクレイス・シャイニングと婚約することになったわ。そもそも、侯爵家とのお話は、聞いてすら無かった」
「はい! シャイニング家の令息と姉さまが婚約された時、すごく嬉しかったです。ちゃんとした人がちゃんとした人にお嫁に行くんだって……だからもう、僕の生きている意味は無いかなと思っていたら、父に殴られている時、クリアノーツ公爵と出会って……公爵は、僕に住む場所と学びの機会を与えてくれたんです。だから僕は、恩人であるクリアノーツ公爵と、貴女を支えて生きていきたいんです」
決意を秘めた瞳で笑う様子は、フィリーゼに巣食うわだかまりを、より大きくするものだった。ヴェインがかつての王太子であるならば、その頃に公爵につけ入り学園に入学する前からフィリーゼの状況を悪くしていてもおかしくはない。しかし、ヴェインはそれをしなかった。そうフィリーゼが思い立った瞬間、フィリーゼは目の前に立つ義弟の瞳が、王太子のものと異なって見えた。
「……私は、貴方を信用できない」
「姉さま……」
「でも、失礼な態度を取っていたことについては、謝ります。ごめんなさい。確かに、貴方の言う通り、私は貴方の顔を見る度に、思い出す人間がいる。その人間にされたことを貴方にしてもいいと思っていた。ごめんなさい」
フィリーゼはそっと頭を下げた。しかしヴェインは被りを振って、やめさせようとする。
「駄目です姉さま、僕に頭なんて下げなくてもいいです。それに僕、浮かれて必要以上に馴れ馴れしくしてしまったし……そのことに気付くのも遅くて……こ、こちらこそごめんなさい。ですから、謝らないでください」
「でも、私が貴方にひどい態度を取っていた。それに、私は貴方を殺そうとしていた。酷い目に合わせられるくらいならと……」
「……姉さまの、その……僕に似ている人……というのはどんな方だったか……というのは、聞いてもいいですか?」
おそるおそる、窺う視線にフィリーゼは躊躇いを覚えた。しばらく押し黙ったあと、「始めは、優しかった」と呟く。
「でも最後には……私を殺した」
「それは……前世の記憶とか、そういうのですか……?」
「え……」
ヴェインから「前世」という言葉が出てきたことに、フィリーゼは時が止まったような錯覚に陥った。
「どうしてそう思うの……?」
「クリアノート公爵が、そうおっしゃっていたので……」
「父様が……?」
「はい。僕は人間で、吸血鬼の方の生活についてはクリアノーツ公爵に聞いたんです。吸血鬼の長子の中には、前世の記憶を引き継ぐ方もいるって……吸血鬼の血は人よりも濃いから、そういったことが起きるんじゃないかと公爵は言っていましたが……」
ヴェインはクリアノーツ公爵ともに馬車に揺られ、公爵家への屋敷へ行った日のことを思い返す。そこで公爵は、吸血鬼についてヴェインに語った。
吸血鬼は人よりずっと力が強く速く動けるという常識的なものから、シャイニング、メアロードなど、特定の長子の子供は吸血鬼としての能力だけではなく、分身や催眠等、特殊な能力を贈り物として授かること、さらには吸血鬼を殺せる呪具、そしてごく稀に前世の記憶を持って産まれる吸血鬼の存在を。
そしてフィリーゼの警戒を敏感に感じ取ったヴェインは、そこで聞いた話を全て伝えた。フィリーゼは考え込んだ様子で、短く頷く。
(吸血鬼特有のことならば、ヴェインに記憶がないことへの裏付けになる。でも、ならばどうしてロレインは覚えているの? 彼女は吸血鬼じゃないはずでは……)
そう考えて、フィリーゼはハッとした。かつての王太子の豹変は、かつての男爵令嬢の術によるものの可能性に思い至ったからだ。
(でも、あの男爵家は確かに人間の家だったはず。それに人間の精神に作用する能力なんて、聞いたことがない)
フィリーゼの心臓が、どくどくと脈打つ。クリアノーツ公爵から聞いたことを話してからフィリーゼが黙ったことで、何か自分がよくないことを行ったのかと不安に思ったヴェインは首を傾げた。
「あの、姉さま……僕なにか間違いを……」
「違うの、吸血鬼について、私もまだ知らないことがあるのかとそう思っただけで……」
フィリーゼは首を横にふった。しかし、ヴェインの不思議そうな顔を見て、ある事実に気付いた。
(ヴェインだって、吸血鬼の家の令息なのに、人間だ。もしかして、あの男爵令嬢はその逆だったのでは……)
ヴェインは、侯爵の不義の子だ。だから吸血鬼の家系でも、異形の者の血は引かない。それと同じように、かつての男爵令嬢も吸血鬼の血が入っておらず、男爵家にいた。そう筋道を立てたフィリーゼは、足場が崩れた感覚がした。
(王太子が、操られている可能性。そんなこと考えたことなかった)
王太子は、国で最も守られるべき存在だ。常に騎士に守られ、自由な時間だったのは湖でのひとときくらいで、あとは護衛騎士がそばにいた。吸血鬼と言えど怪しい術をかけることは出来ず、そもそも当時はフォーリアと王太子の結婚が推し進められるくらいだったのだ。
王家の守りは人間だけではなく吸血鬼も担い、国の秩序を守るべきだと王家の護衛には吸血鬼の中でも腕の立つものが選ばれ、中には専用の技術顧問として国の中へと向くものもいた。よって王太子に襲いかかったり術をかける可能性なんて、そもそも最初から除外していたのだ。
「姉さま……?」
「なんでも無いわ。少し、考えたいだけ……」
「僕も、お手伝いさせてください。一緒に、考えたいです。姉さまの、力になりたいんです……僕、何でもします。どこか危ないところに調べにいったりするなら、僕が行きますから……」
切実な声に、フィリーゼはヴェインにそっと視線を向けた。そして、シャツに隠されていた生身の腹部に、新しい痣を見つけた。それは到底侯爵家で受けた傷とは思えないほど真新しく、ここ最近出来たものとしか思えない傷だった。
「貴方その傷は……」
「なんでも無いです。ちょっと……転んで」
ヴェインは有無を言わさぬようにこわばった顔で首を横に振った。フィリーゼが怪訝な顔をすると同時に、上からクリアノーツ公爵の声が響いた。
「フィリーゼ、ヴェイン、どこだ、どこにいる!」
「こちらです、公爵! フィリーゼ様もこちらに!」
公爵の声に素早く反応して、ヴェインは立ち上がった。そして腹部の傷について言及すること無く、二人は公爵の手によって救出されたのだった。
◇◇◇
フォーリアの処刑が行われた日は、晴れ晴れとした春の日だった。爛漫とした花々が咲き誇り、祝い事のような景色の中、フォーリアは処刑された。
断頭台に向かうまで国民たちは彼女を罵倒するか、剣技の観衆のように俯瞰しせせら笑う二種類の人間しかおらず、皆よい暮らしをしていた貴族が自業自得の目に遭い、破滅してゆくさまを面白がっていた。民にとっては一人の破滅は、人が死ぬというよりどこまでも「遊びの一種」でしかなく、「他人事」だったからだ。
よって断頭台を前に恐怖するフォーリアを見ても人々はただ上から愉しむだけで、彼女が本当に罪を犯したのか、償いなんてどうでもよかった。そんな人々の無意識の悪意に蹂躙されていった記憶を持つフィリーゼは、別荘から戻った後も、考え込むことが多かった。それは今日も同じで、彼女は屋敷の中でぼんやりと過ごしている。
転落事故の後、結局とんぼがえりすることになったが、血液の瓶は元あったところに戻っていた。ならばまるで、フィリーゼをおびき出し殺すことが目的であったようだと、話を聞いた公爵の言葉によってフィリーゼの近辺は調査されることになり、今彼女は謹慎ではなく、調査や警護の意味合いで屋敷の中で過ごしている。ロレインも、「学園内でフィリーゼと何かがあった生徒」として調べられるようになった。公爵の話しぶりは仕組まれたことを疑っているようで、そこにフィリーゼへの疑念はまったく感じられないものだった。
(なんだか、知らない間に勝手にものごとを、すすめられているみたい……)
フィリーゼは、前世ではありえなかった物事や人の動きに戸惑っていた。あれだけ疑ってかかっていたヴェインも、それまで真っ直ぐ向けられていた殺意がたった一日で、今ではどう接していいかわからないまでに落ち着いた。それどころか、今までの仕打ちについてもう少しやりようがあった、もう少し考えておけばと、彼女は後悔した。
(王太子について、調べよう。過去の、男爵令嬢のことも)
現在間違いないことは、ロレインに記憶があることだった。かつての王太子とフィリーゼのことを知り得なければ、茶会での発言は出てこない。そう考えたフィリーゼが決意を新たにしていると、控えめなノックの音が響いた。
「フィリーゼ、ちょっといいか」
「はい」
声はクリアノーツ公爵のもので、フィリーゼはすぐに扉を開いた。彼女は侍女を自分のそばに置こうとしない。部屋の外に待機させている。公爵は「元気か」と控えめにフィリーゼを見た。
「崖から落ちた時の傷は、痛まないか」
「大丈夫です。もう、なんともないですわ」
「ならいいんだが……ああ、そうだ。明日ロレイン・ヴェレッタについて、調査を入れてもらうことになった。シャイニング家が口利きしてくれてね、きっと学校での噂も、すぐ変わってしまうだろうから、安心していいだろう」
クリアノーツ公爵のいたわる視線に、フィリーゼは学園での噂が公爵にも伝わっていたのだと悟った。胸を痛めている様子の公爵に、フィリーゼの心が締め付けられた。
「申し訳ございません、お父様……」
「お前が謝ることじゃない、辛かったな」
「……いえ……」
クリアノーツ公爵は、フィリーゼにとって信じたいと思う唯一の存在だった。彼女は母に対しても同じ気持ちを持っていたが、もう儚くなっている。しかしいつだって瞼の裏には「どうしてこんなことになったの」「お前のせいで」「生まれてこなければよかったのに!」と怒り狂う前世の両親がいて、その辛い記憶によって彼女は今世の両親に対して、踏み込めずにいた。
「私は、いいのです……」
「フィリーゼ……」
「でも、クリアノーツの家に……そして、お父様の風評を悪くしてしまうことにならなくて……安心しました……」
「そんなこと、気にしなくていいんだ。お前が笑ってくれたら、それでいいんだから。マーサだって、お前の幸せを望んでいる」
マーサは、クリアノーツ公爵の妻であり、フィリーゼの亡き母だ。公爵はその名前を出すことを避けていたふしがあった。公爵はフィリーゼが物憂げな表情をして鬱々としていた原因を、母を亡くしたからだと捉えていたからだ。
「もしかして、お前には、前世の記憶が残っているんじゃないか?」
「えっ……」
フィリーゼは目を見開いた。クリアノーツ公爵は、「やはりな……」と呟く。
「今までわたしは、お前の痛みは母を亡くしたことだと思っていた。だが最近、ヴェインとお前を見ていると、どことなくそうじゃないような気がしていたんだ」
「お父様……」
フィリーゼはうつむく公爵に声をかけようとしながらも、頭の中に言葉が浮かんでこなかった。元気づけたい、そんな顔をしてほしくない。けれどついぞ声を発することは出来ず、同じように俯いた。
「実は、母さんにも……マーサにも、記憶があったらしい。ほら、前に吸血鬼は長い時を生きるぶん、日記を書くのが好きだと言っただろう? 妻の日記を読む……なんて夫としてどうかと思ってな、いっさい触っていなかったんだが……娘のお前のことをきっと書いてるだろうから、今度持ってくる」
「お願いします、それと、あの、昔について……ジョシュア王太子の代の歴史について知りたいと思っているのですけれど……家に何かそういう本はありますか?」
「ああ。書斎にたくさんあるぞ。マーサは過去に生きた記憶があったからと、昔についての資料もよく読んでいた。そうだ、この鍵をあげよう」
クリアノーツ公爵は、懐から鍵を取り出した。それは蒼の宝石が嵌め込まれた硝子の鍵で、何かを開封するのではなく、まるでただ人の目を愉しませるためだけに生み出されたような、華奢で繊細なものであった。
「書庫の奥の、上から二段目の蒼い本を押すと、扉が出てくる。その扉を開けるこの鍵は、他の鍵穴に通そうとすれば壊れてしまう、そういう鍵なんだ。だから闇雲に当てはめたら、永遠に扉は閉じられたまま。マーサの日記帳もそこにある」
「はい……」
「こんな鍵で厳重に保管されたら、さすがに勝手に読むのも申し訳ないと思ってな……もし、私について書かれていたら、教えてくれ」
公爵はそう言い残して、部屋から去っていった。フィリーゼは手のひらにあっったガラスの鍵を見つめ、書斎へと向かおうとする。しかし、部屋の窓の外から見えたシャイニングの馬車に足を止めた。じっと様子を窺っていると、馬車からはクレイスが降りてきて、護衛を伴いながら屋敷へと歩いていく。さらに隠れていたはずのフィリーゼを見つけ、彼女の部屋のある三階の窓へと手を上げた。そして手振りだけで、下に降りてくるよう促す。
(ロレインの話……それとも学校の……?)
フィリーゼは頭を下げると慌てて支度を始め、玄関ホールへと降り立った。日差しの差し込むホールには快活そうに笑うクレイスがすでに到着していて、彼女は謝罪から口にした。
「申し訳ございません、クレイス様」
「いや、狙われている以上警戒はしておけ。お前は正しい選択をしている。そしてこれからも、そうなる」
含みをもたせた発言にフィリーゼは戸惑った。一方クレイスは「今日は公爵に伝令に来たんだが……少しその前に庭で話をしよう」と、フィリーゼを外へと促す。
「承知いたしました」
「ああ、護衛たちも使用人もいらない。二人で話がしたいんだ。遠くから見ているぶんには構わないがな。まぁ……くだらない世間話をするだけだから」
クレイスは付き添おうとした護衛たちを制すると、クリアノーツの庭へとさっさと歩いていってしまう。フィリーゼも着いていくと、丁度アスターの花々が咲き誇る前で立ち止まった。
「ロレイン・ヴェレッタについて、お前を襲おうとしていたらしい証拠は何一つ出てこなかった。すまない」
「いえ……ありがとうございます……。シャイニング家に間に入って頂いたことで、クリアノーツ家の名に傷がつくことはありませんでした。本当に、感謝申し上げます」
「……まるで、証拠が見つからないことを予期していたようだな」
その言葉に、フィリーゼは静かに頷いた。かつての男爵令嬢は絶対に証拠を残さなかった。今世で校舎に閉じ込められた際、自分を押した男子生徒についても、烏の一件について事情を聴かれたときにようやく話をし、幸い動いてもらえることになったが、男子生徒は口をつぐんだらしく、フィリーゼのもとに続報が届くことはなかった。
「王家が、圧力をかけてきた」
「えっ」
「お前がどこまで、なにを知っていて、どれほど俺に隠し事をしているかはわからないが、王家については知らなかったみたいだな」
思わず声を上げたフィリーゼに、クレイスは複雑そうにアスターの花を見つめた。そしてしゃがみ込み、花を指でなぞりながら呟く。
「まだ、王家が圧力をかけてきた証拠すら出ていないが、俺が個人的にヴェレッタ家について調べた時、シャイニングの家を持ってしても内情を探ることが出来なかった」
「つまりヴェレッタ家は国によって用意された家……ということでしょうか?」
「ああ。おそらく粛清、もしくは諜報……いや両方だろう。王家は吸血鬼に対して恐れを抱くと同時に、使役出来ないなら根絶やしにしたいと考えている。王家の政や騎士の中にも吸血鬼がいる以上、絶対的な味方を得たいのだろう」
「……となると、ヴェレッタ家は吸血鬼ではない……?」
「そうなるな」
ならば、今世ではおかしな術を使われることもないのだろうかと、フィリーゼは思案する。考え込む彼女に、クレイスはぽんと肩を叩いた。
「まぁ、安心しろ。お前には味方がたくさんついてる。それに、義弟のおかげで学校の悪評は、ほとんどなくなったぞ?」
「え……?」
フィリーゼは「ヴェインがなにをしたのですか」と、反射的に問いかける。するとクレイスは意外そうに「知らなかったのか?」と続けた。
「ヴェイン、ヴェレッタ嬢とお前の事故現場っていうの? 状況を見ていたやつを探し回ってなぁ、休憩時間も昼飯のときもずっと。挙げ句お前のこと悪く言うやつとか、実は落としたんじゃないか〜とか言うやつに撤回してくださいってしつこくしてて……ああ、隣のクラスに腕っぷしだけが強いバールってやつがいたろ? あいつにしつこいってぶん殴られたりしててさぁ……」
フィリーゼは、ヴェインの腹にあった生々しい痕を思い出した。あれは自分を庇って殴られた時のものなのか。フィリーゼは腹の傷跡の次に、自分が酷い態度を取っていたことを思い返す。ヴェインは、王太子の生まれ変わりだ。瞳も、レモンカードを作る名残もある。
しかし、今のヴェインは記憶を取り戻してもなければ、ただ自分の出自によって運命に愚弄された哀れな青年でしか無い。そのことを、ありありとフィリーゼは思い知った。目を閉じれば思い浮かぶのは、サンドイッチやクッキーを食べてほしいと無邪気に願う顔、自分を心配して血相を変える様子、安否を求めてフィリーゼを呼ぶ声だ。
「フィリーゼ、お前泣いて……?」
クレイスが、あっと目を見開く。フィリーゼの瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。その涙は、フィリーゼが過去を思い出してから、一度も流れたことのない、もう前世で尽きたはずのものだった。彼女は自分の涙を拭いながら、泣きたいのはヴェインのほうだっただろうと思い直す。しかし涙は額を濡らし続け、クレイスは婚約者の見たこともない姿に動揺し、遅れてハンカチを差し出そうとした。その時だった。
「姉上?」
ぽつりと、ひとしずくの雨が落ちるように声がかかる。二人が同時に振り向くと、庭園の入口のそばに、ヴェインがいた。ヴェインはフィリーゼが涙を流しているのを見ると、すぐさまフィリーゼに駆け出す。
「姉上、どうされたのですか? 何かあったのですか? 姉さま、姉さま?」
そしてヴェインはフィリーゼの両肩をつかみ、顔を覗き込み、クレイスに振り返った。
「姉さまは、どうして……?」
「俺はなにもしてないぞ。お前の勇姿に感動したらしい。ようするに泣かせたのはお前だ。俺は目の前にいただけ」
「はい……?」
ヴェインはクレイスを怪訝な目で見て、フィリーゼに視線を戻す。フィリーゼは断続的に、「ごめんなさい……ごめんなさい」と漏らした。
「姉さま……?」
「ごめんなさいヴェイン……本当に、ごめんなさい……わたし、私貴方にいっぱい、酷いことを……学校で、聞いたの、貴方、殴られたり……私を庇って……」
「ぼ、僕が勝手にやっただけです! 謝らないでください! 泣かないでいいんです姉さま……」
フィリーゼの涙は止まる様子がない。クレイスは「公爵には言っておくから、ゆっくりしていけ」と二人に声をかけ、中庭を後にしたのだった。
◇◇◇
中庭を後にしたクレイスは、屋敷の前にクリアノーツ公爵の姿を見つけた。すぐにクレイスは駆け寄り、「お体に障ります」と、表情を固くする。
「なに、外に出たくらいで死にはしないさ」
「先日だって、医者を置いて別荘に行ったと聞きました。父も母も心配してます。どうかご無理をなさるのは……」
「あはは。いいんだ。どうせ私はもう長くない。手のつけようがないんだ。どうせ死ぬのなら、最後まで満足できる生き方をしたい」
「公爵……」
「人間にとっては、いつだって死は見える位置にあるんだ。常に、一緒にある。だから吸血鬼である君にとっては、難しく、とても恐ろしいように見えるだけさ」
シャイニングの次期当主、そしてこの国の将来の宰相クレイスがクリアノーツ公爵の秘密を知ったのは、フィリーゼと婚約を結んですぐのことだった。
――妻と娘は吸血鬼だが、私は吸血鬼ではない。
そう言われた時、周囲は戸惑った。クリアノーツ公爵は元は人間の公爵で、永遠の契約をしたことで人間から吸血鬼になったことは有名な話だった。だから、生粋の吸血鬼ではないことを遠回しに揶揄したと誤解したからだ。しかし、公爵は続けた。
――妻とは契約が完了していなかった。だから妻は死んだ。言い伝えが間違っていたわけでも、マーサが弱りすぎていたことも、きっと関係がない。
代々、吸血鬼の中で伝わっている、契約。人間の心臓の上から血を吸い契約が行われると二人は永遠の命を手に入れる事ができる。その言い伝えを実行する者は、その契約の手順の浸透率とは反比例して、極めてまれな存在だった。
吸血鬼は、人の血を飲んで暮らす。仮に素性を隠し人と営みを共にするようになったとしても、自分の素性を言わない者も多い。自分を理解してもらいたいと願うより、拒絶の恐れを持つ。仮に自分が吸血鬼だということを伝えて心を通わせたとしても、永遠の命により死を奪うことに抵抗を持ち、吸血鬼について伝えても契約を行わない、言わないものも多かった。
よって永年の契約を行ったクリアノーツ公爵とその夫人の存在は、愛に満ち溢れた夫婦と皆の羨望を集めていた。
ならば何故皆を騙したのか。契約をしたのだと偽ったのか。契約に恐れをなしたのか。みな、クリアノーツ公爵を責めることは出来なかった。
その時の公爵の瞳はすべてを覚悟し、ただ真っ直ぐ前を見据えていたからだ。なにを言っても、公爵には届かない。その場にいた全員が悟るほど、公爵は全てを受け入れ、ただ娘の幸せを願う父親の目をしていた。
シャイニングの公爵が、「何故契約をしなかった」と問いかけることが出来たのは、しばらく沈黙が続いた後のことだった。厳格な父親が狼狽を隠しきれなかったことを、クレイスは昨日のことのように思い返すことが出来る。以降今に至るまで、シャイニングの公爵であり国を支える宰相を勤めるクレイスの父が感情をあらわにしたのは、その瞬間、ただひとつだった。
――妻には、忘れられぬ人が居た。私を愛してもなお、忘れきれぬ人がいた。それだけのことだ。
クリアノーツ公爵がそう言ってから、他に質問を投げかける者は誰一人いなかった。吸血鬼の一生は長い。永遠の契約をせずとも人の世より長いと言われている。人間の一生なんて瞬きのようなものだ。だからこそ、人に恋をした吸血鬼は不幸になると言われ、禁忌とされていた時代すらあった。
しかし、その逆もあったのだとその場に居た人間は知った。吸血鬼に恋をした人間だって、不幸になることがある。吸血鬼に恋をしたからこそ、クリアノーツ公爵は不幸になった。その哀れな姿を見たシャイニング公爵は、息子であるクレイスに、クリアノーツ公爵を悲しませるようなことはするなとよく言い含められていた。
「フィリーゼには、言わないんですか、ご病気のこと」
「言わない。言わないが……マーサの日記の鍵を渡した。いずれ私が、吸血鬼でないことを知るだろう」
一年前、クレイスはクリアノーツ公爵の人生が長くないことを知った。人間だから短命であるが、クリアノーツ公爵の一生は、通常の人間のそれより短いものだった。クリアノーツ公爵の内臓は腫瘍により、ゆるやかな速度で死に向っていたのだ。シャイニングの縁をもってしても、公爵は救えなかった。そして今、ただ死に向っていくさまを見届けることしかできない。
「私は、結局マーサの日記を読むことが出来なかった。怖かった」
「それは、ご自身についての気持ちを知ることを、恐れてですか……?」
「私のことを、書いてくれるならそれでいい。怖いのは、なにもないことだ。私の存在が、何一つない……まるでマーサにとって景色のひとつであったなら、苦しい……」
クリアノーツ公爵は、静かに空をあおいだ。空模様はいつの日か暗く鈍い色にかわり、雨が降り出しそうになっていた。
◇◇◇
クリアノーツ公爵とクレイスが客間に場所を移し話を始めた一方で、フィリーゼは暗い顔をしながらヴェインの部屋で座っていた。ヴェインの部屋は公爵が用意した暖色家具でそろえられており、フィリーゼの部屋に少し似ている。
ただ異なっていたのはヴェインの部屋には暖炉の前に飲み物を沸かす鉄の台があり、簡単な料理ならば出来るようになっていたところだ。そして鉄の台の上には小鍋が置かれ、湯が煮えていた。ヴェインはてきぱきと紅茶を淹れはじめ、フィリーゼにカップを渡した。
「ありがとう……」
「あ、えっと、毒味は……大丈夫ですかね」
「うん、もう平気……」
フィリーゼは、揺らめく紅茶の水面に視線を落とす。そしてヴェインの腹部を見た。今はシャツと、さらにベストによって隠されているが、人間であるヴェインにはまだあの傷が残っている。なのに自分を心配そうに見る義弟に、フィリーゼの心はかき乱された。
「ごめんなさい……ヴェイン」
「いいんです。それに、やっぱりなにか誤解があったんですよね……?」
「ええ」
「それなら、これから仲良くなれるってことだと思いますし、僕は嬉しいです。前にも言いましたが、しつこすぎたかなとか、距離感が上手くつかめてなかったなぁと思っていたので……」
「ヴェイン……」
健気な瞳に、以前は寒気がしていた。しかし今、フィリーゼはヴェインの瞳を見ると、胸が痛む。今までしてきた数々のひどい仕打ちを思い返して、謝罪をしなければいけないと駆り立てられる。
「あの……もしよければですけど……姉上にお願いがあって……」
「なに?」
「姉上がどうして誤解してたとか、前世のこととか……を、聞いてもいいですか……?」
義弟の願いに、フィリーゼの喉元がきゅっと詰まった。謝罪の気持ちもある。もう二度と繰り返したくない反省も在った。償いたいとも、思っている。しかしフィリーゼは、すぐに声を発することが出来なかった。その様子に、ずっとフィリーゼを見続けていたヴェインは、すぐに首を横に振る。
「ごめんなさい姉さま。辛いですよね、やっぱり。その……なんとなく、今の姉さまの顔を見て分かりました。すみません」
「いいの。話すわ。きちんと話す。話をして……貴方に償いをさせて」
フィリーゼは、意を決してヴェインを見た。そして、手の中にあるカップを握りしめながら、言葉を紡ぎ始めた。
◇◇◇
元々ジニアス家は、国の中でも権力と伝統を持つ公爵家であり、さらには王都の中で最も権力と強さを持つ吸血鬼の家系でもある。
現在は王都の周りを囲うように、東にメアロード、西にリグウォン、南にシャイニング、そして北にフィノスレードがあったが、当時東と南は人間たちの領域で、吸血鬼としての領域はフィノスレード、そして王都のジニアスを人間と折半して取り仕切っていた。
しかし、王都に棲む吸血鬼たちは横柄で、ときに人を浚い血を吸い尽くして殺してしまったり、逆に罪のない吸血鬼への差別が起きたりと、小さな争いが積み重なり、国は刻々と内乱、そして分断へ近付いていたのだ。
人間である国王は、なんとか吸血鬼と人間が手を取り合い、仲良く暮らし、荒れた世を治められないか考えた。宰相を勤勉で研究熱心な吸血鬼にしてみたものの、元々研究職についていた彼では力不足だった。どうすべきか悩む宰相は、ふと思いついたのだ。
自分の息子を、吸血鬼の娘と結婚させよう。将来の王が人間と吸血鬼、半分ずつの血を引くようになれば、きっと人間と吸血鬼の権力争いもなくなり、手と手を取り合う未来が見えてくるはずだ。そう考えたことで、王太子ジョシュアと、公爵令嬢フォーリア・ジニアスの結婚は定められたのだ。
ただ、国に定められた婚姻といっても、二人は政略として結婚したわけではなかった。勤勉で努力家のフォーリアを元々茶会で見初めていた王太子ジョシュア、そしてそんな彼に助けられたことで恋に落ちたフォーリアの二人を見て、王はこれからの未来が確かなものであると、輝かしいものであると信じて疑わなかった。
しかし、フォーリアに訪れたのは、地獄の深淵をそのまま切り取ったような破滅だった。婚約者に裏切られ、首を切り落とされ、かといって死ぬことも出来ず当時の宰相の実験台として扱われた、凍てつくような絶望だ。
そんな過去を、フィリーゼは言葉にした。そしてヴェインが王太子ジョシュアの生まれ変わりであろうこと、さらには男爵令嬢の生まれ変わりが、ロレインであることを添えて。
「そして、フォーリアは処刑されたの。幻のような、話だけれど……」
手のひらを握りしめ、フィリーゼはヴェインを窺った。今までならありえないことだ。彼を慮るように、おそるおそる、下手に出たフィリーゼとは対象的に、ヴェインは考え込んでいるように見えた。
「信じますよ。姉さまが僕を拒絶したのも、それで辻褄が合いますから……」
ヴェインは俯いた。「僕は記憶を取り戻したら、この心も変わっていくのでしょうか」と、静かにフィリーゼを見据える。
「私は、元々こういう性格だったように思う。ただ、前世の記憶が蘇ったことで、本性が暴かれただけにすぎないから……」
「なら、記憶を取り戻したら、僕はフォーリアに愛されたジョシュアになるのでしょうか。姉さまは、どちらがいいですか?」
「どちらがって……」
フィリーゼは、以前なら、思い出したらすぐに殺していると答えていた。しかし、王太子が何者かに操られていた可能性を考えれば、そんなことはできない。ならばヴェインが王太子のようになればいいとも、到底思えなかった。そのままでいてほしい。ただそれが、きちんとヴェインのことを想ってなのか、王太子と顔を合わせたくないからか、記憶を取り戻したヴェインが変わってしまえばもう償えなくなるからか、フィリーゼの感情は揺らいでいく。
「だって、姉さまはフォーリアの記憶と混ざりあって、ジョシュアを好きになっているでしょう? だから、僕が悪かったんですよね?」
「それは……違うわ……違うと……思う。好きという感情より……執着に近いのかもしれない。憎くてたまらなかったわ。けれど……」
「なら、今姉さまはジョシュアが好きではないのですか? 僕は、ジョシュアにならなくてもいいのですか?」
「もちろん。私は、あなたにジョシュアになってほしいなんて望んでない。」
望む返答が得られたのか、はたまたその逆だったのか、ヴェインは黙ってフィリーゼを見つめた。その瞳はさぐるというより抉るようで、逸らしたくなったフィリーゼは、「私は」と声を振り絞る。
「私は、あなたを散々振り回して、酷い目に遭わせた。前まで、あなたをジョシュアの生まれ変わりだから嫌っていた。だから償いたい。そして王太子は、操られていたかも知れない以上、調べて真実を知りたいと思う。でも、あなたがジョシュアになってほしいわけではないの。ぜんぶ、本当の気持ちよ」
「分かりました……ありがとうございます姉さま。辛いことだったのに、お話してくれて」
ヴェインは自分のカップを一気にあおると、立ち上がった。そしてすっと窓の外を見やる。
「書斎、行ってみますか? 姉さま」
「え」
「すみません、さっきの話、勝手に聞いてしまっていて……。当主様から鍵を預かったのですよね? 僕で良ければお供させてください」
「それはいいけれど……」
「では、行きましょう」
どこか吹っ切れた様子のヴェインは、フィリーゼの手に残る冷えたカップをさっと取り机に乗せ、そのまま彼女の腕を取り歩き出す。フィリーゼはどこか不安を抱えながら、ヴェインの後についていったのだった。
◇◇◇
クリアノーツ家の書斎は、屋敷の三階の奥、日当たりはいいが強い日差しは差し込まないよう設計され、五つの辺を使って建てたような奇妙な部屋の形をしている。天井は磨り硝子によって本を傷ませない程度の柔らかな陽光が差し込み、しんとした空気をあたためていた。
「姉さまはここで過ごすことが多かったのですか? 小さい頃……」
「ええ。お母様はよくこの部屋にいることが多かったから……」
フィリーゼは、父に言われた通りの手順で本棚に触れた。するとカチャリと音がして、静かに本棚が右にずれ、棚の裏側の壁に扉と小さな鍵穴を見つけた。彼女が硝子の鍵をそこにはめると、ぴったりと収まった。
そうしてひと思いに回すと、鍵もすんなり回った。扉を開くと、そこには空色の日記がある。
「これが、お母様の日記……」
フィリーゼは、おそるおそる日記に手を伸ばした。ヴェインは「椅子に座って読むのはどうですか?」と、そばにあった椅子を彼女に向って差し出した。しかし、ヴェインは座る気配がない。椅子はあるが、立って待つ素振りを見せた。フィリーゼは少し考えて、ヴェインの為にと椅子を引き、自分のそばに置いた。
「読んでいる間、時間がかかると思うから、よければ」
言葉を選びながら、フィリーゼは椅子の背もたれを握りしめる。硬い木細工が手のひらにあたるものの、不思議と嫌な感じはしない。ヴェインは淋しげな顔をして彼女をみたあと、「ありがとうございます」と座った。
それを見届けて、フィリーゼは座る。はっと息を吐いて、水色の手帳に触れた。分厚い皮の表紙をめくると、菫の押し花が入っている。
「それは、こちらによけておきましょうか、壊してしまわないよう」
ヴェインがそっと菫をハンカチにのせた。フィリーゼは静かに水色の手帳を開く。一番初めに記された文字を見て、フィリーゼは息をのんだ。そこには『カエルムへ』と、クリアノーツ公爵にあてた名前が記されていた。
―――
カエルムへ
貴方とは手紙のやり取りをしていたけれど、こうして日記を贈るなんてことは初めてだから、貴方は驚いているかもしれない。もしかしたら、この日記は埃を被って、なんとなく貴方は読み始めたかも知れない。
後妻を設けて、遺品整理の最中に見つけたということもあるのかしら。
貴方は私しかいらないと言ってくれたけど、それは勿体ないと思う。貴方は素敵な人よ。誰よりも優しくて、あたたかい人だった。
一緒に中庭でケーキを食べたことを覚えている?
貴方は私がいつもケーキを焼くからと、チキンを焼いてきたわよね。驚いたわ。男の人は調理場になんて入らないとばかり思っていたし、鶏を丸々一匹焼いてくるなんて、世界中を探しても貴方しかいないでしょうね。貴方と出会ってもう二十年になる。吸血鬼として生きて、そして前世の記憶を持つ私にとって、二十年なんて瞬きと同じはずなのに、貴方と出会った記憶はいつだって鮮やかで、昨日のことのよう。
思い返していくと、死ぬことが怖くなる。貴方と離れることが、こんなにも恐ろしい。
本当は、直接伝えるべきだというのは痛いほどに分かっている。結局の所、私は逃げただけだった。カエルムの愛からも、私自身の罪からも。
私に前世の記憶があるという話は、前にしたわよね。私が王妃様に仕えていた侍女だった話。そして父が病気で、母が足が悪くて貧しい暮らしをしていたと。あのとき貴方は、私がかつての王を愛していると、そして私が貴方を吸血鬼にするのを嫌がっていると誤解した。本当は、違うの。私は貴方と永遠を生きたかった。でも、私の犯した罪は貴方と永遠に生き、私の宝物、フィリーゼの幸せを見守り続けてはいけないほど大きい。
書きたくない。これ以上書きたくない。私は貴方の記憶に綺麗なまま残りたい。苦しい。けれど、きっとこうしなければ罰にならない。
私は、王妃様に手を貸して、公爵令嬢であるフォーリア・ジニアス嬢、そして王太子であるジョシュア様を殺したの。
王妃様は、吸血鬼を憎んでいた。心の底から。だから公爵令嬢であり、吸血鬼であるフォーリアと自分の息子の結婚が、気に入らなかった。国の安定なら他にあると、今思えば、吸血鬼を人間の支配下に置く気だった。だから、破談にさせようとしたの。男爵令嬢を使って。
私は王宮の中でフォーリア嬢の悪い噂を流した。自分より一回りも下の女の子の悪い噂を流すなんてと思ったけれど、それで父を治す薬が買えて、母が足の痛みに耐えながら仕事をすることもなくなるのならと、そう考えていたわ。当時はただ婚約の話が流れるだけだと、甘く見ていた。
でも違ったの。王妃様は、自分の息子であるジョシュア様とフォーリア嬢の結婚を破談にするだけじゃなく、吸血鬼と人間の軋轢を決定的なものにしたかったの。
過去の記録には、フォーリア嬢がジョシュア様と男爵令嬢の仲を嫉妬して、嫌がらせをしたと書いてあるけれど全部嘘だわ。フォーリア嬢は嫌がらせを受け、周囲から分断された末に利用されただけ。
そして最後には王妃様を毒殺しようとして処刑されたけれど、毒殺なんてしてないわ。だって王妃様は生きていた。薬で仮死状態になっただけ。医者と……宰相と共謀していたの。そして死んだふりをして、フォーリア嬢が処刑されるよう仕組んだ。
そして、王妃様はジョシュア様を殺した。
歴史の書物には、王太子であるジョシュア様は男爵令嬢を愛していたかのように書かれているけれど、それは嘘なの。王太子であるジョシュア様は、ある日を堺に姿を消したわ。その代わり、ジョシュア様の姿をした宰相が、ジョシュア様として学園で生活していたの。
王妃様はジョシュア様を浚い、監禁して、ジョシュア様の代わりに宰相をフォーリア嬢に会わせて、仲違いをさせていた。そして王妃様はフォーリア嬢が処刑されると、ジョシュア様を解放したわ。「あなたはずっと吸血鬼に監禁されていた。私はフォーリア嬢に殺されかけた。さぁ、一緒に復讐しましょう」と。
王妃様は、フォーリア様が王妃様を殺そうとした嘘の証拠をいくつも提示して、偽りのない物語を語ったわ。
フォーリア嬢はずっとジョシュア様を利用する気で近づき、そしてこの国を吸血鬼の国にするつもりだった。王すら騙し自分の手中におさめたフォーリア嬢は、王妃が邪魔になり殺そうとした。そして王妃様は機転を利かせ自分を死んだことにして、フォーリア嬢を調査して、彼女を断頭台に送った。だからこそ、ジョシュア様を助ける事ができたと。
今思えば、いくつも隙のある物語だと思う。けれどジョシュア様はそれまでの間、ずっと暗闇の中閉じ込められ、陽の光にあたることもなく一室に閉じ込められていた。食事は一日一回。心が壊れ王妃様の人形になるよう自我を失うようにされていたから、王妃様はジョシュア様を簡単に操れると思っていたの。でも、違った。ジョシュア様は監禁している間ずっと自分を失い続けていたのではなく、ずっと自分――そしてフォーリア嬢のことを考えていた。
ジョシュア様は、王妃様からフォーリア嬢について聞くと、すぐに自害したわ。暖炉の火かき棒で、自分の胸をついたの。
私は、いつだって王妃様の言うとおりにしていた。王妃様の言うとおりにすれば、薬があれば病気の父が元気になってくれるから。足が変形して、走ることができない母が楽に暮らせるのだから。そうして、何人もの命が失われていくことに、見て見ぬ振りをした。
王妃様はそのあと、宰相をジョシュア様に変身させ、宰相は吸血鬼に暗殺されたことにしてしまったわ。そして人間の公爵家と子供を作らせたあと……その子供を、人間の子供にすり替えたの。宰相の子供は、吸血鬼になる。
長子であれば、宰相の能力を引き継ぐことになる。その子供から自分のしてきた悪事が明かされてはならないと、平民の家族を襲い、赤子をすり替えた。宰相は自分の子供を、吸血鬼殺しの呪具の実験台にしたの。
王妃様は、吸血鬼を憎んでいる。宰相は、きっと実験ができればそれでいい。私は、家族さえ幸せに生きてくれるなら、この手がどんなに汚れようと構わなかった。父の病気が治れば、母が楽に暮らしてくれるならそれで良かった。私は王妃様に仕え続け、父は、病によって死ぬことはなく、ふたりとも安らかに死んでいった。
そして私は、フィリーゼが産まれたその夜――前世を、罪の記憶を思い出したの。
それまで、ただ貴方を、カエルムを愛するマーサ、お腹の子の母親であるマーサでしかなかった。でも、違ったの。私は大罪人のマーサ。何度死んでも償うことの出来ない罪を犯していた。突然前世の話をして、取り乱す私を貴方は受け入れてくれた。でも私は全てを話さなかった。私は母親であってはいけない人間だったのに、フィリーゼの母親になりたいと思った。
なんて、醜い。
だから、結婚記念日に永遠の契約をやめようといったのは、貴方を愛していないからじゃない。私は永遠に幸せになってはいけないから、しなかっただけ。貴方は何一つ悪くない。ひとかけらの後悔も必要ないわ。貴方はただ私に騙されただけ。
何人も殺した人間は、地獄に落ちるべき。素敵な貴方と一緒にいるなんて幸福を掴んではいけない。だから貴方には、なにひとつ落ち度なんて無い。ごめんなさい。カエルム。結局最後まで貴方に自分の罪を告白することができない。きっと私はもう長くないけど、なんとなくわかるの。きっと死ぬまで私は貴方に、フィリーゼに自分の罪を告白することが出来なかった。
ごめんなさい、カエルム。ごめんなさい、フィリーゼ。ごめんなさい。私は罪を償います。どうか貴方たちは幸せになってください。
私は貴方達を愛しています。
―――
フィリーゼは、静かに日記帳を閉じた。そして、静かに目を閉じた。
(私は……どこまで愚かだったの……)
震える手で、水色の日記帳を撫でる。王太子の前世の裏切りは、無かった。それどころか自分は意味もなく王太子を恨み続け、あろうことか殺そうとしていた。その罪の重さが、数百年の時を経てフィリーゼの目の前に現れたのだ。自分の母の懺悔が、自己保身の感情が、フィリーゼにははっきりと分かった。
(お母様は、心からお父様を愛して……恐れた)
自分が死ぬまで、公爵に嫌われたくなかった。けれど、本当の自分を知っていてもらいたかった。その甘さが、フィリーゼには痛いほど分かった。そして、自分の醜さを思い知った。
過去、酷い目にあった。今、酷い目にあっている。その事実は、決して人に許されざる仕打ちをしていい理由にならない。にもかかわらずフィリーゼも、マーサも、同じ過ちをしていたのだ。
「ヴェイン」
フィリーゼは、それまでじっとフィリーゼを見守っていたヴェインに声をかける。そして、「王太子は、悪くなかったの」と、ヴェインをまっすぐに見た。
「え……」
「本当の王太子は、監禁されていたらしい。そしてフォーリアと一緒にいたのは別人で……姿を変えることの出来る吸血鬼だった。態度が豹変した時、そこにいたのは王太子ではなかったの」
「……じゃあ、ジョシュアはなにも悪くなかった……ということですか?」
フィリーゼは、しっかりと頷いた。そして、「王妃様が、吸血鬼と人間を分断しようとしていた。その過程で王太子は亡くなったの」と続ける。
「フォーリアは、気付かなかった。私は、一方的に貴方を傷つけた」
「そんなことありません。前世の記憶があって、自分にひどい仕打ちをしてきた人間と似てる人間がいたら、誰だって警戒するでしょう? それに、フィリーゼ姉さまは、フォーリア嬢ではないのですから、僕がジョシュアではないことと、同じように」
「ヴェイン……」
「フィリーゼ姉さまは、前世の記憶に引きずられています。貴女とフォーリア嬢は違う人間のはずです。育った環境も、親も、血も違うでしょう? ただフィリーゼ姉さまがフォーリア嬢の記憶をたまたま天から授かっただけかもしれない。前世の罪なんて、幻想です。酷い悪夢を見て、気が塞いでしまっているだけですよ。国民全員から嫌われるなんて、まるで悪夢じゃないですか」
ヴェインは、フィリーゼの背中にそっと手をのせた。あやすように「ねぇ、フィリーゼ姉さま」と顔をのぞきこむ。
「フィリーゼ姉さまは、前世の記憶に引きずられたでしょう? 前世の記憶に引きずられて、悪いことをしたんでしょう? なにもしていない僕を疑って、殺そうとしたんでしょう?」
「……そうよ」
「なら、また前世のことを考えることが、本当にいいことなのでしょうか? だって、僕を避けて無視したこと、悪いことだと姉さまは思っているのですよね? でも姉さまは、過去に引きずられて生きていくんですか?」
巣食うように、ヴェインが囁く。その声は甘く、まるで邪気の感じられない幼子のようで、フィリーゼは目を見開いた。
「私は……」
「もう、フィリーゼ姉さまとして生きていきましょう? 王太子の心変わりの原因も分かった。ただ、想い合っていた二人が国に引き離された悲劇じゃないですか。もう前を向きましょうよ。クレイノーツ公爵だってきっと悲しみますよ。フィリーゼ姉さまがそんなに後ろばかり向いていたら。それに男爵令嬢の生まれ変わりのロレイン・ヴェレッタだって、消してしまえばいいだけじゃないですか」
「ヴェイン……?」
あまりの発言に、フィリーゼはヴェインの顔を見た。しかし彼は常軌を逸した異常者の顔ではなく、あくまで穏やかな義弟の顔で笑っていた。
「僕が姉さまの為に、ロレイン・ヴェレッタをこの世界から消してあげます」
「そんな、消すだなんてそんな恐ろしいことを……」
「大丈夫ですよ。もし吸血鬼だとしても、水の中で呼吸は出来ないはずでしょう? 海に沈めてしまえばいいんですよ。死ななくても、上がってくることは出来ないでしょう。ああ、安心して下さい、僕がひとりで全部終わらせます。姉さまの手は煩わせません」
なんてことのないように、まるでサンドイッチを作る工程を話すようにヴェインは人を殺す工程について語っていく。フィリーゼがどう返事をしていいか分からないでいると、静かなノックが響いた。
「フィリーゼ、ヴェイン。クレイスくんとの話が終わったぞ」
「はい。いま行きます」
フィリーゼは、慌てて立ち上がった。そしてそのまま張り詰めていた空気は扉が開かれたことで流れていき、フィリーゼとヴェインはその場を後にしたのだった。
◇◇◇
「久しぶりにゆっくりお話が出来て、とても勉強になりました。ありがとうございます、公爵」
「いやぁ、私こそまるで若い頃に戻ったような心持ちだった。いい時間をありがとう。お父様とお母様によろしくね」
クレイスとクレイノーツ公爵が言葉をかわしていくのを、フィリーゼは静かに見つめる。隣のヴェインは微笑ましいと言わんばかりの顔で、緩やかに口角を上げていた。
「フィリーゼ、学園にまた復帰したら、俺が勉強を教えるから安心してくれ。といっても、俺が教えられるかも知れないが……」
「そんなことは……」
「あるさ。ヴェイン、仲直りできてよかったな。良かったら俺とも仲良くしてくれ」
ばし、とクレイスはヴェインの肩を叩いて陽気に笑った後、公爵へ一礼してシャイニングの馬車へと乗り込んだ。ゆっくりと馬車は走り出していき、クレイノーツの屋敷から去っていく。やがて馬車が見えなくなった頃、フィリーゼは「お父様」とクリアノーツ公爵に声をかけた。
「これ、お母様の日記帳です。ここに書いてあるお母様の気持ちは、お父様にあてたものです」
「私に……? 本当か……?」
クリアノーツ公爵は驚いた顔をした。公爵の真意が問えず、フィリーゼは戸惑う。
「はい。ここにあるほぼ全てが、お父様にあてられたものです。お母様とお父様は、本当に想い合っていたのだと伝わってくるものでした」
「そうか……」
クレイノーツ公爵は、フィリーゼから日記帳を受け取った。目を丸くしながら大切に日記帳を手にする公爵は、フィリーゼの目には泣きそうに見えた。
「お父様……?」
「なんでもない。今夜大切に読もう……ありがとう、フィリーゼ」
「あ、クレイノーツ公爵、これ……日記帳の最初のページにあって……」
ヴェインが懐からハンカチを取り出し、公爵に菫の押し花をわたした。公爵は菫をじっと見つめると、一筋の涙を流した。
「これは……ああ、マーサ……」
クレイノーツ公爵は菫をそっと手におさめた。愛おしそうに見つめ、フィリーゼとヴェインに微笑む。
「これは、一番最初にマーサにプレゼントした、花束が菫だったんだ……わたしとマーサの思い出の花だ……ありがとう。ありがとう……」
いっそ切なさや寂しさを覚えるほどに、公爵は微笑む。まるでそのまま儚く消えてしまいそうで、フィリーゼは公爵の想いに答えたくて、優しく微笑み返したのだった。
◇◇◇
「クレイス、クレイノーツの様子はどうだった」
「はい。そのことですが……」
クレイノーツ家へ伺った夜半、シャイニングの屋敷にて、クレイスは父でありこの国の宰相であるシャイニング公爵を前に、今日のクレイノーツでの報告をしていた。人間が馬車を使って十日かかる道のりも、吸血鬼であるクレイスならばその日に帰ってくることは造作もない。蒼を基調とした邸の中は、砂浜のような黄金色の絨毯がひかれ、天井では独特な形の幾何学模様のタイルが輝いている。しかし、そんな綺羅びやかな装飾に反して、屋敷の主とその令息の顔色は暗かった。
「おそらく、もうクレイノーツ公爵に残された時間は、流星の可視化される時に等しいかと」
「そうか……」
シャイニング公爵は、静かに窓の外に視線を向けた。夜空は星がまたたき、輝いている。
「優しき者ばかり、失われていくな。クレイノーツに、スマルト、シアン……神はよほど善を食らうことがお好きらしい」
「はい」
スマルト、シアン。その名前を聞いたクレイスもまた、シャイニング公爵と同じように窓が隔てる夜空を見つめた。
メアロード家が代々炎の力を引き継ぐように、シャイニング家の長子は代々触れた物や人から、記憶や感情をそのまま、もしくは色、音、味、香り、浮かぶ文字などを読み取る能力を持っている。
しかし、王家はその能力を脅威とみなした。よってシャイニング家のなかでも、「人の心」や「思い出」を直接覗けるものに関しては、始末をするよう命じたのである。
能力が発現する10歳の誕生日まで長子の存在は秘匿、第二子を長子として育てることが定められたシャイニング家は、現在のシャイニング公爵の実兄であるスマルト、そしてクレイスの実兄であるシアンを始末した。
王家の中では人の心を覗き見れる事のできる人間を諜報員にして、他国に送り込むことを提言するものもいた。隣国では「魔法」と呼ばれる呪いを使う人間で溢れており、その声を支持するものもいたが、王家に近い大公が首を縦にふらなかったことで現在の体制が続いている。
シャイニングは海沿いの温暖な気候で商業が盛んな領地で、民もまた気立てがよく陽気であるというのが国の認識ではあるが、民の笑顔の裏には領主たちの密かなる涙があったのだ。それはクレイスもまた同じで、いつも彼の瞼の裏には、殺そうとしてくる自分を許し笑顔を向ける兄の姿があった。
食事は当然与えられるものの、万が一人目に触れてはならないと日も当たらず、ただ能力の発現を刻々と待つだけの生活で、髪は色素をもたなくなった。活動を制限されることで、幼いクレイスよりもその手足は骨ばって華奢になっていった。しかし日に日に弱りながらも、発現する能力が王家にとって穏やかなものであれば一緒に遊べると、シアンはいつだって希望を捨てなかった。
そして八歳の頃、シアンは一族の中でも最も強い能力を発現させてしまい、王家に連れて行かれてしまったのだ。
以降、クレイスの生きる目標は自分が宰相になり、今の王家を一新し実の兄を解放すること、ただひとつ。吸血鬼は、その長い寿命を全うする以外に死ぬことがない。唯一殺すことが出来るのは、王家に伝わる呪具のみだ。
よってシャイニング家の長子たちは皆王家によってどこかへ捕らえられているはずで、国が変われば、シアンを取り戻すことが出来る。そう思い至った時クレイスは、いずれ国を壊すために日々人々と馴れ合い、心の中に巣食う殺意を自分と切り離して飼い慣らし、日々笑顔を浮かべている。
たとえシャイニング公爵ですら、シアンの生を諦めていたとしても。
「それでは、失礼致します」
「ご苦労だった。ああ、そうだクレイス、婚約者の様子はどうだった?」
「元気そうにしていました。ただ、やはりヴェレッタ家の内情が明らかにならないうちの通学再開は厳しいように思います」
「ならば花嫁教育をするとシャイニングの領地に入れてしまうか」
「そうですね……それでもひとまずは内々にヴェレッタ家に探りを入れることにします」
「……前は交流のあった家だったんだがな……」
シャイニング公爵は遠い目で窓の外を見つめた。以前、シャイニング家とヴェレッタ家は交流が在り、茶会が開かれた際には互いの屋敷を行き来していた。そしてその娘であるロレインともクレイスは交流を深め、まるで兄妹のようにクレイスはロレインの世話を焼いていたが、シアンが王家に連れて行かれたこと、フィリーゼと婚約したこと、そしてロレインが留学したことで家ごと疎遠になってしまったのだ。
以降、クレイスはフィリーゼと過不足のない円満な関係を築き上げるべく、邁進していた。しかしそんな彼の前に、顔の造形を分からなくさせるほど濃く、それでいて化粧を感じさせないような、過去を捨てた雰囲気を持つロレインが学園に通うようになり、その末にフィリーゼの周りで奇妙な出来事が起こり始めた。
クレイスはこれまでの令嬢や令息を取り巻く数多のもつれを観察した結果として、自分に好意を抱いているからと考えたが、どうにもロレインの表情からは底しれぬ違う意思を感じ、まずはシャイニング家に報告、ヴェレッタ家への調査を進めていた。そこでフィリーゼが学園に閉じ込められた際、ロレインと仲良くしていた男子生徒がフィリーゼを閉じ込めた状況証拠は見つかったものの、決定打はなくさらに男子生徒は王家に使える騎士団長――両親が人間の息子で、状況証拠だけで問い詰められる状況になかった。
(こんなことで手を焼いていては、宰相になった時すぐにでも王家に取って食われ、飼われてしまう)
フィリーゼのことを、クレイスは特別に想ったことがない。以前、クレイノーツ公爵が恋は人を狂わせると言っていたのを聞いてから、自分の本懐を遂げるには不要だと彼の人生から抹消した。しかしながら痛めつけられていたら可哀想に感じるし、困っているなら助けてやりたいと思う。
(クレイノーツ公爵には、まだ生きていてもらわなければ……)
シャイニング家からも護衛を派遣しているが、フィリーゼの身は漠然とした危険に晒されていた。男爵家といえど、王家と裏でのつながりがあるかもしれない、得体のしれないヴェレッタ家に狙われているのだ。だからこそ、クレイノーツ家を単身で守り、采配を振るっている公爵に倒れられたら、この先の未来がどうなるのか検討もつかない。
(せめて、ヴェレッタ家のすべてが明らかになるまでは……)
クレイスは祈るように手のひらを握りしめ、シャイニング公爵の部屋を後にしたのだった。
◇◇◇
昔からこの国では、夏の終わりは朝焼けが告げると言われている。徐々に日が昇り夜を光が染め上げていくにつれ、月は色を失っていくが、夏の終りに一日だけ、空に浮かぶ朝の月が桃色に染まる瞬間があるのだ。人々はそれを桃月と呼び、季節の移ろいを感じる。その景観は歌劇や文学にも用いられ、人々の心とともに在るひとつの情景だった。
そんな美しい桃月が浮かぶ朝、フィリーゼは自分の髪を梳いていた。月を眺めながら、フィリーゼはロレインについて考えていく。
(ロレインを、あのままには出来ない。クレイノーツ家になにかをされる前に、食い止めなくては)
しかしシャイニング家すら調査の手を阻まれた以上、出来ることが少ないのも確かなことだった。よって、フィリーゼに出来ることと言えば、自分を犠牲にすることただひとつ。
(ヴェインは記憶がない。そして、王太子も私を害そうと考えていたわけではなかった。クレイスもまだ私に対して友好的でいてくれている。ならば、私が衆人環視の前でロレイン・ヴェレッタに殺されかけるか、殺されれば流石に国も調査を許さざるをえなくなるはず……)
フィリーゼは王妃が毒殺されたフォーリアの記憶を思い返す。ヴェインに言われ、母の日記を見た彼女は、今世について考えた。そして未来を思うたび、やはり前世をちらつかせるロレインの存在が気がかりだった。ため息をついていると、不意に侍女のばたばたとした駆け足の音とともに、無作法なノックが響く。
「お嬢様、お嬢様大変です! 旦那様が……旦那様が!」
その言葉に、フィリーゼはただならぬことが起きているのだと察知した。急いで部屋を出てクレイノーツ公爵の部屋へと向かうと、そこには静かに眠る公爵の姿があった。日記帳を抱きしめる姿は安らかで、閉じられた瞳はあどけなさすら感じさせ、子供のようだった。しかし、朝日に照らされた口元も鼻筋も微動だにせず、呼吸をしていなかった。
「お父様……?」
「朝、いつもはわたくしたちがお伺いせずとも広間にいらっしゃるのですが……今朝は姿が見えず……今医者を呼んでいるのですが……」
フィリーゼは、昨日の日記によりクレイノーツ公爵が人間であることを薄々感じ取っていた。人間と吸血鬼は、寿命が違う。だからといって、こんなに早く死ぬはずがない。だってまだ、生きるはずだ。そう混乱し、彼女は縋るように父の亡骸へとすがりついた。
「お父様、お父様いや……私まだお父様になんにも出来てない……いや……行かないでお父様……医者は、医者はまだなの……? お父様……死んじゃったなんてそんなの……違うよね? いや、やだ、やだ、どうして……」
「フィリーゼ姉さま」
ヴェインが、惑うフィリーゼの背中に声をかけた。その落ち着き払った顔に、フィリーゼは呆然とする。そして、ハッとした。
「もしかして、ヴェインは……ヴェインはなにか、知っているの……?……」
「はい。ご病気だったんです。公爵は……どんな著名な医者でも治せない病で……もう今年から、その生命はいつ尽きてもおかしくない状態でした」
「ど、どういうことなの……病気ってなに……? わたし、わたしそんなこと、しらない……」
「公爵は、フィリーゼ姉さまにだけは言うなとおっしゃっていました。公爵の病気のことは、公爵自身、シャイニング家、そして、秘書とお医者様と僕しか伝えられていません。そして僕は、自分がもう長くないからフィリーゼ姉さまに絶対的な味方を……と考えた公爵により、養子になったのです」
「なにそれ……なら、お父様は……ずっと無理をして今まで……隠して……?」
「はい。ずっとフィリーゼ様には、自分の命が少ないことを知らないままでいてほしいというのが、公爵の願いでしたから」
その言葉に、フィリーゼは涙した。瞼の裏には、少しおどけて笑う父の姿が浮かぶ。その笑顔は明るくて、優しくて、もう二度と見れない笑顔だった。目の前には目を閉じた公爵がいて、眠っているようなのにフィリーゼがゆさぶっても起きる気配がない。フィリーゼを呼ぶ声も、もう発することが出来ない。
(もっと、もっと話が出来たはずなのに)
フィリーゼは、自分の父ともっと過ごすことが出来たはずだと思い返す。もっと話が出来たはず、愛想よく振る舞うことが出来たはず、料理だって裁縫だって、もっと、もっと、もっととフィリーゼは涙する。しかし、冷たくなった公爵にその声は届かない。心の中で聞こえてくるのは、クレイノーツ公爵の最後の言葉だった。
――ありがとう、フィリーゼ。
あの言葉を、一体どんな気持ちで自分の父が言ったのか。フィリーゼはなんど想像しても答えは出ない。それなのに涙は流れるばかりで止まることがない。ヴェインは静かにフィリーゼの隣に立ち、ただずっと、そばにいたのだった。
◇◇◇
クレイノーツ公爵は、自分の死後の支度を、完璧に行っていた。
自分が死んだことが知られたらすぐに王家、シャイニング家、司教に連絡が行くようになっておりさらにフィリーゼとヴェインは屋敷に、屋敷の管理はフィリーゼもヴェインも成人していないことで、クレイノーツ公爵の信頼たる親戚が任されることになった。
そうして生前のクレイノーツ公爵が完璧に仕上げ、王家の血を引く者、そして次期王であるエーベル王子も参列したミサは、各国の要人も集い参列者は異例の数となった。それは生前のクレイノーツ公爵家の縁を如実にあらわしており、弔いに来たものは皆、公爵には世話になった、どうか困ったことがあったら何でも言ってほしいと、父を亡くし呆然とするフィリーゼに声をかけたのだ。
優しい言葉に、フィリーゼはせいいっぱい答えた。けれどふとした瞬間、どうしても涙は時折こぼれてしまい、振り切るように彼女は参列者に毅然とした挨拶をして、ミサを終えた。
(私は父を、疑ってしまっていた。いつか、前世のように裏切られるのではと……信じられなかった。裏切られてもいいからと、信じていればよかった。もっと、一緒に過ごしていけば……)
目を閉じれば、フィリーゼの瞼の裏には父の笑顔が浮かぶ。壮絶な拷問の記憶をもってしても彼女が自殺をはからなかったのは、ひとえに父がいたからだ。父を一人にしてはいけないと、フィリーゼは最後の手段を取らずに居た。しかしその一方で、彼女は父を信じきれずにいた。その弱さが、いま彼女を後悔の淵へと沈めていく。
(……お父様のところにいきたい。いって、謝りたい。でも私が死ねばお父様は悲しむ。どうしたらいいんだろう)
フィリーゼの将来は、決まっているはずだった。学園を卒業したらクレイスと結婚して、子を成し、シャイニングの跡継ぎを立派に育て上げ、死ぬ。その簡単な四つの未来が、今はことごとく想像できなかった。繰り返されるのは戻ることが出来ない過去ばかり。
(私はいま、何がしたい?)
今も昔も、フィリーゼにしたいことはなかった。しかし今、無性に父と話が、旅が、何かを楽しむことがしたかった。でもそれは不可能なことで、夢にしかならない。屋敷のバルコニーに立ち、ぼんやりと景色を見下ろす彼女に、ヴェインが声をかけた。
「死ぬときは、僕も一緒に死にますよ」
「え……」
「公爵と姉さまの最後を見守ると約束していましたので……」
「死なないわ」
「でも、死にたいとは思っているでしょう?」
見透かす瞳のヴェインに、フィリーゼは力なく首を横に振る。「噓はいいですよ」と、ヴェインは隣に立った。
「関係が良好な家族なら、身内の死は辛いものでしょう。それに、姉さま、今にも下へと落ちていってしまいそうでしたよ」
そんなことない。フィリーゼは簡単な言葉も、紡ぐことが出来ない。死ねば、父を悲しませる。けれど生きていたくないことも事実だった。ずっとフィリーゼは生きていたくなかった。かろうじて彼女をこの世に結びつけていた存在は、儚くなった。
「償ってもらってませんよ。僕はまだ」
ヴェインが、手すりをなぞりながらフィリーゼを見る。その目は月明かりに照らされ、ひときわ澄んで見えた。
「僕はまだ、姉さまに一方的に無視されたり、ひどい言葉を浴びせかけられたことの償いを、されてません。謝罪はされましたが、僕は許してません。傷ついています。心が壊れそうです。公爵もです。姉さまが距離を置いていたことに、きっと傷ついていた。だから、死んではいけませんよ、姉さまは」
「ヴェイン……?」
「きっと公爵は、空の上から姉さまを見ています。姉さまが暗くしている姿なんて見たくないでしょう。姉さまが美味しいものを食べて笑ったり、景色を楽しんだり、人と話をしたり、明るく過ごす姿がみたいはずです。姉さまの今は、何一つ公爵の望んでいない姿です。今の姉さまは、ただ自分から好んで苦しんでいるだけです。自分の足で立って、生きていってください。それが今の姉さまが公爵に出来ることです」
ヴェインは、フィリーゼの手を掴んだ。そして、華奢なその手をフィリーゼ自身の胸にあてさせる。
「フィリーゼ姉さまは、生きているんです。この心臓が自分から止まるまで、貴女は生きていなきゃいけない。公爵が見たいのは貴女が首を吊る景色でも、腹を貫くことでも、冷たい水の底へ身を投げることでもない。貴女が笑う姿です。自分の死を、乗り越えて、僕はそのために一生をつかいます。僕も貴女が笑う手伝いをします。そのかわり」
ヴェインは、自分の懐からナイフを取り出した。そして鋭い瞳で、フィリーゼを射抜いた。
「もし、フィリーゼ姉さまが自分の寿命ではなく自死をはかったら、僕も後を追います。一人にはさせません。そして、後を追うその前に無関係の人間を何人、何十、何百と巻き添えにします。僕を養子に迎え入れたのはクレイノーツ公爵です。その名前に泥を塗ることになります。間違いなくクレイノーツ公爵は責められるでしょう。ひどい言葉を浴びせかけられるかもしれません」
その言葉に、さっとフィリーゼから血の気が引いた。しかしヴェインは「同じくらい、酷いことですよ、姉さまのしようと考えていることは」と続ける。
「公爵にとって、貴女の死は僕が大罪人となることより悲しく傷つくものです。だから一生を、きちんと使ってください。貴女の死にたいという願いが叶わないことが、公爵を信じきれなかったこと、記憶のない義弟を疑ったこと、そしてジョシュアを憎んだ罰です」
「ヴェイン……」
「いいえ、フィリーゼ……ううん。フォーリア、貴女の願いは叶うわ。苦しんで苦しんで死にたいのでしょう?」
突然頭上からふってきたような声に、フィリーゼもヴェインも驚き顔を上げた。するとそこには、ローブをはおったロレインが、人とは思えぬ身のこなしで、空から降り立つ。そして懐から香水のような小瓶を取り出すと、床に叩きつけた。その瞬間周囲には甘ったるい異臭が漂い、その臭いを嗅いでしまったフィリーゼはめまいを覚え手すりに手をついた。
「姉さま!?」
ヴェインが慌ててフィリーゼの肩を支える。徐々に霞んでいく視界の中、咳き込み始めたヴェインが映り、彼女は義弟をなんとか逃がそうと背に隠した。しかし体は怠く立っていることさえままならない。やがてロレインの後ろから何人もローブを身にまとった怪しい者たちが現れ、フィリーゼは「逃げなさい」とヴェインを弱々しく見る。
「駄目です。姉さまを一人になんせさせません。僕は貴女を守ります」
「馬鹿なことを言わないで、貴方は逃げるの! 人間なのだから……すぐに殺され……」
「まぁ、素晴らしい姉弟愛だこと。まぁ、人間なら簡単に殺せることだし……屋敷の人間に知られたら面倒だから、貴方も一緒に来ればいいわ」
「……それは、どういう……」
「さ、運んで頂戴。早くお母様のもとへその人達を連れて行って」
ロレインは怪しく笑いながら、フィリーゼとヴェインを指差した。そして周囲にいたローブの者たちはフィリーゼに近付いていく。抵抗しなければ、ヴェインを守らなければとのフィリーゼの思いもむなしく、彼女の意識は途絶えていったのだった。
◇◇◇
ひたり、と頬に冷たい刃物が触れた感覚がして、フィリーゼは目を覚ました。ぼやけた視界には縄で縛られたヴェインがそばに転がされていて、慌てて目を見開く。自分の腕には鎖がつけられ、周囲を見るとそこは寂れたダンスホールのようで、天井に吊るされたシャンデリアは半分以上が朽ち果て、二階建てになっている回廊は半分以上崩落していた。
「ここは……」
「わたくしと、可愛い妹の住んでいたお屋敷よ」
振ってきた声のほうへと、フィリーゼは目を向ける。そこにはロレインではなく、ロレインの母――ヴェレッタ夫人がうっそりと笑っていた。訳も分からずフィリーゼが戸惑っていると、ヴェレッタ夫人はくすくすと笑う。
「化け物に生まれて、そして死んで、また化け物に生まれ変わるくらいなのに、どうしてそんな子供のような顔をしているの?」
「化け物って、もしかして前世の記憶が……」
「いいえ? 私に前世なんてものないわ。でも貴女がフォーリアの記憶を引き継いでいることも、そこにいるのが私の息子の生まれ変わりなことも知っているわよ。目がそっくりですもの。すぐに分かったわ」
フィリーゼは、ヴェレッタ夫人がヴェインを「私の息子の生まれ変わり」と称したことで、夫人の正体にハッとした。
「もしかして貴女は、王妃様なのですか?」
「ええ。そのとおりよ。私はかつて、この国の王妃をしていた。そして、愚かな吸血鬼に殺されたと国中から憐れみを送られた――吸血鬼」
「でも、ジョシュアは人間じゃ……それにどうして吸血鬼が吸血鬼を殺すなんて……」
「ジョシュアは攫ってきたんだもの。だから吸血鬼とは違う。私は元々人間だったけれど、王妃のときはすでに吸血鬼だったから……」
ヴェレッタ夫人は、ヴェインを蹴り上げた。突然の衝撃にヴェインが目をさますと、そんな彼を鼻で笑う。
「だから人間として生きて、夫と作った子供から繋がれていった家があるのよ。その家は私の血と繋がっているから、顔がよく似てとても便利なのよ。はじめこそ只の男爵家でしかなかったけれど、少しずつ私が王家の犬として使える諜報員としての家に変わっていったわ。そこにいるロレインもそう」
フィリーゼの背後にはロレインが無表情で立っており、見上げるフィリーゼをただ人形のような瞳で眺めていた。
「どうして、吸血鬼なのに……貴女は吸血鬼をそこまで憎むのですか……」
「大事な人間を、お前たちに殺されたからよ」
ヴェレッタ夫人が持っていたサーベルを、フィリーゼに突きつけた。ヴェインが「姉さま」と絶叫するが、縄で縛られ身動きが取れない。ヴェレッタ夫人はサーベルをフィリーゼの頬にあてながら、彼女を睨みつけた。
「私の妹は、とても美しかったの。心も綺麗だったわ。でもあの子は、吸血鬼に浚われたの。そして無理やり血の呪いを与えられて、同族にされてしまった! 吸血鬼なんかにさせられて、私に言うのよ。殺してって、でも吸血鬼は終わりが来るまで不死の者。どんなに切り付けても、撃っても、焼いても最後には再生してしまう。だから私はあの子を殺すために、呪具を作ることにしたの。そして殺した。殺したけれど……気付いたのよ、吸血鬼がこの世界に存在する限り、吸血鬼に蹂躙される流れる涙は、消えないことに。だから私は吸血鬼になった。永遠の命を手に入れ、長い年月をかけて、王妃になったの」
ヴェレッタ夫人は、遠い記憶を思い返していく。長い長い、地獄の記憶だ。仲の良かった妹が「一目惚れ」などという一方的な災害に巻き込まれ、さらわれた末に吸血鬼にされてしまった。そして、自分に殺してと頼み込んでくる。幾度も研究を重ね、試行錯誤のなか吸血鬼を捕らえ、ようやく吸血鬼を死に至らしめる秘薬を完成させた。それを、世界でいちばん大切な妹に飲ませ、殺した。
最期に妹は、「ありがとうお姉ちゃん」と彼女に言った。今までお菓子や花、可愛い便箋を与えたときに返ってきた言葉は、確かに彼女を満たす言葉のはずだったのに、妹に感謝され得たのは虚空だった。ただひたすらの、虚ろ。
妹を殺すために長い年月が必要だと、研究しか好まぬ吸血鬼と契約した彼女には、永遠が待っていた。自分を死に至らしめる薬をもう一度作ろうと、なんとか気力を振り絞った矢先、街にくりだした彼女が目にしたのは、吸血鬼が人を襲う光景だった。
吸血鬼がいる限り、一生妹のような存在が生み出され続けてしまう。そう決めた彼女は、吸血鬼の存在を容認しようとする国すらも憎み、じわじわと真綿で首を絞め、一滴のインクを羊皮紙全面にしみこませるよう長い年月をかけて、王妃に君臨した。一方で、妹を殺した幻の秘薬を量産することは叶わなかった。同じ手法を使っても、同じ材料を使っても無駄だった。ただ、ひとつだけ幸いとあったのは、失敗の秘薬のなかに、血をいつまでも新鮮に保つ薬を見つけたことだ。その血により、彼女は自分と契約した吸血鬼から定期的に採血することで、自分が相手をいつ殺しても、自分だけは生きながらえることが出来るようにした。
そうして、自分だけの力で永遠に生きられる力を得た彼女は、吸血鬼の権威を失墜させながら、当時吸血鬼の中で最も強いとされていたフォーリアに目をつけたのだ。
「呪具は全て、フォーリアの身体から出来ているの。弾丸は頭蓋の骨を、ナイフは指の骨を、杭は首の骨を、そしてこのサーベルは、肋骨を混ぜている。そして貴女の心臓によって――また秘薬ができた。それからなんとか量産できないか過ごして来たけれど……まさか、貴女が生まれ変わり、シャイニング家と婚姻するなんてね。これ以上国で吸血鬼が力を持ってしまったら、数百年のわたしの努力が、無駄になってしまうわ」
くす、くす、とヴェレッタ夫人は子供のような笑いを繰り返す。その光景を、フィリーゼは酷く落ち着いた気持ちでみていた。
(今見ているのはきっと、もしこのまま過去に囚われ続けて生きた私の、未来だ)
フィリーゼはヴェレッタ夫人に悲しみを覚えた。そして、自分の母の手紙を読んで確かに身に刻んだはずなのに、父の死で忘れてしまっていた「今」を、たしかに見た。悲しみと後悔だけを繰り返し、前へと進めずにいた自分を見て、死んでしまった父はどう思うのだろう。目を閉じて父と暮らした日を思い出し、父の「困った人には優しくしてあげなさい」という言葉でヴェインの頬の泥を拭ったこと、「いじめは悪いことなんだよ」と教わっていたから責められていた令嬢をいじめから止めたことを――フォーリアの悲しい記憶に苛まれる前の自分ごと思い出した。
「可哀想に」
フィリーゼは、静かに前を見据える。そして手首を繋がれたまま、ヴェレッタ夫人をみやった。
「貴女は、可哀想。私は、貴女みたいになりたくない。全部を一緒くたにして見たくない。きちんと今を見ていたい。お父様、お母様に恥じない生き方がしたい。誰かを傷つけながら仕方ないなんて思いたくない。反省して、傷つきながらでも、考えて正直に生きていたい……そうやって、生きていく。もう、後ろ向きはやめる。お母様にもお父様にも、ちゃんと会いに行きたい。誰かを憎んで楽になるのも、怒りをぶつけてそれを生きることへつなげるのも、もう終わりにする」
薄く霧がかったような瞳をしていたフィリーゼの瞳に、光が差し込んだ。いつも他人事のように発していた声も堂々として、ヴェレッタ夫人に向かっていた。フィリーゼの変化に、ヴェインが大きく目を見開く。
「私は……フォーリアじゃない。フィリーゼ・クレイノーツ。これからも、ちゃんとフィリーゼとして生きていく。そして貴女を……終わらせる」
そうフィリーゼが宣言したことに、ヴェレッタ夫人はサーベルを握りしめ、フィリーゼに襲いかかった。フィリーゼは振りおろされたサーベルを、繋がれた鎖で受け止めた。ヴェレッタ夫人はそのままサーベルに力をこめていくが、フィリーゼも押していく。
部屋の中にはヴェレッタ夫人、ロレインしかいない。そしてロレインは人間だ。フィリーゼはロレインを見やると、そこに彼女はいなかった。後ろを取られているわけでもない。ヴェレッタ夫人のサーベルを受け止めながら周囲に感覚を研ぎ澄ませると、ヴェレッタ夫人が笑う。
「なあに、考えごとかしら。ロレインを探してるの? 残念だけれど、あの子には今この屋敷に火を放ってもらっているわ。これ以上吸血鬼が強い権威を得ないよう、廃れた屋敷に、シャイニングを裏切り義弟と心中した筋書きで、貴女には死んでもらう必要があるから」
「そんなことさせない」
「威勢だけはいいけれど、さっき貴女の嗅いだ香は神経に作用するものよ。私は抗体があるけれど、生まれてまだ十五年しか経ってない未熟な吸血鬼にはこたえるのではなくて?」
ヴェレッタ夫人の言葉に、フィリーゼは剣を押さえる力を強くする。しかし踏み込む足にもその手にも、感覚が薄れていっていることは事実だった。やがてヴェレッタ夫人はフィリーゼの腹を蹴り上げるとそのまま突き飛ばし、剣を振りかぶる。そしてひと思いに突き刺した。
「姉さまっ」
刺されそうになったフィリーゼを、ヴェインが突き飛ばした。そしてヴェレッタ夫人に刺されると、フィリーゼに叫ぶ。
「吸血鬼を殺すサーベルならば! まだ効力は残っているはずです!」
フィリーゼはハッとした。ヴェインが死にものぐるいで見出した好機を無駄にしてはならない。しかしその手には鎖で繋がれている。彼女が口でヴェインからサーベルを引き抜こうと踏み込むと、銃声が響きフィリーゼの手首の枷が取れた。
「ロレイン!? なにをしているの?」
フィリーゼの視界に、ロレインが銃を構えている姿が映り込む。銃口からは硝煙が漂い、フィリーゼの枷を撃ったことを証明していた。
「どんなに人形として育てていても、私の身体は土や蝋で出来てはいない。こんな風に血が流れている……ふふ、私はお母様の望む通りには、なれませんわ。さぁ、早くして! 吸血鬼!」
フィリーゼはヴェインに刺さったサーベルを引き抜いた。そしてそのまま、ヴェレッタ夫人へと振り下ろす。固く鈍い手応えを感じた後、ヴェレッタ夫人は黒い霞へと姿を変えていく。
「どうして――ロレイン、私の願いを――」
「私の命も心も捧げた存在は、貴女じゃない」
「そんなはずは─」
そうして、ヴェレッタ夫人は霞に溶けて消えた。サーベルも突然砂のように崩れ、失われていく。すぐにフィリーゼは後ろで血に染まるヴェインに駆け寄った。
「ヴェイン……ヴェイン!」
「姉さま……」
虚ろな瞳で、ヴェインはフィリーゼを見つめている。そして「しにたくないです」と、子供のようにろれつのまわらない声を発した。
「ぼくを、きゅうけつきに、してください」
「でも、そうしたら貴方は、永遠に生きなくてはならなくなってしまう……」
「いきたい、たくさんいきたいです。ぼく、まだやりたいことがいっぱい……」
フィリーゼは、力強く頷いた。以前の彼女ならば、フォーリアの記憶に縛られていた彼女ならばためらい、どうしていいか分からなくなっていた。
しかし今の彼女は全ての責任を自分で持とうと、今を大切にするために、ヴェインの胸に牙を突き立てた。フィリーゼが血を吸うと、ヴェインの傷口はみるみる塞がっていく。ヴェインはどこか胡乱な瞳をただ宙へと傾けていた後、はっとした顔でフィリーゼを見た。
「ああ、姉さま、ヴェインは勝ちましたよ……」
「痛かったでしょう、よく頑張った。ここを出たら医者に診せて……そして……」
フィリーゼが状況を把握するため、周囲を確認していると視界にロレインが入った。彼女は自分の母親が消えた場所を見つめている。
「あなたは……」
「記憶なんてないわよ。私はそもそも、昔に生きて王太子に近付いた女じゃない。王太子に近付いた男爵令嬢は……私の祖先みたいだけれど、私は別に、貴女のことなんてどうでもいい」
「なら、どうして私を学園に……」
「それは、どうやらヴェレッタ夫人が姉さまを狙っていたようなのです……」
フィリーゼとロレインの会話にすっと、ヴェインが入り込んだ。ヴェレッタ夫人が自分を狙っていたことが、なぜ校舎に閉じ込めることに繋がるのか、フィリーゼがヴェインを見ると、彼は「事故があったんです」と続けた。
「フィリーゼ姉さまが閉じ込められたその日……馬車が賊に襲われる事件があって……調べていたら……犯人はわからなかったのですが……おそらくヴェレッタ夫人の様子を見るに……」
フィリーゼは、ロレインに顔を向ける。彼女は学園での表情が幻であったかのように落ち着きはらい、瞳は媚びたものではなく毅然としている。
「どうして私を助けて……?」
「貴女に死なれると困るの。クレイス様の望みを守ることが、私の願いだから……」
ロレインは、フィリーゼに銃を向けた。そしてフィリーゼの足を撃つ。ただそれは致命傷を与えるものでもなく、吸血鬼に対抗するものではない銃で、フィリーゼはロレインを見た。
「ああ! くだらない! 貴女がいなくなれば、私はクレイス様と結婚ができるの! だから死んで頂戴! 次は絶対、その心臓に当ててみせるわ!」
突然声を張り上げたロレインに、フィリーゼは目を瞬いた。するとすぐに慌ただしい足音が近づいてきて、騎士団とともにクレイスがやってきた。
「いったい、なにをしているんだロレイン!」
「見てわかりませんか? 私は貴女と結ばれるために、フィリーゼのことを殺そうとしているだけですわ。まぁ……邪魔が入って叶わなくなったようですけれど」
クレイスはフィリーゼに振り向いた。フィリーゼの足はすぐに再生が始まっている。ヴェインはその足を止血しながら、じっと周囲をうかがうようにしている。
「はぁ、母様に頼んでフィリーゼを殺させようとしていたら……中々許していただけないから脅している間に母様も殺してしまったし……私はどうすればいいのでしょう? どうすればクレイス様と結ばれるのかしら」
自白と取れる発言に、その場にいた誰もが唖然とした。ただクレイスは「捕らえろ」と苦々しい口調で命じ、騎士たちはロレインを拘束、フィリーゼたちを保護していく。ハッとしたフィリーゼが「違うの!」と訂正しようとするけれど、ロレインはフィリーゼを睨んだ。
「私の計画の邪魔をしないで」
ロレインは騎士団に捕らわれ、手首に鎖を繋がれ歩いていく。そしてフィリーゼとヴェインもまた、騎士団に保護される形でその場を後にしたのだった。
◇◇◇◇
騎士団の馬車の中でロレインは手首につけられた鎖を一瞥すると、窓の外へ目を向けた。自らが生まれ、与えられた役割を全て破壊したことに安心した彼女は、大きく息を吐く。
静かに目を閉じて、馬車の音に耳を済ませる。瞼の裏に蘇ってくる光景は、「いい子でいなさい」と、自分を見下ろす鋭い母の視線だ。ヴェレッタ家は代々、王家の反乱分子を発見し、密かに排除する使命を担っている。
ロレインもまた同じで、彼女は日々普通の令嬢では学ばないような人の命を奪う訓練を続けてきた。可憐で愛くるしいふるまいをしながらも、母の教えを疑うこと無く日々人形のように淡々と訓練の日々を過ごした彼女は、ある時王家の茶会に呼ばれた。
そこでシャイニング家の令息、クレイスと出会い、初めて同世代の少女たちと同じ感情――恋をしたのだ。しかし彼女は幼い頃から、吸血鬼の権威を失墜させ、この世界を人間で満たすことだけ教えられて育った。母の望みを叶えるためなら、いつかはクレイスも殺さなければならない。
しかし今日、ヴェレッタ家の呪われた歴史に幕を下ろし、母と名乗った吸血鬼のすべてを終わらせたロレインは、クレイスとの思い出に胸を馳せた。
それは、人に媚びているとなじられたロレインを、クレイスが庇う記憶だ。そして野に咲いている花をロレインに差し出し、ただ、微笑む様子。今まで人を殺す訓練をして、幼いながらに自分を武器に人に媚びることを矯正されていた彼女にとって、それは救いの記憶だ。
ロレインは騎士団の馬車に運ばれながら、静かにクレイスが自分を呼ぶ声を思い返す。気のせいだろうが、心配の響きも帯びていた。
最後に声が聞けてよかった。
微笑む彼女を照らす月は、どこまでも淡い光を放っていた。
◇◇◇
公爵家の令嬢、フィリーゼ・クレイノーツが攫われた事件は、騎士団が動いたことも在り速やかに王家に伝わった。社交界の醜聞として広がりはしなかったものの、一時は攫われたという事実に、南の国境を守るシャイニング家との婚約に難色を示した。
しかしそれは、せっかく長く続いたクレイノーツ家の歴史を、養子を取るという手段で受け継いでもいいのかという貴族の声が大きく、ようするに今は亡きクレイノーツ公爵の血筋を引くフィリーゼ、もしくはその子供をきちんと公爵にすべきという意思を、最もらしい言葉で包んだにすぎなかった。
そもそも、シャイニング家とクレイノーツ家の婚約は、シャイニング公爵とクレイノーツ公爵の縁、そしてフィリーゼを思い今は亡き公爵が望んだことも大きい。王家からすればただでさえ影響力の大きなシャイニング家に、さらに王都の中で、今の王政と距離を取りながらも大きな力を持っているクレイノーツ家の令息令嬢が婚約することは、望んだ話ではなかったのだ。
よってフィリーゼとクレイスの婚約は静かに解消という運びとなった。一方、公爵令嬢を攫ったヴェレッタ家は、王家の尻尾切りにあった。下手にヴェレッタ家を庇えば諜報をさせていた件が明るみになってしまう。よってロレインは速やかに投獄の運びとなった。
そして、フィリーゼは今、今までになく堂々と学園に通っている。教室の端の席には、かつてロレインが座っていた席があった。
フィリーゼは、クレイスに、すぐにロレインが助けてくれたことについて話をした。そして自分がに邪魔をするなと言ってきたことも。おそらくロレインはヴェレッタ家の壊滅を狙っていたのではと話をすると、クレイスは考え込んだ様子で、「きちんと、対処する」と答え、フィリーゼも自分に出来ることがあればすぐに言ってほしいと答えた。
そうして、一時は殺され、殺すことを考えるまで追い詰められ、罪なき義弟にすら疑いの目を向けていたフィリーゼは、誘拐事件から一ヶ月経ち二度と忘れられない夏を終え、光の差し込む廊下を歩く。以前なら鬱々と下ばかり向いてい、視界に入ったとしても他人事のように見えていた空が、今の彼女の瞳にはその青も雲の動きも、はっきりと見えている。
(これから先の未来が、どうなるか分からない。けれどちゃんと生きていこう。お父様とお母様に、顔向けが出来るように。そしてロレインと会えるようになった時、彼女にきちんとお礼を言って、彼女の生活に問題が起きないよう、尽くすことが出来るように)
先日クレイスからフィリーゼは、投獄されていたロレインをシャイニング家が密かに保護した報せを聞いた。国では罪人となっているため一時は隣国に移し、外部からの連絡を断ってほとぼりが冷めるのを待つという。よってフィリーゼはロレインが国に戻ってきた時、彼女が快適な暮らしが出来るよう、手を尽くす為の準備をしていた。
「姉さまっ」
堂々と前を向いて廊下を歩くフィリーゼに、ヴェインが駆け寄ってきた。彼は子供のように無邪気にフィリーゼの腕を取り、あどけない仕草で笑っている。
「ヴェイン、学園ではちゃんと歩いて」
「でも、姉さまを見つけて嬉しくて……! それに廊下に誰もいなかったから、つい……」
ヴェインは少し顔を赤くしながら少しだけフィリーゼから身体を離した。フィリーゼとヴェインは契約をし、互いの血をなくしては生きられなくなった。そして、血を飲めば永遠の命を手に入れた。フィリーゼは二度と両親に会えなくなってしまったが、「生きたい」と乞う義弟の願いを叶えたことに、後悔は抱いてない。
崖の途中でヴェインに告白はされたが、以降、男女らしい雰囲気はまったく無いことに、フィリーゼはほんの少し安心を覚えている。フィリーゼは今、恋愛について考えることよりも、クレイノーツ家の安定や、ロレイン、そして今まで見ることをやめていた世界について――ずっと灰色にしか見えていなかった景色や、それしかすることがなかったからと取り組んでいた勉強、上辺だけの社交をやめ、ちゃんと人を見て、生活について考えたいと思っているからだ。そして、ヴェインに償い、誠実でありたいとも。
しかしその一方で、ヴェインとは契約をしたといえど、きちんとした家族らしい――それまで拒絶していた姉弟の関係でいたいのも、フィリーゼの確かな思いだった。ただクレイノーツ家の跡継ぎは必要になってくるわけで、永遠の契約をしている以上、ほかの誰かと結婚することはしないといえど。自分の状況と相反する感情を持っているからこそ、フィリーゼはヴェインの距離感に安堵を覚えている。
「ヴェイン」
「なんですか? 姉さま」
「これからも、よろしくね。私、貴方にも恥じない人間でありたいから。いっぱい傷つけたぶん、優しくしたいし――優しくする」
「ふふ、僕は姉さまと一緒にいるだけで幸せですよ」
ヴェインは心の中で、――僕たちは、永遠なのですからと呟く。当然口に出していない言葉がフィリーゼに届くはずもなく、彼女は罪悪感を隠せずに頷いて、ヴェインの隣を歩いていく。
あの日――フィリーゼと契約をし、胸に牙を突き立てられたあの瞬間、ヴェインに前世の記憶が蘇った。それは紛れもないジョシュアの苦しみ、そしてフォーリアを愛した記憶で、その執着に近い記憶に飲み込まれそうになったが、ヴェインはジョシュアの意思に成り代わられることなく、打ち勝った。
――ああ、姉さま、ヴェインは勝ちましたよ……。
あの言葉に、偽りはない。フィリーゼはヴェレッタ夫人に勝利したと解釈していたが、実際のところジョシュアに勝ったという言葉だった。
ヴェインは、フィリーゼに前世の記憶がありさらに恋人がいたことについては、まだ耐えることができた。フィリーゼが冷たいことも、昔の恋人かなにかと重ねて冷たいのか、はたまた自分の接し方が悪かったのだろうと反省したからだ。しかし、その前世の恋人が自分に似ているどころか生まれ変わりであると聞いた時、激しい激情に襲われた。このままでは、一生自分はフィリーゼに見てもらえない。それどころか、死んだ人間にフィリーゼの想いは捕らわれたままだ。
そう知った時、ヴェインはなんとしてでもフィリーゼの今世から前世を引き剥がそうと決めた。それを短期的に行うのはとうてい無理な話で、時間のかかることだった。だからこそヴェインは、もし自分が前世の記憶を思い出した時、ジョシュアに自分を奪われることはなんとしてでも避けたかった。
この恋心は、まさしく自分のもの。フィリーゼへの優しさも、美しいと思う感情も、自分を見てほしいと思う激情も、奪われたくない。自分がこの手でフィリーゼを幸せにしたい。ヴェインの願いは、永遠の契約でジョシュアの記憶に打ち勝ったことで、半分は叶った。あと半分は、フィリーゼと結ばれることで達成される。
クレイノーツ公爵は、生前あらゆる方面へ貸しを作った。全てはフィリーゼの為にだ。慈善活動に熱心で、資金繰りに困った家があれば助けた。公爵として王政に関わる際は人々が生きていきやすいよう、どんな人間からも知恵を借り、最も社交界で影響のある人物だったといえる。だからこそ周囲は公爵に恩を感じ、養子としてヴェインを引き取ることに異を唱える者も、怪訝な目で見るものもいなかった。
それはある意味絶対的な信仰とも取れ、だからこそヴェインではなく、フィリーゼ、もしくはフィリーゼの子を跡継ぎにしたいと願った。公爵の意思といえど、彼の亡き今、彼の血を引き継いだものをクレイノーツ公爵に迎え入れたかったからだ。
しかし人々は、ヴェインを公爵に望まないながらも特別視はしていた。クレイノーツ公爵が後継にと選んだ人物。フィリーゼとは血がつながっていないのだから、フィリーゼがヴェインと結婚し公爵家を継げばいい。人々はクレイノーツ公爵を尊く想うあまり、姉弟の結婚に夢を見ていた。
実際、クレイスとの婚約が解消されフィリーゼ、そして彼女を慕うヴェインを見て、「いっそ結婚すれば安泰じゃないか?」なんて言う者もいる。王家と距離がありながら、王都で絶対的な権力を持つクレイノーツ家の娘の結婚相手となれば、必然的に辺境を守る侯爵、もしくは公爵家との相手が望ましい。
しかし東のメアロード家、西のリグウォン家とも、フィリーゼに適した者はいない。となると相手は王家よりの公爵家になってしまう。それならば、後ろ盾が元々クレイノーツ家であるヴェインがフィリーゼの婿となる方が、シャイニング家にとっても、吸血鬼の家系にとっても望ましいことであった。
じわじわとフィリーゼの周りが、人々の期待によって囲まれていく様子は、ヴェインにとって好都合なことでしかない。なぜなら自分とフィリーゼ、二人の周りに壁ができている。フィリーゼと同じ輪の中に入っているのは、自分なのだから。
政治も、人々の思惑もすべてがヴェインに味方している。フィリーゼは今、罪悪感をいだきながらヴェインを見ている。恋愛対象として見るには時間もかかるだろう。しかし、結局の所永遠に一緒にいる。フィリーゼはヴェインの血なくては生きられない。真面目な性格上、彼女の永遠の契約をしながらほかの誰かと結婚するなんてありえない。どこまでも閉ざされた、それでいて透明な檻の中で、ヴェインはフィリーゼを見ている。
今も、これからも、永遠に。