第一章 発生②
何とか関東と連絡を取ろうとパソコンを触り始めた真理子だったが、関東との連絡手段は絶たれていた。関東で何が起きているのか、関西で何が起き始めたのか、分からないままだった。
『非常事態発生、非常事態発生。暴動が激しくなり、建物内に感染者とみられる人物が数名侵入。職員はただちに地下へ避難。繰り返す…』
部室内は騒がしくなった。悲鳴をあげる者、涙を流す者、呆然と立ち尽くす者。何がどうなっているのか理解できず、辺りを見回す。そこに一人行動を始めている人物がいた。林田だ。
「みんな、地下へ避難だ。下に降りたら、各自通路を進んでくれ。十字路まで辿り着いたら、ロッカーがある。開けて各自の名前が記入されたバッグを取り出し、装着するんだ」
林田は冷静だった。自分の机を移動させ、マットを外し、地下へと続く扉を露出させた。
「一人ずつゆっくり下りて行くんだ…」
研究員に声を掛けながら、一人ずつ確実に降ろしていく。
その時、扉が激しく音を立てた。何度も何度も、何かがぶつかるような音だ。それに気付いた真理子は恐る恐る扉に近づき、そっとカーテンをめくった。そこには今までに見たことのない異形の“物体”が確実に存在していた。
「な、なにこれ…」
真理子は小さな悲鳴を上げる。“それ”をよく見ると人間だった。目の前には変わり果てた人間が、いや、かつては人間だったものがそこにいた。
「マリちゃんっ!危ないから下がるんだ!」
西条によって扉から引きはがされた真理子は、今見たものが脳裏にこびり付き消えなかった。
「さ、西条さん…今のって…」
「…感染者だ。恐らく、俺たちが分析した新種の病原体の被害者だ」
「か、体見ました…?赤くて緑で…腐ってて…あれって人間なんですか…!?」
混乱しているのか、目の焦点が合わない。西条はそっと体を抱き寄せ、「大丈夫だ…マリちゃんだけは守るから…」と静かにささやく。
研究員たちが次々に地下へと降りて行く。残り数人だと言うところで、安全だと思われた結界、すなわち扉が感染者によって破壊された。
部室内に響き渡る真理子の悲鳴。早く来るんだ!という林田の声。マリちゃん、手を離すな!と言う西条の声。全てがスローモーションで真理子の耳に入る。真理子の視界は暗転し、体の力が抜けた。遠くで何かの声がする。
人間じゃない…いや…人間か…?
「ちゃん…マリちゃん…」
優しい声が聞こえる。静かに目を開けた真理子は正面を見る。目に入ったのは雅子の顔だった。
「おばちゃん…。ここ…あ、感染者が部屋に来てそれでっ!」
「マリちゃん、落ち着いて。ここは大丈夫だから…。マリちゃん、ケガはない?どこか痛いとことか、体がしんどいとかは?」
雅子は母親のように、真理子を心配した。真理子は大丈夫だと答える。
「おばちゃん、今って私たちどこにいてるの…?」
「解析部門のラボよ…。私のラボにもね、感染者が入ってきたの。ちょうど地下に避難する準備をしていた時だった。前の扉が破られて、感染者が数人入ってきた。それにパニックになった同僚は、扉から出ようとして後ろの扉を開けた。その瞬間に襲われたの…。私はその隙を見てあなたがいた部室へと逃げようとした。けれど、一歩遅かった。感染者は扉を破壊してあなたがいた部室へと入っていった。そんな時マリちゃんの声が聞こえて…。あなたを引っ張り出し、ここへ逃げてきたの」
「おばちゃん、私を助けてくれたんだね…。ありがとう…」
真理子は雅子に抱きついた。それはまるで子供のようで、普段からあどけない真理子はより一層、幼く見えた。
ばたん…扉を叩くような音がした。怯えている真理子をなだめ、雅子はそっとカーテンの隙間から外を見る。人間だった。見たところ感染はしていないようだった。素早く、静かに扉を開け、人間の腕をつかみ中に引き入れた。
「…ありがとうございます…良かった。まだ人がいた…」
「あなたは、どこの部門の?名前は?」
「私はセキュリティ部門の相田薫です。あの、お二人は…?」
相田と名乗った女性は“人間”だった。それに安堵したのか、真理子は自己紹介を始める。
「私は研究部門の安藤真理子です。おばちゃんは開発部門の中原雅子さん。私が一番信頼している人なの…」
「研究部門の安藤さん、開発部門の中原さんですね…よろしくお願いします。あの…もし良ければ一緒にいても構わないですか…?一人だと怖くて…」
「もちろん。二人より三人の方が心強いですから。一緒にいましょう」
薫の気持ちは痛いほど理解できる。何が起きているのか、はっきりと理解できない今のこの施設内を、一人で移動するには恐怖や不快感があった。
「そういえば…相田さんってセキュリティ部門なんですよね?」
「はい。私の仕事は主に施設内のセキュリティ管理です。それがどうかしたんですか…?」
「相田さん、私に力を貸してください。おばちゃんに助けてもらってここに避難することが出来た…でも、私を待ってくれてる人が地下にいるんです。だから、三人で地下に避難したいんです。でも、感染者がどこにいるか分からない。だから、相田さんの力を貸してください」
真理子には考えがあった。ULIのセキュリティに入るには、自分のIDでは入れない。部門が異なるからだ。けれど、セキュリティ部門の相田のIDなら容易に入ることが出来る。
「私はプログラミングやハッキングの知識があります。この施設内のセキュリティに入り、あらゆるところに設置されている監視カメラを使えれば、感染者やほかの職員を見つけることが出来るはずなんです!」
「…すごい…そんなこと思いつかなかった…。分かりました。私で役に立つなら」
真理子は解析部門のパソコンを起動させ、薫に座るように言った。そして、自分の職員番号とパスワードを入力し、自分の画面を開くように伝える。その間、自分はハッキングの準備を整えた。その様子を黙ってみている雅子。彼女はじっと真理子を見ていた。
「安藤さん、私の画面開きましたよ?次は何を…?」
「この施設内にある監視カメラのすべての識別番号を教えてください。あとは、その番号を私のプログラムに入力すれば、施設内のカメラは全て私たちの物です…」
真理子の目は「絶対に三人で地下に避難する」という意志であふれていた。
ひたすらキーボードを叩き、プログラムを組んでいく。薫から教えてもらった監視カメラの識別番号を入力していく。しばらくして、画面が切り替わった。
「これ…」
「施設内の様子ですね…こんなに感染者が…」
監視カメラは以前より遥かに精度が上がり、顔の識別が容易にできるようになっていた。これで感染者と非感染者を見分けられる…。
「この映像は…三階よね。てことは…この下か…」雅子が言った。
「この部屋に地下に続く抜け道はないから、隣の部門に移動しないと。隣は承認部門よね…移動できるか確認してくるわね。」
雅子はそう言って、カーテンをめくる。けれど遅かった。今三人がいるフロアには感染者が集まっていたのだ。二人の元へ戻り、首を横に振る。何のことか察しがついたのか、二人は肩を落とした。
隣を見ると薫が何かを考えていた。
「相田さん…?どうかしたんですか?」
「へ?あ、ううん…何かまるでゾンビみたいだなって…映画でよくあるゾンビ。もし今起こっていることが映画なら、彼らは音に寄って来るんです…」
「ゾンビってあの?」
「ええ…初めて感染者をこの目で見た時、私この世界がゾンビの世界になったと思ったんです。だから余計に怖くて…。だってこれって、ただの感染ですか?これは感染症なの!?こんな病気が今の地球に存在する!?」
「…私たち研究部門の仕事はサンプルを分析し、それが何なのか突き止めることです。朝、課長からサンプルを渡されました。“関東の土壌から採取したサンプルだ”って。それを分析したら、見たことのない病原体が検出されました。細菌ともウイルスともとれる病原体で、今の地球上には存在しません。全くの未知の病原体です。私たち研究部門はこの病原体を"X"と呼ぶことにしました…」
真理子はサンプルの分析からこうなるまでのことを薫と雅子に話した。
「だから、この事態がその"X"によるものなのか…彼らは治るのか定かじゃないんです。彼らがどんな反応を示すのか、ゾンビみたいに凶暴性があるのか、自我や意思があるのか、それも分かっていないんです…」
「そんな…何も分からないなんて…」
真理子と薫は落胆した。今の自分たちには成す術がない。そう思った。ふと薫の顔が赤いことに気が付く。
「相田さん、大丈夫ですか…?顔が赤いですよ…?」
「大丈夫です…今、大声を出したから急に暑くなっちゃった。それよりも、感染者たちはゾンビみたいなものになったの…?自我とか意思は…」
「…感染者に自我や意思はないわ…ただ感染し、痛みのせいか苦しみのせいか分からないけど…暴れてるだけ。彼らに待ってるのは死よ…」 「お、おばちゃん…?何でそんなこと…」
「へ?あ…さっきマリちゃんに会う前にね…彼らの様子を見ていたの。といっても、ほんの一瞬なんだけどね…」
少しの違和感を雅子に感じた真理子。しかし、そんな違和感はすぐに吹き飛ばされた。扉を叩く感染者によって…。
「は、早くここから逃げないと…」
薫はうろたえていた。それも無理はない。病原体の正体、感染力、感染手段、何一つ分かっていないからだ。
「私が何とかします…だから協力してください」
先ほどの監視カメラの一件を見ていたからなのか、2人はすぐさま頷いた。
文字だけで何が起こっているのかを想像できる人は、"あの"描写で頭に映像が浮かんだかもしれませんね…。
大丈夫でしたか…?
もし無理そうなら、これ以上読まないでくださいね。もっと酷くなります。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。