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「武丸?」
首を傾げた。
「誰だい、そりゃ? あたしは覚えが悪くてね」
薄く笑った。
柚子はさらに問い詰めようとしたが冥の闇夜に光る妖しい両眼に見つめられた途端、身体が小刻みに震えだし、二の句がつげなくなった。
冥から発せられる異様な空気に押されていた。
信竜が柚子を庇い自らの後方へと引き寄せた。
冥と柚子の間に信竜が立った形だ。
「答えよ、化け物。あの怪物は武丸様だったのか?」
信竜が訊いた。
「はあ? 生意気な奴だね。お前の親父みたいに殺してやろうか?」
冥の瞳が信竜のそれを正面から見た。
生粋の武人である信竜だが、冥の凄味に恐怖を感じ思わずたじろいだ。
「もう終わったんだよ」
冥が言った。
「見てみな」
地を指差す。
柚子と信竜は冥の指す方を見た。
そこには骸によって、顔の上半分を噛み潰された信虎の死体が転がっている。
「お前たちが憎んだ奴は死んだ。望みは叶ったろう? 余計なことは考えなくていいんだよ」
柚子も信竜も押し黙った。
復讐を果たした達成感などなく、虚しさだけが二人の心を重くした。
「さあ、あたしも帰るとするよ。せいぜい幸せに暮らすんだね」
冥が二人に背を向けた。
後ろ手で手を振った。
冥の姿は、その場からかき消えた。
抱き合う柚子と信竜、そして気が抜けたようになった兵たちが残された。