凍梅花
雪が積もった。
部屋の窓のカーテン越しに射す光が奇妙に明るくて、いつもと違う静けさが感じられた。
なんとなく目覚めた時から空気が違うので、一種の予感があった。
期待と共に勢いよく音を立ててカーテンを開ければ外は一面の白。
木々も、向うに見える山並みも、みな真白に埋もれていた。
「雪。雪が降ったよ!」
まだ眠っている弟を乱暴に揺さぶって、無理やり起こそうとした。
ゆさゆさと体を押されて不満そうに眼を開けた弟は、姉の言葉を聞いたとたんぱっと起き上った。
「えっ、本当?」
姉弟は二人とも寝巻のままで転がるように部屋を飛び出し、玄関へ急いだ。
着いてみれば、既に玄関の外に雪は無く、綺麗に除けられた雪の塊がその両脇へ寄せてあった。
玄関から通りに続く庭先でスコップを持った人影が、ちらつく雪の中黙々と動いている。
昨夜遅くから降り出した雪は、予想外の大雪になったようだった。
この辺りでは、豪雪地帯と違ってうず高く積った雪に家が埋もれることはないが、早春に脛のところまで降り積もり、すっかり路面を覆ってしまうことが稀にあった。
子供の長靴のふちがぎりぎり顔を出す程度まで降ってしまうと、山の麓に住んでいる生徒は通学が困難になってしまう。
もちろん交通機関も麻痺する。電車も止まるし、バスなどは運行表など有って無いようなものだ。従って学校も臨時休校になる。
だから、大人と違って子供はこの春直前のドカ雪を歓迎した。
「お父さん早い。雪かきしてる。私、一番乗りしそこねたなあ」
「あーあ、なんにも無い所に足跡つけたかったのに」
「ま、いいや。急いで着替えて手伝いに行こう」
「おれも行く!」
今度はドタドタと廊下を駆け戻り、大急ぎで着替えを始めた。
あっという間に冷えてしまった指先が、ボタンを上手く掴めなくてもどかしい。
それでも、弟は姉より先にコートと帽子と手袋をつけていち早く飛び出した。
「先に行く」
「待ちなさい、まだお布団しまってないでしょ」
「姉ちゃん、やっといて」
残された姉はブツブツ文句を言いながら、途中だった着替えを中断し、先に弟のぶんの布団を片づけだした。
手を休めず、時々眼をやって窓の外をうかがうと、ちらちらと雪片が舞い降りて来るのが見えた。
まだ、止んでいない。このぶんでは、学校は休みだろう。
姉は嬉しそうに笑い、押入れにぎゅうぎゅうと布団を突っ込んだ。
玄関から雪をかいて出来た細い道が伸びていた。
道の底で顔を覗かせた地面の上に、早くもうっすらと白い膜を敷いたように雪が積もりだしていた。
その上をびちゃびちゃと長靴の音を立てて進んで行くと、先に出た弟が竹箒で遊びながら、雪をかいた後を掃いていた。
その先には、父親がザクッザクッと単調な音を立て、スコップを雪の中に埋めては切り取り、埋めては切り取りして雪を脇に投げ捨てていた。
姉は大声で父親に声をかけた。
「お父さん、私も手伝う。道具は?」
「納屋の前に出してあっから、好きなの使え」
父親はちょっとだけ振り向いて姿を確認すると、また元のように作業を続けながら答えた。
「うん。ね、ね。今日学校休みかなあ」
「そうだな。これで学校あったら逆に厳しいんでねえか」
弟がニイッと笑って指でサインを作って姉に向けた。
姉も笑って同じように指でサインを返し、道から逸れて、積もった雪の中を納屋に向かって行こうと足を踏み出した。
ずぼ、と片足を雪の中に入れると子供用の長靴が半分まで隠れた。
もう片方を大股で一歩踏み入れたところ、重い雪が長靴を捕まえてしまった。
両足が抜けなくなった。
無理やり引き上げようとしたら、長靴はそのままに足だけが抜けた。
「わあ!」
バランスを崩した姉は、そのままぱたんと雪の中に尻もちをついた。
倒れる瞬間をしっかり見てしまった弟が、大声で笑った。
「姉ちゃん、馬鹿だ。転んでやんの」
「うるさい。笑うな」
言葉は怒りながら、姉の顔も笑っている。
長靴が脱げた片方の足は、雪の上に投げ出されて靴下が白く染まっていた。
駆け寄った弟が、手を差し出し姉を引き起こそうとした。
弟は道の中。姉は雪の中。
二人ともおかしそうに笑いながら互いの手を握った。
弟の手を借りて立ったはいいが、姉はすっかり雪まみれだ。
あちこち体をを叩いて雪を落とし、一息ついたところで置き去りにされた長靴を取ろうと手を伸ばした。
しかし、片足で雪の中に立っているせいでよろけてしまう。
「取れない。あれ、取って」
頼まれた弟は、更に笑いながら箒の柄を伸ばしてその先に長靴を引っかけ、かぽ、と釣り上げた。
「あー、馬鹿だ。姉ちゃん馬鹿だ。笑いすぎて腹痛え。……はいよ」
「もう。馬鹿って言うな。……ありがと」
少し中に入ってしまった雪を逆さに振って落とし、足を入れると姉は顔をしかめた。
「冷たい。靴下、濡れちゃった」
「戻って靴下替えて来っか?」
手を休めて父親が心配そうに見ていた。姉は首を振った。
「いい。大丈夫」
「風邪ひくぞ、姉ちゃん」
まだ笑っている弟に言われて、姉はいーっと変な顔をしてみせた。
「ひかねえよーだ」
それから前よりも少し慎重に雪の中へ足を入れて進みだした。
足元を見ながら静かに歩くうち、雪の中を歩くコツを思い出してきた。
後には、大きく転んだ尻もちの形。
綺麗に下半身の抜き型が出来上がっていた。
姉が行ってしまうと、弟はちょっと考えてクスクス笑い、それからその前にかがみ込み、雪の上に竹箒の柄で矢印と字を書いた。
『↑ ねえちゃんのけつ』
弟は一人でやんちゃな笑顔を浮かべながら、ずっと先をスコップでえぐっている父の後を追いに行った。
納屋の前から自宅まで、別の細い道が作られていた。
先程、父親が作っていたのとは別の道だ。
玄関まで戻ってこの道を通れば楽だったのだ、と姉は後悔したが、気が急いていたのだから仕方が無い。
雪の中を苦労して納屋の直前まで辿り着いてからやっとそれに気づいた。
姉が納屋の前に着いた時、納屋の脇に植えてあった柿の木が重みに耐えかねて雪をぼたぼたと落とした。
突然目の前に落ちてきた塊に驚いて見上げれば、枯れ木のような枝が揺れていた。
ちょっと首をすくめ、それから納屋の戸口に立てかけてあったプラスチックの黄色い雪かきスコップを選んで持ち上げた。
一緒に立てかけてある鉄のスコップはちょっと重すぎる。でも、これならなんとかなりそうだ。
姉は納屋の前の雪を少しかいて、道から続く地面の部分を広げてやった。
雪の下には柿の木の枯れ枝がいくつか埋もれていた。
納屋の脇には簡易駐車スペースが設けてあって、一応屋根が付いていたが囲いは無く、車の半分が吹き込んだ雪で白くなっていた。
その白い雪を見ているうちに無性に触りたくなって、スコップをぽいと手放し、まだ誰も触れていない雪を、バンパーの上から手袋をはめた手ですくい取った。
そのままぎゅ、と握ればきしきしと溶け固まる感触がして、そうっと指を広げると握った形そのままに雪がちいさい塊になって乗っていた。
嬉しくなって、今度は両手を雪の中に突っ込み、大きく抱えて持ち上げた。
ましろな雪が、そのまま上にあがる。しかし途中でばさりと割れ落ちた。
「つめた」
手に残った雪から手袋越しにキンとした冷たさが伝わった。
ひとりでに言葉が漏れる。
……今日、学校が休みだといいな。
そしたら後で雪うさぎを作りに来よう。弟と一緒なら雪だるまでもいい。
もし、お父さんの仕事も休みになって、気が向いたりしたなら、小さなかまくらを作ってもらえるかもしれない……
ワクワクしながら雪を払い、もう一度スコップを拾った。
お父さんの機嫌が良くなるように真面目に手伝いをしなくては、と思った。
姉は納屋の入口の前と車の周囲の雪かきをほとんど自力でやった。
ほとんどというのは、途中から弟が竹箒を引きずりながらやってきて、遊び半分に手伝ったからだ。
弟が手伝ったことは、納屋の脇に不格好な雪の山をこさえたことと、車の上に半分乗っていた雪を払い落したことだけだったけれど。
通り道を作り終えた父親が、スコップを片づけに来たついでに
「ありがとう。もういいから、家に入んなさい」
と言った。
「はあい」
姉弟は作業を止めてそれぞれの道具を納屋の中に置いた。
子供二人は即興の節をつけて、おー、さむさむ、おー、ひえひえ、とでたらめな歌を歌いながら雪の間の細道を跳ねるようにして玄関へ向かう。
父親は、途中、姉が尻もちをついたあたりに目をやって、穴ぼこと一緒に落書きも見つけ、ふ、と笑みを浮かべた。
玄関に入ると、母親が電話をしているところだった。
はい、はい、ええ、わかりました、ご苦労様です、よろしくお願いします。
そんなようなことを言って、受話器を置いた。
それを見計らって父親がたずねた。
「どっから電話だ」
「小学校の連絡網。今日は臨時休校だって。山の方の家は道路に出られないんだと。電車止まってるって言うし、ほんに難儀だねえ」
「やったあ!休みだ」
「休みだ休みだー」
玄関先でぴょんぴょん軽くジャンプを繰り返し、二人は喜んだ。
父親は、そうか、と頷いて黒長靴を脱ぎながら廊下の掛時計を確認した。
「俺も、今日はどうすんのか電話してみるべ」
「お父さん、高校も休みになるんでないの。んでも、校長先生はまだ来てねえべ。電話したってわがんねぇんでない?」
「ほぅかも知んねえ。だげんと、教頭先生は来てっぺ。少し話してみっから」
父親は母親から受話器を受け取ると、職場へ電話をかけはじめた。
まだはしゃいでいる子供達を、母親はぴしりと短く叱りつけた。
「お父さんが電話すっから、静かに!」
「はーい」
「お父さん休むの?」
「それをこれから話して決めんの。ほら、早く上がって上着脱いで。……あらあら、靴下までびしょ濡れにして」
小声で言いながら、母親は濡れた子供のコートや帽子を拭いてやり、姉の靴下を脱がせた。
弟が思い出し笑いをしながら母親に理由を小声で説明した。
「姉ちゃん転んで長靴脱げたから、靴下濡れたの。馬鹿だべー?」
「うるさい、黙ってて。馬鹿!」
「尻もちついて雪の上に穴、開けたんだよ。おっきいの。うっふ。鈍くせえ。あは、あはは」
「うるさいったら。お父さん電話してんだよ」
姉が殴る真似をした。弟はにやにや笑いで頭を抱えながら逃げ去った。
母親は姉の足を拭きつつ気遣って聞いた。
「転んだの。怪我しなかった?」
「うん」
「こだに冷えて。しょうがない子だねえ。風邪ひいたらどうすんの」
「大丈夫」
囁くようなやりとりの脇で、父親が受話器を握って低い声で話していた。
ちょっと難しい顔をして額に皺を寄せ、後で行きます、と言って電話を切った。
「何、お父さん学校行くの?」
姉の濡れた靴下を手に、母親が不満げに聞いた。
「学校は臨時休校にすっけど、農業科のビニールハウス、心配だから見で来る」
「なんだべ。こだ雪では、道路通れっかどうかわがんねど」
「学校までなら大丈夫だ。あと、今日は当番の生徒も来ねえがら、代わりに畜舎ば見てやんねえど」
母は、はぁ、と息を吐くと頷いた。
「御苦労だなや。お昼には帰ってくんのがい?」
「多分。帰る前に電話すっから」
「えー、お父さん仕事行くの?学校休みなんでしょ?」
姉は裸足のまま父親を見上げた。
「一緒に遊びたかったのに」
「ごめんなぁ。早く帰ってこれたらな」
父は姉の頭をくしゃりと撫で、すうっと廊下の先へ行ってしまった。
その後を、洗濯物を置きに行こうと母も動いた。
「本当に、お父さんは学校大好きで困ったこと」
「私より?」
「どうだかねぇ」
姉はぷう、とふくれてちょっとだけ拗ねた。
その日は遅い朝食になった。
いつもなら登校時間を気にして急いでかき込むのだが、お休みだと思うと自然とのんびりしてしまう。
いつまでももぐもぐやっていたので、母親にお皿が片付かないとこぼされた。
一方、父親はさっさと食べ終わると手早く支度を整えて、職場へ向かった。
これからやる雪遊びの相談をしながらやっと朝食を食べ終えた姉弟は、揃って箸を置くと同時にダイニングテーブルから立った。
雪はまだちらついていたが、だいぶ弱まってきており、午後になる前には止んでしまいそうだった。
明るく曇った空を見やりながら、明日は晴れるかなあ、と弟がつぶやいた。
食事の後片付けにとりかかった母親は、早々とコートを着込む子供達に台所から声をかけた。
「なんもかんも雪に埋まっちまったから、どこさ何があんのかさっぱり見えねえよ。ようく気ぃつけて遊ぶんだよ。うっかり側溝に嵌っと大変だから。田んぼも薄く凍った上さ雪が積もってんだから、あぜ道に行がんすなよ。足元危ねえからね」
「はあい」
「うん。田んぼには行かない」
「お昼になったら呼ぶから、あんまり遠くさ行くんでねえよ」
「うん」
「行ってきます」
子供達は雪の中へ飛び出して行った。
それを見送ってから、母親はストーブの上でしゅんしゅんいっている薬缶を持ち上げ、台所の洗い桶の中に湯を注いだ。
立ち上る湯気が気温の低さを物語っていた。
玄関から出て庭にまわると、敷石がうっすらと見える程度に雪が除けられていた。
除けた雪は、庭の隅に小山のように盛られている。
これは父親の配慮で、こうしておくと子供達が雪遊びをする時に、材料の雪をかき集め易いからだ。
弟は、はあっ、と何度も息を吐いて口から出る白い気体を確かめた。
ゆっくりと空から降りて来る雪と同じ色の息を見ながら言った。
「姉ちゃん、息白い。……怪獣みてえだ」
「うん。じゃあ、あんた怪獣ね。私は、ウルトラ……えーと、何にしよう」
「えーっ。姉ちゃん怪獣やって。おれヒーローのほうがいい」
「またあ?もう。……ま、なんでもいいや。私、あっちの松の木のとこね。あんたはそっち」
「うんっ」
姉は松の木の下へ駆けて行くと、雪をすくってきゅきゅっと丸めだした。
弟も負けじと雪玉を作り始めた。これから雪合戦をしようというわけだ。
姉弟は、わあわあ、きゃあきゃあ声をあげて対戦した。
しかし、二人しかいないから雪玉を作るのも投げるのも自分だけだ。
勿論、なかなか当たらない。
そのうち、弟の投げた雪玉がすっぽ抜けて、松の木の枝に当たった。
衝撃で枝の上にこんもり積もった雪が、姉の頭の上にどざどさっと落ちた。驚いて姉は叫んだ。
「ひゃあ!冷たい」
「やったあ。おれの勝ちー」
姉は強く頭を振って、帽子ごと雪を振り落とした。
それからあわてて帽子を拾い、それをぶんぶん振り回して雪と水滴を払った。
もういちど頭の上に帽子を乗せると、姉は弟を睨んだ。
「雪玉じゃないから、負けでないよ」
「雪まみれになったじゃんか。負けだよ」
「負けてない」
「負けだって」
「つまんない。そんならもう雪合戦しない」
弟は不満そうな顔をした。が、すぐに別の提案をした。
「そんじゃ、雪だるま作ろう。大きいの」
「うん。いいね」
姉は機嫌を直し、父親の作った雪の山に突進した。
それから、二人はお昼までかかって弟の肩ほどまでの高さの大きな雪だるまを一生懸命こさえた。
体はなかなか上手くいったのだが、雪だるまの顔を作る段になると、姉弟は悩んだ。
眉や口は、納屋の前から枯れた柿の木の枝を拾ってきた。目玉は家からこっそり蜜柑を持ってきた。
そうしてつけてみると、左右非対称の不格好な感じがどこか人の好さそうな雰囲気になっていた。
「……なんか、コイツ弱そう」
「可愛くていいじゃない」
「かっこわりぃ」
「えー、怖いよりいいよ」
言い合っていると、母親が玄関から顔を出して呼んだ。
「お昼御飯にすっから、戻りなさい」
「えぇ。もうそんな時間?」
「お父さんはまだ作業終わんないんだって。先にご飯にするから、あんたら家に入んなさい」
渋々玄関に戻る途中、姉は、雪をかいて作った細い道の脇にできている穴を見つけた。
自分が尻もちをついた跡だと気がついて、ちょっとのぞきに寄ってみた。
穴は、その上に降り続けた雪のせいでくっきりした跡ではなくなっていたが、それでもなんとなくお尻の形が残っていた。
そばにでこぼこした細い線が矢印のような線と一緒についていた。
これはなんだろう、と首をひねっていると、弟が残念そうに言った。
「あーあ、おれ書いた字が消えてら」
「字?何書いたの」
「ねえちゃんのけつ、って。これ見た人に説明してやんないとこの穴なんの跡かなって悩むと思って」
「やだ、余計なことすんな!」
「あはは。また書いとかねえとなー」
「やめてよ。馬鹿」
姉が振りあげたこぶしから逃げようと、弟が走り出した。
顔を真っ赤にして、姉は怒って追いかけた。
走って走って、道路に面した場所まで追いかけて、弟がするりと身をかわしたとき、姉は自分の足を乗せた雪がずぶずぶと深く沈み込むのを感じた。
そのまま前のめりになって、やっと気がついた。
ここは道路の脇に設けられた側溝だ。
「きゃああああ」
水音がして、姉は恐ろしく冷たい水が下を流れる用水路の中に半身を浸していた。
「姉ちゃんっ」
弟は凍りついたような声で叫ぶと駆け戻り、青い顔をして姉に手を差し伸べた。
姉はその手を握ったが、気が動転しているのと寒さとで、どうしても上がることが出来ない。
弟は姉の手を掴んだまま、大声を出した。
「おかあさん、おかーさん!!」
ただならぬ声にあわてた母親が、上着も着ずにサンダルをつっかけた姿で飛んできた。
「姉ちゃん落ちた」
弟の言葉に返事もせず、母親は姉の脇の下に手をやって、力一杯ぐい、と引き揚げた。
がぽ、と長靴が片方脱げ落ちた。そのまま流れにさらわれていく。
姉はぽたぽた水を滴らせながら、雪の上に膝をついたかたちで下ろされた。
くしゃくしゃと顔が歪んで、涙が頬を伝った。
「こわ、恐かったよう」
「気ぃつけろって言ったべ」
「うん。ごめん、なさ、」
「痛いところ、ねえか?」
「うん」
「危ねえとこだったな」
母親は濡れた子供をそのままぎゅうと抱き締めた。
姉は声をあげて泣き出した。
弟が目に涙をためて鼻をすすった。
姉を掴んだ手の平が痛くて赤かった。
その夜、姉は熱を出した。風邪をひいたらしい。
当然と言えば当然だった。
酷い咳が続くので、普段、隣に布団を並べて寝ていた弟は感染を避けて別の部屋に移された。
翌日は快晴だった。
学校も通常通り授業が行われたが、姉は欠席した。
融け固まって滑りやすくなった雪道を、弟は一人で登下校した。
その翌日になっても、姉の風邪は長引いてまだ起き上がれずにいた。
姉の寝ている部屋には、大雪の日に父親が持ち帰った、花芽がいっぱいついた木の枝が花瓶に活けて置いてあった。
弟は、担任の教師経由で頼まれた、姉への宿題プリントや連絡事項の配布物を持って帰ってきた。
「姉ちゃん、良くなった?」
弟は目を瞑ったまま横になっている姉へ、そうっと声をかけた。
姉はゆっくり目蓋を開き、心配そうにのぞき込む弟を瞳に映した。
「うん、少し。熱下がってきたんだ。楽になった」
「そっか。良かった。先生から宿題、預かってきた」
「……そんなもん、いらない」
「おれも、持って行きたくねえって言ったんだけど、ぜってえ持ってけって言われた」
「今、出来ない」
「そう言うと思った」
姉と弟はお互いにちょっと笑った。
少し熱を帯びた姉の頬が、ほんのり紅い。
弟はプリントを枕元に置くと、もじもじした。
姉が風邪をひいたのは自分のせいだ、と思っている。
ふざけて悪かった、と謝りたかった。
しかし、どうしたらいいのか、その言葉を出すきっかけがわからなかった。
弟は、何か話しかける口実を探して、部屋を見回した。
部屋の端に、枯れ木のような枝に粒々した芽がついたものが花瓶に入っているのが目に入った。
「なんだ、これ。枯れ木なんか差して」
「これ、梅だって」
「うめ?梅干しの、あれ?」
「うん。お父さんが持ってきた。雪で高校のビニールハウスがやられたときに、隣に植えてた梅の木、枝が一本一緒に折れちまったんだって」
「ふうん」
「これから花が咲くとこだったのに、もったいないからって」
「なんだか枯れ木みてえだよ。咲くのかな」
「咲くさ。毎年雪ん中で凍えてんのに、毎年やっぱり咲くんだもの」
「そうかな」
「咲く。強い花だもの」
弟はしげしげと枝を眺めた。
枝についた固い丸っこい蕾のひとつが、なんとなく赤みを帯びていた。
「強いのか」
姉はうん、と頷いた。
それから、弟の名を呼んでこちらに視線を戻させた。
何、と返事をすると、姉は言った。
「落ちた時、助けてくれてありがとね」
弟は目を見開いて、手をぶんぶん振った。
「おれ、姉ちゃん引っ張れなかったよ。弱くて、力無くて」
「でも、お母さん呼んでくれた」
「助けたの、お母さんだ」
「あんたが呼ばなかったら、お母さん来なかった。ありがと」
弟は振っていた手をぱたんと下ろした。
「おれ、あの時ふざけて、ごめんな」
姉は、ほんのり微熱の紅梅の様な頬をして、笑った。
「うん。いいよ。……もう、雪とけたでしょ」
終
このお話に最後までお付き合いいただきありがとうございました。少しでも楽しんでもらえましたら嬉しいです。
田舎の冬の子供が遊ぶところを書きたかったのです。
雪で埋もれた側溝、少なくとも三回は落ちました。
2009.02.11 初出