没落令嬢は侍女として愛執貴族の重愛を受ける ~元の契約改定って本当ですか!?~後編
宣伝欄
●2025年10月1日全編書き下ろし7巻&8巻発売
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「では、行ってくる」
「はい。紅蓮様いって……」
月乃が言い終える前に、玄関ホールの扉を紅蓮が一方的に閉じた。その姿を見て月乃は踵を返し、屋敷の奥へと歩みを進めていく。
紅蓮が吸血鬼であると知って以降、二人の関係は、音を立てて少しずつ崩れていった。
まず、紅蓮が月乃を起こす際、前までは紅蓮が月乃の部屋に入り棒のようなものでベッドの端をつつく起こし方であったのが、扉をノックする形に変わった。食事も月乃へ作り置きが置かれるようになり、朝共に温室へ向かうのも、紅蓮が仕事に早く向かい遅く帰るようになったことで無くなってしまった。
現在の状況に対して、月乃には思うことがあった。以前の彼女ならば特に人と接することを求めておらず、食事を一人でとることも平気であった。紅蓮の作り置きは温かくしてあり、丁寧に作られ決して残飯などは入っていない。
それなのに一人で食べる料理は蜂矢の家を思い出し、楽しみであった食事の時間に対して気後れするようになったのだ。よって月乃が紅蓮に対してきちんと接することが出来るのは、仕事の申し付け、それか入浴時の風呂場の鍵の受け渡しのみであり、この状況を変えるにはそのときの行動を取ればいいと考えたが、碌な人間関係を築いてこなかった彼女には、かける言葉が見つからなかった。
そうして、小屋での晩を過ぎてから十日。月乃は紅蓮にかける言葉のヒントを見つけようと、行動を起こすことにしたのである。
月乃の行動とは、屋敷にある書庫を調べることであった。今まで彼女は少しずつ紅蓮に清掃の仕事を任され、風呂場と厨房以外は日替わりで各部屋の掃除を任されている。しかし一つだけ、入るなとも、掃除をしろとも命じられない奇妙な部屋があった。
それが、屋敷にある書庫だ。
月乃は屋敷を訪れ、散策をするようなことはしなかった。紅蓮が手洗い場、水場、風呂場、食堂など必要な場所の案内をしたことで、それ以外の部屋には触れないほうがいいと思ったのだ。
だからこそ紅蓮が屋敷の書庫について触れないことも、掃除を避けさせることも気に留めていなかったが、紅蓮との距離が離れた現在、半ば縋るような気持ちで彼女はその書庫への関心を深めていた。
蜂矢家の書庫では、必要最低限の教養のための書籍以外は、蜂矢家の歴史に纏わる本に占められていた。物語もいくつかあったが、それは月乃の母が生前彼女の為にと購入したもの。棚の半分以上は蜂矢家の人物がどんなことを成し遂げたかの自伝書籍であった。
もし、そういった歴史に纏わる書籍、そして家についての書籍を書庫に置かれることが常識的行為で、暗道家の書庫に吸血鬼に纏わる書物が置かれているのなら、紅蓮が月乃を近づけさせなかったことにも納得がいく。そう彼女は考え、紅蓮を知るために書庫で調べることにしたのだ。
月乃は、二階の窓から紅蓮が門を出たのをそっと確認し、書庫へと向かっていった。書庫は玄関ホールの大階段を上がった先に位置しており、丁度彼女や紅蓮の部屋、風呂場を対角線上に結んだ反対の方向に位置している。扉は大きな両開きのもので、書庫には鍵がついておらず、入ることが出来る。きっと今まで月乃がほかの部屋に興味を示さなかったことで、紅蓮は鍵を取り付けるよりもそのまま放置しておく方がいいと考えたのだろう。そう月乃は判断しつつ、扉に手をかけ、一気に開いた。
目の前に広がったのは、壁一面に広がる本の海であった。壁にはびっしりと棚が備え付けられ、そこには所狭しと本が立てかけられている。書庫は階下にもつながっており、螺旋回廊が中央に鎮座し、四方の隅からそこへと繋がり一階へと降りることが出来るようになっていた。
(この中から、暗道家の歴史書を探す……)
膨大な書籍を見て、月乃は一瞬怯む。しかし首を横に振って、まずは下から探そうと階段を下りて、周囲をじっくりと観察し始めた。
あそこは、物語、そして右は図鑑、左は専門書……。
ざっくりと棚に置かれた本を確認していくと、月乃は一つだけ背が低くなっている棚を発見した。机の代わりにしているようで、近くには椅子も置かれている。納められた書物を調べても、どうにもそれらしいものは見つからない。
紅蓮様は書庫に訪れた際、ここに座っているのだろうか。
月乃は魔が差すような、不思議な気持ちで紅蓮が座っているであろう椅子に座った。紅蓮の見ている景色でものを見れば、何かがわかると思ったからだ。自分の主人の座高を加味しながら椅子の位置を調整していると、ちょうど紅蓮の眼差しに引っかかるであろう向かい側の本棚に、月乃は不自然な点を見つけた。
あれは一体、何だろう。
窓から差し込む光から、塵が反射して煌めいている。しかしそのふわふわと舞う粒子のようなものは、その本棚の前を通るとかすかに動きを変え、吸い込まれるように流れていった。月乃は引き寄せられるように椅子から立ち上がって、その本棚へと歩いていく。そうして目の前に立ちよく観察すると、本棚の隙間だけ、塵の積もり方が異なっているように感じた。
月乃はそこへ手をかけるようにして本棚に触れる。棚はまるでクローゼットのように開き、新たな姿を現した。
(本棚の裏に隠すようにして、本棚がある……)
月乃は直感的に、ここに暗道に纏わる書物があると確信した。一つ一つ神経を集中させて立ち並ぶ背表紙を確認すると、暗道の領地の測量図や、記録、民の名簿などが所狭しと並んでいる。
すると月乃は、黒い背表紙に暗道家と金字で記され並ぶ書物を発見し、手に取った。
敬々しく丁寧にページをめくり、読み込み始める。表紙には当主の名前が記されており、紅蓮の名もあった。そして紅蓮の父であろう先代の名前と、そして母にあたるであろう夫人の名前も並んでいる。
一つ一つ読み込み、本を置くことを繰り返す。そして約半数の書物に目を通し終えると、ふと本棚に追いやられるようにぽつんと置かれた、小さくありながら血のように赤い革表紙の手帳が月乃の視界に入った。
手帳を手に取り開くと、紅蓮の母である夫人の名前が裏に記されている。ページをめくると、どうやら日記帳のようだ。月乃はしばらくそれを読んでいると、ある瞬間からとりつかれたようにページをめくっていく。そして紅蓮の両親に何があったかについて記された箇所に行き当たり、愕然としたようにその動きを止めた。
「紅蓮様……」
紅蓮が、あのように寂しげにしていたのは、こういうことだったのか。月乃は身体から何かが抜け落ちていくような感覚に陥った。きっと、この日記に記されているのは、真実なのだ。だからこそ、紅蓮はああいう態度を取って、そして今、きっと深く傷ついている。
月乃は、静かに目を閉じ、しばらくして、手帳を置いて立ち上がった。そうして書庫から出た月乃の瞳には、かつてないほどの強い意志が宿っていた。
◆
夜も深まり、月がその空に浮かぶ頃。月乃は、そっと息を吐いて紅蓮の部屋の扉をノックする。
(きちんと話をしなければならない)
意を決して紅蓮の返事を待っていると、扉の中から紅蓮の返事が聞こえてきた。月乃はドアノブに手をかけ、念じるようにそのノブを引く。部屋はいつもと変わらず、紅蓮は執務机の傍に立ち、月乃に冷ややかな目を向けた。
「どうした」
紅蓮の雰囲気だけは、あの夜から決定的に変わっていると月乃は察する。しかし、怯むこともなく一歩一歩、その夜を超えるようにして紅蓮へと近づいていった。
「本日は、紅蓮様にお願いがあって参りました」
「何……?」
紅蓮が、月乃を値踏みするようにして見据える。しかしそこにいつもの力強さはなく、寂しげにも見えた。月乃はまた胸の痛みをこらえながら、しっかりと紅蓮の前に立ち、その紅の瞳を見つめた。
「暗道の廃屋敷に、私を連れて行っては頂けないでしょうか」
「……は?」
「私も、暗道の廃屋敷に連れて行っていただきたいのです」
「……屋敷に行って、何をする気だ。お前に出来ることなどない」
「はい」
紅蓮の言葉を、月乃は即座に肯定する。紅蓮が戸惑うと月乃は「しかし」と、見返した。
「私は、紅蓮様を知りたいと思います。紅蓮様が屋敷に向かわれるという話をした際とてもお辛そうでした。紅蓮様が自分がなんであるかを私に伝えてくださったときと同じように、悲しそうで、今にも泣きそうで、苦しいのに耐えているような表情をされていました。そんな表情の紅蓮様を一人にしたくないと、私はそう、勝手に思っています」
「……月乃」
月乃は、疑問に思っていた。自分の役に立てないと泣く紅蓮がなぜ今、辛そうにしているのに涙を流さないのだと。
考えるにつれ、紅蓮は自分の為に泣くことは出来ないのだと思い至った。そうして紅蓮について考えるたびに月乃は胸が痛んだ。
「……紅蓮様のお母様の日記を、勝手ながら読ませていただきました。あの廃屋敷で、なにがあったのかも、読みました」
紅蓮はは大きく目を見開き、月乃を見た。
月乃が図書館で読んだのは、紅蓮の母親である夫人が、紅蓮の父親である先代の当主を殺し、自分もその命を絶ったということだった。
二人はある契約により、一蓮托生と同義の運命を辿ることを定められていた。しかし夫人は先代を憎み、その契約に違反することで先代を殺した。紅蓮の言っていた、紅蓮と夫人の関係がどういったものであるかも、夫人と前当主の関係について知れば月乃は何となく想像が出来た。それは、何となくで思いついてしまうほど残酷で、凄惨な事実だったからだ。
紅蓮の母である夫人は、かつて人間であった。しかし、先代である紅蓮の父に攫われ無理やり手籠めにされた結果、紅蓮を出産することになった。先代は夫人が我が子さえ産めばその心を手に出来ると考えていたが、その夢は終ぞ叶うことはなく、先代は実力行使に出た。命を握れば、自分に縋りつくと考えたからだ。
しかし夫人はある手段を用いて、そして先代の思惑を利用する形で、本懐を遂げたのである。
生前は憎しみの象徴、自分を辱められた象徴として夫人は紅蓮を憎んだ。一方の先代は紅蓮に関心がなく夫人を求めた。紅蓮はどこまでも蔑ろにされていた子供であった。
自分には母がいた。しかし紅蓮には誰もいなかった。きっと紅蓮にとってこの世界というものは、自分にどこまでも残酷なもので、期待をしても返ってこなかった世界なのだろうと、月乃は思う。
しかし、この世のもの全て、どうでもいいと思ってしまう状況の中で、紅蓮は月乃に優しくあった。紅蓮がどういった感情から、自分にここまで優しくするのは今でも分からない。けれど今紅蓮が月乃を避けているのは、自らの出自により人と関わることに怯え、そして、人を傷つけるからと避けているのだと月乃は分かった。
だからこそ、月乃は紅蓮の手を取りたいと願う。一人で傷ついた悲しみの淵にいるのなら、隣にいたい。可能ならば、共にその傷を受けたい。そう願って、月乃は紅蓮の前に立っている。
「私は、暗道について、紅蓮様について調べました。けれどそれは本だけの知識です。実際に見たわけではありませんし、それらで読んだ吸血鬼と、紅蓮様は違う。同じであったならきっと紅蓮様は泣いたりしません。私なんかの為に。だから私は、紅蓮様を知りたい。勝手ですが、紅蓮様を一人にしていたくないと、私は今思っています」
月乃は、自分の痛む胸を押さえながら紅蓮に気持ちを伝えていく。まだ月乃の頭の中では、自分の感情に対しての混乱の渦を巻いている。自分の気持ちをちゃんと伝えられているのか、もっと適した言葉があるんじゃないか。迷いながら、言葉を選んでいく。
「……私は、紅蓮様が一人で苦しまれていると考えると、苦しくなります。紅蓮様と私は別で、痛みを感じているのは紅蓮様であるはずなのに、この胸は軋むようで、喉が詰まったように苦しい。今まで、こんな風に誰かを思うことなんて、無かったのに」
月乃は今まで、痛みについて鈍い性質だった。蜂矢の家で暮らすうえではそうしなければ生きられなかったからだ。どんな仕打ちも侮辱も、膜を通して他人事のように見ていれば苦しくなかったからだ。
しかしその膜は紅蓮と過ごす日々の中で、月乃の中から消失していった。そうして残ったのは、たった一つの月乃の心であった。
「紅蓮様が吸血鬼であることに、私は驚きましたが、恐怖は抱きませんでした。でも今私は、紅蓮様が一人苦しんでいることが、そんな紅蓮様に何もできない無力さが、すごく怖い」
一つ一つ、紅蓮と過ごしていく中で芽生える想い。喜び、怒り、悲しみそして安らぎ。紅蓮と過ごす中で覚えた感情の一つ一つが、今まで迷いなく言葉を発していた月乃からそれを封じた。
でも今、紅蓮への想いによって、月乃の中で躊躇いが完全に決壊し、杯に注いだ水が溢れるように想いは溢れ、月乃の言葉となった。
「私は貴方にとって、脆い存在なのかもしれません。でも、貴方の痛みを、肩代わりさせて頂くことは出来ませんか、どうか傍で貴方が痛んでいることを、私が知っていてもいいですか」
月乃の瞳に、涙が浮かびそれらが筋となって光を纏い、零れ落ちていく。それは今まで月乃がどんなに虐げられようと出したことのないものであった。その涙が今、雨のように月乃の瞳から溢れていく。その姿を見て紅蓮は顔を歪めながら月乃を抱きとめた。
「俺なんかの為に泣くな……!」
喉を振り絞るような声が、月乃の耳に響く。力の籠った声だった。その声は怒りに満たされたものではなく、どこまでも優しいもの。その声で、また月乃の瞳から雫が落ちる。
「泣かせてください。貴方の為に。どうか、お許しを……」
紅蓮の身体を抱きとめるように、月乃は紅蓮の背中に手を回した。凍えるような体温が月乃を包みこんでいく。しかしその凍てついた温度こそが、月乃には酷く温かく、熱を抱いているように錯覚するほどであった。
「月乃……、すまない……。すまない月乃……、俺は……。すまない……」
紅蓮は、幾度となく謝罪を繰り返す。そのたびに月乃は、否定の意味を込めて腕の力を強くする。そうして二人は離れることなく、互いに縋るようにしていつまでもそうしていた。
◆
「ここが、旧暗道屋敷なんですね……」
辻馬車から、紅蓮に続いて月乃が降りていく。目の前に広がるのは、自然豊かな森を従えるようにそびえ立つ旧暗道屋敷だ。
先代が失われたことで管理の手は外れ、今は廃屋敷として森の一部として、もしくは森の主としてその場に在るだけの建物となっている。壁は暗道屋敷と異なり、まるで対を為すような白壁の作りで、その外観は縁取りを金であしらい王の住まう屋敷を連想させる。
しかし長年人が手入れをせず、管理者である紅蓮も積極的に動かなかったことでその壁はくすみ、ところどころ蔦が這っていた。
月乃は屋敷を見上げ、主がいないというのになお精悍で、こちらに何かを強く訴えかけるような屋敷の出で立ちをじっくりと眺める。
月乃が、紅蓮に同行を申し出た次の日の晩。二人は共に暗道の廃屋敷へと発った。廃屋敷は暗道の街の先。帝都側に位置しており、月乃と紅蓮は山や谷を渡り、夜を超え朝日が昇る今、とうとう暗道の廃屋敷に到着したのだった。
「そうだ。中に入るぞ」
紅蓮の促しに月乃は頷き、後に続く。紅蓮は馬車の中で、この廃屋敷の書庫に用があるのだと月乃に話をした。
何でも知り合いに、暗道領の古い名簿が必要なものがいて、古い名簿と今の名簿をどうしても見比べておかなければいけないらしい。場所は分かっていて、ただ忘れ物を取りに行くようなものだと説明した紅蓮の顔はどこか切なげで、月乃は同行をしたいと申し出て良かったと、心から安堵した。
「中はこうして何かを取りに来る以外、手入れをしていない。気を付けろ」
紅蓮は月乃に注意をしながら扉を開いていく。そこは、中の造りも暗道屋敷と同じような造りで、中央に階段があり、それが左右に伸びているものだった。
紅蓮に誘導されながら書庫へと向かっていくと、月乃は視界に入ってくる光景に違和感を感じていく。足元に気を付けながら注視していると、色合いもさることながら、暗道屋敷にあるような薔薇や花々、蝶の細工が全く施されていないことに気付いた。装飾自体は宝石などがはめ込まれ、豪華絢爛な造りであるのに、ただ宝石を愛でようとしているような、細工には全く興味がないような、そんな異様な雰囲気を月乃は感じとる。
「ここが書庫だ。埃っぽいから気を付けろ、ハンカチで口元を抑えておけ。人間の肺に障る」
紅蓮は暗道屋敷と同じ、そして一昨日月乃が扉を押し開いたようにしながら旧暗道屋敷の書庫への扉を開けた。すると今度は今までと全く異なった光景が広がっていった。
二階から、一階に降りていく造りだけは暗道屋敷と同じだ。しかしそこに、暗道屋敷で見たような壁一面の本棚は無く、子供の背丈ほどの本棚が並んでいるだけだった。その代わりに、壁には一面に大きく紅蓮の両親……先代と、夫人が仲睦まじく並ぶ肖像画が掛けられている。そしてその左右には、横顔、後ろ姿、正面からの全身や胸までの構図、様々な着物を着た夫人の肖像画が、びっしりと敷き詰めるようにして掛けられていた。
「これは……」
「この書庫は、先代……父が主に使っていて、立ち入りは家令はおろか使用人も許されず、父以外に許可されていたのはただ一人しかいなかった。俺も、父が亡くなってようやく入ることが出来た」
紅蓮が、一瞬だけ肖像画に目を向けて、階段を下りていく。「大丈夫か」「気を付けろよ」と月乃を気にかけながら。
しかし月乃は、足元に気を付けているような気持にはなれなかった。この部屋は、夫人と先代の肖像画で占められている。なのに、紅蓮の肖像画は一枚もない。
まるで先代の脳裏には、紅蓮の存在など無かったのだと、これほどまでに残酷に証明する手段があったのかと思うほど、書庫は夫人の肖像画で占められていた。
月乃は、紅蓮の背中を黙って見つめる。紅蓮は階段を下りると肖像画にも目もくれず、棚を物色し始めた。そしてすぐに目当ての本を見つけると、手に取って中身を確認してから懐に入れる。
「これで用事は終わりだ。早く済んでよかった」
何の気なしに紡がれる声色に、月乃は唇を噛んだ。
紅蓮様は先ほど、父が亡くなってから入ることが出来たと言った。だというのに、すぐに目当ての本を見つけた。今に至るまで、本棚の場所を忘れない程度には、迷わず目当てのものを探し当てられるくらいには、この書庫に立ち入ったことがあるという何よりの証明だ。
どれほど、どれほど辛かっただろう。
この書庫には、紅蓮様のものが何もない。児童書も、物語も教養を身に着けるようなものも何もない。あるのは全て、暗道の領地に関する、先代が仕事に必要とする資料ばかり、そしてそれ以外は、夫人が扱うような着物についての書物だけ。紅蓮が読むような、幼い子供が扱うようなものは、何一つ見当たらない。
月乃は、やるせなさに手のひらを握りしめる。辱められた夫人は、責められない。けれど先代は、どうして愛した人との子供を顧みることがなかったのか。どうしてこうまでして、その視界に入れることが出来なかったのか。
月乃の胸に憤りにも近い感情が沸き立ち、紅蓮の肩に触れた。そんな月乃の表情を見た紅蓮は、複雑そうに月乃を見つめ、「俺の、父と母の」と呟いた。
「死の原因を、知っているか?」
「はい、永遠の誓いという契約が、原因だと……」
「……は。物は言いようだな、あんなものは呪いだ」
月乃の言葉に、紅蓮は皮肉るように笑った。
「呪い、とは」
「……吸血鬼が人間の心臓の近くの血を吸うと、相手を吸血鬼にすることが出来るというのは、本に書いてあっただろう?」
「はい。そうして吸血鬼は、子孫を残してきたのだと、読みました」
月乃が答えると、紅蓮は「そうだ」と頷いて、先代と、そして夫人が描かれた肖像画を見つめる。
「それは遥か昔、始祖が吸血鬼と人間の愛の関係において、人間が圧倒的不利な立場に置かれるからと、自身に呪いをかけたことが始まりだったらしい。よって、この制約は吸血鬼の間では与えられず、吸血鬼と人間のみに与えられる。……未来永劫、血を吸った吸血鬼と、吸われた人間は互いの血しか求められなくなる。想い合うものたちで行われれば、永遠を約束される」
「永遠……」
「ああ。それまで互いにどんな痛みを、呪いを負おうとも全て癒され、ずっと二人で生き続ける。しかし、互いの血を得られなければ死に至る。その渇きは普段のものと異なり、喉を掻きむしりたくなるような苦しみや痛みを伴うものだ」
紅蓮は俯き、静かに目を伏せる。
「母が死んだのは、俺が四つの時だった」
四つ。それは月乃が自身の母を亡くした時と変わらぬような頃合いであった。月乃は母が亡くなったことを思い出しながら、紅蓮の言葉に耳を澄ます。
「母は、俺が憎くてたまらないときと、ただの幼子に見えたときとあった。そして徐々に俺を子供として認識することが減り、俺は親戚の屋敷へ預けられることが増えた。母が死んだのは、そうして俺が親戚の屋敷に預けられ、しばらく経った頃だった」
月乃は黙ったまま、紅蓮の幼き頃を、先代と夫人の肖像画を通すようにして想う。夫人は紅蓮に似た優しい瞳をして、前当主は同じ髪の色をしている。よく似た親子で、肖像画の二人はとてもいい夫婦に見えるのに、どうして実際はそうではなかったのかと、紅蓮にとって優しいものではなかったのかと、月乃の胸は痛んだ。
「両親が死んだと、聞かされて、この屋敷に戻ることになって。俺は親戚の制止を振り切って、いつも母が過ごす広間に向かった。凄まじい光景だった。戦で何度も残酷な光景を目の当たりにしてきたが、あれほどまでに凄惨な光景は見たことがない。清掃は、何度も行われていたと聞いたが、それでも到底戻せないほどに壁は血に染まり、何もかもが赤い飛沫で濡れていた。広間の中央には大きく焼け焦げ、大きな血だまりの跡もあって……すぐに分かった。両親はここで死んだのだと」
紅蓮はそう言って、肖像画を離れ、書庫の中央に立つ。そして月乃に目を向けた。
「親戚は、俺にすべては暴漢の仕業であると言った。でも、年を重ね、生きていくうちにだんだんと見えてくるものがある。聞こえてくることがある。だんだんと、意味の分からなかったことが理解できるようになる。そうして何が起きたかも、理解していった。母は、俺も、父も憎み、自らの命を絶つことで父に復讐をしようとしたのだと。母の怒りの正体がようやく分かったとき、俺はただ、納得をした」
紅蓮は、自嘲気味に、そして自分が話すことで事実を受け入れていくようだった。月乃はいてもたってもいられず、広間の中央へと向かっていく。
「母は、父に半ば攫われるようにこの屋敷に連れ去られた。当然気持ちなんて向けられるはずもないのに、父は癇癪を起し、母を辱め俺を産ませ、最後には血の呪いを与え、殺した。待っていたんだ、母は。父を殺す手段を持つことを。母は元は平民だ。名家でもなしに吸血鬼を殺す手段は得られない。だから、父が自分に呪いを施すことを待って、そして殺したんだ。そんな相手との子供を愛せるわけがない。父だって、俺は所詮母から愛を向けてもらうための道具でしかなかった。そして道具としての効果を発揮できなかったから、俺は顧みられることがなかった」
月乃が、紅蓮の腕に手を伸ばし、その腕を掴んだ。紅蓮は振り払うことなく、言葉を続けた。
「俺は化け物だ。それに愛を持たない。注がれるはずのものが欠落した化け物の血を引く子供だ。だから貴女を守る権利なんてないのに、その権利を得ようとした。結果はただ縛り付けるだけ。役の一つにも立ちやしない」
「そんなことはありません。私は、紅蓮様のおかげで感情を知りました。それは紅蓮様の中に愛があるという証拠なのではないですか」
「俺の中に愛があるというのなら、それは俺のものじゃない……」
紅蓮がそっと、月乃に掴まれた腕に、自身の手を重ねる。そして縋りつくように、その手に力を込めた。
「貴女が、幼いとき、夜の庭園で出会った子供を覚えているか? 貴女が、まだ、五つか六つ程度の頃だ」
紅蓮の言葉に、月乃は自身の記憶を思い返す。当時、自分は夜の庭園で水やりをしていた。その時に人と出会うことなんて殆どなかった。誰かと出会っていれば、思い出せるはずと楽器の調律を合わせるように月乃は神経を研ぎ澄ませていく。するとある一人の少年の姿が、頭の中に思い浮かんだ。怪我をして、腕を血で染めた少年を。月が隠れた時と共に現れ、月明かりと共に去っていたその姿を。
「ええ。怪我をして、手当てをしようとすると」
少年は、それを拒絶した。放っておけば治ると言って。そして少年の言う通り話をしている間にも少年の怪我は治り、私が驚くと、少年は自分のことを。
「吸血鬼だと、言って……」
月乃の頭の中に、少年の姿が現れる。黒い髪に、紅の瞳。ふて腐れたような表情が、目の前の紅蓮と重なった。
「紅蓮様は、あの時の……?」
月乃の瞳が、驚きに揺れる。次の言葉を紡げずにいると紅蓮はゆっくりと頷く。
「そうだ。蜂矢家の屋敷に、ある親戚の屋敷が近く、夜散歩に出かけていたら、貴女と出会ったんだ。それまで、吸血鬼は俺の出自や権威に恐れ、はれ物に触るようであった。人間は当然俺を恐れる。どんな社会にも相容れない存在だった。そんな時に、貴女に優しくしてもらえて、自分以外の生き物で、俺にただ優しく在る存在があったのだと、初めて知った」
「そんな、私は大それたこと……していません……ただ、手当てをしようとしただけで……」
月乃は今までの紅蓮の優しさの理由を知り、そんな些細なきっかけで自分へと行動する紅蓮がどれほど傷ついた人生を送ってきたのかと考え、また胸が苦しくなった。重ねられた手に、さらに自身の手を重ねると、紅蓮は穏やかに笑う。
「いいや、貴女は俺の中で、大きなことをしたんだ。吸血鬼だと知って、治りが早いところを実際に見たのに、こんなにすぐ治されて痛そうだと言う。幼子であるからというのもあったが……成長した貴女は、血濡れた俺を拭おうと向かってきた。そして、俺が吸血鬼だと知って、凄惨な事件が起きた屋敷に同行するとまで言った。貴女は本当に、あの頃から変わらない優しさと、そして強さを持っている。……辛い境遇であったのに、貴女は今も曲がらない、誰よりも……この世界の何よりもあなたは高貴で……そして美しい」
「紅蓮様……」
紅蓮は、あどけなく笑う。その姿を見て、月乃は途方もなく紅蓮が恋しくなった。今目の前にいて、触れてさえいるのに、もっとと求めてしまうような、切ない焦燥に駆られていく。なんだか急に紅蓮を見つめているのが恥ずかしくなって、頬に熱がこもり、月乃は視線を逸らした。そんな月乃の頬の紅潮を確認した紅蓮は、月乃とは対照的にその頬を青ざめさせる。
「どうした、月乃、顔が赤いぞ?」
「だっ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろう、もっと赤くなったじゃないか!」
月乃が更に頬を赤く染め、苦しげにするのを見た紅蓮は、月乃を調べようと顔を覗き込む。するとどんどん月乃の頬は赤くなり、月乃は顔を背ける。
「……駄目だ、医者に診せよう。直ちに診せよう」
「えっ……あっ」
紅蓮は月乃を急いで担ぐと、そのままの勢いで駆け出した。紅蓮に抱きしめられていることで、月乃の心臓は跳ねるような動きを始める。
「心臓の動きだって、こんなに速くなっているじゃないか!」
紅蓮は月乃の変化に、どんどん焦り始める。そしてとうとう飛ぶようにしながら屋敷の出口へと向かっていった。
当初廃屋敷に入っていくときの紅蓮が嘘だったかのように、紅蓮は生き生きとしているように見え、月乃は紅蓮の顔が余計に見られなくなり、紅蓮に運ばれながら廃屋敷から去っていった。
◆
「どうして、私がこんな目に遭わなくちゃいけないのよ……」
名家の屋敷の中、とある一室で月乃の異母姉真里はそう憎々しげに呟く。移送される村の準備が決まるまで屋敷での折檻が定まっている彼女は、空が徐々に朝に焼けていくのを窓辺から見つめていた。
そうして真里が思い返すのは今までの自身が受けてきた理不尽の数々だ。
街で評判の踊り子である母のもとに生まれ、年齢を重ねるうちに自らのもとに、他人には当たり前にいる存在であった父がいない。母は自分を養うために毎日足を腫らしながら朝に帰り、昼に寝ては夜に仕事に行く。そんな母にどうして父親がいないのか尋ねれば、自分の父であるはずの存在は貴族であり、父は母と結婚しようとしていたのに、貴族たちの家族の都合で好きでもない相手と暮らしていると話をした。
「お父さんはね、ずっと真里と会いたいと、私と暮らしたいと願ってくれているのよ。でも、それをお父さんのお父さんとお母さんが許してくれないの。だから今、お父さんは好きでもない女の人と無理やり住まわされているのよ」
母は何度も真里にそう言った。そうして、次に真里を撫でてこう言った。
「でもね。きちんと神様は見ているのよ。お父さんと暮らしている女の人はね。病気なの。きっと真里のお父さんに意地悪をしているから、その罰があたったのね。だからきっと邪魔者はいなくなって、私と真里とお父さん、三人で仲良くお屋敷に住むことができるわ」
その言葉を、真里は信じていた。いつの日か父、母、自分の三人で暮らすことができると。そうして、母が喜びながら「お父さんと住めることになったわよ!」と真里に報告したとき、真里の心は歓喜に満ち溢れた。
しかし、真里が父の屋敷に向かうと、そこには異母妹、月乃がいたのだった。
月乃は、さも当然のように真里の父を「お父様」と呼んだ。今まで自分だけの、真里だけの父であった男は、別の娘の父でもあったのだ。真里は自分だけの父であったはずなのにと、月乃を憎んだ。そして異物と見なし排除しようとした。それは真里の母も同じで、真里はこれが正しいのだと思った。
そして真里は父に月乃を追い出すよう頼むと、真里の予想に反して真里の父は決して首を縦には降らなかった。しかし月乃を無視するようになり、食事に同席させることも無くし、物を与えることも一切しなくなった。月乃は徐々に自分や母、父を避けるようになり、次第に年齢を重ねていくとその姿を見ることすら稀になった。
きっと待っていれば、そのうち月乃からいなくなってくれるはずだわ。
そう思い、近い未来、自分と父と母、三人で晴れて明るく暮らせることを真里が思い描いていたある日、通っていた学園の廊下で、令息と運命的な出会いを果たしたのだ。
その日真里は妾の子の分際で長子を語る存在だと、礼儀作法もなっていないと周囲の令嬢から糾弾されていた。そこを王太子が通りかかり、多数で一方を責めるのは良くないと令嬢から真里を守ったのである。
真里は驚いた。王太子のような存在が、自分を庇ってくれたことに。以降、王太子は真里を見ると声をかけるようになった。真里が平民上がりであるということで責められていると考えた令息が、真里が虐められるのを、自分から声をかけることで防ごうとしたからだ。そんな王太子に真里は感謝し、やがて二人は会えば会話をし、徐々に会う約束をするようになった。
そうして日々を過ごすうち、真里は王太子に恋をしている自分に気づいた。一方の王太子には婚約者の華族の御令嬢がいたものの、令嬢は自分に対して興味も見せず、ただ業務連絡をするばかり。王太子はだんだんと華族の御令嬢と真里を比べるようになり、婚約者とではなく、真里との未来を思い浮かべるようになった。
しかし、二人の仲が深まるにつれ、互いの仲を邪魔するものがそれぞれ現れた。令息には婚約者。真里には月乃だ。
「これ以上はなりません、身を引くべきです」
月乃の反抗は、酷く真里を苛立たせた。どうにかしてあの妹を屋敷から追い出せられないか。真里が計画を練り始めた矢先、今度は王太子の婚約者が真里のもとに現れ、「これ以上は看過できないわ。身を引きなさい」と、妹と同じ内容を口にしたのだ。
その時、真里は王太子の婚約者である御令嬢が、月乃と重なった。「これ以上は良くない」という、今までは見逃してやったかのような物言い。自分の幸せを、愛する人との未来を邪魔する姿。目の前のこの女を、どうにかしてやりたい。月乃への憎しみを華族の御令嬢に注ぎ込むように、真里の憎悪はその瞬間、御令嬢に向けられたのだ。
そして真里は、王太子を誘導する形で最も御令嬢の家の名に傷がつき、その後の縁も望めないような名家主催の夜会の場で婚約破棄を王太子に宣言させ、自らを貶めたと嘘をつき、ありもしない罪で御令嬢を断罪させたのである。
当時、真里はこの先の未来が光溢れるものであると確信した。王太子に言って、次は月乃を消してもらおう。月乃が消えれば、親子として、完璧な、優しい愛の溢れる、不純物のない親子三人で暮らすことができる。そして最後には、愛した相手と結婚する。そう信じて。
しかし、現実は真里の想像とかけ離れていたものだった。王太子は廃嫡され、平民に落とされた。優しい父と母も、田舎に放り出されることが決まった。本来ならば真里もそのまま放り出されるところであったが、「腹に王太子の子がいる」ということで事なきを得た。王太子は驚いたが、思い当たることが無い訳ではなく、すんなりと信じた。
(このまま、平民に落とされるなんて、貧しい暮らしに逆戻りなんて絶対に嫌……!)
真里は昇りゆく太陽を睨むように顔を歪める。しかし突如扉が開く音がしたことで目を見開き、すぐに後ろを振り返った。
「おはよう、お嬢さん。ずいぶん目覚めが早いね。それとも一睡もできなかった?」
フードを深く被った男が、真里の部屋へと入っていく。そして後ろ手に扉を閉めた。
「なに……あなた。名家の遣いにしては、随分とみすぼらしいわね」
「まぁ、僕のことは気にしないでいいよ。今君が気にするべきは、僕じゃない。君の家族のことだからね」
含みのある言葉に、真里は眉を吊り上げ「どういう意味?」と不愉快さを隠さない。しかし男は気に留めることもなく、楽しそうに笑う。
「今日、君のお父さんとお母さんは、僻地へと出発したよ。とっても寒い場所でね。村人は貧しいものも多くて、水なんかも汚い場所だ。きっと名家は、自分たちで死罪にするのは体裁が悪いと、勝手に死んでくれるような場所へと送ったんだよ。酷いねえ」
男の言葉に、真里は俯く。自分のした振る舞いで、父と母が傷ついた。そのことに対してだけ、真里は罪悪感を感じていたからだ。
「そして君の妹は、暗道家の当主に気に入られて、とっても幸せに暮らしているよ」
「……なんですって?」
話を黙って聞いていた真里は口を開き、眉間に皺を寄せその瞳に強い怒りを表した。男は面白がるように真里に顔を近づけるが、フードの中はその暗さで何も見えず、深い闇が広がる。
「暗道家はここから東の果ての地域だけどね。国境近くの屋敷に住んでいるんだ。毎日着物や宝石を与えられ、豪華な料理を食べて暮らしているんだよ。君の妹は、当主に見初められたんだ。お伽噺の結末に、幸せに祝われるまるでお姫様のような未来が約束されているんだよ」
「あの子が、そんなはずが……」
「わざわざ僕が、嘘を教えにここに来ると思う? 名家に折檻されている者のもとに、こうしてフードなんて用意して、わざわざ嘘を教えに行くなんてこと、君はする?」
「それは」
「ねえ、いいの君はこのままで。君の妹だけが幸せになってしまうよ? 君は幸せになれなくてもいいの?」
「……ならどうしろっていうのよ、こんなところに閉じ込められてちゃ何もできないわ。あんたが何かしてくれるって言うの?」
「そうだよ。僕が手伝ってあげる」
予期していなかった男の返答に、真里は大きく目を見開いた。男はくすくすと笑いながら、真里の耳元に唇を近づける。
「ねえ、暗道について、王太子様に聞いてごらん。そして王太子様から暗道について知っていることを聞き出すんだ。すると、王太子様は呪具のことについてきっと触れるはず。それについて、きちんと聞き出してみて。どこに保管されているか。それが分かったら、僕に教えて?」
男の言葉が、甘い毒のように真里の頭を痺れさせていく。真里はそれに抗うように「あんたの目的はなに……?」と男を睨んだ。
「僕の目的は、君が本懐を遂げることだよ、真里。君がその本懐を遂げようとしてくれたとき、僕の望みは叶うんだ。だからこうして、僕は君を助けに来た」
男は真里の頬にそっと触れると、すぐに手を離す。そしてくるりと舞台に立つ役者のように扉に向かって歩き出した。
「本当は君をここから出してあげたいけど、今出しても君は捕らえられるだけだ。だから出してあげられない。今はね」
囁くように「ごめんね」と言い残し、男は扉を、そして鍵を閉めようとする。真里がとっさに名前を尋ねると、男は「ひみつ」と笑いかけ、その場を後にしたのだった。
◆
月乃と紅蓮、二人が廃屋敷へ向かって十日が経った。
紅蓮がかつて出会った少年であると知った月乃、そして過去、出会ったことがあると月乃に伝えられた紅蓮であったが、そんな二人には問題が生じていた。
「……紅蓮様、紅茶です」
「そうか、すまない。ありがとう」
客間にて、月乃は紅蓮にいつも通り紅茶を淹れた。しかしその頬は赤い。そしてその紅茶を、ソーサーを濡らすことを目的とするかのように紅蓮は震え、零しながらカップを受け取る。月乃は紅蓮が紅茶を受け取ったのに安堵し視線をわずかに上げると、紅蓮の顔を見て頬を赤くさせ、すぐに俯いた。
(紅蓮様の顔が恥ずかしすぎて見られない)
月乃は、じっと堪えるようにして、手のひらを握りしめる。紅蓮と廃屋敷へ向かい彼が笑うのを見てから、月乃は変わった。それどころか紅蓮の声を聴くだけでも胸が高鳴り苦しくなることがあり、まともに接することが出来なくなっていた。
一方の紅蓮はといえば、月乃の反応に共鳴するように顔を赤くして、じっと睨むように紅茶を見つめる。廃屋敷で月乃が体調を崩したと勘違いをした紅蓮は、その足で月乃を連れ暗道の街の医者へと向かった。結果、特に健康に害をなしてはいないと診察を受けたのである。しかし月乃の症状は改善することなく、悪化の一途を辿りで焦った紅蓮は様々な文献を調べ上げ、とうとう月乃が患っていた正体を突き止めた。
それは「恋煩い」である。
心臓に悪いところも見られず、診察中は平熱であるのに紅蓮に顔を覗き込まれ、触れられるたびに頬を赤くする月乃。恋に纏わる文献を漁った紅蓮は、月乃のすべての症状がそれに該当し、さらにその対象が完全に自分と合致したことでまともに接することが出来なくなり、月乃への態度は悪化し続けていた。
紅蓮は朝、月乃を起こすとき、棒のようなものでつついていた。それは目覚めてすぐ自分のような者が枕元に立っていたら恐ろしいだろうという配慮からだ。
しかし今、棒でつつくことですら紅蓮は緊張し、部屋の扉を開いて、そこから一歩たりとも部屋に入ることはなく、海釣りをするような竿を作り、それらを使って遠い場所から月乃を起こしていた。
食事中は何度もフォークから料理を皿へと落とし、朝「行ってくる」と伝える言葉すら何度も噛んでしまう。そして、極めつけは風呂場の鍵の受け渡しだ。月乃から鍵を受け取る際、手が触れないように何度もぎこちない動きを繰り返し、何度も鍵を落とす。そして二人同時に鍵を取ろうとして手を触れさせては、互いに素早い動きで離れ、また風呂場の鍵の受け渡しを繰り返すのである。
月乃は、今まで抱いたことのない、新たな感情に戸惑っていた。そして紅蓮は、月乃の想いが自分に向けられていると知り戸惑っていた。
紅蓮は月乃から想いを向けられることについて、決して嬉しくないわけではない。信じられないほど喜ばしいことであった。しかし、紅蓮の目的は月乃を幸せにすることであっても、月乃とともに幸せになることではない。だからこそ戸惑い、その感情や目的の揺らぎが態度になって表れていた。
そしてそんな二人を、訝しげな目で見つめるものが一人、客間のソファに座っていた。
「ねえ、なんか二人とも雰囲気違くない? 寝たの? っていうか今日寝るの? それなら僕帰ろうか?」
江見湖は、客間のソファに座り、亜麻色の髪を揺らしながら、喜劇を見るような表情で形のいい唇で弧を描く。すると言葉の意味を瞬時に察した紅蓮は烈火のごとく江見湖を叱りつけた。
「おおおおおお前! ふざけたことを言って月乃を貶めるな! 燃やすぞ!」
しかし、その圧力はいつもより減退しており、江見子は鼻で笑う。今ならば、赤子の手をひねるより紅蓮で遊ぶのは簡単であると、江見湖は直感した。
「だって二人の雰囲気、婚前まで会うことを禁じられた男女が、ようやく会わせてもらってるみたいだよ? ねえ月乃ちゃん」
言葉の矛先が自分に向かってきたことに、月乃は戸惑う。そしてこのまま返答をしては良くないと思った月乃は「こ、紅茶のお代わりはいかがですか?」と話を逸らした。
「あー、月乃ちゃん話変えた〜! まぁいいけどさぁ……。っていうかさ、なんで二人とも僕の変化にも気付いてくれないわけ? 節穴なの?」
江見湖は「見てよ! 気にならないのこれが!」と自身の装いを示す。江見湖の今日の装いは、着物姿ではなく正装をしており、端的に示せば男の装いをしていた。髪は後ろで結われており、面立ちも普段の華奢な華やかさではなく凛とした美しさを持っている。
他人であれば絶対に気付くはずの劇的な江見湖の変化だが、二人ともたった今、江見湖の装いの普段との異なりに気付いた。
「えっと、どうして今日は、その装いを?」
「あ〜、廃太子の元婚約者の華族の御令嬢と会ってきたんだよ〜」
江見湖の言葉に、月乃の顔が強張った。御令嬢の家は、月乃が蜂矢家を放れ、暗道の侍女として雇われていることを知らないと思っていたが、知れば最後、自分を破滅させに来るだろうと月乃は思ったからだ。紅蓮はそんな月乃の機微を敏感に察知し、素早く「心配するな」と声をかけ、江見湖も同調するように頷いた。
「うん、大丈夫だよ月乃ちゃん。御令嬢の家の人は、今更月乃ちゃんをどうこうしようと思っていないから。っていうか月乃ちゃんが街に放り出されたのは、御令嬢の家側の落ち度だからね」
「え……」
「御令嬢の家は、月乃ちゃんが屋敷でどんな扱いを受けてたか知らなかったらしいんだ。知ってたらこんなことしない。それに月乃ちゃんがお姉さんを止めていた動きをしていたのも調査で出てきた。証明もされた。だから御令嬢の家としては、月乃ちゃんに手を出してはいけないどころか、謝罪をしなきゃいけない立場なんだ。過剰な制裁だからね」
江見湖がそう言って、月乃はふと疑問に思った。
私は、屋敷でどんな風に過ごしていたかを紅蓮様に話したことはない。けれど知っているということは、調べたということだ。もしかして紅蓮様が調べ、諜報員として顔が広いであろう江見湖様に何か働きかけてくれたのだろうか……。
月乃は考え、紅蓮の顔を見る。すると紅蓮は静かに頷いた。
「お前について、調べさせてもらった。だから私は、お前の家族についても知っている。お前が何をされてきたのかも」
そう言って、紅蓮は奥歯を噛みしめるように顔を歪める。すると江見湖は、話を変えるようにして「僕の話はまだ終わってないからね。懺悔は後にして」と念を押すように、指で紅蓮と月乃の間を示した。
「でも、あっちは御令嬢の家で、言っちゃえば今は月乃ちゃんは平民。御令嬢の家も表立って謝罪は出来ないんだ。立場があるからね。だから手切れ金というか、お詫びというか、慰謝料として、月乃ちゃんにお金が贈られることになったんだ。ようするに、これで今までのことはなしにしてっていうお金」
江見湖は懐から小切手を取り出す。紅蓮はそれを素早く受け取り、そのまま江見湖へと突っ返した。
「月乃は自ら侍女の紹介所の門を叩いたが、運が悪ければ薄汚い男たちに身体を売るような仕事に就かされていたんだぞ。その前に攫われていた可能性だってあったんだ。御令嬢の家が謝罪を出来ないという立場だということは分かっている。だからその分悔いろ。こんな金はいらない。その倍俺が月乃に贈る。御令嬢の家には死ねと伝えておけ」
怒りの籠った声で紅蓮は小切手を睨んだ。江見湖は「いやでもこれ月乃ちゃん宛てだし……」と言って月乃を見る。
「私は、別にいりません。それにお姉さまが王家や御令嬢の家に多大なご迷惑をおかけしてしまったのは事実ですから」
「だからと言って、妹であるだけのお前が責任を負う必要はない。同調していたならともかく、お前は事故に遭ったようなものじゃないか。御令嬢の家など、燃えてしまえばいいんだ」
紅蓮は、月乃の分まで憤るように語気を荒げる。月乃はそれだけで、救われるような気持ちがした。
「……それに、私は、もう大切な今がありますから」
月乃は紅蓮を見た。恥ずかしさはなく、ただ素直な気持ちで。紅蓮もそれに呼応するように月乃を見る。すると江見湖が咳ばらいをした。
「ぼ、く、を、忘れないで!」
訴えに、二人は揃えるようにして江見湖に気づきはっとして、彼に顔を向けた。江見湖はわざとらしくため息を吐くと、懐から紙を二枚取り出す。
「なんだ小切手なら返すぞ」
「違うよ。もっといいものだよ」
江見湖は「ほら」とその二枚の紙を机の上に並べた。それは暗道の街の歌劇公演の招待券だった。
「歌劇? 何故これを?」
「貰ったんだけど、僕ただの劇とか歌は好きだけど、なんていうの、物語込みの歌は苦手でさあ。まどろっこしいっていうか。だから二人の逢引きに使ってもらおうと思って。夜の公演だから食事して、街の人間が皆してるようなデートしなよ。どうせ二人の今の雰囲気的に、子供とか老人とかのデートでしょ?」
江見湖はにやにやと笑いながら招待券を指でつつき、月乃に笑いかける。
「こういう大人らしい年相応のことしなって、月乃ちゃんも歌劇とか紅蓮と見たいよね?」
「しかし、私は使用人です。紅蓮様の観劇に同伴することは……」
「いや、暗道の常識は帝都の常識と異なる。帝都ではおかしいことかもしれないが暗道で使用人と歩くことはおかしいことではない。労いの精神だ。正しい。むしろ真理だ」
紅蓮がしれっとした顔で大嘘を吐く。しかし紅蓮はこれを嘘にするつもりは無かった。今は違くとも、おいおい常識にしていけばいいと紅蓮は考えている。
そんな紅蓮の大嘘を、月乃は紅蓮と出掛けて以降街に出ない、他の使用人を知らない、暗道の屋敷に来てからは会話をしたのは紅蓮と江見湖のみということで、比較対象が無くすんなりと信じ、紅蓮と歌劇に向かうことについて考え始めた。
(紅蓮様と、歌劇……)
月乃は歌劇に対して、別に興味がない。そもそも月乃は音楽や観劇に行った経験自体なく、どういったものかは知識で知っているものの、その良さについて知らない。
そして今まで知りたいとも思っていなかった。しかし、紅蓮と二人で行くと考えると、月乃の中にふつふつと湯を沸かすように関心が芽生えた。
「お前は、歌劇に興味はあるか」
「歌劇は、分かりませんが、紅蓮様となら……」
月乃のか細い声に、紅蓮は信じられないような、食い入るような目で月乃を見た。
しかし俯いている月乃にそんな紅蓮の視線は気付かない。紅蓮はどんどん目を開け、紅の瞳を囲うように、もはや白目を剥いているのではと江見湖が感じるほど、月乃を見つめている。
それほど今の月乃の発言は、紅蓮の月乃に関することになると塵と化す思考力を破壊するには、十分な威力であった。
江見湖は俯く月乃と目を剥くような紅蓮に向け、呆れながら大きく手を打ち鳴らす。するとある意味正気に戻った二人ははっとして互いを見合った。
「えっと、じゃあ行くか、歌劇を見に、せっかく江見湖が、し、招待券をくれたわけだしな。こうしてわざわざ屋敷に来てくれたわけだし。歌劇ホールを、新しく作る視察も必要だしな」
「はい」
屋敷に訪れたとき、「お前は何をしに来たんだ。まだ死んでなかったのか。火葬なら今してやるぞ」と心底不機嫌そうな顔で迎え入れたのは、一体どこの誰だったのだろうかと、江見湖は紅蓮を見る。紅蓮は咳ばらいをして、改めて江見湖に向き直った。
「悪いな江見湖、ありがとう」
「江見湖様、ありがとうございます」
「ううん、気にしないで。招待券無駄になっちゃうところだったし、こっちこそありがとうだよ……本当にね」
江見湖は、自身の言葉に短く付け足す。しかし月乃と紅蓮は気付くことなく招待券を見て、観劇について想いを馳せている。江見湖はそんな二人を見ながら、ただ静かに笑った。
◆
帝都の最奥、街を見下ろすように聳え立つ王城の一室。部屋の灯りは燭台一つのみ、窓の外の夜が溶け込むようにして、部屋の中は薄暗く冷たい空気を纏っている。
「主様」
バルコニーに佇む人影……フードを被った人物は、身体をすっぽりと覆い隠すようにマントに身を包んでいるというのに、華奢であることがそのラインから伺えた。その人物は、フードから亜麻色の髪を零しながら窓辺に立つ人影――国王へ語り掛ける。
「計画は、順調に行きそうですよ。そちらはどうです?」
「ああ。こちらも王家の保管庫が最近手薄になっていることに気付いた。暗道の侍女についても伝えてある。きっと今夜行動に移し、呪具を持ってして計画を実行するだろうさ」
窓辺の人影は、含むようにして喉の奥で笑う。マントに身を包んだ人物――江見湖は、その様子を見て同調するように唇に弧を描いた。
「では、計画は最終段階ということで」
「ああ」
バルコニーに留まっていた恵美子は、瞬時に闇に溶けていく。窓辺に立つ国王は、その場を去った。
◆
(馬車の中で、一体どんな会話をすれば、月乃を楽しませることができるのだろう)
辻馬車の中、月乃と向かい合って座る紅蓮は車窓を睨みつけながら、一人黙々と考える。江見湖が暗道の屋敷に訪れ十日、観劇の為に二人は屋敷を出た。
それから現在、谷を越え、丁度街まで半分というところまで来たというのに、紅蓮は月乃が馬車に乗り込む際「怪我をするなよ」と言ってから、ただの一言も発していなかった。
(こうして過ごせるのも、きっとあと少しだ。そしてあの事も、話をしなければいけないのに)
紅蓮は遠くを見つめ、しきりに眉間に皺を寄せる。一方の月乃は、しきりに自身の来ている着物の裾を握ったり離したりを繰り返していた。
(私の格好は、どうなんだろう……)
月乃は今まで、自らの装いに関心を持つことは無かった。そもそも流行りの着物を知ったところで買っては貰えない。いつも着るのは流行遅れであると笑われる、異母姉真里のお下がりの着物だった。
しかし月乃は、着物がお下がりだから笑われるのではなく、自分は何を着ても笑われるのだと考えていた。よって彼女は、着物やその色合いに関心はなかったが、今は関心を持っていなかったことに後悔をしている。
(この格好は、紅蓮様が選んでくださった。髪型もお化粧も、紅蓮様が施してくださった。紅蓮様を信用していないわけじゃないのに、紅蓮様にどう見られているか、心配で仕方がない……)
月乃は紅蓮を意識し始めてから、不安に揺れることが多くなっていると自覚している。今までは人に良く思われたいと思ったことは無く、迷惑をかけたくないとしか考えてこなかった。だが紅蓮に対してだけは、良く思われたら嬉しい、出来れば良く思われたいと願う。月乃がそっと紅蓮の様子を伺うと、紅蓮はしかめ面で外の景色を眺めていた。
(……きっと今なら気付かれない)
そう考えて月乃はその横顔を見つめる。しかし、紅蓮はそうではなかった。
(なんだか、月乃に見られているような……)
月乃は、紅蓮が視力が良くないと考えているが、紅蓮の方はといえば例えその方向に顔を向けずとも細かなものを確認できるほど、視野が広い。よって月乃が熱っぽい瞳で自身を見つめていることは、十分すぎるほどに分かっている。
そして紅蓮は月乃の視線がどこにあるかを分かっている手前、月乃の方が向けず、窓の景色を見るしかなかった。
(今、月乃の方を見たら、月乃が俺を見つめることをやめてしまう。しかし、俺は月乃を見ていたい。しっかりとその姿を、この瞳に宿しておきたい……)
紅蓮は自分と月乃に残された時間が後僅かであることに胸を痛めながら、じっと車窓を睨む。紅蓮はこのまま、月乃を自分の元に置いて、彼女の人生を巣食うことは出来ないと考えていた。だからその分、いずれ来る別れの前に、彼女のことを少しでも見ていたかった。
そんな紅蓮に運命が味方をするように、車窓の景色が森から街並みへと変わり光の加減が変わったことで、車窓に馬車の内部が、月乃の姿が映し出される。
(これで月乃が見れるじゃないか)
紅蓮の心が、歓喜で打ち震える。紅蓮は月乃に見ていることが気づかれないよう、これでもかとしかめ面を作り上げ、窓に反射する月乃を見つめ始めた。
今日紅蓮が月乃に贈った着物は、仕立て屋に事細かに注文し短期間の中でこだわりにこだわり抜いた着物だ。職人には無理を言ったからと報酬を倍額渡したが、紅蓮は一切の後悔をしていない。
羽織は薔薇模様の繊細な細工が施され、月乃の儚げな雰囲気を引き立たせており、紅蓮は職人に追加で手当てを支払おうと強く決意した。
(こうした月乃の晴れ姿を、こんな間近で見ることはもうない。最後にこんなに美しい姿を見ることができて、本当に良かった)
紅蓮は窓越しに月乃に微笑みかける。月乃はそんな紅蓮の横顔を見て、心臓が鼓動を速めていくのを感じていく。
(今日、紅蓮様と一緒に、歌劇を見に行くことが楽しみだった。紅蓮様とどこかへ行くことが楽しみだった。でも、でも今は違う。今、この瞬間、時間が止まればいい。そうすれば、ずっとこうして、紅蓮様が笑っているのを見ていることが出来るのに)
月乃は、しばらくの間その笑顔を見つめていられるようにと、祈りにも近い気持ちでずっと紅蓮を見つめていた。
◆
「えっと……、江見湖様に頂いた招待券の会場は……」
歌劇の会場へ辿りついた二人は、ホールの入り口が並ぶ会場で、きょろきょろと当たりを見回していた。紅蓮は人込みに月乃が潰されないよう気を付け、紅蓮の隣に立つ月乃は招待券のホール番号を確認していく。
江見湖によって二人が招待された歌劇はホールがいくつもあり、毎時異なった演目を公演する大規模な会場で、伝統的で古風な演目から、風変わりで斬新なものまであらゆる公演が行われていた。
よって訪れる客の量も膨大で、全てのホールへと繋がる廊下は人で犇き合っている。分かりやすい目印の代わりに入り口には演目の看板が描かれ、床は上質な絨毯で敷き詰められており、華美で色彩豊かな景色に不慣れな月乃にとっては、自分の入場するホールを探すのも至難の業だ。
見るに見かねた紅蓮は月乃の手から招待券を取り、目を凝らして周囲を確認していく。すると人の波の間に目当ての番号を見つけ出した。
「あった。あそこだな。奥から三番目の会場だ」
紅蓮は一際入り口がごった返す場所を指で指し示す。明らかに人々が犇き合うその場所は、月乃に対して病的に過保護である紅蓮が脅威判定を下すには十分の状況であった。
(……辺り一帯を燃やすか)
そんな不穏な選択さえ、紅蓮の中に芽生えていく。しかしボヤ騒ぎ一つでも起こしてしまえば歌劇が台無しになってしまうし、そもそも観客の命だって危うい。紅蓮はこの状況の打開策を考え、平和的でありながら、紅蓮にとっては歌劇ホールを燃やすより難しい策を思いついた。
「紅蓮様?」
策を思いつき、ひたすらに自分の右手を睨み始めた紅蓮に月乃が声をかける。
紅蓮の策を知らなければ、今の紅蓮の行動は誰から見ても怪奇的と言ってもいいものだ。しかし月乃は紅蓮の手が痺れたのか、どこか体調が悪いのかと思い悩む。
そんな月乃の心配を感じ取った紅蓮は慌てて自身の手から視線を移し、瞳を泳がしながら月乃に手を差し伸べた。
「ひ、人が、沢山いる。はぐれてしまってどちらかだけが歌劇を見れないなんて事態に陥ってはよくない。江見湖に申し訳ないしな。そうだ江見湖に申し訳ない。だから、その、手を、私の手を、掴め。いやこれは俺が貴女の手を掴みたいわけではなく、あくまで人命的な、そう、互いの現在位置を把握するための意味合いだ。無粋な気持ちがあるわけではないし、貴女に触れたいわけじゃない。あ、貴女に触れたくないわけじゃないんだ。くそ、こう言ってしまうと不埒な感情を隠している奴みたいじゃないか……違うんだ。えっと、話を整理しよう。俺は、今、貴女を指定の場所まで安全に連れていきたい。しかしその間にはうじゃうじゃと人間が集まっている。このまま行ってしまえば、華奢な貴女は押しつぶされたりしてとても危険だ。……ああ自分で考えて嫌になってきた……全部燃やして貴女に安全な道を……いや駄目だ。歌劇が台無しになると結論付けたじゃないか。えっと、話が脱線した。とにかく俺は、貴女を安全にあちらへ運びたい。その為には貴女を抱えたりする手段があるが、流石に安全でも貴女に恥をかかせてしまう。だから最も合理的で安全な、俺の手を掴むということを、貴女にしてほしい。そして、俺も、貴女の手を掴む。手を繋いでいれば、お互い離れないし、安全に向こうに行ける。ど、どうだろうか……?」
紅蓮が、江見湖に申し訳なさを感じたことなど、江見湖と出会ってから一度も無い。むしろその逆は何度もあり「申し訳なく思え」と江見湖に苛立つことは出会う度にある。
しかし今、紅蓮は誤魔化すように江見湖の名前を並び立て、まるで大義名分でも得たような顔つきで長々と話をした後、月乃を見下ろした
「は、はい、ありがとうございます」
月乃はいつになく饒舌に話す紅蓮に嫌悪や不審を抱くこともなく、おずおずと控えめに紅蓮の手を掴んだ。紅蓮がここは楽園かと考える一方、月乃の頭の中は真っ白で、頭には熱が集中し頬は赤く染められていく。
そんな月乃の顔を見た紅蓮は、顔がおかしくならないようにと必死に眉間に皺を寄せ、月乃を睨みつけた。
「じゃ、じゃあ行くか」
「はい」
紅蓮は月乃の手が折れないよう、細心の注意を払いながらその手を握り返し、一歩一歩進んでいった。すると月乃も始めは後を追うように、そして徐々に一歩遅れて隣を歩くようにして並んでいく。
「紅蓮様の手、冷たくて気持ちがいいです」
「えっあっ、はあ?」
紅蓮が小刻みに痙攣して、月乃を見た。驚いた彼女は、おそるおそる紅蓮に問いかける。
「ぐ、紅蓮様」
「なんだ」
「私の手、熱っぽくて気持ち悪くないですか」
「いや。極上だ」
紅蓮は月乃にそう答え、よくよく自分の言い放った言葉を反芻し、絶望した。
(なんだ極上とは、気持ち悪い言い方だったじゃないか。まるでこう、使用人をいやらしい目で見ている最低な主ではないか……? 天の使いが授けた衣のようだとか、もっと言い方があっただろう!)
紅蓮は心の中で、愚かな自分を三百人ほど殺していく。月乃は自分の手が不快感を与えていないことに安堵し、紅蓮の言葉の不自然さに気付くことはない。紅蓮がどう挽回すればいいか頭を悩ませていると、唐突に月乃が足を止めた。紅蓮は嫌われたと考え、月乃を振り返る。
「なななな何だ?」
「えっと、会場ここです。ここが入り口です……」
月乃が遠慮をするように紅蓮を見る。紅蓮ははっとして顔を上げると、目の前には目的の歌劇の入り口があった。紅蓮は「では行くか」と何事も無かったかのように、そして内心では大きく取り乱しながらホール内へと入っていく。
ホール内は一階と二階で分かれており、さらに二階から舞台側へと飛び出し囲うようにしてボックス席が配置されていた。月乃と紅蓮が貰った招待券の番号はそのボックス席の中でも最奥の端を示すもので、二人はその席を目指し歩いていく。
(……席についたら手は、離さなくちゃいけない……)
月乃は僅かに顔を曇らせる。そして同時期に紅蓮もそっぽを向き、いかにも座席を探しているふりをしながら俯いた。
(……席に着いたら、もうこの手を繋げない。いや、初めの目的を忘れたのか。月乃の安全が第一だろう)
紅蓮は邪な感情を振り払うようにしてボックス席へと向かっていく。そして二人の座席に辿り着き、いざ入ろうとすると紅蓮に向かって声がかけられた。
「紅蓮様っ」
月乃の知らぬ男が、紅蓮の元へと駆け寄っていく。二人は瞬時に繋いだ手を離した。そのまま取り繕うようにしながらも、月乃が動揺を隠せないでいると、紅蓮が警戒した瞳を男に向けた。
「お前は、江見湖の部下の……」
「はい! 東寺です!」
江見湖の用意した席に、江見湖の部下。まさか奴はどこかで俺たちを見張っているなんてことはないだろうか。そう、紅蓮の江見湖への殺意が徐々に上がっていく。東寺は紅蓮の殺気立つ様子を感じ取り、焦り言い訳をするように手を横に振った。
「あの、お仕事についてお知らせに向かいました。その江見湖様のいつものいたずらですとかそういうことではなく、今回はちゃんとした伝達です」
紅蓮はじっと東寺の真意を探るように見る。東寺はそんな紅蓮の視線にたじろぎながら、愛想笑いを浮かべた。
「伝達……」
月乃をこのまま置いていくかと紅蓮は考える。相手は江見湖の部下、仕事上、月乃に軍部の話を聞かれることは抵抗がある。仕事に関わる者を月乃を関わらせることは、紅蓮にとって月乃を崖の上に置き去りにすることと同義である。
かといってボックス席で月乃を一人残すことも、月乃を一帯が燃え盛る火の海に置き去りにすることと同義であった。紅蓮の頭の中では。
「……月乃、お前は耳を塞いでそこに座っていろ」
その結果、紅蓮は月乃に耳を塞がせ、自分はボックス席の入り口で江見湖の部下と話すことにした。
誰かがこのボックス席に入るためには、まず江見湖の部下や自分を倒さなければいけない。紅蓮は架空の戦う相手を想定して満足げに心の中で頷く。月乃は紅蓮の指示通り耳を塞いで、念の為にと目を閉じた。
「それで、一体何の話だ。俺に大事な話とは」
「はい。江見湖様に言伝を頼まれておりまして、実は……」
江見湖の部下がそう言いかけた、その瞬間。不意に紅蓮たちの立つボックス席の足元がぐらついた。
紅蓮が月乃に怪我はないかと振り返ると、月乃の背後に深い闇が現れる。反射的に紅蓮は名を絶叫しながら月乃の元へ飛ぶと、自分が今どういう状況に陥っているのかを理解した月乃は、紅蓮のもとへ駆け出そうとする。しかしそれを阻むように、月乃の手に闇が纏わりついた。
「月乃!」
怒号のような声が、月乃の耳に届く。月乃が紅蓮に手を伸ばす。しかし伸ばしても伸ばしてもその手は紅蓮に届かない。やがて月乃は自分の意識が溶けていくのを感じながら、その身を影へと沈めていった。
◆
「あら、もう起きたの? 呪具に充てられたならもっと眠っているものだと思ったけれど、さすが溝鼠の娘、しぶといわね」
投げかけられた言葉に聞き覚えを感じた月乃は、朦朧とする頭を抱えながら目を開く。すると目の前には、もう三ヶ月以上見ていなかった異母姉の真里が、月乃を見下ろし立っていた。
驚きながら周囲を見渡しても、景色は歌劇ホールではなくどこかの屋敷の一室のような場所で、燭台に灯された炎だけが自分たちを照らしている。窓の外、バルコニーの景色は暗く、灯りのついた建物どころかその陰すら見えないところから、それなりに高い場所に位置しているようだったが、それ以外に外の景色は分からず、夜であることくらいしか月乃には分からない。
「お、お姉さま……? うぅっ」
月乃がおぼろげにそう呟くと、真里は下駄のつま先を当てるようにして月乃の腹を勢いよく蹴り上げる。途端に月乃は咽せた。
その様子を忌々し気に、それでいてどこか楽しげにして真里は笑うと「相変わらず汚い娘」と吐き捨てるように言ってのける。
「お姉さま、どうして……」
「どうして? そんなの、お前が一番分かっているでしょう?」
そうして真里が月乃に追撃を放とうとすると「待った」と聞きなれぬ声が響いた。月乃が浅く呼吸をしながら声をする方向に顔を向けると、炎に照らされて揺らめくように立っていたのは、紛れもなく廃太子であった。廃太子は倒れた月乃に近づいていくと、鼻で笑い蔑むような目を向ける。
「今まで君の顔を近くで見たことがなかったけれど、君は本当に真里と似ていないね。冴えなくて、華が無い」
「……どうして……」
「どうして? どうしてって、そんなことも分からないの?」
彼はさもおかしそうに、まるで月乃が非常識なことを言っているかのように笑う。真里もつられるようにして笑い、月乃は得体のしれない気味の悪さを感じた。月乃が後ずさるように身を引くと、廃太子は「それはねえ」と口を開く。
「君が薄情な妹だからだよ」
「え……?」
「君さあ、お姉さんが困ってるとき、何もしなかったでしょう? 僕らが困ってる間に、君は暗道に取り入って、随分といい暮らしをしてたって言うじゃない。君のお父さんもお母さんも僻地に飛ばされたっていうのに。どうかと思うよ?」
あどけない、幼子を言い聞かせるような言葉たちに月乃は愕然とする。しかしそんな月乃に畳みかける様にして真里が口を開いた。
「お前の母親がしぶとく生きていたせいで、お母様はずっとお屋敷に住めなかったのに。お前のせいで私は、お父様と長い間暮らすことが出来なかったのに。お前が生きていたせいで、私はずっと平民もどきと馬鹿にされていたのに、ずっとお前に私は迷惑をかけられてきたのに、どうして私が平民に落とされようとしてる間に、お前は綺麗な着物を着て街を歩けるの? どこにそんな権利があるっていうの!?」
真里は怒鳴りつけるようにして、月乃の腹を踏みつけた。そして興奮するように何度も何度も執拗に月乃を蹴りつける。月乃が腕で庇おうとして、ようやく自身の手首に枷がつけられていることに気付いた。自身を守ることもできぬままに、月乃は真里によって痛めつけられていく。
「お母様は、悪くない……っ」
「悪いの、悪いのよ! お父様は愛のない結婚だったって言ったわ! 愛しているのはお母様だけだって言っていたもの! 男が生まれればそこで離縁できたのに、お前が女だったからまた跡継ぎを産まなきゃいけなくなって! 離縁もできず、母様と結婚できないって! お前が男じゃなかったから!」
その言葉に、今まで真里がどうして自分を疎ましく思っていたのかに月乃は気付いた。真里はずっと、自分が父親と暮らせなかった日々を、その寂しさを月乃にぶつけていたのだ。今まで、そういった理由で真里は自分のことを嫌っていたのかと、月乃ははっとする思いだった。
しかしその間にも容赦のない真里の攻撃が月乃を襲う。真里は執拗に月乃を蹴り続けていると、へらへらと笑っていた廃太子が止めに入った。
「まあ待ちなよ真里。気を失わせても困るだろう、これから暗道には、僕たちの支援の相談をするんだから」
「……そうね、苦しめるのは、暗道様の前でもいいわね」
真里はうっとりとしながら頷く。一方月乃は突如の口から放たれた暗道という言葉に体の芯から冷えた感覚がした。
「暗道って……、お姉さまたちは一体紅蓮様に何を……」
「あれ? 何だか様子が変わったみたいだよ、真里? どうしたんだろうね」
目に見えて怯えだした月乃を、令息は期待の眼差しで笑い、真里は勝ち誇ったように月乃を見た。
「あんたを人質にして、融資をお願いするのよ。そして、私たちを平民として扱わないよう働きかけてもらうのよ」
「そんな、王家の決定を覆すことなんて、そう簡単に出来るはずが……」
「出来るわ。だって暗道の当主様は吸血鬼なのでしょう?」
意地悪い笑みを浮かべた真里の言葉に、月乃は固まった。そんな月乃を嘲笑うように真里が近づいていく。
「どうして知ってるって顔してるねえ、そんなの当然じゃないか。僕はこの国のことをよく知ってる。暗道が吸血鬼で、代々国の犬として戦に駆り出されていることも、どんなに力の強い化け物であっても呪具のせいで国の言いなりってこともね」
廃太子は「これがその呪具なんだけど……」と手に持っていた銃をちらつかせ、月乃はその銃を見入る。呪具。それは以前紅蓮が、月乃に話した言葉の中にあったものだ。国に伝わる道具であり、そして、「不死身である吸血鬼を殺す」為のものであると。
「暗道に言ってやるんだよ。お前の大事な侍女を返してほしかったら僕たちのお願いを聞いてって。そして、言うことを聞かないなら呪具を使ってやるって。手っ取り早く呪具で脅すのもいいんだけど、でも、こちらが呪具を使う前に何かして来たら嫌でしょ? 速さでは勝てないし。だから君はその為の防波堤っていうわけさ」
かちゃかちゃと金属の音を鳴らしながら、廃太子は銃を指で弄ぶ。
あれを奪わなければ、紅蓮様が危ない。
月乃は何とかして周囲に何かこの状況を打開するものがないか確認していく。しかし真里はそんな月乃を嘲笑うように杭をちらつかせた。
「もしかしてお前、この銃さえ奪えば何とかなると思ってる?」
月乃は、真里の確信したような声色に心臓が歪な音を立てて鼓動したのを感じた。見上げるように月乃が顔上げると、真里は炎に照らされ鈍く光る杭を月乃の胸元に突き付ける。
「ふふ、これはねえ、吸血鬼殺しの杭なの。彼が持ってるのは銃。吸血鬼なんて化け物への対抗手段が、一つなわけないでしょう? だからどんくさいお前が、万が一どちらかから呪具を奪えたとしても、意味なんてないってわけ」
真里の言葉に、月乃は音を立てて希望が崩れていく感覚がした。しかし、すぐに月乃の瞳に強い意志が宿る。それまで不安に揺れ、あまつさえ自分に怯えていた月乃が明確に反抗的な目を自分に向けたことで、真里は一瞬怯むと、それを無かったことにするように「何よその目は」と月乃をきつく睨んだ。
今まで真里は何度も月乃に対して、月乃の瞳が、目つきが気に入らないと彼女を罵っては暴力を振るってきた。その度に月乃が戸惑ったような声をあげたり、「私は何も」と言い訳をするように自身に許しを乞いていた。
今だってそれは変わらない、そう真里は考え、月乃が紡ぐ許しの言葉を待つ。そうして許しを乞わせてから月乃を打つことで、真里はその憤りを発散させてきたからだ。
しかし、月乃は黙ったまま真里を睨みつけるばかりで、許しを乞うどころか、何か言葉を紡ぐ素振りすらみせない。月乃はただ、睨むような、じっと敵を見据えるようにして真里を見るだけだ。
「何よ、自分は悪くないって言いたいの?」
真里の言葉に答えることなく、月乃は真里を見る。やがていつまでも自身に許しを乞おうとしない月乃に対し、真里の怒りが頂点に達した。
真里はその鉄杭を振り上げると、月乃の頭めがけて振り下ろそうとする。その瞬間月乃は今が好機だと、真里の元へその身体ごとぶつかった。
突然の衝撃に真里は後ろに倒れこむ形となり、その手から鉄杭を滑り落とす。月乃は素早く体勢を変えると、枷のついた手で杭を握り、そのままが先回りした部屋の扉ではなく、バルコニーへと突っ切るように走った。
そうして硝子扉を無理やりこじ開け、飛ぶようにして手すりに立つ。先ほど、座っているときに月乃が見立てた通り、外は、帝都の町並みを見下ろすように広がっている。移動手段は分からないが、呪具で何かをしたのだろうと、月乃は他人事のように思いながら、目を見開く真里とへと顔を向ける。
「私は、あなた達の言いなりにはなりません。あなた達の思い通りになんて、紅蓮様を傷つけさせるなんて、絶対にさせません。私の主人は、紅蓮様ただ一人。あの人が、私の全てです」
強い瞳で宣言して、二人を見下ろすように月乃は言い放つ。月乃の背には大きな満月が浮かび、冷たい風が頬を撫でた。杭を握りしめ、月乃はじりじりと、ベランダの手すりの外側へと足を擦っていく。
このまま、杭ごと地の底へ持っていこう。銃は持っていけなかったけれど、きっと紅蓮様なら……。
月乃は目を閉じる。死ぬことなんて恐ろしくない。自分のせいで紅蓮様が傷つくことがただひたすらに恐ろしかった。
「……私は、この杭を持って行きますから、どうか紅蓮様はご無事で」
月乃は祈りをささげる様に杭を持ち、前に手を組む。そして一思いにその身を倒して、暗い夜の海へとその身を投げた。
「月乃!」
月乃は落ちていきながら、紅蓮の声が聞こえたような気がした。紅蓮様の声を聴きながら逝けるなんて、幸せだ。心からそう思った月乃は、夜空に浮かぶ月に微笑みながら風を受けていく。
しかし突如、月乃は自身を抱きとめるような衝撃を感じた。次に分かったのは、感じた覚えのある体温。月乃が恐る恐る瞳を開けると、紅色の瞳が月乃を照らしていた。
「紅蓮様……?」
「月乃……」
バルコニーの少し下、壁に張り付くようにして紅蓮は月乃を支えていた。そして月乃を抱いたまま、紅蓮は一際高く飛び立ち、真里とが並ぶバルコニーを見下ろすように、そばの塔の屋根へと降り立った。
「暗道、お前……」
憎々しげに廃太子は紅蓮を見上げる。紅蓮はそんな廃太子を見据えた。
「これから先、俺は長く生きていくではあろうが、廃嫡された愚かな平民に呼び捨てにされることなんて、今日限りないだろうな」
紅蓮の言葉に廃太子は紅蓮に向かって銃を構えた。しかし紅蓮は一切動じることはなく、静かに抑揚なく伝える。
「それで、月乃に傷をつけたのはどちらだ?」
「は……?」
「月乃を傷つけたのはどちらだと聞いている。王家の人間も、どうやらここへ向っているらしい、私はそれらが来るまでに、お前たちへ相応の罰を与えなくてはいけない」
殺気を露わにする紅蓮に、月乃は僅かに紅蓮を抱きしめる力を強めた。そして今まで紅蓮が江見湖に発していた殺意は軽いもので、今二人の返答次第によっては紅蓮は確実にどちらか、もしくは二人共々葬り去ろうとしていることを察した。
「紅蓮様……」
月乃の呼びかけに、紅蓮は答えない。その殺気に充てられた廃太子は紅蓮に構えた銃口をがたがたと震えさせ始める。やがて銃を床に放り投げ「違う……違うんだ」と滑稽な様子で命乞いをし始めた。
「この女が、妹は金を持ってるからって、妹を脅せばいいって、俺は言われただけなんだ。言われただけ、それを手伝ったんだ」
「そうか、ならば……」
紅蓮の言葉に、廃太子は僅かに安堵した表情を見せた。嫌な予感がして、月乃は紅蓮に呼びかける。しかし次の瞬間廃太子は血のように赤く、鈍く揺らめくような炎に包まれ始めた。
辺りに断末魔のような苦しみの叫びが響き渡り、月乃は隣にいる紅蓮の凶行が信じられず言葉を失った。
「苦しんで死ね」
紅蓮はまるで、目の前の廃太子のことなど見えていないように、無感動な瞳で炎に包まれるそれを見る。そして、補足をするように「その炎は」と話を続けた。
「お前の命を焼き尽くすのに、時間を要する。自身の身体が焼かれ、水を失う痛みに永遠の中、苦しみ続けろ」
そして紅蓮は次の標的を定めはじめた。その標的である真里は、紅蓮の視線に気付き一歩一歩後ずさっていく身体を不自然に止めしゃがみ込んだ。
「あ……ああ……私は、私はっ」
「……お前は、以前にも月乃を虐げていたそうだな。そして、この期に及んでまだ月乃を苦しめようというのか。何故そこまで月乃を憎む?」
「だ、だって、その子がいけないんじゃない、その子だけが幸せになれるなんておかしいでしょう? ずるいでしょう? 不公平でしょう? 誰にも望まれなかった子供のくせに!」
「そうか。お前は、そう思って月乃を傷つけていたのか」
紅蓮は真里の言葉に、静かに頷いた。真里は怯えるのをやめ、呆気ないような顔つきで紅蓮を見た。紅蓮は「大丈夫だ」と虚ろな目で月乃の頭を撫でると、真里に手をかざした。
「死ね」
紅蓮が再度手をかざすと、先ほどのと同じように真里の身体が炎に包まれた。しかしのものとは大きく異なり、その炎の大きさは絶大で、最早あたり一帯を焼き尽くさんとする勢いだった。そして紅蓮はその勢いを更に強めようとした瞬間、軍人たちが大きな音を立てて部屋に入ってくる。
「暗道様! なっ……!?」
勢いよく部屋に入ってきた軍人たちは部屋で廃太子と真里が燃えている光景を見て唖然とした。一斉に動きを止める軍人たちの中から割って入るように正装姿の江見湖が現れる。
「紅蓮、加勢連れてきたよ〜。って、え! なんで殺そうとしちゃってるの!? 炎止めなって!? さすがによその屋敷での殺人はまずいから!?」
江見湖の言葉に答えることなく、紅蓮は軍人たちを見ると「そういえば、軍人たちの中にも、月乃を侮辱したものがいたと聞いたな」と呟いて、今度は江見湖を含む軍人たちにその手をかざした。
「死んでしまえ、みな、月乃を傷つけた者はここで苦しんで死んでいけ。消えろ」
軍人たちと江見湖は紅蓮が自身の方へ攻撃の標的を変えたことに戸惑い、放たれた炎から逃げ惑っていく。対照的に紅蓮は歪に口角を上げ、その瞳は虚ろなままだ。
「紅蓮様っ」
先ほどより強く、月乃は声を荒げる。そして紅蓮の腕に抱きつくようにしてその手を止めた。
「月乃……?」
「私はもう大丈夫ですから、生きてますから、紅蓮様。紅蓮様はこれ以上、何もしなくていいのです!」
月乃は紅蓮を諭し、落ち着けるように紅蓮を見つめた。そして紅蓮の手を掴み、自身の胸に手を当てさせる。紅蓮の不安はこの行動は、きっと自分を失う不安を誤魔化す為ではないかと、月乃は思ったからだ。
彼女は、紅蓮が訪れるまで、その力を振るうまで紅蓮が殺されることに怯えていた。そして自身が身を投げたことから、紅蓮を突き動かすものの正体がわかる。だからこそと、月乃は自身が生きていることを伝えるように紅蓮の腕を握りしめた。
「私は、紅蓮様に助けていただきました。だから生きています。こうして」
月乃は紅蓮に笑いかけた。紅蓮が安心するように願いながら。
紅蓮は月乃の瞳を虚ろな目で見つめていると、徐々に暗い鬼火のような光はいつもの優しい光に戻り、紅蓮が月乃をしっかりと捉えていく。
「月乃……」
そうして安心したように、泣きそうな笑顔を紅蓮が月乃に向けた直後、突然紅蓮は月乃の肩を掴み、ずらすように庇った。勢いよく抱きしめられた月乃が、押し付けられるように抱えられた瞬間、銃声が鳴り響く。
「うっ……」
鈍く、紅蓮の呻く声が月乃の耳にかかった。
「紅蓮さま……?」
月乃が、紅蓮の顔を見る。月明かりが逆光してその顔は見えない。後ろを振り向くと、真里が炎の中でなお銃を構え笑っていた。
「絶対に幸せになんてさせないわ! あんたは苦しんで死ぬの! そうじゃないとお母さまとお父様も私も報われないじゃない!」
真里がそう言うと同時に、更に炎は火力を増し、すべてを焼き尽くすように燃え上がる。月乃が紅蓮を見ると、紅蓮の腹は濡れ、触れた手はべっとりと赤く染まっていた。月乃は震えるようにその腹からあふれる血を押さえ、止血を試みる。
「すまない、月乃、貴女の手を、こんな薄汚い血で、穢してしまって……」
紅蓮は浅く息をしながら、ふらつくように身体を傾ける。月乃を巻き添えにしないよう、紅蓮は月乃から手を離した。しかし月乃は紅蓮の腕を掴み、何とか重力に抗おうとする。
しかし抵抗虚しく紅蓮の身体は下へと向かうばかりだ。後ろでは、こちらに縄を投げろと、梯子をかけろと命令し、医者を呼ぶよう怒鳴るような江見湖の声が響く。
「手を離せ月乃、道連れにしてしまう……」
「嫌です、私はどこまでも、ずっと、あなたの、紅蓮様のおそばに……!」
月乃は紅蓮の腕をしっかりと掴む。紅蓮の身体は墜ち、引きずられるように月乃も墜ちていく。やがて二人は共に重なるようにしてその淵へと溶けていった。
◆
「紅蓮様っ」
王宮の下、庭園の花々の上に堕ち、意識を取り戻した月乃は目覚めてすぐに身体を起こす。すぐそばには、月乃を抱きとめる形で紅蓮が横たわっていた。しかしその瞳は固く閉ざされ、堕ちたことで頬も血に染まり、庭園の花々を赤く染め上げているほどに、その身体からは大量の血が流れている。
「紅蓮様……返事をしてください! 紅蓮様……紅蓮様っ」
月乃が壊れたように紅蓮を呼びかける。何度も紅蓮の肩を叩き呼びかけていると、やがて僅かに紅蓮の瞼が動き、ゆっくりと開いていた。
「ああ……」
紅蓮の瞳が開いたことで、月乃はその瞳から大粒の涙をこぼす。紅蓮は切なげに顔を歪め、身体を起こそうとするが痛みに顔を歪めた。月乃が「寝ていてください、今助けが……」と紅蓮を押さえようとすると、「大丈夫だ」と諭すように呟き、身体を起こす。
「どうせ……助けが来たところで……助からない」
「嫌ですっ。助け……私が呼んで、紅蓮様を……」
まとまらない内容を、次々に月乃は口にする。押さえても押さえても紅蓮の傷口からは血が溢れ、必死に押さえながら月乃は泣く。そんな月乃の頭を紅蓮は撫でた。
「それより……聞いてほしい話がある……」
「え……」
月乃は顔を上げた。紅蓮はその瞳をきつく、まるで自身に宿すように見つめてから、口を開く。
「俺は……貴女が、好きだ」
紅蓮が、月乃を真っすぐ、愛おしむように見つめた。それは、紅蓮がずっと月乃に伝えたいと願っていた想いだった。好きだと、愛していると、自分が幸せにしたいと、ずっと伝えていたいと思っていた感情であり、そして願いであった。
「俺はずっと、ずっと貴女が好きだった、貴女が好きで、貴女しか見えていなかった。けれど、俺は貴女を救えなかった」
絶望の中、月乃に救ってもらったあの日、月乃に恋をしたあの日から、紅蓮は月乃を徹底的に避けた。月乃の屋敷の傍に近づくことすらなかった。それは自分が月乃に恋をしたことで、月乃を傷つけると思ったからだ。
父親のように、愛する存在を傷つけてしまうことが恐ろしかった。隠れて月乃の情報を得ることもしなかった。しかし、そうしていたことで、月乃が傷ついていたことを知らずに、月乃に救われて紅蓮は生きていた。全ての真実が明かされたのは、蜂矢家が没落した後だった。
そうして月乃の身に起こったことを知った紅蓮は、月乃を探し出し、侍女として仕えさせることで傍においた。
いつか月乃がどこかへ行きたいと行ったとき、離してやると決めながら。
ただ引き取るより対価を交わす関係であれば、月乃の評価を傷つけることもないと、そう思ったからだ。だから嫌われようとひどい態度をとっていた。初めから紅蓮は月乃の傍に永遠にいられる事はできないと分かっていた。いつか別れが来る。御令嬢の家がきちんと月乃について知り、害を成さないと決まったら、月乃の家族が帝都を出たら、紅蓮は月乃を帝都へと、人の元へと、光の下へと返すつもりだった。
別れの時には、生涯困らぬ分だけの給金を渡して。だからそれまでの間、支えることで償おうとした。与えることで、恩を返そうとした。
「……だから、貴女を、引き取り……、俺は貴女に……償いたかった。少しでも、お礼が出来ればと、そう考えていた……。でも、その間すら、今まであの間すら……幸せを与えられていたのは俺だった。救われていたのは、いつも俺だった。貴女のおかげで……俺は生きていることが許されている気持ちになれた。貴女のおかげで、生きていることが……素晴らしいと……思ってしまったんだ」
「紅蓮様……」
月乃と過ごす日々は紅蓮の深い沼を歩き続けるような生活の中で、束の間の優しい時間だった。それは自らの出生を憎悪し、否定する紅蓮にとっては残酷でありながら、まさしく温かな時間であった。
「貴女を、人の元へ帰さなくてはいけない……。俺と貴女は住む世界が違う。貴女は光の下で生きるべき人間で……俺は血濡れの世界でしか生きられない化け物だ。それなのに貴女は、俺を受け入れようとしてくれた……。俺と向き合おうとしてくれた……。そのことは、俺の生きてきた中で、誇りだ。貴女に認めてもらった。それだけで俺は……悔いなく逝けることが出来るだろう。でも……貴女と離れるのが、寂しくて……苦しくて……だから御令嬢の家から連絡が来ても、貴女に別れを伝えることが出来なくて……今日、出かけた時に、何度も言わなくてはいけないと、そう思っていたのに……きちんと手を離さなくてはいけないと思って……いたんだ。でも……」
紅蓮が、月乃が掴む自身の手の力を、緩めていく。
「いざ、その時が来ると……、貴女を遺すのは、さみしいな……」
紅蓮は、力なく笑う。月乃の瞳は涙に濡れ、その笑顔が滲んでよく見えない。月乃は何度も何度も紅蓮に呼びかける。このままこの人を、一人で逝かせたくはない。こんなに優しい人を、一人ぼっちにさせたくない。この人の傍にいたい。ずっと、永遠に。まだこの人の笑顔を見ていたいのに。離れたくない。明日だってこの先だって、ずっと過ごしていいのに。
「すまない、月乃……」
「紅蓮様、死なないで、私は……」
だって、私は……。月乃はそう考えて、はっとした。この感情が愛だと、月乃の中でその感情に名前がついた。
「私はずっと、ずっと一緒に紅蓮様といたい。置いていかないで、傍にいて……」
月乃は、必死になって紅蓮を呼びかける。どうにかして、紅蓮を救う手段はないのか、救援はまだ来ないのか、どうして神様は、こんなに残酷な仕打ちを、この人に出来るのか。そもそも神様なんていないのかもしれない。今までだって、その存在を信じたことなど、なかったのだから。
月乃が紅蓮の手のひらを、血を込めるように握りしめる。それと同時に、夜空に浮かんでいた雲が流れを変え、半分ほど姿を隠していた満月がその身を現した。すると月乃のすぐ近くで光を受けたそれが煌めく。その光を月乃が視界に入れたとき、月乃の心が決まった。
「ああ、かみさま……っ」
月乃は、その光に手を伸ばす。今まで信じていなかった神の存在を、たしかに感じながら、それへと手伸ばす。紅蓮は朦朧とする意識の中で月乃を見て目を見開いた。紅蓮の瞳に映る月乃は呪具である鉄杭を、あろうことか自分の左胸に向けていたからだ、そして、月乃が何をしようとしていたか瞬時に察した紅蓮は、吠えるようにその名を呼ぶ。
「月乃っ」
「紅蓮様、愛しています」
月乃は穏やかな笑みを浮かべながら、その杭を自身の胸に突き立てた。月乃の華奢な胸に鉄杭が突き刺さり、その隙間から滲む様に血が溢れていく。そしてその杭を自ら引き抜いた月乃は、杭から手を離し口元から血の筋を垂らすと、紅蓮の隣に倒れこんだ。
「月乃、どうして……」
「紅蓮様と、まだ、一緒に……いたいから、私は、欲張りだから……紅蓮様との、永遠が、欲しい」
月乃は、紅蓮に笑いかけ、浅く呼吸をしながら花々に血だまりを作っていく。紅蓮は力を振り絞り月乃を抱きとめると、その紅の瞳から大粒の涙を溢れさせた。
「月乃……!」
「紅蓮様、どうか、私の願いを、叶えてください……」
月乃は紅蓮の頬を撫でた。そうして、微笑む。紅蓮は涙を零しながらも、やがて意を決したように月乃を見た。
「今ここで、貴女に永遠を誓う……月乃、愛している……」
紅蓮は月乃に顔を寄せ、自分の唇を月乃の唇へ触れさせると、血が溢れる月乃の心臓の方へ唇を寄せた。そして紅蓮は、祈りを込めながらその血を啜る。月乃は自身の体温が紅蓮と同じものへと変わっていくのを感じながら、ゆっくりと瞳を閉じていった。
◆
「月乃、起きろ、月乃っ……くそ、もう三日が経っているのにどうして目覚めない! 契約は成立したはずだろう? 俺の傷は完治しているし……何故月乃は目覚めない? 俺の血を飲ませるか? もういっそ俺の腕の肉を食べさせた方がいいんじゃないのか? どうして月乃は目覚めないんだ? いっそ俺の心臓を食べさせるか?」
「もうやめなよ紅蓮、月乃ちゃんは寝てる間に紅蓮の血を飲ませ続けられてるんだから、下手したら逆流するよ?」
「では逆流して月乃が目覚めない可能性も? なら今すぐ吐かせるべきでは? それとも俺が月乃の血を吸えばいいのか? どうすればいい? どうすればいいんだ!」
「うん、どうだろうね、なるようになるよ」
「……月乃、月乃アアアアアア!」
控えめに胸元を叩かれ、頭に響く声で瞳を開く。目を覚ました月乃がぼんやりと目の前の景色を捉えると、紅蓮が顔を覗き込み、その後ろで江見湖が呆れたように立っているところであった。
天井は見慣れたもので徐々に意識が覚醒し、月乃は暗道の屋敷に戻ってきたことに安堵をしていると、紅蓮に抱きしめられた。
「月乃だ! 月乃が帰ってきた! 月乃だ。神はいたんだ! 月乃!」
子供がぬいぐるみを抱きしめるように、紅蓮は月乃に抱き着いた。月乃はそんな紅蓮の背中に手を回し、無意識でさするようにしていると、江見湖は呆れたようにしてため息を吐いた。
「月乃ちゃんねえ、三日寝てたんだよ。身体が人間じゃなくなってくから、まあ当然のことだし、よく知られてることなんだけどさあ……まぁ、紅蓮の血が強いってのも、あるだろうけど……」
「月乃、月乃、月乃、月乃だ……月乃、月乃。ああ、月乃が帰ってきたもう二度と離さない。絶対に守り抜く。そのためには何がどうなろうと構わない国なんて全て燃やし尽くしてもいい。月乃が安全ならばそれが平和だ。そうだそうしよう。他人は信用できない。月乃以外の生物は全員敵だと考える方が早くて確実だ。全て焼き尽くして、二人だけで生きていけばいいんだ。しかし医者は残すべきか……いや、俺が医者になればいい。そうだそれがいい。医者だって信用できない。俺が月乃の体調を管理し、月乃の飲む薬を調合すればいいじゃないか。ならやっぱり全員不要だ。俺と月乃以外消してしまおうそうしよう。月乃……月乃だ……」
紅蓮は虚ろにただ月乃を呼びながら、月乃を抱きしめ続ける。江見湖は「だからもう、そのままで聞いてほしいんだけど」と話を続け、月乃は今はただ黙って聞くことにした。
「とりあえず、君を攫ったお姉さんと廃太子くんについてからなんだけど、平民として暮らすんじゃなくて、西の重罪人の入る監獄行きになったから。もう一生会えないよっていうかもう」
「え」
「王家で封印されてる呪具の持ち出しと、紅蓮……こう見えて国の要人を殺そうとしたからね。元々紅蓮は御令嬢の家より偉いからさ、いわば国家に反逆したのと同義なんだよ。しかも呪具は所謂使い捨てでさぁ、使用を終えると灰になっちゃうんだけど、王家に伝わってるのは往復可能の移動用の布……月乃ちゃんが攫われたとき闇のどろどろしたのに攫われたでしょ?」
江見湖の言葉に、月乃は黒い靄に包まれたことを思い返し、納得して頷いた。
「はい。突然身体の周りを囲まれ、気がついたら目が開けられなくなっていて……」
「あれと、紅蓮が撃たれた銃、そして鉄杭の三つなんだけど、謂わばその三つを勝手に持ち出した挙げ句全部駄目にしたわけだから、それだけで十分すぎるくらい国に背いてるんだ。だから、まぁ仕方ないことだよ」
江見湖は笑いながらそう言って、「ああ、あとは」と付け足した。
「ああ、月乃ちゃんの使った鉄杭は大丈夫だよ。一応あれは未使用扱いだったんだけど、紅蓮が焼き尽くして、それも紛失物として処理されてるから」
「え……」
月乃が驚き、紅蓮を見ると「あんな危険なもの、あのままになどしておけるか」と低く唸った。江見湖は溜息を吐いて、月乃を見る。
「それで一連の事件の原因なんだけど、月乃ちゃんのお姉さん……、罪人真里はさあ、王家の軍人のこと、たらしこんだらしいんだよね」
「お姉さまが……」
「うん。それでその軍人が真里に気に入られようと家族の話題をふってるうちに、月乃ちゃんのこと教えて、最悪なことにその軍人が呪具の警備も任されたことがあるやつでさあ、廃太子の入れ知恵も手伝って、こんなことが起きたらしいんだよね」
「なるほど……」
以前から、真里を慕うものは多かった。月乃にとって江見湖の話は納得できるもので、静かにそれを受け止めていく。しかし紅蓮は納得がいっていないらしく、怨念を込めるような声で呟いた。
「俺が、もっとしっかり月乃を見ていれば、手を離さなければ、良かったのに」
呪詛を吐くような声に、月乃は困ったように江見湖を見る。江見湖は「何度も言ってるんだけど……」と前置きをした。
「呪具はさぁ、吸血鬼に対抗するためのものだから、移動用の布とかは吸血鬼が感知できないようになってるんだよ。でも紅蓮は布が現れたことを感知できなかったことを悔やんでいるみたいで……」
「紅蓮様……」
「俺のせいで、月乃は危ないところだった。死んでいたかもしれない……あの時手を離さなければ……」
紅蓮は縋るように、自分の中に囚えるように月乃を抱き込む。そんな紅蓮を見て、月乃は気持ちが落ち着くようにと自らも紅蓮を抱きしめる力を強くした。
江見湖はそんな二人の様子を見て、ほっと安堵するようにして「じゃあ僕は王家に報告があるから」と月乃に手を振り、部屋から去っていく。月乃は紅蓮の肩越しに会釈をして、紅蓮をさらに強く抱きしめた。
◆
豪華絢爛な装飾がされる部屋のバルコニーに、ローブに身を包み、フードを深く被った男は降り立つ。そして一息吐いてから、フードを取り去り亜麻色の髪を整えると、中であれこれと箱に囲まれ着物を見繕う男――この国の国王に声をかけた。
「全部終わりましたよ」
「ああ。ご苦労だった。江見湖」
国王は潤色の髪を鬱陶しそうにかきあげると、青みがかった紫水晶の瞳を気だるげに江見湖に向けた。しかしその手元はせわしなく着物を選定したままだ。江見湖は国王の様子を気に留めることなく淡々と話を始める。
「まず、呪具についてですが吸血鬼の目を眩ませ移動できるあの布は、廃太子と真里の手によって灰となりました。そして当初の計画であった紅蓮に破壊させる予定の杭と銃ですが……」
「ああ、報告は来てる。銃から放たれた弾丸は紅蓮に当たり両方ともその役目を終え、杭は娘が自決に使用した後、紅蓮が破壊したんだろ」
「はい」
国王は、俯く江見湖を肯定するように笑った。
「まぁいい。呪具が破壊できたんだ。これで廃太子の失態により呪具が破壊されたといういい筋書きが出来上がったまま、この国の膿を全て取り除くことができる。」
国王は机を軽く示した後、また箱を広げ着物を確認していく。江見湖は思い出したように「ああ」と付け足した。
「侍女月乃には、姉と両親、廃太子も死んでないよう言ってしまいましたが問題ありませんか? 紅蓮には自分から殺しに行きかねないので、始末したことは伝えていますが……」
「構わない。紅蓮も侍女の耳には入れたくないだろうしな。お前もそう思うだろう?」
「まぁ、赤子くらい丁重に扱ってますからね、赤子にお前の両親も姉も苦しみの末に死んだなんて、言わないでしょう」
「それにしても、来年は軍人を多めに取らないと、蜂矢家に関わった軍人は皆燃やされたことだし」
国王は溜息を吐き、着物を選び終えると、小脇に抱え立ち上がった。
「じゃあ俺はこれから、恋人のご機嫌取りに行かなくちゃいけないから」
「付きまといの間違いではなくて?」
「言ってろ」
男は喉の奥で笑いながら扉へと向かっていく。江見湖が「行ってらっしゃいませ」と軽い調子で別れの挨拶を告げると、国王は軽く手を挙げ、その部屋を去っていった。
その背中を見送り、江見湖は大きくため息を吐く。
吸血鬼に対抗する呪具。数多あったそれらは時間の流れと共に破壊を受けて減り、使用できるものは三つとなっていた。しかしそれも、一つは廃太子により朽ち果て、最後の残り二つは紅蓮が破壊した。
呪具の破壊は、江見湖が国王から極秘裏に託された重要な任務であった。
かねてより呪具を疎ましく、何とかして自分の代でそれを破壊することを自分の使命としていた国王は、その呪具を破壊できるほどの力を持つ吸血鬼にして、国境の守りを任されている紅蓮に目をつけていた。
しかし紅蓮は毎日を淡々と過ごし、何にも興味を示さず、ただひたすら国を守ることに尽力し、かといって国に忠誠もなければ、野心があるわけでもない。目的の全く見えない男であった。
それは幼い頃から紅蓮を知っている江見湖も同じで、紅蓮の求めているものが何かわからず、さらに紅蓮には安易な気持ちで物を頼めない危うさもあり、呪具の破壊を命令することは容易ではなかったのである。
しかし、そこに月乃が現れたのだ。
紅蓮は月乃が没落したと知るなり豹変するように、まるで水を得た魚のように月乃に尽力し始めた。一方月乃の姉真里は廃太子と共に屋敷の一室へ軟禁された。そして国王は、今回の計画を思いついたのだ。
廃太子と真里に月乃を攫わせるよう唆し、呪具を使わせ、月乃を襲うように仕向けようと。
そうして紅蓮に月乃を救わせ、その過程で呪具が破壊されれば、あくまで元王族の人間が私的な理由で呪具を持ち出し、吸血鬼に害をなそうとしたという構図が出来上がる。国王にとって、素晴らしいシナリオであった。
そして国王は江見湖を呼びつけ、真里の部屋に向かわせ唆すよう命じ、女に弱そうな、そして以前呪具を管理していた軍人にも変装させ、廃太子と真里の部屋に食事を運ばせる係になるよう速やかに手配した。
そして江見湖に、紅蓮と月乃を人間が入り乱れ、気配の察知が難しい劇場へと誘き出させ、攫わせたのである。
しかしここで三つ、想定外のことが起こった。まず一つは攫われた月乃を紅蓮が驚異の速度で探し出したことだ。呪具で気配を消し、そこから月乃を辿ることは不可能なはずなのに、紅蓮は匂いを嗅ぎ分け飛ぶような速度で月乃のもとに移動したのである。
月乃が運ばれた場所は江見湖は知っていたが、物事には段取りがある。救援を呼ぶ速さも紅蓮に怪しまれてはいけない。本来なら紅蓮と共に月乃が攫われた場所に行くはずが、置いて行かれてしまったのである。
二つ目は、紅蓮が江見湖や軍人に炎を向けたことであった。元はといえば江見湖が渡した招待券のせい、となることは江見湖も想定していた。しかしその場で炎を向けるほど紅蓮が怒りで我を忘れるとは想定していなかった。あの時、月乃が止めなければ間違いなく自分は死ぬどころか、屋敷ごと紅蓮は燃やし、あたり一体焼け野原になっていたはずだった。
そして最後に、月乃と紅蓮が契約をしたことだ。江見湖も国王も、暗道の血が受け継がれていくことを願っていた。しかし、まさかあの場で紅蓮が撃たれ、月乃が自決して見せることで契約を紅蓮にさせるとは思っていなかった。月乃がたとえ頼んでも、理由をつけて断り続けるか、それこそ月乃が老成して、死が近くなるまで紅蓮は絶対に契約をしないと思っていた。それほどの覚悟を紅蓮は月乃に持っていたはずだった。
しかし、二人は契約を果たした。
江見湖は、自身に二人の幸せを祈る権利はないと自分で思っている。江見湖は自分の目的のため国王の命に動き、二人を利用した。
そしてそのことを悪いことだと知識としては判断しているが、悪いことであると江見湖は受け止めていない。目的のためならば、手段は選ばない。江見湖はそう決めて生きている。生きているからこそ、今まで多くの屍を乗り越え、こうして国王の命に応じて、友とその想い人を売ったのだった。
「それに、僕なんかが祈らなくても、二人は幸せになるだろうしね」
江見湖は、思い出すように笑い、空を見上げる。その空は晴れ晴れと澄み渡り、雲一つない青空が広がっていた。
◆
一方、澄み渡る青空の下、紅蓮は未だ月乃を虚ろな瞳で呼びかけ、抱きしめ続けていた。
「月乃月乃月乃月乃月乃月乃月乃月乃月乃月乃月乃月乃」
「紅蓮様……私は生きてますよ」
月乃は「ほら、聴こえるでしょう?」と紅蓮の手を自分の胸に触れさせる。すると紅蓮は気落ちするように、恨めし気につぶやき始める。
「だが、俺は貴女を吸血鬼にしてしまった……貴女は一生俺なんかの血を飲まなければ生きていけないんだぞ……しかも俺は生きて貴女に血を与えるために、高貴な貴女の肩に牙を立てるんだ……死にたい。しかし生きなければ貴女に血を与えられない。ああ、ただの血液を供給するだけの肉塊になりたい……。ただの血液を供給する存在となって貴女を支える。それでも俺は幸せを感じる。貴女の役に立てていると喜んでしまう駄目だ罰にならない……今ですら貴女が俺の血で生きていることに俺は喜びを感じてしまう最低な奴なんだ死ねばいいのに。しかし俺が死ぬと貴女を殺すことに繋がってしまう……うううどうすればいいんだ……月乃……月乃……」
紅蓮は呻くようにして、また月乃の身体に自身の頭を沈めた。今まで月乃はこういった紅蓮の姿を見たことはない。しかし自分がいないとき、もしかして紅蓮はこんな感じであったのだろうかと月乃は想像する。そしてあやすように紅蓮の背中をさすった。
「でも、私は嬉しいです。紅蓮様と一緒にいられて。紅蓮様と離れずに済んで」
月乃は、かつての自分を思い返す。今まで月乃は、母以外に恋しいと思う人間はいなかった。恐ろしいこともなかった。ただ自ら死ぬということがなかっただけで、生きていた。謂わば、死んでいないだけのような状態であった。生きていることに、苦しいこともなければ、楽しいこともない。月乃にとって人生は、ただ平坦に続く道を歩いていくことと同じだった。
しかし紅蓮が現れ、色が付き、起伏が付いた。景色が生まれた。そして、ある時は前を、そして今は隣を紅蓮が歩いている。紅蓮と出会い自分に感情があることを月乃は思い出し、自分に欲求があることを、何かを求めそして与えたいと願う感情を得たのだった。
今月乃が、思うことはただひとつ。紅蓮に対しての愛おしさと、これから二人、永遠にともに在れるという希望だ。
月乃は今まで、未来が明るく見えることはなかった。期待をすることもなかった。どう過ごしていても未来は来るもので、期待をしようが何をしようが無意味だとそう思っていたからだ。しかし今の月乃は違う。紅蓮と共に歩く未来に、喜びを抱かずにはいられない。
「私は、紅蓮様が好きです。紅蓮様との永遠が約束されている今が嬉しくて仕方ないです」
「月乃……」
「だから、私を吸血鬼にしてしまったなんて言って、暗くならないでください」
それまでじっと沈んでいた紅蓮の顔が、ぱっと明るくなる。紅蓮の顔を見て、花が咲いたようだと月乃は思った。
「俺も、貴女が好きだ。大好きだ。愛している。月乃。俺と共に永遠に生きてくれ……」
「はい、紅蓮様……私も紅蓮様を愛しています」
紅蓮の唇が、月乃に近づく。二人は共にあることを実感するように、隙間なく互いを抱きしめあい、唇を重ねあった。
◆
暗道家の当主が凶弾に倒れた事件から半年、暗道の統べる街はまたとない祝いの声で盛り上がっていた。
街ではどんな建物もその屋根が花々に飾られ、道を歩く子供たちですら沸き立ち、嬉々として駆け回る。そんな子供たちを見つめる老若男女問わずの大人たちも、どことなく浮かれた気持ちで笑みをこぼしていた。
そうして、祝いを捧げる対象はたった一つ、紅蓮と月乃の結婚式だからだ。
その発表が公的に為されたとき、領民は驚きと喜びに沸いた。というのも紅蓮はかねてより婚約者をつっぱね続け、挙句の果てに次に自分に婚約者を勧める人間はこの地を追い出すと言い、婚約を打診した王家を「屋敷どころかあたり一体燃やす」と脅迫し、さらに自分は誰とも婚姻を結ばない、時が来たら継ぐものを選ぶと宣言していたからだ。
紅蓮にとってそれは当然のことであったが、周囲の人間にとってはたまったものではない。自身の屋敷に誰も入れない、何を考えているかわからない、厳しく恐ろしい主であっても、独身宣言をしたり婚約を勧める人間を脅す以外の行動は正しかった。
だから誰しもが紅蓮の直系の後継を望んでいたのである。しかし、紅蓮の意思は頑なで、誰しもが当主の婚姻を諦める中、突如紅蓮は「幼い頃からずっと想っていた女性と結婚する」と発表したのだ。
相手が平民であったから今まで結婚できなかったのか、それで何かがあって結婚できるようになったのだろうと皆は納得したのである。そしてその頃には、月乃の真実が周知されていたというのも、祝いの要因の一つである。
はじめ、月乃の素性について、誰も知らなかった。暗道の当主が侍女を一人呼び寄せたことは皆知っていたが、みなそれが廃太子を寝取った女の妹だとは、当然思わなかったのである。
しかし紅蓮が撃たれた事件によって、暗道へ奉公に行った妹を脅迫した挙句。当主を撃ち殺そうとした罪人真里について大々的に新聞の記事に取り上げられ、月乃の素性は一気に広まった。
さらに、その記事には罪人真里が妹である月乃に行った数々の犯行……腹を蹴りつける、平手打ちを行うなど、大人が子供の目に触れさせることを躊躇うような、残虐な仕打ちや、過去の所業についても詳細に記されていたのだ。
平民の女性が、月乃。そして王太子を寝取った女の妹も、月乃。 そして月乃は、どうやら虐げられていた様子。
領民の中では推理劇と妄想大会が開催された。
令嬢だった月乃はさすらいの紅蓮と恋に落ちる。しかし自身の家族が劣悪であることを誰より分かっている月乃は、そっと身を引く。月乃と紅蓮はその間ずっと互いを想いあっていた。
そんなある日、月乃の愚かな姉真里が王太子を誑かし、月乃の家は没落する。悲しみの淵に立つ月乃に手を差し伸べたのが紅蓮だった。二人は主従として繋がれる中で、かつての恋は再燃し、その末に結婚した。
という新聞の読者投稿欄で名を馳せ職人と呼ばれている者の投書が有力視され、今ではそれが真実であるかのように語り継がれている。
そして月乃の風評は、王都でも回復しつつあった。貴族たちは月乃がいつも流行遅れの服を着ていたことや、その印象がほぼないこと。姉から一度も妹の話を聞かないこと、身体に痣をつけていたことを口にし始め、広まり始めた。
平民による月乃が紹介所の、決して衛生面では整っているとはいえないところでも平気で寝泊まりしていたこと、味も質も悪いものを平然と食べていたこと、汚れを気にしていなかったという平民たちの言葉も、噂を補強するように働いた。そうして月乃に対する周囲の認識は、加害者の妹から可哀想な関係者に変わっていったのだ。
そんな悲劇の女性月乃が白無垢に身を包み嬉しそうに見つめるのは、同じように婚礼の衣装をまとった紅蓮であった。
「なぁ、変じゃないか? 大丈夫か? 俺はきちんと貴女の隣に相応しい状態になっているか?」
紅蓮はおろおろとして、身体を左右に揺らしている。
「素敵です」
「うっ、そ、そうか……あ、貴女は世界で一番美しいし、か、可愛いぞ」
「ありがとうございます」
紅蓮は唇を噛むようにして月乃を見る。
今月乃と紅蓮が立っている神社は、紅蓮が七日間をかけ作った手製のものである。しかしその造りも装飾も王都のどの神社よりも立派なもので、何かあったらいけない、万が一にも備えたいという紅蓮の想いによって、相変わらず不要な軍事施設ほどの強度を持っていた。
このあたりには、由緒正しき神社がいくつもある。にもかかわらず何故紅蓮が神社を新たに建てたかといえば、「月乃との結婚式なのに他人の手垢がついた式場で結婚式を挙げたくない」という神主が聞いたら絶句してしまうような理由からだった。
月乃がそんな紅蓮に屋敷で式を挙げることを提案すると、「俺と貴女の住まいに男を入れることなんてしたくない。ただでさえ江見湖だって屋敷に来るたび殺したくなるんだ」と抑揚のない声で紅蓮は言い放ち、月乃は神社の新設が紅蓮の負担にならないならと頷いた。
「綺麗すぎて、誰にも見せたくない。やっぱり俺と貴女、全員に目隠しをさせるべきでは……?」
紅蓮は「布ならすぐに用意できるだろう、最悪俺が編む」と言って、今にも糸や布を求めて買いに行きそうな様子で月乃に提案する。しかし月乃は首を静かに横に振った。
「駄目です。式が遅れてしまいますよ」
「む……」
月乃の言葉に、紅蓮は少しだけ眉間に皺を寄せる。すると月乃はそんな紅蓮に寄り添うようにして隣に立った。
「それに、私は早く、紅蓮様と式を挙げたいです」
「う、う、それは俺も同じだ。早く月乃と結婚したのだと皆に、いやこの世界の生き物に知らしめたい……誰にも、俺しか手の届かない存在だということを知らしめて……」
紅蓮は顔を赤くしながら、僅かにほほ笑む。その瞳は執着の色に似た昏さもあるものだ。しかし月乃は紅蓮がどんな表情であっても愛おしいと感じ、その胸をときめかせる。
「私は、もうずっと、貴方のものです」
「好きだ。結婚してくれ」
月乃の言葉に、紅蓮は即座に返事をする。しかし紅蓮は無意識だったらしく「あっ、今のは正しい気持ちだが、もっと気持ち悪くなく言う気だった!」と焦りだした。
「もう結婚しますよ。気持ち悪くないですし……どんな紅蓮様も好きです。だから……」
「だから……?」
紅蓮は何か、恐ろしいことを言われるように怯える。そんな紅蓮の手をそっと握り、月乃は紅蓮の顔を見た。
「どんな紅蓮様も、全部ください」
「……月乃」
紅蓮は月乃の目を見つめ返す。そして、月乃に向き合うように立つと、少しだけ屈んで、さらに月乃と視線を合わせた。
「俺の全部は、貴女のものだ。初めて会った時から、そしてこれからも、永遠に」
紅蓮はそうして、月乃の唇に、自身の唇を重ねる。そして、もう一度と唇を近づけようとしたとき、
二人を呼びかける声が響いた。
「紅蓮様、月乃様、お時間です」
紅蓮は名残惜しそうに月乃から顔を離し、扉の向こうへ返事をした。紅蓮がおろおろしていると、月乃が「式が終わったら、続きをしてくれませんか」と恐る恐る問う。
「当然だ。というかどうしよう、式は楽しみなのに終わった後も楽しみだ、どうしよう」
「私もです。なのでどうしたらいいかは、式に向かっている間に考えましょう」
「ああ」
紅蓮は頷くと、改めるようにして月乃に手を差し出す。
「では、行くぞ。月乃」
「はい、紅蓮様」
月乃と紅蓮は手と手を取り合い、歩いていく。視線の先はまばゆい光が燦燦と降り注いでいる。暖かい、祝いの光を受けながら、月乃は紅蓮と繋ぐ手をぎゅっと握りしめると、紅蓮もそれに応えるように月乃の手を握る力を強める。
そうして月乃は、これから先の未来にいっぱいの希望と期待を膨らませながら、紅蓮と共に、光に向けて歩いて行った。
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