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没落令嬢は侍女として愛執貴族の重愛を受ける ~元の契約改定って本当ですか!?~前

※2018年12月19掲載【連載版】没落令嬢は侍女として愛執貴族の重愛を受ける ~元の契約改定って本当ですか!?~  没落令嬢は侍女として侯爵吸血鬼の重愛に囚われる 他の改稿版をし前後編に分けたもの──の関連作である某キャロラインの物語が年齢制限有のコンテストで銀賞になった関係で、権利関係が複雑にならないよう、世界観と人物を若干変更しました。某伯爵も侍女の彼女も、精神性は変わっていません。よろしくお願いいたします。


「元気になーれ、元気になーれ」


 幼き少女、月乃(つきの)は身体に似合わぬ大きな如雨露(じょうろ)を抱え、自身の家の……蜂矢家の庭園の花々に水をやっていた。空高く昇っていた太陽はその身を沈め、咲き誇っていた花々は影を落とすばかりで、彼女は目を凝らしながら満遍なく花々に水をかけていく。


「前は、もっと大きなお庭だったのになぁ……」


 自身の身の丈ほどの小さな花壇を見つめ、月乃はため息を吐いた。


 今年、蜂矢家の庭園は撤去されてしまった。理由は月乃の異母姉、真理(まり)の「花に寄って来た蜂が恐ろしいから、全てなくしてほしい」という言葉であった。


 花壇に近づく蜂は、花の蜜に吸い寄せられるもので人を襲うような種類ではない。なにより蜂は蜂矢家の象徴のはず。月乃は弁解したが、姉を慮ることは出来ないのかと父や継母に叱咤され、庭園の花々は軒並み撤去、庭師は解雇されてしまったのである。


 よって、月乃は焼却炉に残った花々を寄せ集め、家族と他の使用人が見つけられない場所――屋敷の裏手でこうして小さな庭園を作り上げていた。


(お母様は死んでしまった。お父様は新しいお姉様とお養母様と、きちんとした家族になりなさいと言う。けれど、私は別に意地悪がしたくて花壇を潰さないでと言ったわけじゃないのに……)


 月乃は如雨露を持つ手を握りしめる。彼女の母は、二年前に病に倒れ亡くなった。


 それから半年ほど経過した頃、蜂矢当主は新しい母とその子供を迎え入れた。二人は元より当主が妾として囲っていた女性で、その娘は月乃の腹違いの異母姉だった。


 月乃は二人と仲良くしようとしたが、前妻との子である月乃を新しい蜂矢夫人は疎んだ。異母姉である真理は月乃に対して、自身の母を奪われ愛情を二分されると考え、彼女を嫌った。


 よって普段から月乃は二人の手によって虐げられ、その存在によって家庭に不和が生じると、実の父であるはずの当主にはいないもののように扱われていたのである。


 そんな月乃を癒すのが、この花壇で水をやることだ。彼女は毎日、父と継母、異母姉に見つからない夜が更ける少し手前、月明かりを頼りに花へ水を与えている。昨日とは何も変わらないけれど、今日は厚い雲と強い風によって、月は姿を隠しては現れることを繰り返していた。


月乃は慣れてきた目を頼りに、水をやれていないところはないか確認していく。すると、そんな彼女の近くで草木が揺れる音がした。


「だれっ!?」


 月乃は咄嗟に後ろを振り向く。それと同時に、雲に隠れていた月が姿を現した。宙から差し込む月明かりがその手を差し伸べるように、彼女の後ろに立つ人物を照らす。そこに立っていたのは彼女より三つほど年上に見える少年だった。


「……あ、えっと、あ」


 少年は、短い言葉を漏らすばかりで何も言わない。鼻元まで伸びた前髪の隙間から、赤く光るような鋭い瞳をぎょろりと覗かせる。月明かりに照らされた肌は陶器のように白く、病を持つ人間のように青い。しかしそこからは不釣り合いな紅が、二の腕から引かれていた。


「怪我をしているの?」


 少年に対して月乃は問いかける。少年の二の腕からは、赤い血が滴り、地面にぽたぽたと雫を垂らしていた。慌てて彼女が駆け寄ると、少年は踵を返そうとした。


「やっぱり! 怪我してる!」


 月乃は血の出ている少年の腕をすばやくとって、握りしめた。こんな風に強く掴めば止血になると聞いていた気がする。彼女はかつて読んだ手当の本を思い出しながら、ハンカチを取り出して少年の腕へと巻き付けていった。


「こんな傷、放っておけば治る」

「そんなわけないわ! こんなに深く切れているのに!」


 医者を呼んだ方がいいかもしれない。月乃は考えるが、自分が呼んで素直に医者を呼んでもらえるかと思い直す。



 それならば、ここできちんと少年の手当てをした方がいいと決め、少年の深く切れた腕に視線を戻した。


 しかし少年の腕は、じわじわとその皮膚を再生させるように塞がっていく。そうして流れていたはずの血は止まり、深く切られていたはずの腕は、まるで怪我をしていたことが幻であったかのように元通りになっていた。


「どうして……」

「だから言っただろ、手当なんて必要ないと」

「でも、あんなに深く切れていたのに……」


 月乃の言葉に少年は「俺は化け物だからな」と短く鼻を鳴らした。


「化け物ってどういうこと? どうして傷が治るの?」

「えっ……」


 少年は、戸惑ったような顔で月乃を見た。彼女は少年の腕に絡まるハンカチを見て、念のためにとハンカチを巻きなおす。黙ってその様子を見ていた少年は、静かに呟いた。


「俺は吸血鬼なんだぞ」

「ああ……本で、読んだことがあるわ。吸血鬼だと体が早く治るのね。でも、こんなに早く傷が治されて、痛くはないの?」

「え……? お、俺が怖くないのか?」


 驚く少年に、月乃は頷く。吸血鬼の存在はこの国で伝説の存在とされ、人の血を吸い長く生きるといわれる異形として語り継がれている。そして、それと同時に恐怖の対象であった。


「怖いって、どうして?」


 しかし月乃は、少年に対して恐怖の感情を抱くことはなかった。別に相手の傷が早く治ったところで、何も怖いことはされていない。彼女はそう考えたからだ。


 少年は、月乃の予期せぬ反応に、彼女をまじまじと見つめる。


「そんな人間も……いるんだな……」

「ええっと……。その言葉にどう答えいていいか分からないのだけれど……」

「ああ、すまない」


 あまりにもまっすぐ見つめられ、月乃は照れて俯く。少年も目を泳がせた。


「あなたは、ここに何をしに来たの?」

「それは……」


 少年は月乃の言葉に口を噤む。彼女は少年が気落ちした様子を見て、気分を変えるように「私は花に水をやりに来たところなの!」と如雨露を掲げて見せた。


「お昼に来れば、すっごく綺麗な薔薇が見られるの! お父様たちに見つかったらダメだけれど……とっても綺麗なのよ」

「本当だ、綺麗だ」


 少年は月乃の小さな庭園を見つめる。しかしそこには丁度少年と月乃、二人の影が差しているため、昼間に見られる鮮やかな色合いは黒に染まり、常人には判別できないものだった。


「暗いんだから、何も見えないでしょう?」

「いや、俺には見える。はっきりと、その鮮やかな赤い色が」


 月乃は少年を怪訝な目で見た。影が差して、花の色なんて分かるはずがない。しかし確かに昼間、光が差せば、彼女の花壇は美しい紅色を爛漫と咲かせるのだ。


「貴方は、もしかして暗いところでも、物が見え――」


 ふいに月明かが少年を照らした。少年の瞳が光を受け、月乃は笑顔で少年の頬に触れた。


「貴方も同じ赤い色をしているわ。貴方の色も綺麗ね」

「う、わ」

「ねえ、私は月乃、貴方の名前はなんていうの?」

「ぐ、紅蓮……」


 月乃が少年の顔を覗き込んだことで、少年は身体を不自然に硬直させる。彼女が不思議そうに少年を見つめると、少年ははっとした顔をして周りを見た。


「俺は、そろそろ行かなくちゃいけない。じゃあな。月乃」

「えっ、……また会える?」

「もう会えないし……会わない」


 少年の声は、永遠の孤独を纏っているようで、月乃は少年のもとへ手を伸ばす。しかし、彼は月乃に背を向け、闇夜へと消えていった。



「貴様との婚約を破棄させてもらう!」


 国の中でも有数の権力を持つ華族たちが、一堂に会する夜会。


 この日のためにと集められた楽団が優雅な曲を奏でている中で、発された声は高らかだった。天井に吊るされた異国情緒溢れるシャンデリアからは眩い光が放たれ、まるで舞台のスポットライトの様に登場人物を照らしていく。


「自らの家の利権にしか頭にない、心なき女め!」


 一段と輝く光を受けた、この国の未来の太陽である王太子が、婚約していたはずの令嬢に対し、仇を見るような目を向けての言葉だった。一方婚約破棄を突き付けられた令嬢は、王太子の隣に立つ女を静かに見据える。女は王太子の腕を取り、勝ち誇った笑みを浮かべた。


「そして、今俺の隣にいる彼女をこの場で私の婚約者として、王家に迎え入れると宣言しよう!」


 王太子の言葉に、周囲はざわめく。


 国王に無断で自身の婚約者を決定し、勝手に発表をしている。事実上王太子はここで王位継承を放棄したも同義だ。王太子には弟が二人いる。その二人の弟はまだ幼いものの、あと数年経てば立派な第二王子、第三王子として社交界に顔を出すことになるだろう。


 婚約とは、家同士を繋ぎ結ぶもの。勝手に破棄していいものではない。ましてや王家であるならば尚更だ。しかし王太子の隣に立つ女は、まるで周りが見えていないかのように扇子を振るい、王太子の婚約者に対して不躾な目を向けた後、自分たちを取り囲む周囲の中、ある一点を見つめて微笑みかける。


 すると、社交界の人々は、次々とそちらへ視線を集中させ、一様に憐みの目を向けていく。


 皆の視線の先に立つ令嬢は、黒髪を揺らし、淡い蒼玉のような瞳でただ目の前の光景を映していた。


 虚ろな瞳で、ただじっと前を見据える令嬢の名は月乃。王太子の隣にいる女の妹、今まさに破滅が約束された蜂矢家の娘だった。



 春を祝うパーティーによる婚約破棄と名家のご令嬢への断罪劇から一月も持たずして、蜂矢家は没落した。


 元々蜂矢家は、領民による農作と工芸で税を納めている家で、後妻の娘、真理の豪遊は華族たちの顔を顰めるものであり、借金すらあった。


 その母も着物や宝石を、新しいものが出れば買い集めることを繰り返して、家を傾けることを生業としている……なんて噂されるほど。


 さらに蜂矢家の当主は賭け事を好み、愛人を何人も作っていた。しかし三人とも、己の引き際というものは確かに知っており、没落するには至らなかった。


 そんな蜂矢家が没落したのは、偏に蜂矢家の長子真理が、この国の王太子と婚約を結ぼうとしたからだ。彼女は、格上の王太子に近づき関係を持った揚げ句、王太子の婚約者である令嬢に嫌がらせを受けたと偽った。


 憤った王太子は自らの婚約者に一方的に婚約破棄を叩きつけたのだ。それも、多くの来賓が集う祝いの場で。


 そんな蛮行が許されるはずもなく、国王は速やかに自らの息子を廃太子とし、平民へ堕とし、縁のある家に奉公に向かわせた。真理は拘束され、御令嬢およびその家の怒りを晴らすため、蜂矢家から何もかもを取り上げることにしたのだ。


 領地も屋敷も何もかも、蜂矢家の持つ財産、権利、関係者からは全て奪った。使用人には罪はないと方々に散らせる形で他の職場へと斡旋をし、真理の管理が出来なかった当主と夫人は、僻地へと追いやられることとなった。


 そして残った月乃は、帝都にて放っておかれた。名家が蜂矢家からあらゆるものを奪ったために、尼寺へ入れるよりも関わらない選択の方が酷であると、そう判断したのである。


 よって月乃は屋敷を出るまで、実の父である当主、継母である夫人、そして屋敷を出入りし、家財道具すべてを引き取っていく名家の家の外の関係者たちに蔑まれ続けた。両親からは、八つ当たりを受けるように暴力を受け、家の外の関係者からはどうして異母姉を止めなかったのか、お前もおこぼれを貰う気だったんじゃないかと遠目からは睨まれ、顔を合わせれば詰られた。


 月乃は、姉に対してずっとお願いをしてきた。王太子には婚約者がいる、これ以上の行動は家が傾いてしまう。王太子の婚約者にも不敬であると。しかし姉の真理はそれを僻みと受け取り、父や母にやめさせるよう進言した。二人は月乃に「姉の恋路を邪魔したいのか」と叱咤した。「妹として、恥ずかしくないのか」と月乃に言い含めた。


 だが、家の外の関係者はそんなこと知らない。知るはずがない。彼らの目には、月乃がただ名家に背いた敵にしか見えない。


 ――若い娘なんて、どうせ身体を売らなければ生きていけない。人の男を寝取る女の妹には、当然の末路だ。ざまあみろ――


 そう、月乃を突き飛ばした御令嬢の関係者は言った。


 平民の暮らしなんて令嬢が出来るものか。まして職に就くなんて不可能だ。ダンスと社交しかできない娘がすぐに出来る仕事なんて、たかが知れているとせせら笑っていた。


 しかし、月乃は、いつか家を追い出されるのではと考え、ずっと侍女の働きについて勉強をしていたのである。


 それは、適齢期であろう年齢を過ぎ、周りの令嬢が次々に令息と婚約を結び始めてもなお一向に月乃に関心を持たない両親を見て、自分はいつか追い出されると危機感を持っていたからだ。


 決して家が没落すると考えていたからではなかったが、月乃は我が家で働く侍女を観察することはもちろんのこと、どんな働きをするのか学び、この家を追い出されたときに生きていけるよう、毎日訓練を重ねていた。


 自分の侍女に頼み、内密に侍女や下男の仕事を斡旋する町の紹介所へと連れて行って貰ったこともあった。侍女は月乃にまともな扱いををすれば夫人に叱咤されるため、表向きに彼女を慮ることはなかったが、人の心はあった為に罪悪感は人並みに抱いていた。


 だから月乃の頼みを聞き、いざとなったとき、仕事を斡旋してもらえるよう、紹介所に頼むことはしたのだった。


 そして今日。とうとう屋敷を追い出された月乃は、着替えと少しの日用品だけを持ち、街の紹介所の門を叩いたのであった。



(どうしよう、働き口が全く見つからない……)


 街の使用人紹介所の片隅、不採用と記された希望先の異なる四枚の紙を前に、月乃は顔を真っ青にしていた。彼女が紹介所に訪れて一か月。職場は一向に決まらず、彼女はただ紹介所の掲示板の前に立ち、毎週貼られていく連絡先に志願して、断られるということを繰り返していた。


(住む場所が与えられていることは、まだ救いなのかもしれないけれど、いつまでもここに置いてもらうわけにはいかない……)


 紹介所の中は簡易のテーブルと椅子が方々に置かれ、誰でも書類の記入をし、その場で面談も出来るようになっている。住む場所もなくお金もない月乃は、紹介所の閉じる晩、椅子を並べてはベッドの代わりにして、寝泊まりをしていた。


 食事は町の市場で働き、そのまかないを得ることで食いつなぎ、そこで貰ったお金を紹介所に宿代代わりとして全額支払い、見かねた紹介所の主人が時たま彼女を行水に誘い、身を綺麗にする。


 そんな風に生活する月乃を周囲は哀れんでいたが、彼女は自分に良くしてくれる周囲に感謝し、新しい職場を探すことに力を注いでいた。


 初めこそ元華族として、そして王太子を寝取った女の妹として周囲は月乃を懐疑的に見ていた。しかし彼女の異常な順応性を見て、次第に生活の知恵を施したり自分の技術を施すなど、彼女を支援する者が増えていった。


 しかし、雇われる側がそうであっても、雇う側の人間はそうではない。


 連絡や面接だけでは、月乃の人となりは理解できない。王太子を寝取り没落した家の娘を雇い、王家、そして名家に睨まれたらたまったものではないと、彼女が元蜂矢家の娘であると分かった途端、不採用の印を押されていった。


 稀に王家や名家から離れた家々もあるものの、そういった家は月乃が訓練を受けた侍女ではなく、ただの華族として温室暮らしをしていた使えない娘であると突っぱねた。


 このままこの国にいても、果たして自分のような人間を採用するような職場は見つかるのだろうか。月乃は不採用の通知の文字をじっと見つめる。その様子を周囲も心配そうに見つめていた。人々が心の中で、この子にも職が見つかるよう祈った瞬間、紹介所の女主人が黒い封筒を片手に「月乃、月乃はいるかい!」と大きな足音を立て、焦った様子で声を張り上げた。


「はい、ここにいます」


 月乃が手を挙げる。紹介所の主は彼女の前にある机に大きく手をつくと、封筒を広げた。


「あんたに、あんたにっ条件の合う職場が見つかりそうなんだよ!」

「え……」


 紹介所の主の言葉に、月乃だけじゃなく周囲にいた職を探す人々もどよめいた。今まで連戦連敗、誰よりも職を探し、誰よりも不採用を受けていたあの月乃にとうとう職が見つかるかもしれない。人々は顔を見合わせながらも、彼女と紹介所の主が並び立つテーブルを囲っていく。


「辺境に屋敷を構える暗道(あんどう)家が侍女を募集していてね、年齢は十六! それであんた冬生まれだろう?」

「はい、冬生まれです」

「それで、暗い色の髪! 背丈はあんたくらい! 気性が荒くなく! 働くことだけを好むような女!」


 紹介所の主が、月乃の条件に合った文言を発するたび、周囲は歓喜の声を上げていく。


「これを見たとき、真っ先にあんたに合うと思ったんだよ、それで待遇やら仕事内容なんて見ずに来ちまったんだけどさあ、まぁ侍女の仕事だろう? 辛いことなんて、雪が降って寒いのと帝都への行き来が大変くらいなもんだけど、あっちはあっちで発展してるらしいからねえ」


 笑みを浮かべ、封筒からまた一枚一枚紙を取り出していく紹介所の主だが、次にめくった書類を見て、顔を青くした。その空気を敏感に察知した周囲は、揃えるように口を閉じる。


「給料は……帝都の給金の半分……そして、以下の契約を守れなければ即時解雇と処し、帝都へと送り返すものとする」


 紹介所の主の言葉に、その場にいる全員が黙った。月乃はこれから先に言われるであろう契約を絶対覚えなければ、という緊張からであったが、周囲はやっと職が見つかったであろう月乃に、神はここまで非道な行いをするのかと哀れんだ。紹介所の主は書類をじっと見つめると、口を開く。


「一、主人が帰屋敷するまでに業務を終え、自分の部屋に立ち去る。自分の姿を見せないこと


 二、主人の自室には絶対近寄らないこと


 三、万が一、主人に出会ったとしても、無視をすること


 四、侍女業務を逸脱する行為を行わないこと


 五、間違っても親交を深めようと行動しない、思わないこと」


 駄目だ。紹介所の、月乃以外の人間が察した。


「そして、以上の契約を遵守した場合であっても、侍女として不適格だと判断した場合は、即時解雇と処す……以上。……月乃、どうするんだい。これ、行ってもあんた下手したら酷い目に……」

「行きます、行かせてください」


 紹介所の主の言葉に、月乃は素早く返事をする。彼女は今まで、人に親切に接してもらった記憶が殆どない。幼き頃自分に優しくしてくれた母は死に、それまで帰ってこなかった父は、母が死ぬと妾とその子供を連れ、彼女に冷たく当たり、継母と異母姉となった二人は月乃を虐げた。


 しかし、紹介所の面々は、はじめこそ月乃に対し避けるような振る舞いをしていたが、彼女を虐げることはなく、徐々に自らの技術を与えるなど温かく接するようになった。


 月乃は、やっと周囲に恩返しができ、そして自立できるのだと、目の前に提示された条件を晴天の霹靂のように捉えていた。


「私、暗道家の侍女として、しっかりと勤めてまいります」


 月乃の宣言に、周囲は穏やかに微笑む。しかし全員、彼女を祝福しているわけではなかった。


 月乃は、きっと暗道領に出発して、到着直後に引き返すことになるか、もしくは到着して三日経たずで帰ってくるか、そのどちらかだ。しかし自分の仕事が見つかったと目を輝かせ、あまつさえ自分たちに感謝する彼女に、酷なことを言える人間はいない。紹介所の面々は彼女が戻ってきたとき、せめて温かく迎え入れようと心に留め、祝福をしたのだった。



 それから五日経った朝、月乃は暗道領へと出発した。領までは、暗道家の手配した辻馬車で向かうこととなり、彼女は紹介所の面々に見送られながら発った。


 崖を下り、山を登り、何度も大橋を超え馬車に揺られること十日。


 とうとう月乃は暗道領へと到着した。領内は紹介所の主が話をしていた通り、帝都と独立した都が築き上げられていて、周囲が山々や崖に囲われている以外は、帝都と寸分変わらないような景色だ。


 そんな暗道領の街を抜け、月乃は地図を頼りに暗道家の屋敷へと歩いていく。


 月乃が仕える暗道家は、辺境にて他国からその土地を、ひいてはこの国を守ることを名家から任されている家だ。軍を持ち、その当主はその軍の最高指揮権を与えられており、領民は軍に入り国に仕えるものの他に、街を栄えさせ生計を立て暮らしている。


 しかし暗道家は領地の中心部からも遥か遠い、国境近くの崖のようになっている場所にその屋敷を構えている。背後には海が広がり、崖の下は墓地で囲まれていた。そういった周囲の状況から「果ての孤屋敷」とも呼ばれ、中心地から墓地の間は深い森もあり、その手前は牛や豚などの動物を捌く場所ということで、周囲は血の匂いが絶えず、その権威に反して近寄りがたい場所となっている。


 そんな場所を、特に臆することなく歩いてきた月乃は、頭を捻りながら歩いていた。先ほどから、おおよそ人らしき生き物の気配を彼女は感じ取っているが、その人の気配こそ問題だった。


 月乃は領地に入ってすぐ、出会った老夫婦に道を尋ねていた。そして、「どんどん人気のない場所に行けば、それが合っているってことだよ。ここら辺に近いところに出ちまってたら逆走してるってことだから、誰かに聞きな。人がいないのが正解だよ」と教えてもらっていたことで、どんどん自分の方向感覚に不審を抱いていた。


「本当にこの道で合っているの……?」


 昼間だというのに空には木々が生い茂り、光一つ射さない。木々の隙間からは波の音、そして遠目に墓地があるが、それは前も後ろも同じ。月乃がまた地図を見つめ進んでいくと、やがて視界が開けてきた。だが、木々が無くなり視界を遮るものは無くなったはずなのに、じめついた、淀んだ空気が周囲に漂っている。周りの木々は枯れ果て地面に身を落とし、色を変え水分を全て奪われたような乾燥した木々が、彼女の足元の音を鳴らしていく。


「合ってる……みたい?」


 しかし月乃は廃れ、恐怖すら抱きかねない土地を見て、景色とは正反対に心を明るくしていった。足取りも覚束ないものから軽やかなものに変わり、彷徨い歩くような歩みは、意思を持った強いものへと変わっていく。とうとう、目の前には荘厳な屋敷が現れた。


 屋敷は、外装が全てが黒で統一され、黒の形を描くように所々濃い鼠色で縁取られている。門は薔薇の彫刻によって飾られ、門を覆うような蔦には、きちんと棘まで施されていた。躊躇いがちにその門に手をかけると、まるで月乃を待ち構えていたかのように門が開いた。


 中は大きな噴水がその水を轟かせ、噴水を囲うように様々な色の薔薇が爛漫と咲き誇っている。そのまま月乃は進んでいくと、屋敷に入るための、それはそれは大きな扉が見えてきた。大きな木板に青みがかった紫水晶があしらわれ、一目見ただけで息が漏れるような豪胆な装飾に彩られている。なるべく傷を着けないよう、恐る恐る扉の取っ手に手を伸ばすと、彼女がそれを掴む前に、独りでにその扉は開いた。


 月乃は咄嗟に一歩後ずさる。しかしその扉は押し扉ではなく引き戸で、扉を引いた主は陰からすっと姿を現した。


「あ……」


 そこにいたのは、月乃が今まで見た誰よりも背の高く、声も低い男だった。


 闇を纏うような黒髪を左右に短く流し、切れ長の瞳は血のように赤く、月乃を値踏みするように見つめている。月乃がそんな男の様子に戸惑いを示すと、薄い唇に僅かに震えた。


「この屋敷に勤める侍女だな」

「は、はい。そうです。月乃と申します。本日からよろしくお願い致します」

「……」


 男は静かに月乃の顔を見ると、彼女から書類を受け取り、一枚ずつ捲り中身を入念に確認し始めた。そしてその中から契約における規定の紙だけを抜き取り、目の前でぐしゃりと潰して見せると、扉の傍にあった燭台に焚べた。紙は瞬く間に燃え上がり、灰となって散っていく。


 突然の凶行に月乃が絶句していると、男は鼻で笑った後、意地の悪い目つきで月乃を見据えた。


「悪いが、この規約書は何らかの手違いで古いものが送られていたようだ。今この屋敷での規定とは大きく、それはそれは大きく異なっている。しかし、それはこちらの落ち度といえど、私に使用人として仕えるのはそちらだ。この屋敷で仕える以上、そちらは俺の言うことには従ってもらう。いいな」

「はい」


 月乃は、内心震えた。即解雇というあの規約は、特に仕える人間に対して興味を持たなければいいと考える彼女にとって、脅威ではなかった。しかし、新しいものは更に厳しくなっているかもしれない。姿を見せればすぐ解雇という、横暴な契約の可能性だってある。彼女は恐る恐る男の差し出す契約書を手に取り、中身を確認した。


 一、主人が屋敷内にいるときは、必ず見える範囲にいること。また職務上離れなければならない場合、声をかけること。


 二、何かあればすぐ主人に報告すること。そして気になることを見つけたら話すこと。報告連絡相談の遵守。


 三、食事は共にとり、同じものを食べること。


 四、屋敷内に主人以外の人間がいた場合、無視すること。


 五、屋敷に主人以外の人間が訪れた場合絶対に応対しないこと。身の危険を感じたらすぐさま与えられた銃で撃ち殺すこと。


 六、屋敷の外へ許可なく出ないこと。


 月乃は、目の前の契約書に唖然とした。


「これは……」

「それが新しい契約にあたっての規定だ。なお、受け入れられないようなら帰ってもいいが契約不履行として罰金が発生する」

「ばっ、罰金!?」


 月乃が声を上げると男は怯み、「そちらが仕えれば何も罰金を求めたりはしない……!」と咳ばらいをしつつ答え、「ああ」と付け足すように彼女を見据えた。


「名乗ることが遅れた。私の名は暗道紅蓮(ぐれん)、この屋敷の主で、今日からは、お前の主だ」



 二階の回廊へと階段が枝分かれをするように伸びる暗道家の大広間で、紅蓮の瞳が、月乃を鋭く射貫く。その、紅く燃え上がるようでありながら、その奥は心から冷え切っているような瞳を見て、彼女は気持ちを引き締め、持っていた鞄を持つ手をより一層強く握りしめた。


 この方が、今日から私の仕える御方……。絶対に、失礼のないようにしないと……。


 月乃は、この契約が危うさを孕んでいることは、十二分に理解していた。


 給料が帝都の最低額の相場にすら見合わないこと、そして契約に関する条件。


 主人との交流の一切を断つような契約規定は、主人が使用人と顔を合わせなくて済むように、というものだけではなく、人と顔を合わせなくて済むほど完璧な仕事をしろ、という意味だと月乃は解釈した。


 まだ、まともに働くことすら出来ていない自分が就いていい仕事ではないことは、痛いほどに分かっている。それでも可能性があるならと、月乃はここへやって来た。


 しかし、実際の契約規定は、使用人に対して甘いもの。


 さらに家令ではなく、屋敷の主人が現れたのだ。使用人としての力量を試されているのかもしれないと、月乃は、じっと紅蓮の出方を伺う。


「そちらは、もう、仕える心づもりは出来たか。もう仕事の説明を始めてもいいか?」

「は、はいっ。よろしくお願い致します!」


 返事をして、月乃は気づいた。紅蓮が先ほどから、ずっと自分のことを呼ばないことに。普通、屋敷の使用人を「そちら」などと慮ったようには呼ばない。彼女はしばらく悩んだ後、「私の名前は月乃と申します」と一礼した。


「あっ、えっ、は?」

「あの、そちら、なんてもったいなきお言葉でございます。どうぞ月乃、もしくはお前と、お気遣いなくお呼びくださいませ」

「うっ、わ、分かっている。使用人の名前を把握するのも主人の務めだ。つ、つき……月乃」


 紅蓮は絞るようにか細い声で月乃の名前を発すると、すぐに彼女から視線を逸らした。そして咳ばらいをして、「今から!」と大きな声を発し、屋敷の大広間に反響していった。


「お前が使う部屋へ案内すると同時に、その荷物を、お前の部屋に移す」

「はっ、はいっ!」


 紅蓮は月乃の返事を待たずに彼女の背後に回り、外に繋がる扉を開け放った。しかし、不自然に自分の手元を確認する。


「荷物を運ぶ馬車はどうした」

「あ、あの、馬車が必要なほど荷物がなくて……、荷物はこの鞄に全部入れてあります。あっ、お金はこちらに」


 月乃が使うことのなかった馬車の料金を紅蓮へ返そうとすると、それを紅蓮は手で制し「不要だ」と短く答えた。そして彼女の荷物を凝視すると、しかめ面をそのままに手を差し出す。


「貸せ」

「え」

「聞こえていないのか、お前の持っている鞄を貸せと言っている。持ち物の検査だ。暗器や毒液を仕込んだ瓶でも入っていたらたまったものではないからな」


 手間を取らすなと責めるような口調で、紅蓮は再度手を出した。月乃が慌てて鞄を差し出すと、筋張った筋肉質な手でそれをがっしりと掴み、そのまま二階へと続く黒塗りの階段を上っていく。


「何をしている、着いてこい。お前の時間は有限だ。ぼさっとするな」


 月乃が荷物検査を待っていると、紅蓮は急かすような眼差しを向けた。紅蓮は月乃の鞄を開くわけでもなく、ただ鞄を手に持ち進んでいる。


 月乃がどうしていいかわからず不思議に思っていると、紅蓮は「この領地の人間はな、鞄の中身を開かずとも中に何があるのか分かるんだ」と睨み付けるように言って、また階段を上っていく。


「しかし、軽いな。本当に荷物はこれだけか?」

「ええ、衣類と、日記帳と、ペンです」

「宝石や着物はどうした?」

「え」


 使用人が、平民が宝石や着物を持つことはない。華族ではないのだから。自分が元蜂矢家であることを知っているからそういう風に言ったのだろうか。月乃が沈黙したことで、周囲には奇妙な間が出来た。


「えっと……」

「いや、いい」


 紅蓮は月乃の言葉を遮った。「女は、やれ着物だの装飾品だのを集めると聞くから言っただけだ」と忌々しいような口調で話す。その様子はどこか歯切れが悪そうで、違和感を覚えながら彼女は首を横に振った。


「私は、元々あまりそういったことに興味がなくて」

「そうか」

「……それに私なんか、着物や宝石を身につけても意味がないですし」

「意味がなくはない!」


 紅蓮が声を荒げたことで、月乃の肩がびくりと震える。紅蓮は向き直るように彼女を真っすぐ見つめると、その華奢な肩を掴んだ。


「いいか、お前は素晴らしい。絶対に、誰がどんな妬みや嫉妬でお前を乏しめようと、お前の素晴らしさは……!」


 紅蓮の真っすぐな瞳と言葉に、月乃の目が大きく見開かれる。彼女が返す言葉を探していると、紅蓮ははっとして、思い切り飛び退いた。


「あ、あ、あ、暗道家の使用人たるもの、自分を卑下するような真似をするな。堂々としていろ」

「はいっ」


 月乃が驚きと感激によって心臓のあたりをぎゅっと押さえていると、その間にも紅蓮は先ほどより早い足取りで階段を上っていく。


 紅蓮はそのまま壁に転々と備え付けられた燭台に照らされた廊下を歩いていく。廊下の柱にも、門と同じ薔薇の繊細な彫刻が施されており、燭台の炎に照らされ薔薇の花弁たちが黒く揺らめいていた。その光景に月乃が目を奪われていると、紅蓮はある扉の前で止まった。


 扉は廊下に並んでいたどの扉よりも重厚な薔薇細工によって仕立てられ、蝶が瞬くような金細工が目を引く仕上がりとなっている。その扉は更にその横に見える扉と対になっているようで、屋敷にとって重要な部屋だと月乃はすぐに理解した。


「入れ」


 紅蓮は取っ手に手をかけ扉を開き、月乃に部屋に入るよう促す。促されるまま月乃が部屋へ入ると、そこは扉の細工と同じように豪勢な部屋が広がっていた。


 ベッドは、天蓋のついたもので、揺らめくようなレースは針のように細いのに、花々の刺繍が施され銀の糸によって光を受けて煌めいていた。机はその脚の細部まで伝統的な柄細工が刻まれ、椅子も同じように揃えられている。壁紙も敷かれた絨毯も真新しい。屋敷は外装も内装も黒で統一されていたが、この部屋は白で統一されていて、屋敷の高貴な雰囲気とは異なり清廉な空気を纏っていた。


 物に傷をつけないように。汚れはすぐに落とすように。部屋を見渡し、月乃は掃除をするときの順番を考えていく。しかし紅蓮は「ここがお前の使う部屋だ」と吐き捨てるように言った。


「えっ」

「なんだ。不満か」


 黙っていた月乃が声を上げたことで、紅蓮は険しい顔をした。しかし「ほ、本当にこんな素敵なお部屋を私が使用してもよろしいのでしょうか……」と、震える声で話す彼女を見て、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「ふん。世辞を言ったところで金しか出ないがな。……ああ、そうだ。最初に言っておくが隣は私の部屋だ」

「えっ、隣のお部屋……えっ」

「何かあったら呼べ。そして何か不審な真似……そうだ、逃げるような真似をしてみろ、すぐに私に分かるからな」


 念を押すように紅蓮は月乃を睨み、彼女は委縮する。それを見て紅蓮は「逃げなければいいだけの話だ」と視線を落とした。


(当主様の、隣の部屋で、そしてこんなに豪華なお部屋を与えられるなんて……。もしかして、あれだけ契約を厳しく書き記していたのは、こういった好待遇目当てに働くことを公爵様が嫌だと考えてのこと……なのかもしれない)


 月乃は、部屋を見渡しながら、今までの契約書の内容について、一つ一つ思い出していく。そして、給金が当初低く設定されていたのは、給金やいい待遇目当てでやる気のない人間が応募しないようにしていたのだと結論づけた。


「何を考えている。逃げだす算段でも立てているのか? 無駄だ。この屋敷には私とお前しかいない。妙な物音が立てばすぐに分かる」

「と、当主様と、私だけ……ですか?」

「ああ。この屋敷には俺とお前だけだ」


 紅蓮は当然のように頷くが、月乃は驚愕した。屋敷というものは、使用人一人と主人だけという状況はあり得ない。家令や下男、侍女、御者、厨房係や従者、掃除婦、他にも何十人もの使用人の力によって回っているものだ。


 かつて月乃がいた当主家の屋敷でも、両手では数えられない程度には使用人が働いていた。しかし、その当主家の屋敷の何十倍という大きさの屋敷で、使用人はたった一人だけ。彼女は果たしてこれから先自分一人でやっていけるのだろうかという不安に襲われた。しかし紅蓮は見透かすように「心配は不要だ」と冷たい声色で突き放した。


「お前の経歴は知っている。今までどの屋敷にも勤めたことのない侍女に分不相応な仕事は求めない。お前の仕事は私の部屋の掃除と、その日私が指示した場所の掃除。あとは細かな整理だけだ。物を買いに行くことも、庭の手入れも食事も他にやる人間がいる。余計なことは考えるな。手が足りぬからお前を雇った。お前は手が足りない分の仕事をしろ。余計なことを考えるな」


 紅蓮の言葉に、月乃はほっと胸を撫で下ろした。紅蓮は間髪入れず「それと!」と声を荒げ、しばらく考え込んだ後、「……当主様ではなくていい」と呟く。


「紅蓮様と呼べ。当主様では、この屋敷に人が訪れたとき、誰のことを言っているか分からなくなる。各家の当主が来るような場所だからな」

「分かりました。紅蓮様」

「くっ」


 紅蓮は月乃の呼びかけに、歯を食いしばる。そして「今日のところはもう休め」と言って、月乃の鞄を部屋の隅に置いた。


「十日間の長旅だ、どうせ今から仕事について詳しく教えても眠ってしまえば忘れる。今日のところは眠れ。明日に備えろ。仕事の服は一番右端にあるものだ。後の服は好きに使え。そしてこの部屋のものも、お前の好きにしろ。俺は隣の部屋で休んでいる。何かあれば壁を叩くなり部屋に来るなり好きにしろ、手洗いは廊下の左奥にある。今日はそこと部屋以外の出入りを禁じる」

「はい、紅蓮様。ありがとうございました。明日から、よろしくお願い致します」


 月乃の返事にまた歯を食いしばり小さく唸った紅蓮は、足早に部屋を出ていく。扉を開こうとする彼女に「不要だ、休め」と厳しく言いつけた紅蓮は、扉に手をかけ振り返り「逃げようと思うなよ。変な動きをしたらすぐ分かるからな」と付け足して、扉をそっと閉じた。


(とても優しい人のような気がする。それに、指示もとても分かりやすかったし、とても気を遣っているような気がする。声色は冷たく、目も睨むようだったけれど、言葉はわりと、真逆なような……。もしかして、視力があまり……)


 月乃は紅蓮の行動や言動について疑問を覚えながらも、箪笥に向けて足を動かしていく。金細工の取っ手をつまんで引くと、そこには華奢なレースが施された洋服や、落ち着いた色合いのワンピース、華やかな色合いの着物が所狭しと並んでいた。それらを見て驚愕しながら一番右端を探り当てると、着物たちに隠されるように侍女の制服がかかっていた。他の着物に引っ掛けないように月乃は侍女の制服を取り、箪笥から出して広げる。


「わぁ……」


 青みがかった舛花色の布地に、薄い銀糸で縦の線が入った侍女の制服は、柔らかな肌触りだった。明日からこれを着て仕事をするのだと、自分はとうとう職を見つけたのだと、月乃は顔を綻ばせた。


「明日から、頑張らないと……」


 喜びを胸に留め置くようにそう呟いた瞬間、隣から重たいものが落下するような音が響く。主人の一大事であると月乃が慌てて部屋を飛び出すと、同じくして隣の部屋から紅蓮が扉を開いた。


「ぐっ紅蓮様! 大丈夫ですか!? 何かお怪我を……」

「していない。何も起きていない寝ろ。そして今夜、いやこれから私の部屋からどんな音が、たとえ爆発や硝子が割れるような音がしても私が呼ぶまで夜は来るな。お前が聞きたいことや、何か私に用事があったら来てもいいが、私の部屋から音が鳴ったから心配だという理由では来るな、分かったか」

「は、はい。かしこまりました。紅蓮様」

「分かったなら寝ろ」

「はい。お休みなさいませ」


 月乃は礼をして、紅蓮の扉が閉じられるのを待とうとする。しかし紅蓮は眉間にしわを寄せながら「お前から部屋に戻れ。お前の扉が閉じたら私も部屋に戻る」と扉を開いたまま立った。慌てて月乃が部屋に戻れば、そっと扉を閉じた音が隣から聞こえる。


(やっぱり、使用人であるはずの私に、相当気を遣っているみたいだ。明日から、きちんとその想いに応えられるよう働かないと)


 月乃は決意を新たに、侍女の制服を壁にかけると用意されていた夜着に着替えて眠りについた。



 月乃が暗道家に訪れて、次の日。


 外が薄暗く、太陽がその身を現さない頃。月乃はゆっくりと目を開いた。部屋はまだ色濃く影が落ち、目を凝らしながらも彼女は身体を起こし、周囲を確認する。


(ああ、私は暗道家に来たんだ。ここが私の新しい、そして初めての職場……。


 壁には、きちんと昨日かけた侍女の制服がかかっている。月乃はベッドから離れると、手早く着替え始めた。真新しい服は甘い花の香が香る。月乃は静かにその匂いに心を落ち着けると、これからのことについて考えた。


(そういえば、朝、何をすればいいか、紅蓮様を起こしたほうがいいのかも聞かなかった……。朝、何をすればいいんだろう。仕事の内容は掃除や整理と聞いたけれど、朝のうちにしなくてはいけない場所はどこだろう……)


 月乃は悩みながら、視線を鞄の方へと向ける。そして鞄の中にしまったあるものに気が付いた。


(そうだ。鉢……! 水をあげないと……!)


 月乃は素早く鞄を開き、鞄に入れていた麻袋を開いて中身を確認する。そこには小さな赤い薔薇が咲いた鉢植えが入っていた。


 その鉢は、彼女が裏庭で育てていたもので、こっそりと鉢に植え替え屋敷から持ってきたのだった。紹介所で生活しているときも毎日水をやり、丁寧に世話をしていたことで花は枯れず、馬車での移動中も土が乾かない程度に水筒から水を与え続けていたことで、花は今なお深紅をその身に纏い、生き生きと花を開いている。


 そっと鉢を手に取った月乃は取っ手に手をかける。そのまま部屋を出ようとすると、同時に隣の部屋が開いた。


「何をしている。寝ろ。睡眠を取れ。寝不足を舐めるな」


 すでに夜着ではなく着替え終えた紅蓮が、眉間に皺を寄せながら月乃を見ていた。


「何故着替えている」

「あの、鉢に水を……」

「鉢?」


 紅蓮は自分の瞳と同じ色をした、月乃の抱える薔薇の鉢を視界に入れた。驚いた様子で、紅蓮は問いかける。


「それはどうした」

「えっと、前に住んでいた場所で、育てていたものを持ってきていて……」


 月乃は、鉢植えと生活することが当たり前だった。鉢自体も彼女の両の掌に収まるほどの大きさで、屋敷を出た今、その鉢は傍にあって当然の、意識すらしないものであった。


 しかし。薔薇の鉢植えが突如屋敷に追加されたことを新しい主人は不愉快に思うかもしれない。月乃が頭を下げようとすると、紅蓮は感嘆したような声で「そうか……」と呟いた。


「ならば水場へ案内しよう。ついでに、その鉢を置くに適した場所も知っている。適度に日があたり、かといって強すぎる日差しで植物を焼かない場所だ」


 紅蓮は月乃に背を向け、ついて来いと言わんばかりに廊下を歩いていく。彼女は言われるがままついて行き、そしてその後ろを歩きながらあることを思い出した。


「あの、紅蓮様」

「何だ」

「昨日は鞄を運んでいただきありがとうございました。それとあの、ベッドもふかふかで、箪笥の、お洋服も……その、色々ご親切にしていただいてありがとうございます」


 月乃がお礼を言うと、紅蓮は颯爽と歩いていた足をぴたりと止め、彼女のほうへ振り返り、凍てついた眼差しを向けた。


「礼など不要だ。お前に感謝される覚えはない」

「紅蓮様……」

「私の行いに、感謝などするな。私の行動全ては、お前に感謝をされたくてしているわけではない。行くぞ」


 紅蓮は月乃に背を向け歩いていく。彼女は言葉を返すことも出来ず、ただただ紅蓮の後を追うのだった。



「着いたぞ」


 それまでずっと無言で歩いていた紅蓮が足を止める。二人で屋敷を抜け、案内された先は暗道家の庭園であった。しかしそこは一般的な庭園とは異なり、四方と天井を硝子で囲い、まるで硝子の屋敷のような作りになっていて、その中に花々や植物が自然のままに植えられている。まるで自然豊かな森を一枚の額縁に切り出したかのような光景に、月乃は感動で、ほっと息を漏らした。


「水は、湧水が流れるようになっている。草木には特に害もなく時折虫も飲んでいるが、人間が飲んで安全とは限らない。だから飲むな。飲みたいなら屋敷の水か、横にある井戸水を飲め」

「はい」

「毒の花や食虫植物の類はないし、こちらに害を為すような害虫は駆除している。が、見慣れない虫がいたらちゃんと避けろ」

「ありがとうございます。紅蓮様」


 紅蓮は天井を見上げながら、月乃に顔を向けることなく淡々と話をする。紅蓮の視線の先には、教会のステンドグラスのような、神々しいほどの極彩色の光景が広がっていた。いつの間にか昇っていた朝日が、赤、緑、青、黄色と色のついた硝子に通っていき、万華鏡のように姿を変えて煌めいていく。


「きれい……」


 月乃が思わず声に出す。紅蓮は彼女を食い入るように見つめた後、咳払いをしてため息を吐いた。


「紅蓮様……?」


 何か粗相をしたのではと不安がる月乃に、紅蓮が静かに首を横に振る。そして空を見上げた。


「この景色が好ましいと思ったのなら、好きな時に来ればいい。ここも屋敷の一部だ。門の外へ出なければそれで構わない」

「ありがとうございます」


 月乃が、反射的に礼を言うと紅蓮は静かに目を伏せる。


「礼を言うなと言っても、お前は言い続けるんだろうな」


 紅蓮の言葉に、月乃の顔が曇った。彼女は、何か親切なこと、嬉しいこと、優しいことをしてもらったらお礼を言うべきだと考えている。しかし、目の前にいる紅蓮はお礼を言うたびに表情を強張らせてしまう。そんな時、どうすればいいのか。悩んでいると、紅蓮は空気を変えるように水の流れる小道に沿った棚を示した。


「そこに、鉢植えを置け。その辺りは特に日当たりのいい場所だ」


 月乃は頷き、持っていた鉢植えを言う通りの場所に置く。すると横から如雨露が差し出された。


「水やりはこれでしろ。使い終わったら、まぁ隣にでも置いておけ。他の草木や花々は湧水で勝手に水を得られるようになっているから余計な気を回さなくていい」

「分かりました。ありがとうございます」

「……ああ」


 紅蓮がばつの悪そうな顔でそっぽを向く。そしてしばらく月乃が如雨露で薔薇の鉢植えに水をやっているのを眺めていると、思い出したかのように彼女を呼び止めた。


「お前は明日から、私が起こすまで起きるな」

「えっ……」

「お前は私に仕える使用人なんだ。主人より早く起きようとするな。私が起こしに行くまで寝ていろ。起きるな」


 紅蓮はきっぱりとそう言い放つ。しかし月乃は、紅蓮の言った言葉に驚いた。何故なら使用人は主人よりも早く起きろ、寝坊なんてあってはならないと学んでいたからだ。そんな彼女の驚く様子を見て、紅蓮は「いいか、よく聞いておけ」と高圧的に見下ろした。


「使用人を管理するのは、主人の務めだ。主人が寝ている間に使用人があれこれ動いてしまえば、その分主人の時間が拘束されてしまう。分かるか。私は暇ではない。お前は私が寝ている間にあれこれ仕事をする必要はない。寝ろ。私が起こしに行くまで眠れ」


 月乃は、紅蓮の言葉に戸惑いながらも「はい」と頷く。


「いい返事だ。それと、お前はこのあと風呂に入れ」

「えっ」

「昨日は体力も無くなっただろうと寝かせたが、これからは毎夜風呂に入れ。今朝は昨日の分だ。その間に私が私とお前の分の朝食の支度をしている。ああ、浴場にある石鹸や、香油の類は好きに使って構わない。気に入らないものがあったなら直ちに言え。それと、黒い棚に置かれているのは私が使っているものだ。使ってもいいが、男物だ。お前の髪が傷む。間違えるなよ」


 紅蓮の言葉、その一言一言はきちんと月乃の耳に入った。しかしその内容があまりに突飛で、月乃は目を大きく見開く。


「そんな、朝食の準備は私が致します。それに私は使用人です。紅蓮様のお手を煩わせるわけには」

「私の命令が聞けないというのか」


 慌てる月乃を、紅蓮が冷たく見下ろす。あまりの威圧に黙った彼女を、紅蓮は鼻で笑った。


「それでいい。この屋敷では私が規律だ。今までお前が見てきた使用人としての行動と異なることがやや……まぁまぁ……多かれ少なかれ見受けられることもあるだろう。だが、だからといってそれに背いていい理由にはならない。この屋敷の使用人として勤める以上、ここの契約に従ってもらう。分かったな?」

「……はい、紅蓮様」

「分かったならそれでいい。案内してやる。ついて来い」


 紅蓮はそのまま流れるように屋敷へと向かって歩いていく。反論を許される間も余地も与えられず、月乃は紅蓮に置き去りにされないよう、庭に訪れたときと同じようにただ黙って紅蓮の元へと駆けて行った。



「……どうすべきか」


 月乃を案内し終え、厨房に入ったこの屋敷の主、暗道紅蓮は一人項垂れるようにして、机に手をついていた。


 どんな時でも淡々と与えられた仕事を全うし、血も涙もないと周囲から評価を受け、感情など欠片も存在していないと言われる紅蓮であったが、今現在彼は、たった一人の娘の機微によって、その感情をめまぐるしく変化させていた。


「鼻で笑うのはやりすぎたか……? しかし、彼女は俺に感謝すべきではない。俺は嫌われなければならない。彼女に感謝されるべき存在ではない。それをきちんと、彼女に理解してもらわないと……」


 その腕は、裏切り者を粛清するための剣を振るう為だけの腕とされ、その脚は、敵の元へ素早く辿りつく為だけに生み出された脚。そんな風に評価されるほど事務的に、ある種童話に出てくる機械人形のように淡々と動いていた紅蓮は、ひたすらに指を彷徨わせ、うろうろと何年も使用してきた厨房を、まるで勝手が分からぬ料理人のように歩き回る。


「薔薇も、どこまで覚えているか分からないし……」


 ぐしゃりと、紅蓮はその顔を歪ませ思い返すのは、まだ彼が幼き頃の記憶だ。ある時、少しの事情で今住んでいる屋敷とは別の、かつて己の住んでいた屋敷から数日抜け出さざるをえなくなった彼は、夜も深まった頃、街を徘徊していた。


 そんなときに、運悪く人攫いに見つかり、腕を切られたのだ。幸い紅蓮のある体質上事なきを得たが、人に腕を切られたことで悲しみを覚え、覚束ない足取りで屋敷と屋敷の間を潜り抜けるように歩いていると、とある屋敷……蜂矢家の庭園で、少女と出会い、彼は救われたのだった。


 そして、その少女こそ、昨日から紅蓮の侍女としてこの屋敷に勤めることになった月乃。蜂矢月乃その人だった。


 厳密にいえば紅蓮の侍女としてこの屋敷に誘き出される形となった月乃であるが、当の紅蓮はといえば、呼び出しておきながら彼女と再会をするという心づもりを、全くできていなかった。


(以前会ってから、十年ほどだというのに、麗しく成長していた……。ただでさえ、あの時だって美しかったのに……どうやって話をしていいか分からない……! なるべく嫌われなくてはいけない分、余計分からない……!)


 ドン、と大きな音を立てて紅蓮は机を叩く。彼は月乃に嫌われなくてはならなかった。


 紅蓮はある事情から、月乃と円満な友好関係を築くわけにはいかない。だからほどほどに嫌われ、いざ別れることとなったとき、自分の存在を三日ほどで忘れるほどの関係を……というのが彼の目標だった。


「しかし、どんなに嫌われようとも、決して傷つけたくはない……そう思うのは我儘なのだろうか。いやしかし……俺は彼女を守りたいんだ……」


 紅蓮はぎりりと奥歯を噛んだ。自分の振る舞いは、月乃を傷つける最低な振る舞いと考えている。罪悪感によって、彼は昨晩は葛藤し一睡もしていなかった。


 静かに目を閉じて、月乃と出会った時よりもずっと前、自身の心の深い奥底に閉じ込めている記憶を呼び起こす。そして目を開くと、真っすぐに前を見据えた。


「そうだ。俺は何としてでも目的を果たさなくてはいけない。それこそが、彼女の……――」


 決意を新たに、紅蓮が宣言する。そして彼はきつく前を睨むと、月乃との食事の支度を開始した。



「あの、紅蓮様……」


 風呂から上がり、身支度を整えた月乃は、風呂から出たら来るようにと命じられていた食堂へと向かった。躊躇いがちに部屋を覗くと、長いテーブル、おおよそ使用人が食事をとる場所とは異なるような、まるで屋敷の主人たちが食事をするようなテーブルに紅蓮が座っていた。


「お前の席はここだ」


 紅蓮は月乃に睨むような眼差しを向けながら、自分の斜め前、無理やり作ったような座席を指で指し示す。月乃がその座席に着こうとすると、遠目からは確認することが出来ていなかった光景に唖然とした。


「ぐ、紅蓮様、これは」


 月乃の座席の前に並ぶのは、豪勢な料理の数々だ。


「朝食だ。お前がどれくらい食べるかわからない。何を好きかも分からないからな。全部出した。ああ、足りないなら追加で作るが、食べきれない分は残せ。昼にも夜にも回せるようなものを作ったからな」


 そう言って紅蓮は「どれが食べたい」と取り分けを始めようとする。慌てて月乃が自分ですることを申し出ても、首を横に振った。


「いいか、使用人の管理は私の役目だ。使用人の食事の管理をする権限も私にある。お前が何を言おうと勝手だが、私は主人、お前は使用人だ。お前の指図は受けない。私の指図を受けるのがお前の仕事だ。それで、どれが食べたい。何が嫌いだ」


 紅蓮は月乃を仇のように睨みながら、さっさと言えとでもいうように促す。しかし月乃は、何度料理を見回しても、どれが好きなのか自分でも分からない。継母と異母姉が屋敷に訪れてからは、徐々に彼女へまともな食事が運ばれることは減っていき、最後には共に食事をする機会も消えていったからだ。


 最終的に月乃は一人、余り物を食べる生活をしていた。


 そして余り物ですら異母姉により捨てられることがあり、食べさせてもらえるだけありがたいと考え食べていた月乃は、好きなものを食べるという習慣が完全に消えていたのである。


 月乃はしばらく考え込んでから、控えめに「どれが好きか、分からないです、こんな豪華な料理は初めてで」と呟く。それを聞いて紅蓮は傷ついた顔をした後「なら少しずつ盛り付けてやるから、好きなものと嫌いなものがあれば教えろ」と吐き捨てるように言って、少しずつ取り分け始めた。


「えっと……私も何か……」

「座れ。命令だ」


 紅蓮の言葉に、月乃は大人しく座った。紅蓮は考え考え盛り付けて「量が多いか……?」と悩みながら取り分けていく。その様子を見ていると、彼女は不思議な感覚に陥った。


(どうして紅蓮様は、こんなにも一生懸命なのだろう)


 月乃に対して何かをしようと悩む人間は今まで母以外にいなかった。母は、自分の娘だから、家族だからという理由がある。けれどどうして紅蓮が自分に対して、使用人に対してここまでするのか疑問を覚えた。そして暗道の家とはそういうものなのかと考え、どうして暗道の使用人は自分一人だけなのかとまた新たな疑問が浮かんだ。


(使用人に対してこんなに良くしてくれるなら、私よりもっと能力のある人がたくさん志願してきそうなのに)


 次々に浮かぶ疑問を月乃が抱いていると、目の前に盛り付けられた皿が差し出された。脇には小さな皿に盛られた汁物、そして一口大に切り分けられた煮物が皿に取り分けられている。


「食え」


 月乃に料理を盛り付け終えた紅蓮は、自分の分を取り分けることなく「俺はお前が食べたら食べる。そうじゃないとお前は遠慮して食べそうもない、というかそもそも俺の食事にお前が口を出すな」と冷たく発して席に座った。月乃はおずおずと手を合わせ、汁物に口をつける。


「おいしい……」


 ぽつりと、零すように月乃がそう言って、また汁物を飲む。汁物は野菜がよく煮込まれ柔らかく優しい味で、彼女は何度も口をつける。


「美味しいです。紅蓮さま。それに温かいです」

「そうか。肉も魚も食え、汁物だけじゃ栄養が偏る。食え。暗道家の仕事は厳しく辛い。食え」

「はい」


 紅蓮に促されるまま、今度は肉を口に運ぶと、月乃は顔を綻ばせた。


「お肉です。美味しいです」

「まぁ、肉だからな」


 紅蓮はそう言って、「そっちは魚だぞ」と月乃が切り分け始めた魚料理を示す。そして月乃が魚料理を食べ始めるのを見計うようにして、紅蓮は自身の皿に彼女が食べているものと同じ魚料理を盛り、食べ方を示すように食事を始めた。


「こっちのお魚も好きです」


 そういえば、誰かとこうして机を囲んで食事をしたのは、本当に久しぶり。月乃は高揚にも似た奇妙な感覚を覚えながら、魚料理を口に運ぶ。ちょうど紅蓮も同じように食べているところで、「悪くないな」と頷いた。まるで一緒に食事をしているみたいだ、と月乃は顔を綻ばせる。


「そうか」


 紅蓮は安堵するように小さく笑った。月乃が驚くと、彼はすぐに気難しい顔に戻り、食事を睨み始める。


「まぁ、あれだ。食べたいものがあれば言え。食事を作る前なら聞いてやれないこともない、それと、食事が終わったら俺は仕事に出る。後で掃除を行う場所を発表するからな。とても多いぞ」

「はい」


 月乃が返事をすると、紅蓮は「分かったなら食え」と短く言って食事を再開する。月乃も後に続き、温かい汁物を飲みながら、これからの仕事について思いを馳せていた。



 月乃が暗道家に訪れ、五日が経過した頃。


 紹介所の誰しもが月乃は暗道家の当主に屋敷を追い出され、今頃は折り返すように帝都に向かって来ているだろうと考えていた。が、今まさに帝都へ向かっているのは、月乃が無事に暗道家に到着したという知らせの手紙であった。


 そして当の月乃はというと、暗道家当主の部屋で、自身の磨き上げた部屋を磨き残しはないか見回していた。



 窓際には月乃の部屋と同じ執務机が置かれているが、彼女の部屋のものと異なるのは、その色合いである。



 紅蓮の部屋のものはその全てが暗色で統一され、唯一ある色はそれらを飾る細工の金や銀のみ。机は月乃の部屋のものが純白であるのに対し、紅蓮は漆黒だ。そして椅子、簡素な本棚と、ベッドが置かれ、実用性以外を殺して回った部屋であった。そんな部屋を月乃は入念に見て回り、埃や塵が落ちていないか確認をした後、大きくため息を吐いた。


 月乃が仕事に就いて五日。彼女は思うように働けていなかった。


 使用人の仕事というものは、様々だ。雇う使用人の種類によって、その仕事内容は変わってくる。しかしこの暗道家において使用人は月乃ただ一人。それを知っていた彼女は、自分は様々な仕事を任せられるのだと考えていた。


 しかし実際、食事は全て主人である紅蓮が用意することが決められていた。主人の作る料理は手本のような料理で、月乃はそれを気に入り素晴らしいものであると感じたが、二人は主従関係にある。


 申し訳ないと月乃が調理を申し出ても「勝手のわからない厨房は危険だ」と言って紅蓮は月乃を厨房に立たせない。そして「一緒に食べるほうが効率的だ」といって、月乃を自分の食事の席に同席させるが、取り分けも配膳も紅蓮が行っている。


 厨房への出入りは禁じられ、月乃が手伝おうと思い食堂に立っていても、何かしらで目を離した瞬間に魔法のように配膳が完了されている。そして紅蓮が屋敷を出るとき、紅蓮は必ず月乃の昼食を作り置いた。月乃がどんなにそれくらいは自分ですると言っても、毎日昼食は置かれている。


 そして毎夜入ることを命令された風呂も、広間ほどの大きさであるというのにその清掃を申し出れば紅蓮は首を横に振る。「お前は風呂が滑りやすいということをよく理解しておくべきだ」と言って、取り合わない。


 さらに各国の石鹸と香油が取り揃えられた棚はきちんと整理され、整える隙がない。それどころか月乃が石鹸や香油に手をつけていないことを知ると「気に入らないなら早く言え」と紅蓮は全てを総取り換えした。


 月乃はどう見ても未使用の新品を自分が使う気になれなかっただけであったが、それを紅蓮に伝えると「なら使え、使わなければ合うも合わないも分からないだろう」と吐き捨てるように言われたのだった。


「この屋敷での規律は俺だ。この屋敷に仕える以上、私の言うことには従ってもらう」


 調理の申し出も、風呂場の申し出も、月乃が訴えると紅蓮は最後の最後にそう言って、彼女を黙らせる。


 もう少し横暴で加虐的なふるまいの後に、そういった言葉が発せられるのであれば月乃は納得できた。以前彼女は継母に「私のことが気に入らないのなら、出ていけばいいでしょう?」と笑われたことがあったからだ。


 しかし紅蓮の言葉はいつも、月乃を労るような、人間として大切にするような行動を取り、それを彼女が否定しようとすると発せられる。


 朝は紅蓮に起こされ、共に朝食を取り、昼は紅蓮の作った昼食を食べ、夜は紅蓮と共に食事をし、風呂に入り、眠る。月乃はそんな日々をこの暗道家に訪れてから過ごしていた。


 しかし、紅蓮は月乃に仕事を与えないわけでもなかった。


 紅蓮は毎日、月乃に昼食を作り置いた後、朝と昼の丁度間のような時間に家を出る。その前の時間に、庭園に異変が無いかの確認。紅蓮が出て行っている間に紅蓮の部屋の清掃。そして紅蓮曰く「自分の部屋の掃除も出来ない人間が、人の部屋の掃除を出来るはずもない」と、月乃の部屋の清掃も職務時間にするよう言った。


 晴れた日は屋敷の窓を開き空気の入れ替え、廊下の一角の清掃、そして昼寝である。おおよそ紅蓮が帰ってくる夕方の間に終わるよう、元より決められていたかのような仕事を月乃は与えられていた。


 それは月乃の肉体をそこそこ疲労させるものであったが、まるで適度な運動の程度で済むよう調整されていて、彼女は他の部屋の掃除はしなくていいのかと、常に首を傾げるばかりだった。


 そんな月乃が掃除を命じられない部屋……厨房や洗面所、風呂場であったが、どうにも毎日清掃がされている様子だと月乃は感じていた。この屋敷には月乃と紅蓮しかいない。使用人である自分が掃除をしていない場所は、つまり主人である紅蓮自らが掃除をしているのでは?と月乃は紅蓮に問いかけたが、「私にそんな暇はない。きちんとなるようになっている。お前の気に留めることではない。この件に触れるな」の一点張りで、答えは得られなかった。


 月乃は毎日、紅蓮の作った食事を取っている。初日は机に並びきらないほど大量に、そして豪勢に作られていたそれは、次の日には月乃の胃袋を慮った量に減らされ、そして今や月乃の好むようなやや質素で、庶民的なものに落ち着いた。


 食事のとき、紅蓮は月乃をものすごい形相で睨んでいることが多かったが、きっと自分のことを見て考えてくれているのだろうと月乃は推察している。


 主人は、自分のことを考えてくれている。そう思うと同時に、感謝を伝えると顔を暗くする主人に対し、仕事で役に立つことは出来ないかと月乃は仕事への渇望を強くしていった。だからこそ与えられた仕事は完璧に、仕事を任せられるよう信頼されることが先決だと考え、毎日与えられた仕事に全力を注いでいた。しかし、それでも足りないと感じることも、また事実であった。


「もっと紅蓮様の役に立てることはないかな……」


 月乃は各部屋の行き来を許されている。しかし昨日廊下の掃き掃除をしたところ、「まだそんなところはしなくていい。今日の掃除量を超過している」と月乃は紅蓮に窘められた。


(私は体力がないと思われているのかもしれない……)


 屋敷に到着して、即座に寝かしつけようとする様子、そして疲れをとって風呂に入れと促す紅蓮を思い返し、月乃はその結論に思い至った。きちんと体力があることを示すにはどうしたらいいんだろう。彼女は不在の主人の部屋の執務机を見て、考え込む。


(これから朝と晩、仕事が始まる前と終わる前に、鍛錬をするとか?)


 そう考えて、月乃ははっとした。紅蓮はこの国境を守る使命を国から授かっている。とするならば、きっと紅蓮は自分自身を鍛え上げているのだろう。紅蓮は、鍛え上げた逞しい体躯を持っている。そんな紅蓮からしたら、自分のような人間は非力で何も出来ないように見えるのかもしれない。そう月乃は思い立った。


(でも、どうやって証明しよう……。やっぱり仕事ぶりを見て、認めてもらうしか……)


 月乃の思考は、まるで円を描くように最初に戻っていく。そうして、やや俯きがちに紅蓮の部屋を見渡していると、門のほうから何やら赤い人影が大きな袋を下げた人間が屋敷へ歩く様子が月乃の視界に入った。


(なんだろう。背格好は紅蓮様だ。でも今日紅蓮様は、いつも通り黒のコートを羽織って出かけていったはず。それにいつもよりお帰りが早いような……)


 月乃は異変を感じ、窓から身を乗り出すようにして赤い人影を見つめる。するとその人影は月乃の予想通り紅蓮のものであった。


 しかし、屋敷のほうへと向かいながら少しずつそれるように歩いていく紅蓮は、朝、どこかへ出発した時の姿ではなく、真っ赤な麻袋を持ち、その腕や足すら赤く染められている。月乃はそれに気付くと、すぐさま部屋を飛び出し、紅蓮の元へと足を早めた。


 月乃が屋敷の扉をすり抜けるように飛び出すと、紅蓮は屋敷の裏手、大きな蔵のそばで袋を引きずるようにして歩いていた。紅蓮の歩いてきたであろう道筋には、赤い血痕のようなものが点々と続いており、その赤を見るたびに彼女の脳裏に不安が過っていった。その不安は、紅蓮から漂う鉄の匂いによって的中した。


「紅蓮様!」

「月乃……」


 月乃の声に、紅蓮は驚いたように振り返る。その頬は血に染まり、袋を掴む手の平からは、溢れるように赤い血が滴っていた。


「紅蓮様、お怪我を……早く医者に」

「触れるな!」


 月乃が慌てて紅蓮の腕に触れようとすると、紅蓮は怒鳴りつけ、これ以上ないほど強い瞳で月乃を睨み付ける。


「心配など不要だ。これは私のものではない。戻れ」


 ぞっとするほど凍てついた声色に、月乃の動きが固まる。紅蓮は一瞬複雑そうに顔を歪めると、拒絶するように月乃に背を向け、小屋へと進んでいく。


 月乃は、紅蓮の言いつけを守るように屋敷へと足早に戻っていった。その足音を聞いて、紅蓮は安堵しながら息を吐き、袋を握りしめる力を強め、地面を踏みにじるようにして蔵へと向かう。


 しかしまた自分の方向へ向かってくる足音と、その水音に勢いよく振り返った。


「紅蓮様っ」


 紅蓮が振り返った先には、月乃が水の入った大きな桶を抱えて立っていた。その桶の中にはたっぷりと水が入り、手拭いが泳ぐようにして浮いている。紅蓮が唖然としていると、月乃は桶を地面に置き、手早く手拭いの水を絞ると、紅蓮に近づきその頬にかかっていた血を拭い始めた。


 月乃とかつてないほど接近している衝撃で、紅蓮は動きも、呼吸すらも止める。そんな紅蓮をよそに月乃は彼の頬をふき、血を水で流し、また手拭いに水を含ませ、ついた血を落としていく。


「……やめろっ! 私に触れるな!」


 紅蓮がはっとして、月乃を引き離そうとする。しかし月乃は引き下がることなく紅蓮に顔を向けた。


「やめません!」


 月乃は、主である紅蓮様が毎日どんな仕事をしているのかは分からない。しかし、この屋敷が国境近くにあること、鋭い眼差し、そして今日血塗れの大きな麻袋を抱え、自分自身も血に染まって帰ってきたこと、から、紅蓮を取り囲む状況が過酷であると判断した。


 そして自分に何が出来るか考え、実行した。


「私は、侍女です。私の仕事は、紅蓮様のお役に立つことです。それが私の仕事です。それに仕事じゃなくてもこんなに血塗れの人を放っておいたりできません」


 きっぱりと月乃の告げた言葉に、紅蓮の瞳が大きく見開かれる。そして月乃の肩を押さえていた手は徐々に力を失い、とうとう彼女の華奢な肩から紅蓮の筋くれだった手は離れていった。月乃はまた、血に染まった紅蓮を拭う。紅蓮はずっと、言葉を呑むようにして黙ったままだ。


「私が、頼りないことは分かります。だから仕事を任せられないのだと。確かに私は元華族で、侍女としてどこかで勤めた経験はありません。出身も帝都で、紅蓮様たちに守られて生活をしている立場でした。しかし今は、紅蓮様の侍女です。紅蓮様のお役に立たせては頂けませんか……」


 月乃が、懇願するように呟く。すると紅蓮は月乃を見て声を振り絞った。


「……お前はそんな風に思っていたんだな。自分が頼りないから、仕事を任せてもらえないのだと……」


 静かに項垂れるようにして呟く紅蓮に、月乃は僅かに驚く。まるで紅蓮がそういった意図は全くなかったように聞こえた月乃は、躊躇いがちに頷いた。


「……はい」

「そうか……」


 紅蓮は月乃を見て考え込んだ後、遠慮がちに視線を合わせる。


「振る舞った行いは、取り消せない。ただ、私の考えは知っていて欲しい、いいか?」

「は、はい」

「私はお前を、頼りないと思って、仕事を任せられないと思っていたわけではない。ただ、長い旅路で、見知らぬ地へと単身で訪れ、気味の悪い男と二人で生活させている。だから、負担のないようにと考えていたんだ。すまなかった」


 紅蓮が静かに頭を下げる。月乃は目の前の光景が信じられず手から手拭いを落としかけた。そして慌てて紅蓮の顔を上げさせようとする。


「紅蓮様、やめてください。私はそんな、紅蓮様に謝罪なんて求めていませんし、紅蓮様が謝罪をする必要もございません」


 月乃が顔を上げさせようとしても、頑丈な紅蓮の体はびくともしない。月乃が混乱していると紅蓮は顔を上げ、月乃を見つめた。


「これからは、お前がそんな風に、頼りないと誤解しないように、仕事を任せることにする……」


 紅蓮は申し訳なさそうに、か細い声でそう呟く。月乃はその表情を見て、そんなに申し訳ない顔をしなくていいのにと思った。しかし紅蓮の役に立てることを喜び「是非、頑張らせてください」と頷いた。


「これから、よろしくお願い致します。紅蓮様」

「……ああ」


 月乃が、紅蓮を真っすぐ見つめ、柔らかく微笑む。紅蓮はその月乃の笑みを見て俯き、麻袋を握る手をこれ以上なく強めつつ、月乃に気づかれないよう、その優しい瞳を見つめていた。



「……はぁ」


 侍女として、今は亡き蜂矢家の月乃が紅蓮の屋敷に訪れて、半月が経過した頃。


 暗道紅蓮は招集された会合の合間に、その屋敷の庭にて一人、咲き誇る花々を見つめながら今日何度目か分からぬため息を吐いた。


 その理由は勿論、侍女としてやってきた月乃についてである。


 当初紅蓮は月乃について、傷つけない程度に嫌われることを考えていた。


 その為少なくとも「俺」より威厳があるだろうという理由で一人称を「私」に変え、高圧的だと思われるような口調に改めた。


 そして定期的に鼻で笑ってやったり、馬鹿にしているような言動を取り、どうにかして傷つけない程度に嫌われ、いつか必ず来る別れのとき月乃が自身のことを消し去りたい、そして幸せな記憶に上書きされようと紅蓮は決めていた。


 そして迎えた初日、初日は良かったと紅蓮は思い返す。月乃が感謝をしてこなかったからだ。月乃は終始紅蓮に、そして紅蓮の提示した条件に怯える様子を示した。そして紅蓮は痛む気持ちを覚えながら鼻で笑ってみたり、解雇をちらつかせたりした。


 しかし二日目から、どんどん紅蓮の計画は狂った。成功していたと考えた紅蓮の初日。しかしその初日の礼を、月乃は二日目にしてきたのだ。さらに月乃が初めて出会った時の薔薇の、その鉢植えを持っていると知って温室に案内すると、月乃はまた感謝をしてきたのである。


 温室は、紅蓮が月乃が来るからと用意したものだった。気味の悪い男と二人暮らしをしなければいけない月乃の心が壊れないよう、気の休まる場所になればいいと、材料を運び、設計図から何から全て紅蓮が制作し、建築したものだ。製作期間は二日で、硝子張りではあるものの、何かしらの揺れや風、攻撃や放火などで月乃が傷つかないよう、あらゆる攻撃を想定し、硝子も特殊な硝子を使用したもので、耐久性は王国軍の要塞に相当していた。


 耐久性を披露すれば月乃の安心に繋がるが、それを月乃に言ってしまったら感謝されてしまう。月乃はお礼をしようと考えてしまうかもしれない。そう考えて紅蓮は黙っていた。


 しかし紅蓮の企みとはよそに、月乃はかなり早い段階から、温室に連れてきてくれてありがとうとお礼を言ってきた。


 箪笥の服や、月乃がおそらくまだ気づいていない化粧台の宝石たちは、帝都からこの辺境の地に訪れ満足に買い物が出来ないからと用意した。


 風呂の石鹸や香油は気味の悪い男と二人暮らしを始めた月乃の心が壊れないよう、気の休まる場所になればいいと各国から取りそろえた。


 さらに元より入浴にさして楽しみを見出していなかった紅蓮が屋敷を建てたとき、「そこまでの広さは不要だ」と、狭く作っていた風呂場は紅蓮自らが壁を破壊し、王宮のものと言っても過言ではないほどのものへと作り替えたのである。


 月乃が毎回お礼を言ってくる食事も、せめて食事くらいはましな気持ちでいられるようにと、人より何倍もの速度で動くことが可能な紅蓮が三日で各国あらゆる国の料理を学び、鍛錬をした成果だったが、付け焼刃の技術にしかならなかったと紅蓮は反省していた。


 全て、気味の悪い男と二人暮らしをしなければいけない月乃の心が壊れないよう、気の休まる場所になればいいと思った行動だった。しかしそれが、軒並み感謝されてしまっていることに紅蓮は気づいた。


 この事態を、紅蓮は由々しき事態だと考え、早急に手立てを打つべきだと考えている。


(……だが、ここ最近の月乃と俺は、明らかに計画と異なる関係性を持ってしまっている気がしてならない)


 紅蓮は可憐に咲く花々を敵のように睨み付けて、今朝、屋敷を出る前に月乃と行っていたやり取りを思い返す。


 朝、月乃の部屋の扉を少し開いて、木の棒の先を綿でふわふわにしたものでつついて起こし、顔を洗い身支度を整える月乃を待ちながら、朝食の支度をする。


 そして月乃がそれを手伝いながら朝食を作り終え、食べ終わったら月乃が片づけをするのを見計らい、共に温室へと向かい、花を見る。


 そして今度は月乃に支度を手伝ってもらいながら出かける準備をして、紅蓮は屋敷を出て行った。紅蓮は月乃がどこかへ逃げないよう、監視をしている設定で共に温室へと向かっていくのだが、毎回月乃は嬉しそうに紅蓮に薔薇の成長について説明する。


(これではまるで、嫌な主人とかわいそうな使用人ではなく、物語に出てくるような夫婦のようではないか……!)


 ぎり、と鈍い音がするほど紅蓮は自身の手のひらを握りしめた。それは、月乃が訪れたときから始まった紅蓮の癖だった。主に、月乃への想いが昂ぶったときに紅蓮はそれを行う。「可愛い!」「好きだ!」「愛してる!」それらを叫びださないために、奥歯を噛みしめ、手のひらに爪を立てることによって、荒波のように押し寄せる感情をやり過ごすのだった。


 しかしそれにも、限界が来ていることは紅蓮は痛いほど理解している。


(初めこそ……思い出の中の大切な、穢れて血に染まった自分の世界の中の澄んだ光だと、唯一の透き通るものだと……心の奥底で大切に当時の声や姿、記憶を辿るだけ、そうして生きていくだけで良かった。自分と月乃は、住む世界が違うのに……)


 しかしその均衡は、月乃の異母姉の身勝手な振る舞いによって、崩されてしまった。その振る舞いのせいで、関係ない月乃が名家から敵と見なされたと紅蓮が知ったのは、月乃が既に蜂矢家を去り、平民となって街の紹介所で寝泊まりをし始めた時だった。


 紅蓮は、今まで月乃を見守っていなかったことを悔いた。そっと陰から見守るようなことをすれば、いつか月乃を攫い父のような存在になってしまうと、月乃のことを調べることも、知ろうとすることもしなかった。そんな己を今もなお紅蓮は悔いている。


(その存在に慰められて、助けられていたのに、救われていたのに、月乃が過酷な状況に置かれていたことも知らず、あまつさえ最も辛かった時期に自分は何もしてやれなかった)


 だからこそ、月乃を守り、そしてせめてましな暮らしをしてもらおうと、そう考えて紅蓮は月乃を最も手早く招くことができ、すぐに月乃と離れることが出来ると、彼女を侍女として暗道領に招いたのだ。


 月乃を守らなければいけない。紅蓮はそう考えているのにも関わらず、日ごと月乃への想いが増していくばかりだった。幼少期の月乃と、今の月乃はきっと違う。人間は成長をする。初恋は初恋だ。そう考えていたのに、月乃は幼き日の優しさや強さを持ったままだった。あの頃以上に素敵な人として成長したと紅蓮は感じた。そして、その恋心を増大させていく。


「……はぁ」


 紅蓮はため息を吐きながら、今度は肩を落とした。その脱力した背中に、肩に揃えた亜麻色の巻き髪を揺らしながら、ある一人の人物が近づいていく。


「あら、紅蓮様、お久しぶりです」

「……恵美子」


 紅蓮に臆することなく近づいていく恵美子は、淡い儚げな薄紅色の着物の裾を摘まんで紅蓮に礼をするや否や「ちょっと助けて頂けますか?」と甘い声でその黄金色の瞳に三日月を描く。紅蓮は「またか」とため息を吐いて、自分の腕を差し出した。


 恵美子は、にっこり笑って紅蓮の腕を取った。すると恵美子が現れた方向から、一人の男が顔を真っ赤にしながら慌ただしく駆けてくる。紅蓮と恵美子、まるで寄り添う夫婦のように二人で花々を眺める姿を見ると、男は戸惑い、先ほどまでの怒りが嘘であったかのように足早にその場を去っていった。


「はぁ……良かった……。ありがとうございます。紅蓮さまっ」

「お前というやつは……、本当に……懲りないな……そのうち刺されるぞ」


 紅蓮は呆れ顔で恵美子を見る。恵美子と紅蓮は、家同士の繋がりが深かったことで顔を合わせる機会が多かった。


 そして恵美子が何かを起こすたびに、紅蓮は今のようにその始末を行っていたのである。紅蓮は再三恵美子に注意をしてはいるものの、恵美子が大人しくなる気配は全くと言っていいほど見えない。現に今も恵美子は全く反省するそぶりを見せず、紅蓮から腕を離すと「そーいえば!」と明るい口調で口を開いた。


「紅蓮様がご自身のお屋敷にお招きになった元華族の侍女の方は、今どんな様子なの?」

「……お前に言う必要はない」


 紅蓮は口を真一文字に引き結ぶ。恵美子はそれが面白くなかったのか、つまらなそうな顔をした後、口角を歪に上げた。


「もしかして……あんな屋敷に閉じ込めて、外に出さないつもりー?」

「そんなことはない!」


 恵美子の挑発に、紅蓮は瞬時に反論した。恵美子はその反応を見て面白がるようにさらに口角を釣り上げ、扇子で自身を扇ぎながら紅蓮を見る。


「でも、街を案内したこともないでしょう? 可哀想〜ずっと今まで帝都にいて、屋敷に閉じこもりきりだなんて……。ねえ、紅蓮様知ってる? 人間という生き物は、わたくしたちとは違って、日の光に当たらないとどんどん衰えて、心が弱っていくものなのよ? ねえ、紅蓮様。侍女の方は暗道の屋敷に来て、もうどれくらい監禁されているの……?」


 恵美子の言葉に、紅蓮は顔を青ざめさせた。紅蓮は月乃が訪れて、どれくらい経過したのかを秒刻みで把握している。しかし、どれくらいで人間が屋敷に閉じこもり、心が安らかでなくなっていくかを紅蓮は知らない。


 紅蓮の顔色がどんどん悪くなり、その視線が地の底へと落ちていくのを恵美子は見つめていると、その紅を引いた唇に弧を描いた。


「一度、街を案内して差し上げたら?」

「しかし……」

「帝都ならまだしも、暗道領の街なら危険なんて殆どないわよ。世界で一番お強いのは紅蓮様、でしょ?」


 ぴたりと、恵美子は紅蓮の胸へとぴったりと手を這わせる。そして恵美子と紅蓮の様子を物陰から伺っていた令嬢たちをちらりと盗み見ると、意地悪そうに笑う。


「ねえ、紅蓮様、一度侍女の方を案内して差し上げたほうがいいと思いますの。ほら……屋敷から出られないことを苦に、ねえ? 魂を解放して屋敷から出る本懐を遂げることになってしまったら……ねぇ」


 恵美子が、紅蓮をうっとりした目で見上げる。紅蓮はただ地面に目を伏せながら、恵美子の言った最悪な想像を頭の中で描き出していた。



 紅蓮が恵美子の言葉によって悩まされた日の晩、月乃は自身の部屋にて、日記を書いていた。その日記は、赤い皮地が表紙になっていて、月乃が暗道の屋敷に訪れてから、日々の仕事についての覚え書き、紅蓮との会話や、温室についてなど、職務日誌、日記、観察日記、全ての内容が混ざった月乃の日記であった。


 そして今日の分を書き終え肩を伸ばしていると、不意に扉がノックされた。「いるか」という、短い紅蓮の言葉に、彼女はすぐさま取っ手に手をかける。


 扉を開くと、そこには紅蓮が険しい顔つきで立っていた。今まで月乃の部屋に紅蓮が自発的に訪れたことは一度もない。何か明日のことで言い忘れたことがあったのかと言葉を待っていると、紅蓮はその眉間の皺をさらに深く刻みながら、ぼそりと何かを呟いた。


 しかし、月乃にそれを聞き取ることは出来ず、遠慮がちに聞き返す。すると紅蓮は、「明日は!」と力を込めて発した。


「……お前は、どんな予定が入っている」

「いつも通り、お部屋のお掃除と、温室のお手入れ……それと書庫の整理を……」

「……明日は、しなくていい」

「え」


 ならば、明日は何か別のお仕事があるのだろうか。


 月乃が疑問に思っていると、紅蓮はぎりっと月乃を睨んだ。


「明日、街へ出る。お前もついて来い。服と靴はこれだ。装飾品も中に入っている。朝は私がいつも出発するより早く出る。それ以外はいつも通りだ。覚えておけ」


 紅蓮が、月乃に押し付けるように包みを渡す。そして月乃を優しく部屋の中に押しのけるようにすると、月乃の返事を待たずに部屋の扉を閉めた。


 月乃は、紅蓮の並々ならぬ様子にぽかんとしながら、ただただ瞳を瞬かせていた。



 月乃が紅蓮に街へと誘われた次の日。月乃はいつもより早くに目が覚めた。そして、自分を起こしに来た紅蓮と挨拶を交わしいつも通りの朝を過ごした後、出発の為に紅蓮に渡された着物に着替えようとして、事件は起きた。


「き、着れない……」


 月乃は、鏡に背を向けて、懸命に手を伸ばす。しかし留め具は背中についていて、途中までしか留めることが出来ない。着物はもともと侍女が着せることを想定して作られるものであり、侍女が一人で着るものではない。にも関わらず月乃は部屋のあらゆるものを使って、何とか自分一人で留めようと奮闘していた。


「どうしよう」


 月乃が、鏡越しに自身の背中を見ながら呟く。すると一拍も置かない間に部屋の扉がノックされた。月乃はどうすべきか悩んだ結果、紅蓮から受け取ったボレロを着込み、前を重ね合わせるようにして押さえながら、扉を開く。


「何かあっ……、ん?」


 紅蓮は月乃の異変に直ちに気づく。普段、月乃は真っすぐぴんとした姿勢で立っており、背を丸めた立ち方はしない。紅蓮は月乃のつま先から頭の先までじっくりと眺めると「風邪か? どこか痛いのか?」と不安げな目を向けた。その視線に月乃は弱々しく首を横に振る。


「いえ、その、着物が、着られなくて」

「気に入らなかったということか?」

「その……背中の、留め具が、自分では……ちょっと……」


 月乃の語尾が、どんどん小さなものへと変わっていく。月乃が今どんな状況になっているかを理解した紅蓮は、愕然とし顔を青ざめさせた。


(完全に、失念していた。そうだ。留め具が背中についているのなら、留める人間が必要じゃないか……)


 紅蓮は今まで、服や着物というものに興味がなかった。どんな令嬢がどんな煽情的な着物を着て微笑んできたとしても、人間が布を被っている程度の認識だった。


 だからその留め具がどこにあろうと興味がなかったし、知りたくもないと考えていた。しかし、紅蓮はそのことについて、現在、絶望していた。自分がもう少し着物に詳しければ、いや、仕立て屋ほどの知識があれば、月乃を困らせることはなかったのにと紅蓮は心の中で悲嘆に暮れた。


 やがて、紅蓮はどうやって自身に罰を与えようか考え始める。いっそ腕の一つでも切り落とすか、再生する間に月乃が襲われたら大変だと考え直し、今、目の前の月乃を一刻も早く救うべきだと気付いた。


「私がする。背を向けろ」

「す、すみません」

「謝るな。私の失態だ」


 月乃はおずおずと紅蓮に背を向け、辿々しい手つきでボレロを取り去った。月乃の白い背中が露わになり、紅蓮はより絶望した。


(細い。もっとちゃんと食べさせよう。でなければ月乃は死ぬ)


 紅蓮は月乃の骨の浮き出た背中をじっと見つめる。そして不躾に月乃の身体を見るべきではないとはっとして、留め具に手を伸ばした。傷つけないように、壊さないように、紅蓮の武骨な指が月乃の背中へと伸びていく。


(勢いあまって指を突き刺してしまわないように。こんなに薄い背中、すぐ折れてしまう。絶対触れないように)


 呼吸を止めながら紅蓮は背中の留め具を掴んだ。少し引くようにして一つ一つ留めていく。きちんと服が止まり、月乃の背中がすべて隠れると、紅蓮は自分の背中がじっとりと濡れていることを感じながら、「終わったぞ」と月乃に告げる。


「ありがとうございます! 紅蓮様!」

「構わん。髪は自分で出来るか?」

「はいっ!」


 月乃は何度も頭を下げ、紅蓮にお礼を言う。その姿を見て、次からはきちんと留め具の位置を確認して月乃に物を贈ろうと固く決めながら、紅蓮は自分の部屋へと戻った。



 それから、二人はお互い出発の支度をして、暗道の街へと出た。屋敷から街へは紅蓮が辻馬車を手配し、墓地や崖、暗い森、荒れ地など、おおよそ景色がいいとは言えない車窓を眺めながら街に着き、二人が馬車を降りた頃には昼も近い時間帯となっていた。


「ここが、暗道の街なんですね」


 暗道領の街並み、そして規模は帝都の中心街と変わりがない。王国からの使者や泊まる高級宿から旅人が寝泊まりする安価な宿。一見さんお断り、価格相場も大衆食堂の何倍もするレストランは勿論、普通の食堂もあれば、広場には異国の料理が味わえる屋台も立ち並んでいる。


 仕立て屋も注文する店から既製品を買い付けることが出来る店もあり、宝石店も多く立ち並ぶような装飾品や着物を取り扱う店が立ち並ぶ通りは、歴代の名家で最も美的感覚が優れた王女の名前が付けられており、淑女たちが彩るように行き交っている。


 賑わう人々と、町並みを月乃はやや圧倒されながら見つめた。彼女は暗道領に訪れ、紅蓮の屋敷へと向かう時に街を通過はしたものの。本当にただ通り過ぎただけであった。それも地図を見ながら周りの建物と照らし合わせながら、そしてこれから新しい仕事場に向かうという緊張で、街自体を見ることはなかったからだ。


 しかし今は仕事といえど、当時より月乃は心持ちが軽く、そして紅蓮についての印象も当初より変わっていることで、街を見る余裕が生まれていた。


 そんな月乃の様子を、紅蓮が嬉しさを何重にも隠した瞳で見つめる。やがて月乃はその視線に気づき、改めるように背筋をぴんと伸ばした。


「すみません。その、ここに初めて訪れたときは、迷わないようにと、あまり町並みを見ていなかったもので」

「別にいい。今日はお前を案内する意味合いもある。私の所用は些細なものに過ぎない。使用人といえど仕える主の行く場所は、しっかりと理解しておく必要があるからな」


 実際、月乃の為であって、用なんてものはないしな。心の中でそう呟きながら、紅蓮は月乃を見る。月乃は「あの……」と頬を染めながら口を開いた。


「何だ」

「……着物、それと、髪飾り……ありがとうございます。こんな素敵な着物……着るの初めてで、私なんかには勿体ないくらいで……」


 月乃はそう言いながら、自身の髪につけた髪飾りにそっと触れた。


 髪飾りは、細かな花と蝶が繊細な糸で仕上げられているかのような金細工で、蝶の羽の模様一つ一つに色の異なる鉱石が散りばめられている。そして月乃の着ている着物は、生地が重なって、海の波のように裾が揺蕩い、腰から足元にかけて色合いが徐々に変わっているデザインだ。靴は着物と髪飾りに合わせたもので、歩くたびに足元で花を模した飾りが輝く。


 月乃は、今までこんな風に着飾ったことはない。今まで服はどれも次々と装飾品や着物を欲しがる異母姉にお金がかけられ、月乃には着物が与えられることも、装飾品が与えられることも殆どなかった。


 元々当主家という立場上、名家のご令嬢のように毎シーズン何着も着物を新しく仕立てる必要性はない。しかし月乃の異母姉の真理は、名家のご令嬢たちに馬鹿にされて悔しいと両親に泣きつき、そのたびに両親は真理に着物や装飾品を買い与え、時折月乃の使い古した着物を仕立て直す予定を先送りにして真理の新しい着物を仕立てることもあった。


 そういう事情があったこと、月乃自身自分を着飾ることに興味を持てなかったこと、真理や継母に「醜い」と罵られていたことで、着飾ることは自分とは無縁だと考えていた。


 しかし今日、月乃は綺麗な着物を着ることに対して、まるで自分が生まれ変わったような、淡くきらめくような感動を覚えた。醜いはずの自分が、昨日より普通の人間に近づいたような、月乃はそんな風に思ったのだ。


「なんていうか……、こんな風に着物を着ることなんて、一生無いと思っていたので……。紅蓮様に頂いた着物を着て、その、気持ちが明るくなりました。ありがとうございます」

「分かった、今日はこの街でお前の気に入った着物や装飾品、靴を買い占めて歩く日にするか。俺が屋敷にいるとき頼んできても構わないが、やはり実物を見るのは違うだろうしな」


 月乃の言葉に紅蓮が時間を置かず即答した。月乃は紅蓮のあまりの言葉に、そして明らかに嘘偽り、そして冗談ではないことに大きく慌てた。


「いえ、そんなつもりで言ったんじゃないんです! 私他に着物が欲しいわけじゃありません。それに着物なら箪笥にもいっぱいです……」

「貴女にそんな気がなくとも俺はその気になった。貴女が俺をその気にさせた。自分の言った言葉に責任を持て。それに箪笥がいっぱいなら別に保管場所を作ればいいだけの話だ。部屋は増設ができるし、ああ、貴女専用の部屋を作ってやろうか。使用人として、貴女には俺から報酬を受け取る義務がある。それを受け取る場所を作るのも、また使用人の主である俺の仕事だ。今お前の箪笥にあるものなんて、そんなに感謝するほどの量ではない。それとも貴女の衣装を入れる屋敷を作るか。そうしたら各部屋をお前の着物、靴、装飾品、他の衣服など、貴女がいっぱいなんて容易く言えることもなくなるだろうああ、それがいい、良さそうだ。どうせ増えるものだしな。今から先手を打っておいたほうがいい」

「紅蓮様、私はそんなに良くして頂いても、お返しが出来ません」


 突如饒舌に喋りだした紅蓮に戸惑いながら、月乃は首を何度も横に振る。紅蓮は月乃の口から「恩」と聞き、ある程度興奮した様子から落ち着き始める。


「いらない。返さなくていい」

「そういうわけにはいきません。紅蓮様には日頃の感謝の分もあるのです。着物を頂いたり、このままだと……」

「たかが主人が使用人に着物を贈っただけだろう。感謝など不要だ。感謝される覚えなどない。いいか、使用人が主人に感謝をさせるんだ。感謝が欲しくて俺は……私は生きているわけではない。私は今日着物と装飾品を買う。屋敷も建てる」


 店にも向かわず通りの隅で問答を繰り広げる二人を、暗道の街の人間たちは怪訝そうに見つめる。一人はどう見ても、冷酷な判断を下しながらも確かな手腕を持つことで知られる暗道家の当主の顔に似ている。


 しかしぶっきらぼうに物事を伝えながらも、自分より年が下の娘に対して、ぽんぽんと言葉の受け渡しをする様子は、街の人間が思い浮かべる普段の暗道家の当主としてはかけ離れすぎている。暗道家当主に心酔する者が、その装いを完璧に真似た上で街に訪れたというほうが、人々は納得できるほどだった。


 そんな二人を遠巻きに見つめる街の人間の間から、華やかな香りを漂わせ、一人の人物が二人の元へと近づいていく。その香りを瞬時に察知した紅蓮は華奢な下駄の足音のする方向に顔を向けると、一気にその顔を歪めた。


「あら、紅蓮様」


 月乃と紅蓮の前に、可憐な帽子を被り、鮮やかな着物を纏った人物……恵美子が笑みを浮かべて立つ。


「恵美子……」


 紅蓮の隣に立っていた月乃は、紅蓮の口から人の名前が出たことに僅かに驚いた。今まで、紅蓮は月乃に対して人の名前を出したことは一度もなかった。


 そもそも紅蓮は月乃に対して、自分の仕事の話を一切したことがない。あの麻袋の正体が何なのかも、月乃は紅蓮に聞いていない。あの日血をぬぐった後、紅蓮はしばらく蔵にいるから何かあればノックをしろと言って、日が沈むまで蔵から出てくることはなかった。


 その後の紅蓮の表情が深刻そうで、月乃は理由を聞きたい反面、紅蓮がそれを問いかけないで欲しいということも感じ取り、ずっと黙っていた。


 そして今、紅蓮の知人か、それ以上か、紅蓮と何かしら関係のある人物が現れたことに、月乃は大きく見開いた。その視線を感じ取ってか、恵美子が月乃のほうへと下駄の音を立てながら歩み寄っていく。


「わたくし、恵美子と申しますの。紅蓮様とは幼馴染で……今はお仕事が一緒で。あなたの名前は?」

「月乃と申します。紅蓮様の侍女として仕えております」


 そう言って月乃は頭を下げる。すると恵美子はくすくすと笑った。


「あら、そうなの? 貴女が……」


 恵美子が、月乃を値踏みするように上から下と眺める。月乃が恵美子の視線に落ち着かない気持ちでいると、恵美子は首を傾げた。


「でも、月乃さんって侍女の方なのね。ちょっと驚いてしまったわ」

「えっ」

「だって、とってもいい着物を着ているんですもの。どこかの令嬢の方かと思いましたわ。まるで紅蓮様の恋人みたいで、」

「恵美子!」


 恵美子の言葉に、月乃は顔がかっと熱くなるのを感じた。紅蓮が恵美子に一喝するのも、どこか遠くに聞こえていく。それは、紅蓮との関係を恋人のようだと揶揄された気恥ずかしさではなく、使用人と主人であるのに、その関係を逸脱するような。まるで愛人だとでも言うような、辱めのような意味合いを恵美子の言葉の端に感じたからだ。


「恵美子、お前一体何の目的でここにいるんだ」

「ふふ、ただのお買い物だけれど?」


 紅蓮と恵美子の問答をよそに、月乃は黙って俯いていく。


(紅蓮様に頂いた着物を、着るべきじゃなかった)


 月乃は後悔に苛まれた。紅蓮は自分に同情をして、着物を贈ってくれただけだ。名家から疎まれ、財産も何もかもを失った家の娘だからと着物を与えた。


 しかし、傍から見ればどうだろう。使用人に主人が着物を買い与えるなんておかしいことだ。まるで愛人として囲っているみたいだと言われてもおかしくない。そういったことを考えず、紅蓮に贈られた着物を着て、あまつさえ心を明るくさせてしまったことを月乃は悔やんだ。


 自分の浅はかさのせいで、主人である、支えるべきである紅蓮を辱めている。どうして今までそれに、出発する前にその可能性を考えなかったのだろう。どう見られるのかと思わなかったのだろう。そう考えて、月乃の心はどんどん沈んでいく。


 ぐっと、月乃が唇を噛みしめると、恵美子はより一層嬉しそうに笑って、今度は紅蓮のほうに近づいていた。


「ねぇ、月乃さん。私たち、幼い頃からずぅっと一緒だったの。でも、最近は紅蓮様は侍女の方が新しく入って忙しいからと、会えていないのだけれど……」


 恵美子は紅蓮に寄り添うようにして立ち、紅蓮の腕を取りながら月乃を見た。その意味合いを、月乃は瞬時に理解する。きっと、二人は恋人同士か、もしくはそれに近しい、お互いが気持ちを伝え合えばすぐに関係に名前がつく二人なのだと。


 そして、今現在自分は、そんな二人の邪魔になっているのだと。月乃の熱を持つ頭とは反対に、身体が静かに冷えていく。どこに立っているのかの感覚も鈍くなってきて、ただ俯いていると、恐ろしく低い声が紅蓮から発された。


「恵美子。お前はそんなに死にたかったのか」


 紅蓮が静かに恵美子を睨み付ける。その目には明らかな殺意が込められていて、月乃は背筋が凍った。自分の、幼馴染。ましてや令嬢に対して、紅蓮がこんな物言いをするなんて信じられなかった。


 なぜ目の前の紅蓮はそんな乱暴な言葉を発しているのか。目の前の紅蓮は一体何なのか。月乃の熱を纏った頬が瞬時に冷え、恐る恐る恵美子のほうへ顔を向ける。すると恵美子は紅蓮の殺意など一切気にすることなく彼を見て、けらけらと笑っていた。


「やだなぁ紅蓮。そんなこと女の子に言う男なんて、最悪だって月乃ちゃんに嫌われちゃうよ」


 くすくす笑う声に、月乃は大きく目を見開いた。殺意を向けられた相手に笑えることもさることながら、恵美子から発されているその声は、先ほどの甘い声とは真逆の、男の声であったからだ。


 月乃が目を丸くすると、恵美子は扇子を口元に当て、笑いながら月乃の瞳を覗く。


「ふふふ、何でか分からない顔をしてる! 何でわたくし……ううん、僕の声が低いんだろう。まるで男みたい……そう思ってるんでしょ、不思議だなあって。可愛い女の子の声から男の声がするなんて、不思議だもんね?」

「彼女に近づくな」


 恵美子が月乃にあと一歩と近づこうとしたところで、紅蓮が割って入った。恵美子はその紅蓮の反応を楽しむようにして笑っている。状況をさっぱり飲み込めない月乃に、紅蓮は「不思議も何も、こいつは男だ。月乃」と端的に説明する。


「えっ……恵美子様は、男性……なのですか?」

「ああ。名字が江見湖(えみこ)、名前は大昇(たいしょう)。業務上恵美子が公称で女の装いをしているが、男で……そして、悪辣な奴だ」


 紅蓮が江見湖を睨むように言い、月乃は江見湖を見つめる。すかさず江見湖が「なあに? 男が女の服を着ちゃいけないの〜?」とお道化るように紅蓮の腕をつついた。


「違う、そういう話をしているのではない。お前は女の装いをして、恋人たちの元へ向かいその仲違いを誘発させようとするところが悪辣だと言っているんだ。下品極まりない。死んだ方がいい」

「え〜、だって可愛いよねえ? 相手の男に僕がちょーっと近づいただけで、僕に負けたかもって思いながら嫉妬やめられない女の子のお〜か〜おっ。僕大好きなんだぁ」


 月乃は唖然とした。江見湖の言っている言葉の、一つ一つの意味合いは理解できても、続けられる江見湖の意思について、月乃は全く理解が出来なかった。


 そうして、月乃が茫然と江見湖を見ると、江見湖は含み笑いをしながら月乃に顔を向ける。


「月乃ちゃんも、とっても可愛かったよ。初めのうちはたーだショック受けてるみたいでつまんなかったけど、途中でいい顔してくれたし!」

「え、いや、私は……」

「だから月乃に近づくなと言っているだろう江見湖」


 紅蓮が再度、月乃から引き剥がすように江見湖を押しのける。そして紅蓮は江見湖を睨んだ後、「まさか」と呟いた。


「お前、先日私に外出について二、三言ってきたのは、もしや月乃に何かするためじゃないだろうな」

「ふふ、当たりだよー! だって屋敷に入った瞬間、燃やされちゃうもんねー!」

「貴様……!」


 紅蓮は少しでも江見湖に頼ってしまったことに激しく後悔をしながらも、江見湖に再度明確な殺意を発する。しかし江見湖は変わらぬ態度で話を続けた。


「だってさあ。今までずーっと使用人雇わなかった紅蓮が、突然侍女を雇ったって聞いたんだもん。それで次に宝石とかお花とか着物とか沢山買い始めたっていうし。そんな面白そうなこと気にならない訳なくない? それに気にしてるのは僕だけじゃないからね? 他の令嬢たちは憧れの紅蓮様に恋人が〜なんて言って勝手に噂始めちゃってるし。そういうこそこそする感じより僕のがマシじゃない? 実際に自分の目で確かめに来たわけだし、不純な恋愛感情じゃなくて、僕は純粋で清らか〜な好奇心だし!」


 江見湖が意地悪そうな笑みを浮かべて、紅蓮は嫌な予感を覚えた。紅蓮の知る江見湖は、一言で表せば「女の嫉妬した顔、傷ついた顔が大好きな男」である。江見湖の幼き頃を紅蓮は知っているが、一番記憶に古い江見湖は、令嬢が己に嫉妬し、傷つく様子がどれほど可愛く、そして自分が興奮したのかを熱心に語る姿だった。


 笑みを浮かべ「他の令嬢が」「憧れの紅蓮様」と強調して話す江見湖に対し、何か良からぬことを、月乃を傷つけようとしているのではないかと紅蓮が警戒する一方、月乃は江見湖の話に対して、真逆の感想を浮かべはじめていた。


 月乃は紅蓮に対して初めて会った時、恐怖を抱いていた。しかしそれは紅蓮自身に対するものではなく、主に契約を途中で切られたらどうしよう、初めて掴んだ仕事を離したくないという状況的な要因から来る不安によるものだった。


 そして契約が突如改定され、初めほど解雇の不安がない今、月乃は冷静に紅蓮を見ることが出来ている。そうして見た紅蓮への印象は「目が悪い優しい人」というものだ。


 紅蓮は元より目つきが鋭い。それに輪をかけるように、月乃の前では顔がにやけないように、気味が悪く思われないよう眉や口角に不必要に力を入れ、まるで敵のように月乃を睨んでいる。


 月乃はそんな紅蓮の視線に対し、彼自身からかけられる言葉の印象と合わせ「紅蓮様は視力が悪い」という答えを導き出していた。


 実際紅蓮は視力が悪いわけではない。むしろとても優れていて、銃を持たせればどんなに遠く離れた敵も打ち抜き、剣を持たせればその筋力による投擲によって突き刺すことができると、恐れ慄かれる存在だ。そして誰かに親切であることもなく、誰とも関わろうとしない。領民に対しては若干柔らかであるものの、そうでなければ誰に対しても平等に冷酷だった。


 しかし、実力はトップクラス。そんな男を陰から見つめる令嬢が数多いる。というのが現実である。よって紅蓮は周囲の令嬢どころか周囲の者たちから、敬われはするものの決して明るく慕われる存在ではなかった。


 しかし月乃が抱いた「令嬢たちと憧れの紅蓮様」の印象は、令嬢どころか皆に慕われる優しい様子である。


(紅蓮様は、皆に慕われているんだ)


 納得するように月乃が紅蓮を見つめる。するとあわよくば自分の話を聞いて、月乃が他の令嬢に嫉妬しないか、嫉妬をする顔が見られないかと期待をしていた江見湖は酷く落胆し、ついでにとでも言うように話を続ける。


「それに、僕は紅蓮に恩返しをしようと思ったんだよ?」

「……は?」

「紅蓮ってば、僕が侍女ちゃんってどんな子? って聞いたら、すごーく不機嫌になったでしょ? だから二人、あんまり上手くいってないのかと思って、仲良くなるの手伝ってあげようと思ったんだよ」

「不機嫌にもなるに決まっているだろう。何故お前に私が雇った侍女の話をしなくてはいけない。絶対に碌なことにはならないだろう。今だってこうして、お前は月乃に……」


 紅蓮が江見湖を睨み付け、江見湖はお道化たように笑って見せる。そんな二人をよそに月乃は一人、じっと地面を見つめていた。


(紅蓮様が、私のことを尋ねられて、不機嫌に……)


 月乃はさっきの江見湖の発言を反芻しては、顔を曇らせる。自身の存在が他者を不機嫌にさせることについては、継母、そして異母姉の態度によって、月乃はしっかりと把握をしている。


 そしてどうすれば他者を不機嫌にさせずに済むのか、月乃はずっと考え続けていた。しかし答えが出ることはなく、毎日自問自答の日々を送っていた。しかし最近はどうだろうと思い返していく。暗道領に辿り着いてから、そのことについてはあまり考えていなかったと、月乃は初めて気が付いた。


 すると、そんな月乃の表情を見た紅蓮は、江見湖の言い放った言葉により月乃が傷ついたのだと瞬時に判断を下した。


(江見湖と、月乃を引き離そう)


 紅蓮は人より結論を出す速度は速いものであった。しかし、それは決して本能的に、思考を放棄するものではなく、物事を順序立てきちんと取捨選択をした上での速さであった。


 本来であるならば物事を判断するにあたり、きちんと対象を見定める。しかし今、紅蓮は江見湖の言葉に月乃が傷ついているのだと思いつき、すぐさまその判断の元、行動に出た。


「江見湖、そろそろ私たちは失礼する。これから買い物があるのでな。葬儀には顔を出してやる。もう会うことはないだろう」


 そう言って紅蓮は、何の躊躇いもなく月乃の腕に手を伸ばした。そうして月乃の腕を取って、何故もっと早く、月乃が傷つくより前に彼女の腕を強引に取っておかなかったのか、引き離さなかったのかと紅蓮は後悔をする。


 一方の月乃は、突然紅蓮に腕を取られたことに驚いていた。そして同じように驚きつつも、江見湖は不満そうな表情を浮かべた。


「何で? 僕月乃ちゃんのこともっと知りたいんだけど?」

「お前は一生知らなくていい。そして死ね。行くぞ月乃」

「えっ紅蓮様!?」


 紅蓮は月乃の腕を引いて、江見湖に背を向けて強引に歩いていく。月乃が半ば引きずられるようにしながら江見湖の方を見ると、残念がっていた声色に反し江見湖は嬉しそうに口角を上げて月乃に手を振っていた。


 月乃はそんな江見湖に頭を下げながら、ただただ紅蓮に腕をとられ、連れられて行った。



 紅蓮が月乃を連れていく足をどんどん加速させ、江見湖と離れるどころか街の最果て近くまで訪れた頃、紅蓮はその足を止め月乃の腕から手を離した。


 周囲は人気もなく、栄えていた街並みも薄れ、道の先には暗い森が広がっている。太陽も沈み始め、青かった空は橙に染まっていた。


 着いていくのがやっとで紅蓮に声すらかけられなかった月乃は、ようやく彼が停止したことで、息も絶え絶えになりながら声をかける。


「あ、あの、ぐ、紅蓮様」


 月乃は何とか呼吸を整えようとするが中々上手くいかない。そんな月乃の様子を見た紅蓮は、自分がこれまで、停止することもなく月乃を振り返ることもなく、ただひたすら江見湖から月乃を遠ざけようとし、闇雲に歩かせたことに気付いた。


 慌てて月乃に向き直ると、紅蓮はおろおろとしながら手を彷徨わせる。


「す、すまない……。水か……飲み物を用意して……、けっ、怪我はないか」


(しまった……。俺の足の速度では、月乃に負担があることを失念していた……。なんてことをしてしまったんだ私は……。せめて担いで運んでいれば……。怪我はないだろうか……。心臓に負担がかかっていないだろうか……? 医者を呼ぶか……?)


 紅蓮が慌てて街の医者までの最短での道のりを計算している間に、月乃は息を整えていく。そしてようやく言葉が紡げる状態にまで持ち直すと、改めて紅蓮を見た。


「あの、私は大丈夫なのですが……紅蓮様は、お加減が優れないのでしょうか……」


 月乃が、不安げに紅蓮を見つめる。江見湖と別れる直前、月乃が自身の腕を掴んだ紅蓮を見たとき、彼女は紅蓮が傷ついたように見えていた。


 そして腕を取られ連れ去られていく時も、わずかに伺う紅蓮のその横顔は酷く痛むような、苦しむような顔をしているように感じた。


(怪我をするような素振りはどこにも見受けられなかった。江見湖様の言葉に傷ついた様子でもなかった。ならば紅蓮様は、どこか体調が悪くなってしまったのだろうか)


 月乃はそう考え、紅蓮が立ち止まるまでずっとその体調を案じていた。そんな月乃の労りの言葉に、紅蓮はその瞳を驚きで揺らしていく。


「わ、私は別に、何ともない。何故お前が心配する」

「どこか痛むように見えまして……あの、どうしても紅蓮様が何かご必要なものでしたら、私がお引き受けいたしますので、紅蓮様はお帰りになられた方が……」


 月乃の言葉に、紅蓮は静かに想いが積もっていくのを感じた。自分は、ただ江見湖と月乃を引き剥がすことを考えていた。それは月乃が傷ついていたからに他ならなかった。が、傷ついた月乃を振り返ることなく、ただ引き離すのに夢中で半ば連れ去りのような真似をした。


 しかし、月乃はその間、腕を取られ引きずられるようにしながらも、ずっと自分の心配をしていたのか。紅蓮の心に、ふつふつと湯が煮えるように罪悪感が沸き立っていく。すると月乃は不安げな瞳を更に揺らめかせた。


「紅蓮様、お医者様に行きましょうか、酷くお顔の色が悪く感じます。それも、今なお悪くなる一方で……」

「いや、体調が悪いわけではない、自分の不甲斐なさを痛感していただけだ……」


 そう言って、紅蓮は更に顔色を悪くする。月乃がなんと言葉をかけようか悩んでいると、紅蓮はぼそりと呟いた。


「……俺は、貴女のようになりたいのに……」

「えっ……」


 紅蓮の言葉が理解できず、月乃は聞き返す。しかし紅蓮は俯きがちに月乃を見て、また俯いた。


「俺は、貴女の役に立ちたいのに……っ。もう日が沈んで、何も出来ない……貴方に与えられない。今日は、貴女に物を贈ろうと、そう思ったのに……」


 覇気のない声に、月乃の心がずきりと痛む。紅蓮様は今、どういった理由で、自分に不甲斐なさを感じているんだろう。月乃は目の前にいる紅蓮に想いを馳せる。月乃が少し腕を上げれば、その指は簡単に紅蓮の体へとぶつかる。それほどまでにそばにいるのに、月乃にとって紅蓮は酷く遠くにいるように感じた。


 ――俺は、貴女のようになりたいのに。


 紅蓮の言葉の意味を、月乃は理解できない。


 月乃は自分になりたいと思ったことがない。母は自分を愛してくれたと断言できる。しかし母以外の人間……、継母や、異母姉、そして父には疎まれ、ひたすらに邪魔ものだと扱われた。


 月乃の母だけは、彼女を疎まなかった。紹介所の人々は、優しくしてくれた。しかし父は彼女を疎んだ。自分を見るたびにため息を吐き、異母姉が令息へと近づくのを止めようとするたびに「家族を大切にしようと思わないのか?」と責めた。


 庭園を潰されたことを悲しんだとき、「姉と母親の安全を考えられないなんて意地の悪い人間だな」と言った。


 だから、私は私になりたくない。でも紅蓮様は私になりたいと言う。何故だろう。紅蓮様は優しい方で、こんな私にも良くしてくれる素晴らしい方なのに、私なんかになってしまってはいけないのに。


――俺は、貴女の役に立ちたいのに……っ


 どうして、貴方はそんなことを、言ってしまうのか。月乃は目の前の男を見て、心の氷が解けていく感覚がした。


「紅蓮様」


 躊躇いがちに、月乃が紅蓮の腕に触れる。紅蓮はただじっと自分を責めて月乃が自分の腕に触れていることに気付かない。もう一度、今度はわずかに力を込める。


「紅蓮様、私は……、欲しいものなんてありません。でも、紅蓮様は、紅蓮様のままで居て頂きたいとそう思っております」

「月……乃?」


 紅蓮の虚ろな瞳が、やがて月乃をとらえた。そしてそのまま、曖昧に輪郭を形どるようにして、月乃を映していく。その姿に月乃は僅かに頷いて、紅蓮の瞳と目を合わせた。


「……私は、約ひと月の間、紅蓮様と共に居させていただきました」


 月乃は、このひと月の出来事を思い返しながら、言葉を紡ぎだしていく。まだ初め、この屋敷に訪れてすぐの、契約が変更になった時。あの時を今思い出してみれば、ただ鋭いと思っていた紅蓮の瞳は、自分と同じように不安で揺れていたことを思い出す。


 そして次に、仕事の説明を始めるときの、紅蓮の声色は緊張を帯びていた。そして、頑なに自分を「そちら」と言う紅蓮に対して、自分の名前が月乃だと伝えると、何故か酷く焦っていた表情を思い出す。そして、部屋に案内されたときに言われた、あの言葉――。


 ――いいか、貴女は素晴らしいんだ。絶対に、誰がどんな妬みや嫉妬で貴女を乏しめようと、貴女の素晴らしさは……――


 それまでずっと、月乃は呪詛のような言葉を浴びて生きていた。それは月乃自身、仕方がないことだと思っていた。自分は、産んでくれた母以外の人間には受け入れてもらえない存在であると、毎日毎日これでもかというほど証明されて生きていた。


 そんな決まりきった世界に、突然降ってくるようにして現れたのが、紅蓮という存在だった。


 自分のような人間の為に、食事を作り、ものを与えようとする紅蓮に感謝すると同時に、強い戸惑いを覚えた。なぜならば、月乃にとって自分に与え、肯定しようとする存在は、母以外にいないと思っていたからだ。


 だから紅蓮の優しさに感謝しながらも、いつか紅蓮が月乃を役に立たずで、どうしようもない人間だと判断をして、今までのことがまるで幻想であったかのように自分を疎むのであるという想像を月乃は繰り返していた。


 自分を退ける紅蓮の姿を思い描くことで、心の安定を図っていた。こんなにもよくしてくれる紅蓮に対し、どんなに非礼なことをしているのかは痛いほど月乃に分かっているのに、彼女はそれをやめることが出来なかった。


 しかし、月乃は今、まるで世界で一人ぼっちになってしまったかのように俯く紅蓮に対して、自分が想像よりずっと酷いことをしていたのだと思い知った。


「私は、紅蓮様に優しくしていただくたびに、いつかきっと紅蓮様は私がどうしようもない役立たずと知って、皆と同じように、私を見る目が変わっていくのだろうと、そう考えておりました。朝共に花を愛でることもいつか無くなってしまうのだろうと、終わりのことだけを考えておりました」


 絞るような月乃の言葉に、紅蓮が顔を歪める。辛そうな紅蓮の表情に月乃は胸がまた痛んでいくのを感じながら、言葉を続けた。


「しかし、皆と紅蓮様は違うのだと……今はっきりと、そう思いました。……だって、紅蓮様は、私の為に、こんなに綺麗な涙を流してしまうほどに、優しい方だから」


 月乃が、真っすぐと紅蓮の頬に手を触れさせる。するとそこから、とめどなく澄んだ液体が流れていた。それは紅蓮の瞳から、ずっと溢れていたものだ。


「だから、その優しさを持ったままで居てください。私になんか、いいえ。誰かになんてならなくていいです。紅蓮様は、紅蓮様のままでいてください。私は、ありのままの貴方が、いいと思います」


 どうか、貴方はそのままで、優しいままで。そして、私なんかのために泣かないで。祈るように、月乃は紅蓮の頬を撫でる。赤い夕焼けが周囲を包む中で、月乃は紅蓮の涙が止まるまで、いつまでもそうしていた。



 月乃と街へ出かけ、十日が経った夜。紅蓮は絶望を覚えながら、己の執務机に額をこすりつけていた。


 本来ならば現在の時刻に、紅蓮は部屋でただ執務机に額をこすりつけ、身体をゆすっているほどの暇はない。


 何故ならば、月乃が次に待つ主人を冷めた湯に入れさせる訳にはいかないと手早い入浴をしている間に、書類仕事を片づけ、厨房で明日の食事の仕込み、庭の手入れ、月乃に頼めない危険な場所だと紅蓮だけが考えている棚が多く、比較的重たい……といっても生まれてまだ三年も経たない子供ほどの重さの書類がしまわれている倉庫の整理、屋敷に鼠一匹でも入れば紅蓮が直ちに察知するにも関わらず暗いところは危ないと月乃に出入りを禁じている地下室の清掃、個人的な理由で月乃を絶対入れない書庫の清掃を驚異的な速度でこなし、恰もただ月乃が風呂から出るのを待っていただけで、清掃など一切していない顔をしなければいけないからだ。


 しかし、そんな忙しいはずの紅蓮が絶望し闇雲に時間を潰しているのは、自分の不甲斐なさに嫌気がさし、月乃に物を贈ろうと街に繰り出したのにも関わらず、戻っても店の閉まりだす頃合に街の最西端に向かった挙げ句、自分が情けなくなり、月乃の前で涙を流していたことに他ならない。


 紅蓮は当初、月乃に指摘されるまで、自分が涙を流していることに全く気付いていなかった。


 紅蓮は生まれてから、紅蓮の生きてきた中で最も最悪であったと言える日……十八年前のあの春の日以降、涙を流したことはただの一度もない。どんな痛みに襲われようと苦しめられようと、そして十八年前のあの日を思い出そうと、涙を流すことはなかった。


 涙を流す感覚すら分からず、目元が濡れているときの風の冷たさや、目頭が熱くなる感覚も鈍く、月乃に頬に触れられ、直接伝えられるまで分からなかったのだ。


 だからこそ、いつから自身が泣いていたのか、さっぱり紅蓮は分からなかった。


 江見湖が居たときに泣いていれば、江見湖は即座に自分を見て笑うか驚くか、大きな反応を示していたはずだ。だから、自分と月乃が江見湖の元を去って、月乃に指摘されるまでのそのどこかから自分は泣いていたのだろうと紅蓮は考えたものの、それからはどう考えても思考は最悪なものに落ち着くばかりだった。


(……ああ、嫌われたどころの問題じゃない。自分より四つも年上の男が、ぐずぐず子供のように泣いていたんだ。絶対に、絶対に月乃の心に深い傷と嫌悪を感じさせたに違いない……)


 紅蓮は芋虫のように蠢き、机に額をこすりつける。紅蓮は、月乃が人が涙を流したことで、嫌悪をするようなことはしないとは心の奥底では理解している。しかしそれこそが問題で、紅蓮は「月乃は俺のような人間でも、気味悪がりはしないがそれは月乃の心優しき理性によるもので、実際本能的には気持ち悪がっていてもおかしくはない。そして月乃の理性と本能で葛藤が生まれ、俺が気持ち悪いせいで月乃の精神に莫大な負担がかかっている」という妄想に取りつかれ、延々と額をこすりつけていた。


 すでに紅蓮の額は赤く色づき、風呂から出てきた月乃が確実に心配をするほどの仕上がりを見せ始めている。しかしそれどころではない紅蓮は、心を落ち着けるように額をまたこすりつけた。


(ああ。それにしても、俺は本当になんなんだ……月乃を守ると、月乃の生活を整えると、そして月乃の心の安寧を第一に考えると、そう決めて月乃を屋敷へと招いたのに、そしてその気持ちは今も変わらないのに、俺は月乃に心を守られ、月乃によって生活に潤いが出て、月乃のことを考えるだけで心が明るくなっている……。月乃を救うはずなのに、俺が救われてどうするんだ。俺が救われていいはずがないのに。俺が月乃が救われる手伝いをしなければならないのに。どうして俺はこうなんだ。俺は死ねばいい。俺は死ね。俺は死ね、俺は死ね……。しかし今死んでしまったら月乃を救わずのうのうと死ぬことになる。駄目だ。しかし生きていたくない……。どうして俺はこうなんだ。もっときちんと、月乃を光の下へ導いて、その背中を押して消えなければいけないのに)


 轟音を立て、紅蓮は机に頭を打つ。


 そしてまた机に頭を同化させるようにこすりつけていくのを再開する。


(月乃の気晴らしになればいいと出かけたのに、結局俺が泣いて月乃に慰められて帰ってきただけで、結局月乃に着物の一つも、宝石の一つも贈ることが出来ていないなんて……)


 紅蓮がまた机に頭を打ち付ける。しかし、紅蓮は月乃と出かけた際に物を贈らなかっただけで、月乃と出かけてから今日に至るまで、そして月乃が屋敷に訪れてから共に出かけるまで、紅蓮は花や菓子、着物や装飾品をほぼ二日おきに与え続けている。二日おきというのも月乃が「毎日そんなに頂けません」と強めに言ったからであって、紅蓮は毎日贈りたいと考えていた。


 しかし今は二日おきの贈り物すら月乃は申し訳ないと言って聞かないため、紅蓮はただ贈るのではなく「たまたま見つけた」「知り合いに買わされた」「湧いて出てきた」「無意識だ」と街の幼子も驚くほど幼稚な言い訳をしながら月乃に物を買い与えていた。


 そして月乃は、花を与えれば飾り、そして最後には押し花にしたり乾燥させて香りを楽しもうとしたり、菓子ならば一緒に食べたいと紅蓮を誘う。その姿がたまらなく愛おしく感じて、抱きしめたくなる衝動を発散させるように紅蓮は月乃に贈り物をしていた。


 それが街の者からの血税であるならばまだ誰かが止められ、そして月乃自身も強い拒絶が出来ただろうが、そもそも紅蓮はそんなことを良しとしない。


 紅蓮の資金力は、紅蓮の戦いでの報奨金によるもので、いわば暗道家の資産ですらなく紅蓮個人の資産だった。紅蓮が己の力をいかんなく発揮し、その命を使い得たもので、今まで何にも興味がなかったために貯まり続けた、いかに紅蓮が人として欠陥があるかを証明する資産である。「俺が戦いで得たものだ。俺が好きに使う権利がある」といえば、使用人である月乃はもう口を開くことは出来なくなってしまうのであった。


 そんな紅蓮であるが、月乃と出かけたとき、そのままどこにも寄らず帰ってきてしまったことに対して、今だ大層落ち込んでいた。そして月乃自身が「街を紅蓮様と見ることが出来て嬉しかったです」と心から考え、それを態度で示していても、どうしてもその落ち込みは解消されることがない。


「生きていきたくない……」


 紅蓮がぼそりと呟く。紅蓮はある体質上、極めて自死が困難である。紅蓮はそれをきちんと認識しているが、月乃に対して情けない姿を見せ、気持ち悪がられたかもしれないという可能性だけでそれを求めてしまうほど、紅蓮の中で月乃への想いは強い。


「誰か殺してくれ……」


 月乃が海を山といえば紅蓮の中では海は山となり、月乃が東を西だと言えば、紅蓮は東は西だと考える。紅蓮の中ではすべての天秤が月乃とそれ以外で測られ、月乃の載る皿は常にその比重を下に傾け、それ以外の皿にはそもそも何も載っていない。そもそも何も載せない。それくらい紅蓮にとっては月乃が全てであった。


 だからこそ、紅蓮は額をこすりつける。己の不甲斐なさによる落ち込みを誤魔化すために。そして時折額を打ち付け、自分を罰する。そうして暫くたった頃、紅蓮はとある気配を察知して、その机から額を離した。


 月乃が、部屋に向かってきている。


 そう察知した紅蓮は立ち上がり、じっと月乃が部屋に訪れるのを待った。するとやがて控えめなノックの音が聞こえてくる。紅蓮が扉に声をかけると、部屋に入ってきた月乃は、紅蓮の額をじっと見た。


「あの、紅蓮様、お怪我を……?」

「これは新しい健康法だ。お前は気にしなくていい」


 月乃の問いかけに紅蓮はしれっとした顔で答える。徐に月乃が視線を落とし執務机に目をやった。執務机は紅蓮が散々己の額を叩きこんだことで中央が僅かに窪んでいる。月乃は不思議そうにしながらも、懐から風呂場への鍵を取り出し紅蓮に手渡した。


「お風呂場の鍵です」

「ああ」


 そっけなく紅蓮は月乃から差し出された風呂場の鍵を受け取る。鍵が自分の手から離れたことを月乃は確認して、紅蓮に頭を下げた。


「では、私は失礼いたします」

「ああ。早く寝ろ。もう寝ろ。すぐ寝ろ。体が冷める前に。早くな。まぁ冷めてもまた入ればいい。いくらでも入れ直す。何なら入りたいときに入れ。湯は沸く」

「ありがとうございます」


 元々、風呂場に鍵は取り付けられていなかった。しかし紅蓮が男と二人きりの屋敷で風呂場に鍵が無かったら恐ろしいだろうと取り付けたものである。


 それも一つだけでは月乃が不安になってしまうのではと考えた紅蓮は、風呂場の扉に五つ、脱衣をする部屋へと向かう扉に五つと、十の鍵を取り付けている。


 しかし月乃が現在使用しているのは屋敷の廊下から脱衣をする部屋への扉に一つのみで、鍵をかけている理由も紅蓮に鍵をもらったから、そして自身の見苦しい入浴姿を紅蓮の目に入れるわけにはいかないという理由だった。紅蓮も紅蓮で自分の身体なんて月乃に見せる訳にはいかないと風呂に入るときは鍵をかけるが、二人はまさか双方が同じ理由で鍵をかけているなんて、全く想像していない。


 紅蓮は月乃が部屋から出ていく後に続こうと、慎重に足を浮かせていく。そうして月乃へ一歩足を踏み出そうとした瞬間、ある気配を察知した。静かに後ろを売り向き、窓へと目を向けながら月乃に「待て」と命じる。


 窓の外は日が沈み黒一色であるが、紅蓮には呼んでもいない客人が来たことがありありと分かった。部屋に置かれていた剣を手に取り、月乃に「お前は隠れていろ」と抑揚のない声で命じてから、部屋に侵入される可能性もあることを思い立つ。そして月乃に着いてくるよう促した。


 そのまま二人で共に玄関ホールに向かい、紅蓮は月乃に階段の裏へと隠れるよう指示し、月乃が隠れたのを見計らって自分は玄関扉の影へと隠れた。紅蓮が剣を構えていると、扉が開く。


「グレーン! 遊びに来たよー! それとお詫びー!」


 暗い闇夜から、華やかな色合いの着物と帽子が現れる。そして、それらに負けないほどの可憐な笑顔で、暗道屋敷に訪れた江見湖は、紙袋を掲げたのであった。



「はい、これ帝都で流行ってるお菓子でーす! どーぞ!」


 月乃が部屋の隅で二人が飲むお茶を淹れていると、客間のソファに座った江見湖が両手で紙箱を紅蓮に差し出す。暗道の屋敷の客間は元より主以外の来訪を想定せず、もしもあるならばそれは密談の為。よってその造りはどの場所よりも簡素だ。


 中央には机が置かれそれらを挟むように置かれたソファのみ。豪華な設えも装飾もない。机を挟んだ向かい側のソファに座る紅蓮は、疲れ切った瞳で紙箱を受け取ると端に置いた。


「えー! 開けなよー! おいしいよ?」

「煩い喚くな。俺は疲れているんだ」


 紅蓮の疲れの原因は、言わずもがな江見湖である。先刻まで江見湖を屋敷に入れるか入れないかでひと悶着があり「用事があって来た」という江見湖に紅蓮は「なら明日にしろ」と答え、江見湖を扉ごと押しつぶすようにして屋敷から追い出そうとした。しかし江見湖もそれに反発し、扉を挟んだ猛攻が繰り広げられていったのだ。


 月乃がお茶を淹れ終わり、二人に差し出す。そして部屋から出ていこうとすると紅蓮は「待て」と月乃に声をかけた。


「はい」

「今日はもう、このまま部屋に戻り部屋から出てくるな」

「かしこまりました」


 紅蓮の言葉に月乃は頭を下げ、部屋から退出しようとする。江見湖は「えぇ〜月乃ちゃんもお話ししようよ〜」と不満顔をし、紅蓮が「黙れ」と一喝した。


 そのまま月乃は部屋から出て、扉を閉じる。部屋へと戻ろうと廊下を歩き玄関ホール横切っていると、大きな階段の脇に紐で纏められた新聞が見えた。纏められた新聞を見て、月乃は今朝方紅蓮に明日焼却処分をするから、燃やしたいものがあれば伝えるように言われたことを思い出す。


 徐に月乃が新聞を手に取ると、自分の異母姉、真理の記事が載っていた。


(お姉さまは、今頃平民として、廃太子様と慎ましく暮らしているのだろうか)


 月乃は新聞を見つめながら、異母姉である真理や、継母、そして父について想いを馳せる。


 今まで、真理や継母、そして父からの仕打ちに対して、月乃は当然であると考えていた。自分が不出来だから、自分が悪いから、自分が人を苛立たせるから家族たちはそういった態度を自分に取るのだろうと。


 しかし紅蓮が、自分になりたい、自分の役に立ちたいと泣いた姿。あの姿を月乃が思い返すたびに、真理と継母、そして父からの仕打ちについて、自分は酷く嫌なことをされていたのではないかと月乃は考えるようになっていた。


 元より月乃は継母や異母姉、父らの態度は酷いものという認識はあったが、そういったことをされるのは自分が嫌な人間だから、自分が駄目だからだと考え仕方のないことだと思っていた。しかし紅蓮と過ごし彼が泣く姿を見てから、自分はただ不当に暴力や侮辱を受けていたのではないかと、月乃はそう考えるようになった。


 例えばもし、紅蓮や他の子どもが自分と全く同じ境遇であったのなら、月乃は紅蓮や他の子どもに対して「あなたは悪くない」と伝える。しかし今までの月乃は、自分が悪いのだと思い込みもし「あなたは悪くない」と言う者がいたとしても「そんな訳がない」と相手の言葉を心の中で切り捨てていたことだろう。そんな月乃の曖昧な矛盾のある思考を、紅蓮の涙を見たことで月乃ははっきりと自覚したのだ。


 そうしてある種冷静になった月乃は、異母姉や継母、父についてなぜ自分がああいった扱いをされていたのか、疑問を感じるようになった。


 手っ取り早く解決するには暇を貰った時に会いに行くことであるが、月乃自身そうまでして会いに行きたいとは思わない。


 ただこうして考えているだけでも、いつか充分な答えが得られる気がして、月乃は考え続けている。それに継母と父の動向はともかく、異母姉についての動向を月乃は新聞によって知っていた。


 華族間の中では元令息と女の近況は話題性があり、何か動きがあるたびに表紙の一面を飾っている。朝届く新聞を月乃が紅蓮へと届ける際、月乃はその表紙によって、異母姉と元令息の情報を得ていた。


 そうして月乃が異母姉と廃太子について知り思うことは、特になかった。自業自得だと思うこともなければ、同情もしない。月乃にとって、新聞によって家族の情報を得ることは、何か膜を通して知るような、現実味を帯びない手段であったからだ。


 月乃の父である蜂矢当主が後妻にと妾とその娘、真理を月乃と住んでいた屋敷に伴いやってきたのは、月乃の母が死に丁度半年が過ぎた頃であった。それまで月乃の父は元々屋敷に帰ることは殆どなく、月乃の母が病床に伏してもそれは同じだった。


 だからこそ、月乃の心の中の両親への比重は母が圧倒的に占めていたが、母が死に、月乃は父を求めるようになっていた。


 しかしそんな月乃を嘲笑うかの如く、当主は後妻と娘の真理を迎え入れたのである。継母は前妻の子である月乃の存在を心から疎み、そして真理は自分だけの父であったはずの当主に、自分と愛情を分かつ存在である月乃が存在したことに怒りを持ったのだ。


 真理は日頃から月乃に激しい怒りをぶつけていた。優しい父親は、私だけの父なのだと。そして今まで自分と母が父と同じ屋敷に住めなかったのは月乃の母と、そして月乃のせいだと毎日のように月乃を罵り、痛めつけていた。しかしいつの日か、真理が夜会で令息と出会い、接近し始めた頃からか、月乃への暴力は減り、その代わりに嫌味が増えた。「私はお前と違って幸せになるの。お姫様になるのよ。ずっと貧しい暮らしをしていた私だから、その苦労が報われてお姫様になれるの。そう決まっているの」「お前は地獄がお似合いよ、この性悪女」と月乃を見てはせせら笑った。


 そんな真理は、王太子が廃嫡されたことで、平民へと戻っていた。月乃の父と継母は平民として僻地へと飛ばされ、月乃も平民となり放逐された。


 だが真理は廃太子の子を腹に宿していること、廃太子は廃嫡されたといえど王家の血を引くことに変わりはなく、また病以外での廃嫡は初であったため、本人にその力はなくとも反乱や宗教に利用され後々国営の障害になるのではと、月乃のいる暗道領とは反対の、西の豪雪地帯の村へ王家の監視のもと住むことが決められた。


 月乃は真理に度々「お前は恋を知らない」「誰かと愛し合うなんてこと、一生出来ない。お前の卑しい母親と同じ」と言われてきた。その真理の言葉に、月乃は反発する感情を抱かなかった。本当にそうだと思ったからだ。


 自分を家族として愛してくれた母が亡くなってしまった今、自分を愛する存在は、この世界から消えてしまった。社交界で男女が会話を嗜んでいるのを見ても、別世界のものとして月乃はとらえていた。月乃は今、愛を知らない。


 しかし本や人々の言葉によって認識した情報によって、愛する人の傍にいられることは幸せだということを月乃は知っている。子をもった母に乱暴する人間はいないだろうし、側には廃嫡されたといっても元令息がいるのだ。自分と同じように罵倒されることもないだろう。だから真理は幸せだと月乃は判断した。


 しかし、そう考えると月乃は少し、気持ちがさざめくのを感じた。耳の奥底で、真理が自身を罵倒する声が聞こえる。一生懸命育て、押し花にした花をぐちゃぐちゃに潰された光景が、頭の中で鮮明に映し出されていく。ふつふつと湧き上がる感情に、月乃は心底戸惑う。


(なんだろう……嫌な気持ちがする)


 月乃は、その想いの正体について考え始める。今までこんな感情は自分に無かった。これではまるで、自分が真理に対して憤っているみたいじゃないか。月乃はそう考えて、はっとする思いで自身の胸に手を当てた。


(私は怒りを感じている……?)


 自身が、踏みにじられていた。侮辱を受けていた。そのことについて、月乃は今初めて怒りの感情を抱いた。もう過去のことだ。姉である真理が幸せだからなのか。月乃はひとつひとつ自問自答をしてく。すると紅蓮の声が頭の中に響いた。


――いいか、貴女は素晴らしいんだ。絶対に、誰がどんな妬みや嫉妬で貴女を貶めようと、貴女の素晴らしさは……!


 紅蓮の必死な表情、そして強い眼差し、力を込めた声が色鮮やかに月乃の頭の中に蘇っていく。そうして月乃は、紅蓮に大切に扱われている。そんな自分が不当に扱われていた過去が、まるで紅蓮すら踏みにじられているように感じて過去のことを許せなくなっているのだと気付いた。


(そうか、だからわたしは、怒っているんだ。紅蓮様すら踏みにじられてしまったんだと、考えて)


 自分が不当に扱われていた過去があっても、別に紅蓮が異母姉たちに侮辱されているわけではない。それなのに声に出して呟くと、月乃は無性に紅蓮の顔が見たくなった。明日になれば会えるというのに、何故だか無性に胸が熱く、月乃の中で紅蓮への焦燥にも似た感情が増していく。


 月乃は吐き出すようにゆっくりと息を吐いてから、階段に足を乗せた。一つ一つ、正体の見えない感情に折り合いをつけるように階段を上がり、丁度踊り場へと差し掛かったころ、月乃の背後に爆音のような音が響く。


 今のは、確実に何かが爆発した音だ。


 月乃はそう確信しながら振り返り、辺りを見回すが、玄関ホールはいつも通りの光景を保ったままで、何かが破壊された気配はない。首を傾げながら月乃は段差の上に置いた足を下にずらすと、足場の見通しが甘く月乃の重心は下へと傾いた。


 とっさに手すりを掴もうとするが、月乃の手は届かない。そのまま重力に逆らうことができず月乃の体が傾いていくと一階の階段脇の廊下から黒い影が月乃のもとへと凄まじい勢いで迫り、月乃を繋ぎ止める。


「大丈夫か月乃」

「紅蓮様」


 落ちそうになった月乃を、背後から抱き留めるようにして紅蓮が支える。紅蓮の心臓が激しく脈打っていて、月乃は紅蓮が急いで飛んできたのだと理解した。


「あ、ありがとうございます」

「気にするな。お前が無事ならいい。お前の呼ぶ声が聞こえて飛んできたが、気のせいだと思わなくて良かった。本当に良かった。……良かった」


 紅蓮は月乃を抱え、踊り場に立たせる。そして月乃の姿をまじまじと見つめ「怪我はないか?」と短く問いた。


「はい、紅蓮様のおかげで何事もなく……」

「そうか。ならいい」


 月乃の言葉に、紅蓮はほっと息を吐いた。月乃が紅蓮の顔を見ていると、不意に紅蓮の瞳が僅かに光っていることに気づく。まるで意思を持ち発光しているかのような眼差しに、月乃が注意深く紅蓮を見ていると、さきほど紅蓮が現れたところから江見湖が遅れるようにしてやってきた。


「紅蓮何なの? 突然力使いだしてさあ」

「黙れ江見湖、その話をここでするな」

「えっ、何で?」

「それは軍部の機密事項だ。月乃が知れば、月乃の身が危険に晒される」


 紅蓮の強い口調に、江見湖が驚くように目を開いて、言葉を発した紅蓮ではなく月乃を見た。


「えっ月乃ちゃん、もしかして何も知らないの?」

「そうだ。月乃は侍女だ。軍部の情報を与えるわけにはいかない……月乃、今聞いたことは全て忘れろ、今すぐ部屋へ戻れ」


 いつになく焦った紅蓮の言葉に、月乃は素早く頷いて階段を上がり、部屋へと戻っていく。そして紅蓮は月乃が階段を上がっていくのを見届けてから、暗闇に身を沈めていくように階段を降り始めた。


「ねえ、あの子に何で話さないの? っていうか結婚しちゃえばいいじゃん」


 江見湖はきちんと月乃が去ったのを見計らってから、階段を下りてきた紅蓮に問いかける。その言葉に紅蓮は遠くを見ながら答える。


「いずれ分かつ道、そんな必要はない」


 紅蓮は振り返り、階段を見つめた。二階へと繋がる階段は照明に照らされ、陰影がはっきりと浮かび上がっている。しかし自分の立つ場所は照明がないことで陰影がなく影に染まり、階段のほうから照らされる光によって、ようやく曖昧に物の判断が出来るほどに薄暗い。


「でも、ずっと一緒にいた方が、あの子も安全なんじゃない? さっき話した通り、名家はまだ駄目みたいだし、あの子に話をしてさ、一緒に……」

「馬鹿を言うな、人間と暮らしたほうが安全に決まっているだろう、本当なら俺なんかが……!」


 俺なんかが、その先の言葉を紡ぐことは無く、紅蓮は顔を歪める。そして言葉を続けることは無く、江見湖に「行くぞ」と声をかけ、客間へと戻っていった。



 江見湖が屋敷に訪れて、三日が経ったころ、月乃と紅蓮は相変わらず夕食を共にしていた。


「もうすぐ、冬が訪れるな」

「はい。寒くなってきましたし、空気も澄んできました」


 基本的に、月乃と紅蓮は食事中、あまり会話をしない。紅蓮の仕事上なにかしらの連絡がある時、例えば帰りが遅くなったりする場合はそれとなく申し付けたりする程度のことだ。


 それ以外は基本的に紅蓮が「今日は昼、雨だ。足元に気を付けろ」「今日は晴れだ、水をよく飲め」「午後は冷えるぞ、着込め」といった天気についての話題を月乃に振り、月乃が返答して会話を終えるような、簡素なものである。


 しかし江見湖が屋敷に訪れてからは、輪をかけて会話が簡素になっていた。それは、主に紅蓮がどこか考え事をしていることが増えたからであり、どことなく何か悩みを抱えているようであるということに月乃は気付いている。だが、一介の使用人である立場上、いくら紅蓮に恩があったとしても、月乃は容易く口に出してはいけないと考えていた。


――紅蓮何なの? 突然力使いだしてさあ――


―― 黙れ江見湖、その話をここでするな――


――えっ、何で?――


――それは軍部の機密事項だ。月乃が知れば、月乃の身が危険に晒される――


 きっと紅蓮の態度は、江見湖が訪れた時のあの会話に起因しているのだと月乃は思う。その確証を深めるのは、月乃が紅蓮の仕事に対して何も知らないという事実だ。


 紅蓮の仕事は、国境を守ることである。帝都から予算を受け領地を整備している。要は人の前に立つのが必然とされる権威と立場を持っている。


 だが、紅蓮は今のところ屋敷に誰かを連れてくる気配はない。昼の決まった時間にどこかへ出発し、夕刻に帰ってくる。そして時折血の匂いを纏わせ帰ってくる日が、四日に一度。そしてその日は必ず屋敷に帰ってくることが早く、屋敷の裏手にある小屋に一度寄ってから屋敷に戻り、次の日に綺麗に洗われた麻袋が干されている。


 それは、江見湖の話す紅蓮の力に関係があるのだろうと月乃は目星をつけた。けれど、紅蓮に問うことを月乃はしない。ただ紅蓮が話をするなら聞きたいと思うし、知りたいと思う。だからこそ月乃は、紅蓮の態度が歯がゆく感じていた。


 言いたくないのなら、言わなくても大丈夫です。ただ、いつも通り紅蓮様とお話がしたいです。そう一言、言ってしまいたい。けれどもしその一言で紅蓮を不安にさせてしまったら、その一言ですら紅蓮の枷になったらと考えると月乃はただ黙っていることしか出来ない。それくらい、ここ最近の紅蓮には危うさがあった。


「月乃」


 じっと汁物の波紋を見つめ、物思いにふける月乃に紅蓮が声をかけた。月乃が顔を上げると、紅蓮は決まりが悪そうに視線を彷徨わせながら口を開く。


「これから、あと、十日程先か。俺は暗道の廃屋敷に向かう」

「廃屋敷……?」


 月乃の頭に、また新たな疑問が浮かんだ。暗道の屋敷は、ここのはずだ。それ以外にも屋敷があるのだろうか。そう考えながら月乃は紅蓮の言葉を待つ。


「前に、私の父と母が住んでいた屋敷だ。二人が死に、今は誰も使用していない。そこに俺は十日後、所用のために向かわなければいけない。だからその日は前日の晩に屋敷を出る。次の日の夕刻には戻れると思うが、その日は屋敷の敷地内だけではなく、屋敷の外に出ることを禁じる。だから鉢植えは前日に屋敷に入れておけ」


「はい」


 月乃はまるで嵐の前のようであると感じた後、暗道の屋敷に訪れ、紅蓮の口から初めて家族の話題が出たことに気付く。


 今まで気付かなかったことが不自然なほど紅蓮は家族について語ることがなかった。紅蓮は自分の知人についても語ることがなかったこともあり、家族に触れないことすら当然であるように月乃は感じたが、そもそも使用人どころか家族がこの屋敷にいなかったのはこういうことだったのかと月乃は考える。


(紅蓮様は、家族をどう思っているのだろう)


 月乃は、黙ったまま紅蓮を見つめた。紅蓮の瞳は暗い紅色をそのまま映しこんだような瞳で、比較的いつも通りでいるようにも見える。しかし月乃にはどこか胸にひっかかる何かを感じて、声をかけたいのに次の言葉が見つからない。


「話は以上だ。食事を再開するぞ」


 紅蓮は月乃の視線に気付かないまま、置いていたフォークを手に取り窓へと視線を移した。月乃も追って窓へ目を向けると、そこには月が暗い夜に穴をあけられたようにして浮かんでいた。



 その日の晩。月乃は風呂に身体を沈め、己を包む乳白色の湯をじっと見つめていた。


 本来、月乃は入浴中、湯面をじっと見つめるようなことはしない。次に風呂を待つ主人のためにと迅速に髪と身体を洗い、主人が心配するからと湯船で身体を温め素早く退出していく。にも関わらず月乃が風呂場で物思いにふけっているのは、他ならぬ紅蓮が原因だ。


 紅蓮の力、紅蓮の隠していること、紅蓮の家族。一つ一つ、疑問を浮かべるたびに、月乃は紅蓮が、自分になりたい、自分の役に立ちたいと泣いた姿。あの姿を思い返す。


 自分を助けてくれた人、自分の歪みに気付かせてくれた人――月乃は紅蓮についてそう感じている。


 だからこそ紅蓮の力になりたい。役に立ちたいと強く、強く月乃は思っている。しかしその想いが紅蓮にとっていいことになるかは分からない。それが判断できるほど月乃は紅蓮といるどころか、人と接して生きていない。かける言葉を思いついても、突拍子がないような気がして、そもそもそんな言葉を紅蓮が求めているのか分からなくて、そして声をかけたいと考えているのは自己満足な気がして、月乃は最後には口を閉じるしかなくなる。


 前まで、こうじゃなかった。


 幼い頃は、もう少し活発で、ものをしっかり話していたと、月乃は自身について振り返る。屋敷に突然現れた見知らぬ少年に声をかけたことだってあった。しかし、現在何度でも話をしたはずの存在である紅蓮に声がかけられない。


 何か、何か紅蓮様を元気づけられるような、言葉ではない手段はないだろうか……。


 月乃は乳白色の湯面に視線を落とし、考えていく。厨房での調理は禁じられている。街に出ることも、紅蓮の許可なしでは不可能だ。紅蓮を喜ばせる特技も自分にはない。ひとつひとつ順序立てて、何か紅蓮を喜ばせられるようなことを探していると、月乃の脳裏にある光景が過った。


 そうだ、お花を贈ろう。花束を、紅蓮様に。


 月乃は毎日温室で紅蓮と花を見ている時のことを思い出す。その間互いは基本的に黙ったままで、会話はほんの少し。しかし穏やかな時間が流れていた。


 お墓参りの時に持っていく花束を作ろう。そして、瓶に香油を入れて、花を保存させる方法で、持って行きやすいようにしよう。


 一瞬、月乃の頭に、そんなことで紅蓮様は喜ぶのだろうかという疑問が生じる。しかし、自分に出来ることはそれしかないのだと奮い立たせるようにして、月乃は立ち上がり、風呂場を後にした。


 紅蓮に風呂場の鍵を渡した月乃は、足早に温室へと歩いていく。本当なら月乃は走りたい気持ちを抱えているが、走らないのは紅蓮に禁じられているからだ。「暗道家の使用人たるもの、走るなんて無様な真似をするな」との言いつけを言葉のまま受け取り、今月乃は歩いている。


 紅蓮は「走ったら危ない」という、赤子に対するような心配を理由にして出たことなのだったが、当然紅蓮の回りくどい真意に気付かない月乃は、慎重に、見苦しくないように早歩きを続け、温室へと到着した。


 今の時間ならば、紅蓮様は入浴中、私がここに来ていることは分からないはず。


 月乃は、自分がきちんとした花束を作れるか自信が無かった。紅蓮には幾度となく貰っていたが、自分は作ったことが無く、紅蓮が贈ってくれるような花束を作れるか不安だった。だから紅蓮に内密に制作し、きちんと完成したら紅蓮に捧げようとそう考えた。


 月乃は温室内に置かれた小さなランタンを頼りに、しゃがみこんで花を見繕っていく。しかし不意に温室の隣を、ずるずるとものを引きずるような音が通っていった。彼女が物陰に隠れながら周囲を伺うと人影が小屋の方へと向かっていく姿が見える。


 紅蓮様が小屋に向かうと、血の匂いがする。


 経験上そう定義した月乃は、その人影を追っていく。紅蓮であったなら何も心配することはないが、何か別の存在であれば紅蓮に報告する必要がある。温室を出て月乃がその者の後を追うと、微かな月明かりに照らされた背中は紅蓮のものでほっと安堵した。月乃が見つめていると、その人影は吸い込まれるように小屋へと入っていく。


(……小屋に、行ってみようか)


 水面に雫が一滴が落ちるように、小屋へ向かう気持ちが芽生え始める。そしてその雫によって水面が波紋を作っていくように月乃の心はさざめいていく。


 中を確認して、また紅蓮様が血に濡れているようなら手拭いと水桶を持って行こう。


 月乃は思い立ち、小屋に足を向けていく。さっきまで辺りを照らしていたはずの月は雲に隠れ、夜道を照らすのは屋敷の周りに点々と置かれた松明の灯りのみ。月乃が小屋に近づき、その扉に手をかけると、小屋の扉は僅かに開いていた。


 忙しい時に、集中している作業の時に入ってはいけないと、わずかに隙間を作り、月乃はそっと中を覗く。小屋の中は、その見目と変わりなく中も簡素なものだ。棚には剣や包丁、ナイフや斧などが壁にかけられ、部屋の真ん中に位置する机には豚の頭や牛の皮などが乱雑に置かれていた。


(まるで、牧場の一角みたい)


 おそらくここは、紅蓮が買ってきた豚や牛などをしめる場所なのだろう。血に濡れていたのはそういった理由なのかもしれない。月乃は違和感を覚えながらもそう結論付ける。やがて視界の隅から紅蓮が現れ、何やら袋から物を取り出そうとした。


 きっと今から紅蓮様は牛や豚などをしめる作業をするのだろう。手伝いを申し出なければ。


 そう月乃が部屋の中にいる紅蓮に声をかけようとしたその時だった。


 紅蓮が、袋からその「もの」を取り出す。そして、壁にかけてあった包丁でそれを切り裂き、そこから出てくるおびただしい量の液体を樽の中に納めていく。


 それは、豚でも、牛でも、ましてや鶏のものでもない。自分や、そして紅蓮にも生えているような……人間の足だった。そこから溢れる血液を、紅蓮は樽に流し込んでいく。そしてひとしきり絞り終えると、脇に置いてあった杯ですくい、まるで水を飲むかのように胃袋へと流し込んでいく。


 きっと、これは見てはいけないものだ。月乃はそうはっきりと直感しているのに、紅蓮から視線を逸らすことが出来ない。やがて紅蓮は杯を置き、大きくため息を吐くと何かに気付いたように素早い動きで月乃の方へ振り向いた。


「月乃……っ」


 紅蓮の瞳は紅く光って、月乃を射抜く。そして開かれた口から覗く歯は、牙のように鋭く変わっている。その牙を見たとき、月乃の頭の中でひとつひとつ欠けて、形の向きが変えられていたものが正しく戻り、ぴったりと当てはまっていく。


 驚異的な動きの速さ、江見湖の言っていた紅蓮の力の意味……。


 月乃は、童話で読んだことのある存在が目の前にいると、紅蓮がそれであったのだと確信した。そうして、月乃と紅蓮の視線がぴったりと重なる。月乃は動くこともできず、ただじっと紅蓮を見つめる。


「紅蓮……さま……」

「……月乃」


 紅蓮は表情無く月乃のもとへ一歩一歩近づいていくと、月乃を小屋の中に入れるようにしてその扉を閉じ、何かを諦めるように彼女を見下ろした。


「……言い訳をしたところで、それは通用しないんだろうな」


 紅蓮の自嘲するような声色に、全てに対しての肯定であると月乃は察した。そして、疑問を嵌めるように月乃は紅蓮に問いかける。


「以前、江見湖様が話をしていた力というのは、吸血鬼の力……なのですか」

「ああ」


 紅蓮は頷き、さっきまで絞っていた人間の足を、麻袋へと投げやりに戻した。


「このままお前を、何も見なかったことにしろと命じて帰したところで、きっとお前は私に不信感を抱き、眠れぬ夜を過ごすことになるだろう。だから、今から私は、私について話をする。吸血鬼の力について話をするのは、今日が最初で、そして最後だ。明日から、お前は今夜のことを一切考えるな。その代り今夜だけは、お前の問いに全て答える」


 紅蓮は月乃の返事を待つことなく、淡々と話しながら月乃の目を真っすぐ射抜く。その瞳は何か覚悟を決めたように思えて、月乃は自身の腕を掴んだ。紅蓮はそんな月乃を見て一瞬顔を歪めると、自身が置いた杯を掴み、彼女に見せる。


「この国の童話で記されている吸血鬼に対する解釈は、概ね正しいものだ。童話に出てくる吸血鬼と同じように、私はこうして、人間の血液なしではいられない。豚や牛の血を飲むこともあるが間に合わせのようなもの。父もそうして生まれた。そして、人間の血を吸ってでしか生きられない吸血鬼は、その制約の代わりに莫大な力を持つ。人間に為せない速度、腕力、聴覚、視力、嗅覚……、そして、どれにも当てはまらない、特殊な力……。それらを持ってして、私は……暗道家は、この国の国境を守る侯爵として存在しているんだ」

「それは、国は紅蓮様が吸血鬼であることを、知っているのですか?」

「ああ。元より私たちの血族はこの国に降って湧いたわけではない。元々その存在は人共に在った。しかし、遥か昔、吸血鬼の力に怯えた王家の者たちが、討伐をしようと策を練り、そして失敗した。見誤ったんだ。人ならざる者たちの力を。二百年前の反乱は知っているだろう? 民たちの反乱により、王が変わったことを」


 紅蓮の言葉に、月乃は唖然とした。二百年前の反乱は、この国の民であるなら誰しもが知っているものだ。二百年昔、愚王の政策により民たちは苦しみ、そして数々のものが悲しみに包まれた。民たちは反乱を起こすことで、民たちの訴えを以前から聞き入れた愚王の弟が新王として即位し、国はまた平穏を取り戻したという話だ。それらは劇や歌など、様々な物語の土台として、この国の者たちに親しまれている、有名な歴史だった。


「見目はどんなに人間と同じでも、中身はまるで違う。王家には、吸血鬼に対抗する為の呪具があるが、今は三つしかない。それも使えるのは一度きり。いわば吸血鬼側が譲歩し、共存を望むことで成り立っていた。それを先の王は分からず、かといって自分たちの脅威になると駆逐しようとした。しかしそのあとの新王は、人ならざる者を軍事力として取り入れ、そしてそれ相応の地位を与えることで納めようとしたのだ。だからこそ、領地を与え、豚と、牛、鶏などの飼育場を作り、墓地を作った。そして王家の者たち以外の人間の墓は皆そこへ埋葬するよう定め、家畜と民の死体を贄として私たちに捧げた。この暗道の領地にそういった施設が多いのはそういう理由だ。それこそ二百年以上昔は人ならざる者たちの方が圧倒的に多かったのだと聞いたことがあるが、まぁ、今はお前のようにただの人間の方が多い」

「……だから、袋が血で染まっていたんですね……」


 紅蓮は静かに瞳を伏せる。そして月乃の返事に遅れるように頷いて、また話を続けた。


「……私の仕事は、この国の国境を守ることだ。そして同じようにそれに携わっている者は吸血鬼だ。国にとっては、死なない家の外の関係者ほど都合のいいものはいない。末端の者には人間が混じっているが…… 江見湖も、私の幼馴染なんかじゃない。奴は諜報員として活動していて、各国を巡っている。だからお前も江見湖家なんて知らなかったんだろう。そもそもあの家は、諜報活動のために用意された偽りの家だから」

「では、江見湖様も、吸血鬼で……?」

「ああ。奴は、私よりもずっと長く生きている。記録を作ることはないから、重要な書類も奴の記憶の中に納められていく。何百年も生き続け死なない吸血鬼は、国の影として適材だ」


 月乃は、紅蓮の話について、すんなりと、まるで杯に水が注がれるように自分の頭の中へと入っていくのを感じた。少しずつ今までの疑問が解消されて、溶けていくような、だから紅蓮は何も言わなかったのだと月乃は納得した。そしてずっと紅蓮が秘密を抱え、自分に対して偽っているのは辛かっただろうと憐れむ。


「では、血に濡れて、私に見えないように小屋に通われていたんですね」

「そうだ。暗道には、四日に一度、帝都で死んだ者の死体が送られて来る。それを血を欲するもので分配し、血をとって、埋葬する。いわば盗賊のようなものだ。そんな姿を私はお前に見せたくなかった。伝えたところで人間に理解できることではないし、恐怖が勝る。今お前がこうして淡々と私の話を聞いていることなんて、奇跡に近いくらいだからな」

「そんな……」


 自嘲気味に笑う紅蓮に、月乃の胸が軋む。月乃が首を横に振ると、紅蓮はそれを笑って「いいんだ」と話を続けた。


「否定はしなくていい。怖がるなという方が無理がある。幼い子供ならまだしも、もうお前はものの摂理を理解できるようになった。お前の抱いた感情は悪じゃない」

「違います、紅蓮様、私は……」

「質問は、ないか? ないなら、今夜の話はもう終わりだ」


 月乃の言葉を、紅蓮の瞳が明確に拒絶した。その瞳に射抜かれ、月乃は言葉が紡げなくなる。まただ。言わなければいけないのに、次の言葉が紡げない。すると月乃の沈黙を肯定ととらえた紅蓮は、月乃の背を押し、促すように小屋から出す。


「……、お前がこの屋敷から出て行ったら、俺はすぐにお前を連れ戻しに行く。お前がいくら私に怯えようと、私は時が来るまでの間は、お前を侍女として雇い続ける。だから黙って、俺に仕えろ。お前が私に従順である間は、俺はお前に害を為さない。血だって吸わない。分かったな」

「紅蓮様っ」


 月乃が答える前に、扉は閉ざされていく。月乃が扉を押そうとしても、びくともしない。月乃の声は届かないまま、紅蓮によって扉は固く閉ざされていった。

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