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信竜の近く、動かなくなった骸のそばに一人の童女が立っていた。
「ずいぶん、派手にやられたね」
童女が言った。
骸に話しかけている。
「冥っ」
柚子がその場の誰よりも早く反応し、童女の名を呼んだ。
冥が柚子に顔を向ける。
「なんだい。お前、また泣いてるのかい? よくそれだけ涙が出るもんだよ」
冥が呆れた。
「あと二人」
冥が信竜を指し、次に信虎を指す。
「そいつとそいつを殺せば、お前の復讐も終わるよ」
冥の言葉に柚子は首を横に振った。
「どうした?」
冥が訊く。
眼を細めた。
そして口を開く。
「どうやら心変わりしたようだね。殺せと言ったり、殺すなと言ったり、わがままな娘だよ」
苦笑した。
「じゃあ、こいつは生かすとして」
冥が信竜から信虎へと視線を移した。
「そっちは、ぶっ殺さないとね」
面と向かって殺意を告げられた信虎が、ようやく平常心を取り戻した。
「餓鬼めが!!」
信虎が怒鳴った。
圧倒的優位に変わりはないのだ。
「奴らを殺せっ!!」
周りを囲んでいる兵たちに命じた。
しかし、兵たちは動かない。
正確には動けなかった。
先刻、全員の顔を打った突風が兵たちの足首の位置で渦巻いていたからだ。
生暖かいこの風は異常な粘着性を持っていた。
兵たちの足を絡めとり、ほんの短い一歩を踏み出すことさえ許さなかった。
何人かの兵は進めぬならばと弓を構えたが、足元の風が身体をかけ上がり、今度は両腕を縛りつけた。
顔まで来た風が陽炎のように揺れ、時折、はっきりとした人の顔の形になるのを兵たちは見た。
男たちは悲鳴をあげた。