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「信竜の陣へ行き、様子を見てまいれ。まだ動かぬようなら…」
信虎の声が低くなった。
「殺せ」
信虎の言葉が終わると同時に、幻斎の姿がすっかり降りた夜の帳の中へと消えて無くなった。
闇の中、両軍のかがり火だけが、ゆらゆらと揺れていた。
軍勢はお互いに動きを見せない。
両軍の兵たち共々に攻撃の命令が出されないことをいぶかしみ、焦れていた。
喉元に刃を突きつけられたようなこの状況に、戦う前から精神をすり減らしている。
いっそのこと戦が始まれば兵のそれぞれは、ある者は怒り、ある者は恐怖し、思考の全てを感情に乗せることが出来る。
このわけの分からぬ妙な緊迫感に身を置くよりは、むしろ早々に命のやり取り始めたいと思う者まで居た。
兵の一人一人のどんよりとした想いが戦場を覆い、一種独特な空気となっていた。
重苦しい静寂。
ねっとりと絡みつく空気をものともせず、信虎軍から走り出た一つの影があった。
恐ろしい速さで駆け跳ねるその影は、信竜軍の陣中へとまっしぐらに向かっていく。
戦場に鈍く光るいくつもの兵の眼に、一時も入ることなく影は進む。
影は幻斎であった。
忍び装束から覗く深いしわが刻みつけられた顔は一切の感情を浮かべず、まるで死人のそれの如く見えた。